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第90回 「古代文化 西から東へかー房総を中心にー」 中野雅男: 23年9月

2011年12月11日 | 例会報告
 第90回例会は去る9月28日(水)銀座ラフィナートで開催、出席者は7名でした。
 今回は元東京綾瀬電話局長の中野雅男氏(昭和60年退職)に[古代文化 西から東へかー房総を中心にー]という話題でお話を伺いました。
 中野さんには「古代房総の歴史」のお話を平成21年9月に伺っており、その続編ともなりました。
 鈴木清会員による乾杯の後本題に入りました。
 話題は席上配布された資料「古代文化 西から東へか」
、「鉄の出現」、「ガラス小玉の源流」、「弥生時代東日本の社会」に基づいて進行しました。
1、弥生時代の中期、イエス・キリストがパレスチナに生れた頃、房総では日本列島で最も遅れて、水田での稲作が定着しつつあった。
人々はまだ石の道具を使って生活していた。
そこへ忽然と新しい時代を象徴する鉄斧とガラス  
小玉が出現する。どちらも近畿や東海地方には姿を見ないもので、なぜそれらのものが辺鄙な房総の地に現れたのか不思議である。
さらに不思議なことは、鉄斧もガラス小玉も遠い九州には房総よりも少し早く到来しているが、房総のものとは材質が異なり鉄斧は房総物の方が材質が良い。端的にいえば九州のは中国製で房総のは別地製で、系統が違う。
2、時代が下がって弥生後期から古墳時代前期に入っても、同様の現象が続く。鉄の精錬、ガラス小玉の製造、らせん状鉄釧など。近畿中部や東海地域にはないものが東日本に現れ房総がその先端にあるように見える。
作家の司馬遼太郎氏は、[長安から北京へ]の中で「倭人は日本列島を東へ東へと弥生式の農耕方式による地域を広げていって、今日の日本国の原型を作ったという点では、大方の古代史家も考古学者も承知してくれるに違いない」と。
弥生中期に房総で起きている現象から見ると素人にはには何とも承服しがたい感じがする。
 何故このようなことが起こるのか、検証する前に事実をみておく。
 まず鉄斧で[板状鉄斧]と呼ばれ、長さ15~20CM程度の厚板である。
 房総では柏市、佐倉市、旭市、市原市、長南町などであの遺跡から広範囲に出土している。神奈川県の遺跡からも10数点、埼玉県でも数点で、房総での出土数が上回る。東京での出土は無く、石川県、新潟県で数点である。
 一方、西日本では「鋳造鉄斧」が大量に出土し、これをリサイクルして農機具に転用する段階にまで達している。
 板状鉄斧と鋳造鉄斧の違いであるが、板状鉄斧は鉄の利用がメソポタミヤで始まって以来、普遍的な方法で鉄の素材を加熱、鍛錬して作られる。一方、鋳鉄鉄斧は鉄素材を高温で溶かし、鋳型に流し込んで造る。
 鋳造品は大量に製造できるが、壊れやすい欠点がある。板状鉄斧の方が実用ででも、換価財として価値面でも優れている。
 当時、中国では青銅器鋳造技術が進んでいたため、その延長線上で鉄が造られ、遼東地域で官営により鉄の鋳造がおこなわれていた。九州と朝鮮半島の間では日常的に交流があり、鉄器の流通もあったとみられている。九州の人たちは朝鮮半島中西部の当時中国の行政区域となっていた楽浪郡(ピヨンヤン近辺)で入手したとみられている。
板状鉄斧は韓国南西部の伽那や新羅地域で製造されたことがわかっているが、どこからその技術が伝えら
れたかは不明である。
 次にガラス小玉については、直径2,3ミリから7ミリ程度の紐を通す穴のあるガラス製の玉で、この時期、列島の外から持ち込まれた。色は赤、緑、青など種々で房総のものはコバルトブルー、ダークブルーである。    
 南関東では弥生中期のものは多くなく、集成した資料もみつからない。列島全域を見渡すと、弥生中期段階での出土は九州と房総に限られる。九州では大量に出土し、有名な吉野ヶ里遺跡では数千個も出土している。
 弥生後期になると関東各地で出土するようになり、房総での出土も1遺跡で数百個を数えるようになる。
京都府の丹後遺跡では数万単位で出土する。
 ガラス小玉は時期により、また地域によって出土数が変化するが、問題は材質、製作地の違いである。
 弥生中期に限ると、鉄斧と同様に九州のものは中国製で、房総のものは中国以外製で、東南アジア製ともインド製ともいわれている。
 中国のものは溶剤に鉛を使うのにたいし、房総のものはアルカリソーダが使われている。
3、100年ほど経った弥生終末期から古墳時代初頭、ヒミコの頃の話に移る。
 京成電鉄千葉線の終点、ちはら台駅のそばにある市原市の草刈遺跡で右腕にらせん状鉄釧をつけ首の位置にガラス小玉が散乱した全白骨が発掘されている。
らせん状鉄釧とは鉄製の線条を6~7巻したもので、集団の長が威信財として装着したものとみられている。
 房総では八千代市のヲサル山遺跡でも出土し、東京の板橋区の七社神社遺跡からからも出土している。関東西部・南部一円で多数出土し、長野県の出土が抜群である。
 不思議なことに、日本列島の他の地域での出土は九州で2点、東北で1点だけである。
