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Round & Round The Ring I Go

よもやまブログ。

(どうでもいい)バス停の名前の話

2012-07-19 23:57:00 | さいたま
先日、さいたま市内の三箇所を一日のうちに回る用があった。
さいたま市と言っても広うござんして、三箇所ともバラバラの場所にある上に、どれも駅からはそこそこ遠い。特に中の一カ所はさいたま市在住の人でも「そんなところ、どうやって行くの?」と思うような場所。

そんな時に非常に頼りになるのがNAVITIME。さいたま市内を走っているバスはほとんど網羅しているらしく、バスと徒歩を組み合わせた非常にトリッキー且つ効率的な道案内をしてくれる。

今回も二箇所目を廻ったところで、次へのルートを検索した所、「西中野というところまでバスで行き、そこのバス停に来る他のバスに乗り換えろ」という地元民でも思いつかないような指示を出してきた。

しかし、そのNAVITIMEの画面を見てもよく意味が分からないところがあった。西中野から大和田一丁目方面に向かうバス、「直通(遵守)」とある。



うーん、「直通」という意味もよく分からんし「(遵守)」という意味はもっと分からん。直通を遵守しないでその日の気分であちこち寄ってくバスもあるのか? 何のこっちゃと思ったが、指示通り西中野に向かった。

西中野のバス停でようやく意味が分かった。



「遵守」ではなく「導守」なのねと。導守という地名をとった循環バスの名前だった。大宮駅を起点として、多分道中の真ん中あたりが導守なのだろう。ただ、何て読むんだこれ?

バスに乗る。しばらくしてアナウンスがあった。

「つぎはどうじゅ、どうじゅ」

どうじゅね。読めねー。

綾瀬川の起源について

2011-08-12 06:28:00 | さいたま
綾瀬川 Wikipedia http://is.gd/O9sI7Y
「戦国時代の頃は利根川と荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。今の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、綾瀬川が分離した」。

上の記述、オレが頭が悪いのか最初、何度読んでも理解出来なかったのだが、地図をじっと見ていてようやく大体理解した。あくまで大体の理解なのでつっこみ所満載だと思うが、備忘の為に理解概要を記す。


大きな地図で見る

大体地図上で言うと上の辺りが問題だと思うのだが、分かりにくいので説明を加えた画像を下に貼る。



歴史的にも地理的にも重要な荒川の分岐点の一つでしょうが、さすが、分岐点下側にビシッと氷川神社があるのが印象的です。何故氷川「諏訪」神社なのか不明ですが。今後のフィールドワークの課題ですな。

道祖土はなぜ『さいど』なのか

2011-05-05 01:43:00 | さいたま
以下、ツイッターに投稿しつつ色々調べていたら、自分的には色々面白いことがどんどん判明し、合点もいったので、一つの文章にまとめてみた。


さいたま市の北浦和辺りに、道祖土という地名がある。「さいど」と読む。なぜ「道祖」で「さい」と読むのかさっぱり分からなかった。

なぜ「さいど」なのか。考えるに当たって、「道祖土」の「道祖」は「道祖神」の事だろうから、まずWikipediaの道祖神の項目を見てみた。

道祖神 Wikipedia http://is.gd/AooMXT | 「各地で様々な呼び名が存在する。道陸神、賽の神、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、タムケノカミなど」。

ということは、「道祖神」と書いて「さいのかみ」と読んでもおかしくない。つまり「道祖」=「さい」か。

次に、上のWikipediaの項目に出てきた「賽の神」とはどういう意味だろうと考え、「賽」を調べてみた。

賽 Wikipedia http://is.gd/H9hhMP | 「サイコロのこと」「賽銭のこと」「道祖神信仰における土の神、道祖神のこと」「土の神として道祖神信仰が仏教と習合した地蔵菩薩のこと(賽の河原など)」。

今一ぴんと来ないが、はっきりと、賽=道祖神という意味があることは分かった。「賽」という字そのものの意味が知りたくて紙の漢和辞典も見てみたが「むくいる」の意くらいにしか書いてなく、うーむ、よく分からんなと。
今度は「さえのかみ」という仮名で検索をしてみたら、以下の項目を見つけた。

