現在発売中の週刊文春3月24日号に料理研究家のウー・ウエンさんがこれまで
暮らしてこられたお家の思い出が語られた記事がありました。
「家の履歴書」のコーナーです。
ウー・ウエンさんの紹介するレシピは、日頃お惣菜風のレシピしか作っていない私でも、台所にあるものだけで簡単に作れるものばかりで、とても親しみを持っていました。
とは申しましても、今までウー・ウエンさんのレシピを創ったことはございません。
もちろん此れはウー・ウエンさんだからと言う訳では無く。
私の中ではどうもTVの料理番組は、自分のレパートリーを広げる為と言うよりも、娯楽番組として観ている意味合いが強いからかも知れません。
正直申し上げて今まで料理番組を見て作ったれしぴは、5本の指に入る位しかありません。
此れでは料理の腕が上達するはずありませんよね(^^♪
ウー・ウエンさんは、1963年中国でお生まれになりました。
ある意味文化大革命の真っただ中で、多感な子供時代をおくりました。
ウー・ウエンさんのお爺様のお家は、代々絹織物を商っておられたそうです。そしてご自身もドイツに留学経験がありました。
紅衛兵が跋扈する時代、お爺様のお家に若者達が乱入し、お家にあったものすべて破壊する暴挙に遭遇し、もの凄い恐怖の時間を過ごしたと回想されています。
ウー・ウエンさんのお母さまは気象学者、お父様は中央気象台で重責を担う立場にいらっしゃた、インテリさんのカップルでした。
特にお父様は、どんなに社会状況が変化しても、農業と切り離す事が出来ない職種だったので、仕事の継続が許されたそうです。
もちろんその為にお父様とウー・ウエンさん親子は自転車での移動に6時間もかかる土地に離れ離れで住むしかありませんでした。
お父様は、そんな環境の中でも月に2回の休みの日には、必ず会いに来てくれたそうです。
お母さまは、外でどんなに理不尽な事を言われても、家に帰ったら良い話しかしない楽天的な方で、人の悪口を言うのもを聞いた事が無かったそうです。そしていつも温かい食事を食べさせてくれました。
移り住んだ土地には、会っても話をしないと心に決めた人もいましたが、玄関先に美味しい食べ物を置いてくれた人もいたそうです。
陰で良くしてくれた人も、実は多かった思い出があるそうです。
文化大革命が終焉しウー・ウエンさん親子は、元の暮らしに近い生活に戻りました。
そして北京師範大学の英文科を卒業したウー・ウエンさんは、再就職先となった日本企業で骨董品店を案内したおり、偶然知り合った男性の中に将来の夫となる人がおられました。
その後ウー・ウエンさんはカナダに留学する予定でしたが、天安門事件の為に、その話は立ち消えとなってしまいました。
それからあれやこれやあった後、ウー・ウエンさんは日本に渡り、中国で出会った男性と再会し、結婚しました。
夫となった人は社交的な方で、来客もおおかったそうです。
ウー・ウエンさんは、いつも美味しい中国の家庭料理を振る舞い、評判となり雑誌で「北京の小麦粉料理」という特集を30ページ紹介するチャンスをつかみました。
ですが雑誌でレシピを掲載するにあたり、きっちりとグラム数を表示しないといけなかったのは、とても大変だったみたいです。
そんな中ウー・ウエンさんは、最愛の夫を癌で亡くします。
ウー・ウエンさんは、結婚する折に日本国籍の選択はしませんでした。
「中身は中国人のまんまだから」との理由で。
ですが伴侶が亡くなれてから、日本の国籍がないとの理由で、社会的信用が無い事を知り、何度も悔しい思いをしたそうです。
娘さんが世帯主となった事が全てを現していると思います。
まったくウー・ウエンさんの預かり知らぬ処で、国家の都合により何度も希望への道を閉ざされながらも、絶望する事無く温かな食事と共に乗り越えられた強さには頭が下がります。
ウクライナの戦乱を逃れて避難して来た子供たちにもウー‥ウエンさんの様に温かい食事と小さな心遣いをしてくれる多くの人達と巡り合い、そしてご自身の強い意志で新しい扉を開くチャンスを掴む子供たちが沢山いる事を祈るばかりです。
こんな私にもウクライナの人達に、温かい食事の資金の少しを贈る事は出来そうです。