 屋用後期になるとヤリガンナ(ノミ状の加工具)、キリ、刀子、(切り出し状のコガタナ)などの木工加工具や剣(威信具)の到来が増えるが、鉄釧は原始文化的である。しかし技術的には高度で、このアンバランス
に首肯しかねている。
 ごく最近、弥生前期に相当する時期の東北タイのパンナデイ遺跡で「装身具と考えられるコイル状鉄線、線条を巻いた首輪と腕輪」の副葬品が発掘されたとの報告(文献)を見つけ、鉄釧のルーツ発見とひそかに思っている。因みに、タイ湾西海岸の同時代遺跡からの青色、赤色のガラス小玉の出土もこの文献に報告されている。
 次は「鉄の精錬炉」である。
 千葉県八千代市沖塚と旭市さくら平で弥生後期の炉跡が見つかっている。
 精錬炉は製鉄炉のように砂鉄を溶かして鉄を造るのではなく、砂鉄を脱炭材として鉄素材から鋼を得るのである。
 精錬炉は冶金学と考古学の専門家の結論で、山陰、四国、北陸で同種とみられるものが発掘されている。
 九州や近畿南部、東海地域での発見はみられない。それにしても、鉄素材は日本列島には存在しないので、外から持ち込んでいる。なぜ精錬を終えた鋼を持ってこなかったのか。列島外では加熱材の木炭が得られなかったとしか考えられないが。
 ちょうどその頃、房総や房総よりの東京飛鳥山台地でガラス小玉が製造された。古代中国の鉛ガラスとは異なるアルカリソーダガラス製のビーズが造られた。製造のための鋳型も出土している。
 房総では四街道市の川戸下遺跡、木更津市の鵜ケ岡遺跡から、東京では北区豊島馬場遺跡、板橋区松月院内遺跡で出土している。
 東日本ではこれらの場所以外での出土はないが、日本中を見ても九州の福岡市西新町遺跡以外にはない。奈良県天理市の布留遺跡出土するのは200年後である。
 いったい誰がどのようにして持ってきたのか。
4、弥生時代を中心に話してきたが、ヒミコの頃になってもモノの流れは大きくは変らない。それから200年~300年も経つと大激変する。その話に移る前に、弥生時代の房総や南関東の当時の地域事情をみておく。
 縄文時代末期、関東地域の人口は最盛期の12分の1まで落ち込み、僅かに8千人程度であったとみられている。気候の悪化がいわれるが、閉鎖的血縁社会の自然衰退とも考えられる。
 そこへ新しい人たちが押し寄せ、弥生末期には9万人にまで増加する。
 近畿南部や東海地域は既に渡来者満杯になっていたので後から来る人は其処をパスして関東に来たと考えるのが自然である。
 縄文時代を通して、海外に対する東日本の窓口は日本海に面した「越(コシ)」の地域であった。弥生中期、越地域には既に西日本の各地と同様に大陸から銅の文化が到来した。そして越地域と房総は縄文の早い段階から同じ文化圏であった。
 縄文前期には大陸の「玦(けつ)」と呼ばれるイヤリングがもたらされ、越で製作された玦や玉製品が房総や南武蔵に運ばれた。
 弥生中期の頃には、甲信越、関東一円で再葬墓が営まれ、焼骨をいれる顔面土器が圏内一円~出土する。
 越の地域で発達した櫛目文と言われる文様も太平洋沿岸の各地にまで及ぶ。
 房総に到来した板状鉄斧・ガラス小玉や鉄の精錬などの文物は、大陸からの移住者が帯同したものである。隣接する東海地域等にはない文物であるから、そうみるほかはない。おそらく越後から信濃川を遡り、佐久に出て山を越え、上毛から利根川を下り、印旛沼に達したのであろう。
 顔面土器の分布から観て、弥生中期の居住地もこのルート沿いに分布している。
5、以上観たように、新しい文化は発生点から波のように伝わり、各地に対しては同時進行的である。
 [西から東へ東へ]とは異なる。またすべてが中国ではないし、朝鮮半島経由でないかも知れない。
 ガラス・ビーズを例にとり、東南アジアから枝分かれして一方は朝鮮半島へもう一方は日本列島へという学者の説もある。
 時代が下ると、近畿中部や東海地域から房総への人や物の流れが見られるようになる。「手焙型土器」が典型的な例で、ダルマの形をした奇妙な土器で、祭祈の道具として使われたようで、中にはススが付いたものが発掘されている。
 弥生後期に近畿中部地域に発現し、西へ東へと伝わる。
房総での発掘数は関東随一で、これなども文化伝達の同時進行を示すものであろう。
 最後に房総に到来した弥生時代の鉄とガラスの文化はまだ素朴なものであった。精錬炉で造られた鉄(鋼)は
臼玉(副葬品に使う滑石製のビーズ)に孔をあける鉄のキリを造るのに使われたようである。
 鉄釧といい、ガラス小玉といい装身具に偏っている。古墳時代になると大量の渡来者と鉄の農機具等が列島に流入し、近畿中部地域では巨大な古墳(全長500M)が築かれている。
 房総で造成された古墳大きさは10分の1程度だが土地開発集団の存在は想定される。人々の大量渡来と鉄の実用化があって初めて成り立つことだった。
 本日はその全段階の日本列島と房総の様子を垣間見ました。
 話題が終わって懇談に移り多くの会員から質疑応答と意見が活発に出され、熱心な議論となりました。例会は和気藹々の中で経過し,錦秋の午後を楽しく過ごしました。           (岩淵  忠 記)

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