岐の神 Wikipedia http://is.gd/fmrYSO | 「岐の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)とは、日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である」「岐(ちまた)は、道路が分岐・交叉する場所。このような場所は、神も往来する場所と考えられた。神の中には悪神もおり、この侵入を防ぐために祀られたのが岐の神である。このことから塞の神(さえのかみ)とも呼ばれる」。

道の岐(ちまた)で悪神が入ってこないように遮っている、塞いでいるから塞の神(さえのかみ)か。ななななるほど! で、賽の字が後から当てられた(多分、塞に形が似てて、比べれば佳字だから)。また、その事とは別に、岐の神信仰と道祖神信仰が習合されたと。だから賽=道祖神だと。


もう一つ、大きな疑問も解けた。さいたま市の神社に注目して歩くと、Y字路の先端部分に神社が多いことが以前から気になっていた。僕なりの結論は、「一見意味ありげだけど、Y字路の先端は使い道がないから神社にした」だったが、どうやら岐の神信仰がルーツと考えた方がいいようだ。

中尾神社 Google マップ http://is.gd/bpJVAs

典型的にY字路にある神社その1。先端近くに斜めに道が通ってしまっているが、現地に行ってみると明らかに先端も含めて神域だと分かる。

三角稲荷 Google マップ http://is.gd/HE4f9n

典型的にY字路にある神社その2。名前も「三角稲荷」なくらいで、明らかに意識的にY字路の中心角に対してまっすぐ参道と神社が配列されている。

大間木氷川神社 Google マップ http://is.gd/tS4xJz

典型的にY字路にある神社その3。これまた惚れ惚れするくらいY字路を意識した配置だ。

しかし、ふと道祖土がなぜ「さいど」なんだと思ったら、他にも色々な疑問が解けてしまった。インターネットはすげぇなあ。

太田窪~大谷口~広ヶ谷戸 散歩道

2010-01-31 06:33:00 | さいたま
さいたま市の散歩道シリーズ①

私が散歩する道として心地よいと思う条件は大体、
①古いと思われる道。昭和初期、明治・大正、江戸後期、ひょっとしたらその前からあるかも、という道が好きです。
②蛇行している道。古いとそうなることが多いですが。
③細い道。古いまんまだとそうなりますが。
④高低差。急な坂道は大変なのでそれ程好きはありませんが、カーブを描きつつ緩やかに高低のある道は好きです。
⑤急傾斜過ぎて、坂ではなく階段になってしまっている公道。上った後眺めがいいし。
⑥広い新しい道に分断されてしまっている古い道。一見、関係ない道同士が実は昔つながっていたであろう事に気づいた時は嬉しい。
⑦古い家や雑木林などが多い、薄暗いとやや江戸時代チックにちょっと恐い場所。左右が雑木林に挟まれ、カーブしつつ上っていく薄暗い一本道なんて最高ですね。

そんな上の条件にいくつかマッチした散歩道が、太田窪~大谷口~広ヶ谷戸にありました。色を付けた辺り、ほぼ全て車一台分しか通れない細い道となっています。


より大きな地図で 太田窪~大谷口~広ヶ谷戸 を表示

以下名所案内。名前は私が今勝手に付けたのものです。

・太田窪大カーブ

見事なカーブっぷりだ。ここは高低差もあって、C型の上下入り口は低く、真ん中は高くなっている。かなりきつめの高低差だ。C型に囲まれていた部分は恐らく、昔は沼か湿地帯だったのではないかと思う。沼の縁をぐるりと回っていた道なのだろう。


・太田窪東蛇行路

ここら辺は古い太田窪村の香り紛々と漂って素晴らしい。蛇行路入り口に大きな松の木があって、その感じもとても平成とは思えなくていい。地図ではちょっと雰囲気が伝わりにくいが、歩いてみるとびっくりするぐらいの蛇行ぷりだ。現代人は決してこんなライン取りはしない。それ程高低差もない箇所なので、なんでこんなライン取りをしのかさっぱり分からない。防犯上、村を一目で見渡せないため? 色々勝手に想像しながら歩く。
残念なのは、産業道路入り口付近は区画整理が始まっていること。また、この道の南東側は大規模な造成工事を行っていて、太田窪東蛇行路付近もいつまでその雰囲気をとどめてくれるかは分からない。


