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日比谷同友会 サークル活動

第90回 「古代文化 西から東へかー房総を中心にー」 中野雅男: 23年9月

2011年12月11日 | 例会報告
 第90回例会は去る9月28日(水)銀座ラフィナートで開催、出席者は7名でした。
 今回は元東京綾瀬電話局長の中野雅男氏(昭和60年退職)に[古代文化 西から東へかー房総を中心にー]という話題でお話を伺いました。
 中野さんには「古代房総の歴史」のお話を平成21年9月に伺っており、その続編ともなりました。
 鈴木清会員による乾杯の後本題に入りました。
 話題は席上配布された資料「古代文化 西から東へか」
、「鉄の出現」、「ガラス小玉の源流」、「弥生時代東日本の社会」に基づいて進行しました。
1、弥生時代の中期、イエス・キリストがパレスチナに生れた頃、房総では日本列島で最も遅れて、水田での稲作が定着しつつあった。
人々はまだ石の道具を使って生活していた。
そこへ忽然と新しい時代を象徴する鉄斧とガラス  
小玉が出現する。どちらも近畿や東海地方には姿を見ないもので、なぜそれらのものが辺鄙な房総の地に現れたのか不思議である。
さらに不思議なことは、鉄斧もガラス小玉も遠い九州には房総よりも少し早く到来しているが、房総のものとは材質が異なり鉄斧は房総物の方が材質が良い。端的にいえば九州のは中国製で房総のは別地製で、系統が違う。
2、時代が下がって弥生後期から古墳時代前期に入っても、同様の現象が続く。鉄の精錬、ガラス小玉の製造、らせん状鉄釧など。近畿中部や東海地域にはないものが東日本に現れ房総がその先端にあるように見える。
作家の司馬遼太郎氏は、[長安から北京へ]の中で「倭人は日本列島を東へ東へと弥生式の農耕方式による地域を広げていって、今日の日本国の原型を作ったという点では、大方の古代史家も考古学者も承知してくれるに違いない」と。
弥生中期に房総で起きている現象から見ると素人にはには何とも承服しがたい感じがする。
 何故このようなことが起こるのか、検証する前に事実をみておく。
 まず鉄斧で[板状鉄斧]と呼ばれ、長さ15~20CM程度の厚板である。
 房総では柏市、佐倉市、旭市、市原市、長南町などであの遺跡から広範囲に出土している。神奈川県の遺跡からも10数点、埼玉県でも数点で、房総での出土数が上回る。東京での出土は無く、石川県、新潟県で数点である。
 一方、西日本では「鋳造鉄斧」が大量に出土し、これをリサイクルして農機具に転用する段階にまで達している。
 板状鉄斧と鋳造鉄斧の違いであるが、板状鉄斧は鉄の利用がメソポタミヤで始まって以来、普遍的な方法で鉄の素材を加熱、鍛錬して作られる。一方、鋳鉄鉄斧は鉄素材を高温で溶かし、鋳型に流し込んで造る。
 鋳造品は大量に製造できるが、壊れやすい欠点がある。板状鉄斧の方が実用ででも、換価財として価値面でも優れている。
 当時、中国では青銅器鋳造技術が進んでいたため、その延長線上で鉄が造られ、遼東地域で官営により鉄の鋳造がおこなわれていた。九州と朝鮮半島の間では日常的に交流があり、鉄器の流通もあったとみられている。九州の人たちは朝鮮半島中西部の当時中国の行政区域となっていた楽浪郡(ピヨンヤン近辺)で入手したとみられている。
板状鉄斧は韓国南西部の伽那や新羅地域で製造されたことがわかっているが、どこからその技術が伝えら
