ケセランパサラン読書記 ー私の本棚ー

◇ 生きている日々の、意味について

友人と電話で話す。
精進し続けていることに於いての「結果」という語彙が、彼女から何度もでる。

私は、己の生きている日々、その結果というか、結実するものについて、なんらイメージをするものを抱いていない。
ある種、その日その日が善ければ、OKみたいな、生き方をしてきたのだとも言える。

 

振り返ると、
子どもの時分から、私は、たいして勉強をしたいと思わなかった。
すると、先生は、必ずと言ってもいいほど、言った。
「やれば、できる」と。
やれば、誰だって、できる。
私は、それをやりたくないんだから、仕方がない、のだ。
ひょっとしたら、やりたくても、やれない子だっているのだ。
ということを、教師たちは理解できなかった風だった。
「やればできるって、教師のあんたはしてきたの?」と、私は思っていたので、よく生徒にそんなこと言えるものだと思っていた。

 

私は、運動神経がクラスの人の平均値より優れていたらしい。
体育の授業は大嫌いだったのにもかかわらず、走っても飛んでも、なぜか良い記録を出した。
でも、私は、額に汗して、体力の限り走るとか、飛ぶとか、スキーを滑るとか、もう怖ろしくて、体育会系の部活なんて、やる気はまったくなかった。

 

ましてや、受験勉強も、良い学校を目指して頑張ろうなんて、全然思わなかった。
そこで、まぁまぁ、ほどほどの勉強でいいやー、みたいな私学に行ったので、私は受験の苦労を知らない。

 

私は、子ども時から、物心ついた時分から、ひたすら本を読んだ。
あれが、初めて読んだ本だというのを、いまだに覚えている。
本ばかり読んでいたのだ。

中学校も高校も、あんまり行かずに家で本を読んでいた。
幸い、私は、中学生ぐらいのときに膠原病を発症したので、それを理由に、学校をサボれた。

 

やがて、本を携えて旅をする楽しみを覚えた。

それ以降、ずっと、本を携えて旅をしている人生である。(ただ予想だにしないことが起こったけれど。コロナ禍なんぞという。)

 

私は、切磋琢磨するような努力が苦手だ。
自分が楽しいと思えることだけが、したいことなのである。

私は、2019年の暮れまで、本を携えて、その本に描かれた山々や海や、森や、川や、街や、要塞や、それらを彷徨し続けていたのである。
まるで、子ども時の読んだ本の世界や、長じてから読み心打たれた本の世界の、それは追体験だった。

私にとって、読んだ本の世界を感じ、自分の目で見ることができ、その肌触りを感じること、
それが、ここまで生きてきたことの、「幸福」という意味だった。

 

その日々が戻ること、それを切に願うが、叶わなければそれも、私の人生か、と思っている。

 

私の生きている日々に「結果」なんぞない。
すべてが、プロセスだ。

もし、結果といえるものがあるとしたら、子どもをひとり、生んで、その子どもが元気で生きているということぐらいが、私の生きている日々について、具体的にいえる「結果」かも知れない。

けれど、「結果を出す」とか、「結果を出したか」とか、「これが生きてきた結果だ」とか、いう人があるとしたら、私は、「ほぉー、そうですか」と言うだけだ。

 

世間がなんと言おうが、したいと思うことができる日々。
それができて、それでいいじゃないですか。
それが、今日も、まだまだ生きちゃってることの、「幸福」というものじゃないですか。

 

ということを、友人に伝えたかった。
残念なことに、私は、どうも気が短くて、きっと友人を傷つけただろう。
今夜も反省……。

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