・大谷口西坂

地図上大体直線のように見えるが、歩いてみると微妙に左右に振れている。また、坂の傾斜も一様でなく、自然の傾斜をそのまま残していると思われる。ここら辺の夕暮れ時の家々の景色はすごく好きだ。「弁天堂」という菓子屋のネーミングセンスも懐かしい。昭和40年代くらいがそのまま保存されている感がある。ただ、ここら辺も雑木林がかなり伐採されてしまったようなので、ちょっと残念である。


・広ヶ谷戸大カーブと広ヶ谷戸階段(右上の赤い部分)

広ヶ谷戸大カーブは太田窪大カーブと比べると大分規模は小さい。南側のCの入り口が低く、北側の出口が高くなっている。Cの字の真ん中当たりの階段は、Googleマップ上判然としてなかったので、「え!?ここ階段なの?勝手に登っていいのか?」と初めて見た時かなりインパクトがあった。広ヶ谷戸に住む人達がバス通りからの連絡路として結構使っているようです。登った上から撮った写真がこれ

見沼の三つの氷川神社(後編)

2009-05-28 07:55:00 | さいたま
見沼の三つの氷川神社(前編)の続き。

次に祀られている主祭神から三つの神社の位置関係を考察したい。何故、一番北西が須佐之男命=氷川神社、一番南東が奇稲田姫命=氷川女体神社、中程が大己貴命=中氷川神社なのか、ということだ。
これらの主祭神の配列は、三社配置の歴史的経緯などが働いた特に意味のないものなのか、あるいは、何らかの意図がある、必然的な配列なのか。私は、必然的な配列だと考える。百歩譲って、仮に、歴史的経緯などの偶然によったものだったとしても、結果的には古代人達誰もが納得する「宗教的に必然的な配列」に収まったものだと考えている。



・何故「ひかわ」神社か
まず、改めて、氷川神社はなぜ「ひかわ」神社なのか。この地方は古代、出雲系の人々によって開拓されたといわれており、「ひかわ」の「ひ」は、島根県簸川(ひかわ)郡の「ひ」や斐伊川の「ひ」、斐伊神社の「ひ」と同じ語源だと考えられている(現在でこそ島根県では「ひい」音が多いが、古名では単なる「ひ」だったことが知られている)。つまり、広い意味での地名の移動が起きた。
言うまでもなく、須佐之男命らは出雲系の神々であるし、氷川神社の神々は島根県雲南市の斐伊神社から勧請したと言われている。確かに、斐伊神社の祭神は須佐之男尊、稲田比売命、伊都之尾羽張命で、前二神は氷川神社と重なる。
では、なぜ氷川神社は「ひ(い)」神社ではなく「ひかわ」神社なのか。それは、氷川神社を建立した人々やそれを崇拝した人々の意識の問題だと考えられる。つまり、氷川神社は単なる斐伊神社の分社ではなく、武蔵の地特有の事情に即し、それを治めるためにある神社だと捉えられていたからだろう。それによって「川」という言葉加えられた。特有の事情とはこの地を流れていたかつての暴れ川=荒川の存在である。
埼玉・東京に数多く存在している「氷川神社」は荒川水系にのみに集中しており、逆にそこ以外にはほとんど見られない。氷川神社は、かつて文字通り「荒ぶる川」だった荒川を象徴する神社であり、それが水害をもたらさないよう人々が祈願した神社だったのだろう(武蔵の国の人達にとって「ひかわ」と言えば、当然はるか遠方の島根県の斐伊川ではなく、荒川のことがイメージされていたことだろう)。
そう思うと、須佐之男命が氷川神社の主祭神にが選ばれているのは大変納得がいく。須佐之男命は荒々しい神であり、まさに荒川のイメージに即している。また、須佐之男命が退治したヤマタノオロチは幾筋もの川の象徴とも言われ、治水のイメージも併せ持つ。
一方、氷川女体神社の主祭神奇稲田姫命は文字通り稲田=豊穣のイメージを持つ神である。それは荒川の水がもたらす恵みの部分を代表し、稲の豊作などを人々は祈願したことだろう。