れたかは不明である。
 次にガラス小玉については、直径2,3ミリから7ミリ程度の紐を通す穴のあるガラス製の玉で、この時期、列島の外から持ち込まれた。色は赤、緑、青など種々で房総のものはコバルトブルー、ダークブルーである。    
 南関東では弥生中期のものは多くなく、集成した資料もみつからない。列島全域を見渡すと、弥生中期段階での出土は九州と房総に限られる。九州では大量に出土し、有名な吉野ヶ里遺跡では数千個も出土している。
 弥生後期になると関東各地で出土するようになり、房総での出土も1遺跡で数百個を数えるようになる。
京都府の丹後遺跡では数万単位で出土する。
 ガラス小玉は時期により、また地域によって出土数が変化するが、問題は材質、製作地の違いである。
 弥生中期に限ると、鉄斧と同様に九州のものは中国製で、房総のものは中国以外製で、東南アジア製ともインド製ともいわれている。
 中国のものは溶剤に鉛を使うのにたいし、房総のものはアルカリソーダが使われている。
3、100年ほど経った弥生終末期から古墳時代初頭、ヒミコの頃の話に移る。
 京成電鉄千葉線の終点、ちはら台駅のそばにある市原市の草刈遺跡で右腕にらせん状鉄釧をつけ首の位置にガラス小玉が散乱した全白骨が発掘されている。
らせん状鉄釧とは鉄製の線条を6~7巻したもので、集団の長が威信財として装着したものとみられている。
 房総では八千代市のヲサル山遺跡でも出土し、東京の板橋区の七社神社遺跡からからも出土している。関東西部・南部一円で多数出土し、長野県の出土が抜群である。
 不思議なことに、日本列島の他の地域での出土は九州で2点、東北で1点だけである。
 屋用後期になるとヤリガンナ(ノミ状の加工具)、キリ、刀子、(切り出し状のコガタナ)などの木工加工具や剣(威信具)の到来が増えるが、鉄釧は原始文化的である。しかし技術的には高度で、このアンバランス
に首肯しかねている。
 ごく最近、弥生前期に相当する時期の東北タイのパンナデイ遺跡で「装身具と考えられるコイル状鉄線、線条を巻いた首輪と腕輪」の副葬品が発掘されたとの報告(文献)を見つけ、鉄釧のルーツ発見とひそかに思っている。因みに、タイ湾西海岸の同時代遺跡からの青色、赤色のガラス小玉の出土もこの文献に報告されている。
 次は「鉄の精錬炉」である。
 千葉県八千代市沖塚と旭市さくら平で弥生後期の炉跡が見つかっている。
 精錬炉は製鉄炉のように砂鉄を溶かして鉄を造るのではなく、砂鉄を脱炭材として鉄素材から鋼を得るのである。
 精錬炉は冶金学と考古学の専門家の結論で、山陰、四国、北陸で同種とみられるものが発掘されている。
 九州や近畿南部、東海地域での発見はみられない。それにしても、鉄素材は日本列島には存在しないので、外から持ち込んでいる。なぜ精錬を終えた鋼を持ってこなかったのか。列島外では加熱材の木炭が得られなかったとしか考えられないが。
 ちょうどその頃、房総や房総よりの東京飛鳥山台地でガラス小玉が製造された。古代中国の鉛ガラスとは異なるアルカリソーダガラス製のビーズが造られた。製造のための鋳型も出土している。
 房総では四街道市の川戸下遺跡、木更津市の鵜ケ岡遺跡から、東京では北区豊島馬場遺跡、板橋区松月院内遺跡で出土している。
 東日本ではこれらの場所以外での出土はないが、日本中を見ても九州の福岡市西新町遺跡以外にはない。奈良県天理市の布留遺跡出土するのは200年後である。
