A=(イコール)B
このように、無意識にリンク付けしていることって、滅茶苦茶たくさんあると思うんです。「目からウロコ」というのは、このリンク付けが何のためらいもなく吹き飛んでしまうことを言うのではないでしょうか。そして又この言葉、ウロコの落ちた後の新しい眼で見えて新たにリンク付けしたものを、何のためらいもなく受け容れることも指すのかもしれませんね^^
例えば(ちょっとマニアックな例しか思いつかなかったのですが)
誰かを愛する=博愛主義(沢山の人に分け隔てなく愛情を注ぐ)とリンク付けしているため、特定の人とのパートナーシップを持つ機会が少ない。または続かない場合も多い。
まったく新しい現実を望んでいる=いったんゼロクリア
(現状を全て手放してまっさらからの出発)とリンク付けしているが、全部手放すことが出来ないため、綱引き状態になり実際の現状がいつまでも停滞する。
自分の中に答え(応え)があるとは、こういう意味合いもあるのだと思いました。
自分のマインドの深いところに、自分の気付いていないところに、ちゃんと手掛かりが眠っているのですよね。それも活き活きと。
自分の欠乏を外部にあるもので埋めようとする。
現在私たちが持つ願望は、このケースが多いのではないだろうかと思います。
○○すれば△△なるというテクニカルなものは、世の中にはゴマンとあります。私自身がまだまだセラピー、カウンセリングについて勉強不足なので、そのテクニカルな部分に手が届いていないからかもしれません。そして上述した、その活き活きとした答え(応え)を引き出すのがセラピーやカウンセリング(引き出すという段階になると、コーチングと言った方が良いかな)なのですが、
そこに、○○が解決します。△△が手に入ります。もうXXになるようなことはありません・・・という文言を入れると、その答え(応え)が、「外部にあるもの」=「テクニカルなもの・手法」=「自分以外のものの力」によってそこへ至るというリンク付けをしてしまわないかと思っているのです。あまり「自分で成すこと」という考えもないかもしれないですね。だからこそ「自分以外のものの力」と自動的にリンク付けしてしまうのかもしれませんが、
私たちは誰もが、マジカルな存在です。
マジカルな杖があって、はじめてマジカルになれるんだ、ではありません。
最初から、正真正銘マジカルな存在です。
また、そうリンク付けされると、テクニカルなもの・手法を探すスパイラルに陥らないでしょうか。
変化も創造も、ご自分の力で成されるものだし、この答え(応え)はご自分の内にあります。
その心持ち(気枯れ=穢れが取れた状態)になれたときに(もちろん、すっかりその状態になるまで待つ必要はありません。それ以前に「すっかり」なんてそんな状態、絶対なれませんので^^;)より効果が相乗するものだと思います。
テクニカルなものや手法という言葉は、解決しよう、手に入れようという、自分の何らかの欠乏や渇望から派生していると思われる願望、そしてそれに付随するエネルギーとリンク付けされている場合が多いのではないでしょうか。だから、それが断ち切れたとき、手法はもっと生きると思うのです。
まずはセルフコントロール、セルフオーガニゼイション。
自分の感情を冷静に認識し、愛ある視点で受容し、暴れる気持ちを落ち着け、声なき声に耳を傾け、流せなかった涙を流す。遠慮しない子供のような自分を許す・・・など、そこから入ることを大切にするのがいいかな、と思います。この時点でもワークやテクニカルなもの、確かに使用しますよ。でも、そこに力があるんじゃありません。
最近思うのは・・・世の中、言葉のマジック、数字のマジックが多いと。
自分の頭で考える癖。自分の意志。これから特に、これらがとても大切になってくるように思っています。
今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。
今日も皆さんの掛け替えのない想いが、大切な誰かに届く一日でありますように。
このように、無意識にリンク付けしていることって、滅茶苦茶たくさんあると思うんです。「目からウロコ」というのは、このリンク付けが何のためらいもなく吹き飛んでしまうことを言うのではないでしょうか。そして又この言葉、ウロコの落ちた後の新しい眼で見えて新たにリンク付けしたものを、何のためらいもなく受け容れることも指すのかもしれませんね^^
例えば(ちょっとマニアックな例しか思いつかなかったのですが)
誰かを愛する=博愛主義(沢山の人に分け隔てなく愛情を注ぐ)とリンク付けしているため、特定の人とのパートナーシップを持つ機会が少ない。または続かない場合も多い。
まったく新しい現実を望んでいる=いったんゼロクリア
(現状を全て手放してまっさらからの出発)とリンク付けしているが、全部手放すことが出来ないため、綱引き状態になり実際の現状がいつまでも停滞する。
自分の中に答え(応え)があるとは、こういう意味合いもあるのだと思いました。
自分のマインドの深いところに、自分の気付いていないところに、ちゃんと手掛かりが眠っているのですよね。それも活き活きと。
自分の欠乏を外部にあるもので埋めようとする。
現在私たちが持つ願望は、このケースが多いのではないだろうかと思います。
○○すれば△△なるというテクニカルなものは、世の中にはゴマンとあります。私自身がまだまだセラピー、カウンセリングについて勉強不足なので、そのテクニカルな部分に手が届いていないからかもしれません。そして上述した、その活き活きとした答え(応え)を引き出すのがセラピーやカウンセリング(引き出すという段階になると、コーチングと言った方が良いかな)なのですが、
そこに、○○が解決します。△△が手に入ります。もうXXになるようなことはありません・・・という文言を入れると、その答え(応え)が、「外部にあるもの」=「テクニカルなもの・手法」=「自分以外のものの力」によってそこへ至るというリンク付けをしてしまわないかと思っているのです。あまり「自分で成すこと」という考えもないかもしれないですね。だからこそ「自分以外のものの力」と自動的にリンク付けしてしまうのかもしれませんが、
私たちは誰もが、マジカルな存在です。
マジカルな杖があって、はじめてマジカルになれるんだ、ではありません。
最初から、正真正銘マジカルな存在です。
また、そうリンク付けされると、テクニカルなもの・手法を探すスパイラルに陥らないでしょうか。
変化も創造も、ご自分の力で成されるものだし、この答え(応え)はご自分の内にあります。
その心持ち(気枯れ=穢れが取れた状態)になれたときに(もちろん、すっかりその状態になるまで待つ必要はありません。それ以前に「すっかり」なんてそんな状態、絶対なれませんので^^;)より効果が相乗するものだと思います。
テクニカルなものや手法という言葉は、解決しよう、手に入れようという、自分の何らかの欠乏や渇望から派生していると思われる願望、そしてそれに付随するエネルギーとリンク付けされている場合が多いのではないでしょうか。だから、それが断ち切れたとき、手法はもっと生きると思うのです。
まずはセルフコントロール、セルフオーガニゼイション。
自分の感情を冷静に認識し、愛ある視点で受容し、暴れる気持ちを落ち着け、声なき声に耳を傾け、流せなかった涙を流す。遠慮しない子供のような自分を許す・・・など、そこから入ることを大切にするのがいいかな、と思います。この時点でもワークやテクニカルなもの、確かに使用しますよ。でも、そこに力があるんじゃありません。
最近思うのは・・・世の中、言葉のマジック、数字のマジックが多いと。
自分の頭で考える癖。自分の意志。これから特に、これらがとても大切になってくるように思っています。
今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。
今日も皆さんの掛け替えのない想いが、大切な誰かに届く一日でありますように。