そして、見沼はかつての荒川水系の複雑な流れに覆われるように存在した沼であり、恐らく古代人は荒川と見沼を同一視、もしくは見沼を荒川の象徴と捉えていたのではないでしょうか。それ故の「御沼」であり、見沼に数多く存在する竜伝説も、荒ぶる川の象徴と捉えた故ではないでしょうか。そして荒川を治める総本社・氷川神社は見沼のほとりに置かれた。



・三つの氷川神社の位置関係の意味 その3
さて、祀られている主祭神の位置関係を考察に話を戻します。整理すると、

氷川神社=須佐之男命=荒ぶる川とその治水の象徴
氷川女体神社=奇稲田姫命=荒川の恵みと豊穣の象徴

となり、同時に、前編に書いたように、中氷川神社から観測すると、

氷川神社=夏至の太陽が沈むところ
氷川女体神社=冬至の太陽が昇るところ

となります。ところで、荒川が最も猛威を振い、人々が水害に悩まされたのは何時の季節でしょうか。それは言うまでもなく現在の6~7月の梅雨時、そしてそれに続く台風の季節です。つまり夏至の頃からその恐浮フ季節が訪れるのです。
夏至の観測をする時、人々は氷川神社の方に沈む夕日を見ながら、大きな水害が起きないよう須佐之男命に祈る様があったのではないでしょうか。先に「夏至・冬至の太陽位置の計測そのものに、宗教的意味が帯びていたのではないか」と書いたのはこのような意味です。
また、冬至は世界的に季節の再生のイメージを持つ日です。厳しい冬の最中ですが、その日を境に次の年の春へと日は一日ごとに長くなっていきます。人々は氷川女体神社の方から上りゆく太陽に手を合わせながら、来年の豊作を恵みの神=奇稲田姫命に祈っていたのではないでしょうか。
このような「宗教的に必然的な配列」として、一番北西は須佐之男命=氷川神社、一番南東は奇稲田姫命=氷川女体神社がふさわしく、他の配列はありえない、と私は考えています。



・追記:氷王子社について
以上で、この項で私が言いたかったことは終わるのですが、全部読まれた方(そんな人いるのかな?)の中には、「あれ?では中氷川神社の大己貴命が真ん中に置かれた意味はないのかな?」と思われた方もいるかもしれません。
私自身の考えでは正直、それ程大きな意味合いは持っていないのではないかと思っています。北西が須佐之男命=氷川神社、南東が奇稲田姫命=氷川女体神社という配置が先に意図され、「須佐之男命と奇稲田姫命の子」という連想から、神話上子供となっている大己貴命があてられ、大己貴命自体にそれ以上の意味づけはないのはないでしょうか。中には、斐伊神社の主祭神が須佐之男尊、稲田比売命、伊都之尾羽張命であることから、中氷川神社の主祭神が大己貴命ではなく伊都之尾羽張命ではないかという方もいます。ひょっとしたら三社の格付けの問題上、どこかの時代に伊都之尾羽張命から大己貴命に入れ替えが起きたのかもしれません(大己貴命は大国主の別名で、より有名な神なので)。

ただし、どちらにしても氷王子(簸王子)社という特異な愛称が表しているように、人々にとっては、「ここは須佐之男命と奇稲田姫命の子の神様がいるところだ」ということが強く意識されていたのではないでしょうか。(氷王子という言葉が親しまれていた証拠に、恐らく「ひ」王子という音の連想から、かつて鎮火際が盛大に行われていた)。
夏至・冬至に中氷川神社に立つとき、荒ぶる川と見沼にいだかれ、それを恐れその恵みを受けて生きていた当時の人々は、もしかしたら荒川・見沼の子供そのものである氷王子に、自分たち人間のイメージを重ね合わせていたのかもしれません。

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