 いったい誰がどのようにして持ってきたのか。
4、弥生時代を中心に話してきたが、ヒミコの頃になってもモノの流れは大きくは変らない。それから200年~300年も経つと大激変する。その話に移る前に、弥生時代の房総や南関東の当時の地域事情をみておく。
 縄文時代末期、関東地域の人口は最盛期の12分の1まで落ち込み、僅かに8千人程度であったとみられている。気候の悪化がいわれるが、閉鎖的血縁社会の自然衰退とも考えられる。
 そこへ新しい人たちが押し寄せ、弥生末期には9万人にまで増加する。
 近畿南部や東海地域は既に渡来者満杯になっていたので後から来る人は其処をパスして関東に来たと考えるのが自然である。
 縄文時代を通して、海外に対する東日本の窓口は日本海に面した「越(コシ)」の地域であった。弥生中期、越地域には既に西日本の各地と同様に大陸から銅の文化が到来した。そして越地域と房総は縄文の早い段階から同じ文化圏であった。
 縄文前期には大陸の「玦(けつ)」と呼ばれるイヤリングがもたらされ、越で製作された玦や玉製品が房総や南武蔵に運ばれた。
 弥生中期の頃には、甲信越、関東一円で再葬墓が営まれ、焼骨をいれる顔面土器が圏内一円~出土する。
 越の地域で発達した櫛目文と言われる文様も太平洋沿岸の各地にまで及ぶ。
 房総に到来した板状鉄斧・ガラス小玉や鉄の精錬などの文物は、大陸からの移住者が帯同したものである。隣接する東海地域等にはない文物であるから、そうみるほかはない。おそらく越後から信濃川を遡り、佐久に出て山を越え、上毛から利根川を下り、印旛沼に達したのであろう。
 顔面土器の分布から観て、弥生中期の居住地もこのルート沿いに分布している。
5、以上観たように、新しい文化は発生点から波のように伝わり、各地に対しては同時進行的である。
 [西から東へ東へ]とは異なる。またすべてが中国ではないし、朝鮮半島経由でないかも知れない。
 ガラス・ビーズを例にとり、東南アジアから枝分かれして一方は朝鮮半島へもう一方は日本列島へという学者の説もある。
 時代が下ると、近畿中部や東海地域から房総への人や物の流れが見られるようになる。「手焙型土器」が典型的な例で、ダルマの形をした奇妙な土器で、祭祈の道具として使われたようで、中にはススが付いたものが発掘されている。
 弥生後期に近畿中部地域に発現し、西へ東へと伝わる。
房総での発掘数は関東随一で、これなども文化伝達の同時進行を示すものであろう。
 最後に房総に到来した弥生時代の鉄とガラスの文化はまだ素朴なものであった。精錬炉で造られた鉄(鋼)は
臼玉(副葬品に使う滑石製のビーズ)に孔をあける鉄のキリを造るのに使われたようである。
 鉄釧といい、ガラス小玉といい装身具に偏っている。古墳時代になると大量の渡来者と鉄の農機具等が列島に流入し、近畿中部地域では巨大な古墳(全長500M)が築かれている。
 房総で造成された古墳大きさは10分の1程度だが土地開発集団の存在は想定される。人々の大量渡来と鉄の実用化があって初めて成り立つことだった。
 本日はその全段階の日本列島と房総の様子を垣間見ました。
 話題が終わって懇談に移り多くの会員から質疑応答と意見が活発に出され、熱心な議論となりました。例会は和気藹々の中で経過し,錦秋の午後を楽しく過ごしました。           (岩淵  忠 記)

