見沼の三つの氷川神社(前編)の続き。
次に祀られている主祭神から三つの神社の位置関係を考察したい。何故、一番北西が須佐之男命=氷川神社、一番南東が奇稲田姫命=氷川女体神社、中程が大己貴命=中氷川神社なのか、ということだ。
これらの主祭神の配列は、三社配置の歴史的経緯などが働いた特に意味のないものなのか、あるいは、何らかの意図がある、必然的な配列なのか。私は、必然的な配列だと考える。百歩譲って、仮に、歴史的経緯などの偶然によったものだったとしても、結果的には古代人達誰もが納得する「宗教的に必然的な配列」に収まったものだと考えている。
・何故「ひかわ」神社か
まず、改めて、氷川神社はなぜ「ひかわ」神社なのか。この地方は古代、出雲系の人々によって開拓されたといわれており、「ひかわ」の「ひ」は、島根県簸川(ひかわ)郡の「ひ」や斐伊川の「ひ」、斐伊神社の「ひ」と同じ語源だと考えられている(現在でこそ島根県では「ひい」音が多いが、古名では単なる「ひ」だったことが知られている)。つまり、広い意味での地名の移動が起きた。
言うまでもなく、須佐之男命らは出雲系の神々であるし、氷川神社の神々は島根県雲南市の斐伊神社から勧請したと言われている。確かに、斐伊神社の祭神は須佐之男尊、稲田比売命、伊都之尾羽張命で、前二神は氷川神社と重なる。
では、なぜ氷川神社は「ひ(い)」神社ではなく「ひかわ」神社なのか。それは、氷川神社を建立した人々やそれを崇拝した人々の意識の問題だと考えられる。つまり、氷川神社は単なる斐伊神社の分社ではなく、武蔵の地特有の事情に即し、それを治めるためにある神社だと捉えられていたからだろう。それによって「川」という言葉加えられた。特有の事情とはこの地を流れていたかつての暴れ川=荒川の存在である。
埼玉・東京に数多く存在している「氷川神社」は荒川水系にのみに集中しており、逆にそこ以外にはほとんど見られない。氷川神社は、かつて文字通り「荒ぶる川」だった荒川を象徴する神社であり、それが水害をもたらさないよう人々が祈願した神社だったのだろう(武蔵の国の人達にとって「ひかわ」と言えば、当然はるか遠方の島根県の斐伊川ではなく、荒川のことがイメージされていたことだろう)。
そう思うと、須佐之男命が氷川神社の主祭神にが選ばれているのは大変納得がいく。須佐之男命は荒々しい神であり、まさに荒川のイメージに即している。また、須佐之男命が退治したヤマタノオロチは幾筋もの川の象徴とも言われ、治水のイメージも併せ持つ。
一方、氷川女体神社の主祭神奇稲田姫命は文字通り稲田=豊穣のイメージを持つ神である。それは荒川の水がもたらす恵みの部分を代表し、稲の豊作などを人々は祈願したことだろう。
そして、見沼はかつての荒川水系の複雑な流れに覆われるように存在した沼であり、恐らく古代人は荒川と見沼を同一視、もしくは見沼を荒川の象徴と捉えていたのではないでしょうか。それ故の「御沼」であり、見沼に数多く存在する竜伝説も、荒ぶる川の象徴と捉えた故ではないでしょうか。そして荒川を治める総本社・氷川神社は見沼のほとりに置かれた。
・三つの氷川神社の位置関係の意味 その3
さて、祀られている主祭神の位置関係を考察に話を戻します。整理すると、
氷川神社=須佐之男命=荒ぶる川とその治水の象徴
氷川女体神社=奇稲田姫命=荒川の恵みと豊穣の象徴
となり、同時に、
前編に書いたように、中氷川神社から観測すると、
氷川神社=夏至の太陽が沈むところ
氷川女体神社=冬至の太陽が昇るところ
となります。ところで、荒川が最も猛威を振い、人々が水害に悩まされたのは何時の季節でしょうか。それは言うまでもなく現在の6~7月の梅雨時、そしてそれに続く台風の季節です。つまり夏至の頃からその恐浮フ季節が訪れるのです。
夏至の観測をする時、人々は氷川神社の方に沈む夕日を見ながら、大きな水害が起きないよう須佐之男命に祈る様があったのではないでしょうか。先に「夏至・冬至の太陽位置の計測そのものに、宗教的意味が帯びていたのではないか」と書いたのはこのような意味です。
また、冬至は世界的に季節の再生のイメージを持つ日です。厳しい冬の最中ですが、その日を境に次の年の春へと日は一日ごとに長くなっていきます。人々は氷川女体神社の方から上りゆく太陽に手を合わせながら、来年の豊作を恵みの神=奇稲田姫命に祈っていたのではないでしょうか。
このような「宗教的に必然的な配列」として、一番北西は須佐之男命=氷川神社、一番南東は奇稲田姫命=氷川女体神社がふさわしく、他の配列はありえない、と私は考えています。
・追記:氷王子社について
以上で、この項で私が言いたかったことは終わるのですが、全部読まれた方(そんな人いるのかな?)の中には、「あれ?では中氷川神社の大己貴命が真ん中に置かれた意味はないのかな?」と思われた方もいるかもしれません。
私自身の考えでは正直、それ程大きな意味合いは持っていないのではないかと思っています。北西が須佐之男命=氷川神社、南東が奇稲田姫命=氷川女体神社という配置が先に意図され、「須佐之男命と奇稲田姫命の子」という連想から、神話上子供となっている大己貴命があてられ、大己貴命自体にそれ以上の意味づけはないのはないでしょうか。中には、斐伊神社の主祭神が須佐之男尊、稲田比売命、伊都之尾羽張命であることから、中氷川神社の主祭神が大己貴命ではなく伊都之尾羽張命ではないかという方もいます。ひょっとしたら三社の格付けの問題上、どこかの時代に伊都之尾羽張命から大己貴命に入れ替えが起きたのかもしれません(大己貴命は大国主の別名で、より有名な神なので)。
ただし、どちらにしても氷王子(簸王子)社という特異な愛称が表しているように、人々にとっては、「ここは須佐之男命と奇稲田姫命の子の神様がいるところだ」ということが強く意識されていたのではないでしょうか。(氷王子という言葉が親しまれていた証拠に、恐らく「ひ」王子という音の連想から、かつて鎮火際が盛大に行われていた)。
夏至・冬至に中氷川神社に立つとき、荒ぶる川と見沼にいだかれ、それを恐れその恵みを受けて生きていた当時の人々は、もしかしたら荒川・見沼の子供そのものである氷王子に、自分たち人間のイメージを重ね合わせていたのかもしれません。
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