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第89回 「永遠の古賀メロデイ」 輿寛次郎: 23年7月

2011年09月27日 | 例会報告
 第89回例会は去る7月1日(金)、銀座ラフィナートで開催、出席者は11名でした。
今回は輿寛次郎会員に「永遠の古賀メロデイ」という話題でお願いしました。深い造詣からの興味あるお話と歌唱を楽しく伺いました。
 輿さんには平成20年7月に「西条八十を語る」で世相豊かな大衆歌謡の真髄を伺いました。今回はその延長線そのものでした。
 都合により会長挨拶を省略し、鈴木清会員による乾杯の後、本題に入りました。
一、 古賀政男を語る。
同氏は明治37年11月18日、福岡県
大川市で生まれ、昭和53年7月25日、73歳で亡くなった。父の死から2年経った大正元年夏、母や姉、弟と共に朝鮮に渡った。仁川に住む長兄の福太郎を頼って海峡を越えたのである。七歳だった。彼の地の小学校に転校し、商業学校を卒業、後に帰国し明治大学に入学、昭和4年大不況の中卒業した。
「永遠の古賀メロデイ」
東京ラプソデイは昭和11年、西条八十の門下生門田ゆたかが作詞,古賀政男作曲で、藤山一郎が歌って大ヒットになった。銀座の柳や、ニコライ堂、浅草、新宿等、しかし当時の柳並木や路面電車は消えても、古賀政男の魂の奥底から、血と涙を通じて出てきたメロデイが人々の心を打つ。悲しみに口ずさんで慰められ、苦しみに口ずさんで励まされる。それ故永遠に口ずさまれる歌曲、古賀メロデイは生き続けていくのであろうか。
 古賀政男は「詩は姉、曲は妹」と言っていたが、一番多い作詞が佐藤惣之助である。
  レコードの売り上げが示す古賀メロデイ 
 の戦前のベスト5は、
 1「誰か故郷を想わざる」(昭和15年)
 2「酒は涙か溜息か」(昭和6年)
 3「影を慕いて」(昭和7年)
 4「人生劇場」(昭和13年)
 5「あヽそれなのに」(昭和11年)であり、戦後のベスト3は、
 1「柔」(昭和39年)
 2「悲しい酒」(昭和41年)
 3「湯の町エレジー」(昭和23年)である。同郷の弟子、歌手の大川英策によれば、古賀メロデイにも、「無法松の一生」や「人生劇場」のような男歌と、「影を慕いて」「悲しい酒」といった女歌がある。
  パートナーの歌手は藤山一郎、門下生は大川栄策、菅原都々子、美空ひばり、歌い継ぐのは森進一、五木ひろし、小林幸子等の歌手である。
  国民栄誉賞は王貞治を第一号として昭和五二年に始まった。第二号は古賀政男、第九号が藤山一郎、その間に美空ひばりが入り、その後服部良一、吉田正、遠藤實と続いている。
二、 古賀メロデイを歌う
1、「東京ラプソデイ」(昭和11年)
西条八十の門下生門田ゆたかが作詞で、藤山一郎が歌い、レコード売り上げ三五万枚
の爆発的大ヒットとなった。

  1花咲き花散る宵も
   銀座の柳の下で
   待つは君ひとり 君ひとり
   逢えば行く テイルーム
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

  2現に夢見る君よ
   神田は想い出の街 
   今もこの胸に この胸に
   ニコライのかねもなる
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

3番浅草、4番新宿と続くところまで「東京行進曲と同じ形式であった。この歌のエピソードとして、銀座は京橋地区管理部、神田は丸の内地区管理部管内でそれを統合した千代田地区管理部の替え歌にして当時合唱した。

2「ああそれなのに」(昭和11年星野貞志作詞、古賀政男作曲)

  1空にや今日もアドバルーン
   さぞかし会社で今頃は
   おいそがしいと 思うたに
   ああそれなのに それなのにねえ
   おこるのは おこるのは
   あたりまえでしょう

  2どこで何して いるかしら
   何か悲しい 日暮れどき  
   想うはあなたの ことばかり
   ああそれなのに それなのにねえ
   おこるのは おこるのは
   あたりまえでしょう

3「誰か故郷を想わざる」(昭和15年、西条八十作詞、古賀政男作曲)

  1花摘む野辺に 日は落ちて
   みんなで肩を 組みながら
   唄をうたった 蹴り道
   幼馴染の あの友この友
   ああ 誰か故郷を想わざる

  2ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
小川の岸で さみしさに
泣いた涙の なつかしさ
幼馴染の あの山この川
ああ 誰か故郷を想わざる

 4「建設の歌」(昭和15年、西条八十作詞、古賀政男作曲)
映画「熱砂の誓い」長谷川一夫、李香蘭
       主演の主題歌で、建設業界の替え歌としてもうたった。

よろこびあふれる歌声に
    輝ける荒野の 黄金雲
夜明けだ 夜明だ 大陸に
    わきたつわれらの 建設の歌
    
5「人生劇場」(昭和13年、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)

   1やると思えば どこまでやるさ
    それが男の 魂じゃないか
    義理がすたれば この世は闇だ
    なまじとめるな 夜の雨

   2あんな女に 未練はないが
    なぜか涙が 流れてならぬ
    男ごころは 男でなけりゃ
    わかるものかと あきらめた

6「夢淡き東京」(昭和22年、野村俊夫作詞、古賀政男作曲)

    柳青める日 燕が銀座を飛ぶ日
    誰を待つ心 可愛いガラス窓
    かすむは春の青空か あの屋根は
    かがやく聖路加か
    はるかに 朝の虹も出た
    誰を待つ心 淡き夢の町 東京

7「湯の町エレジー」(昭和23年、野村利夫作詞、古賀政男作曲)

   1伊豆野山々 月あわく
    灯りにむせぶ 湯の煙り
    ああ 初恋の
    君をたずねて 今宵また
    ギターつまびく 旅の鳥

   2風の便りに きく君は
    いでゆの町の 人の妻
    ああ 相見ても
    晴れて語れぬ このおもい
    せめてとどけよ ながしうた

8「トンコ節」(昭和26年、西条八十作詞、古賀政男作曲)
 炭坑節にヒントを得て、タンコウをトンコに変えた作詞である・お座敷ソングとしてヒットした・

言えばよかった ひと言が
   なぜに言えない 打明けられない
   バカな顔してまた帰る
   恋は苦しい 朧月
   ネー トンコ トンコ

9「芸者ワルツ」(昭和27年、西条八十作詞、古賀政男作曲) 
 当時流行したテネシー・ワルツからヒントを得た御座敷ソングである。
   
   あなたのリードで 島田もゆれる
   チークダンスの なやましさ
   乱れるすそも はずかしうれし
   ゲイシャ・ワルツは思い出ワルツ

10「柔」(昭和39年、関沢新一作詞、古賀政男作曲)
古賀政男の愛弟子である美空ひばりが歌った。戦前の藤山一郎、戦後の美空ひばりが
双璧である。「柔」や「悲しい酒」など、古賀メロデイのなかでも「記念すべき作品
」をひばりは歌っている。

   勝つと思うな 思えば負けよ
   負けてもともと この胸の
   奥に生きてる柔の夢が
   一生一度を一生一度が待っている

11「悲しい酒」(昭和41年、石本美由起作詞、古賀政男作曲)
 「柔」でひばりはレコード大賞を受けた。
 「悲しい酒」はひばりが歌った古賀メロデイの集大成のようなものだった。古賀
  とひばりの結びつきはキングとクイーンの連携だった。

    ひとり酒場で 飲む酒は
    別れ涙の 味がする
    飲んで棄てたい 面影が
    飲めばグラスに また浮ぶ

12会員が歌う
 輿さんの熱唱に応えて、エールを送ろうと会員の有志が歌唱した。
 (1)「酒は涙か溜息か」(昭和六年、高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)
 藤山一郎こと増永丈夫が東京音楽学校在額中、こえをおさえて歌った。悲しい歌を、逆にあまり感情を入れずに歌って、大ヒットした。

   酒は涙か ためいきか
   心のうさの 捨てどころ
とおいえにしの かの人よ 
    夜毎の夢の 切なさよ

 (2)「影を慕いて」(昭和7年、古賀政男作詞作曲)
  いろいろな経緯の後、藤山一郎が歌って大ヒットした、厭世の歌である。

     まぼろしの 影を慕いて 雨の日に
     月にやるせぬ 我が想い
     つつめば燃ゆる 胸の火に
     身は焦がれつつ しのび泣く

     わびしさよ せめていための 
     なぐさめに
     ギターをとりて 爪びけば
     どこまで時雨 ゆく秋ぞ
     トレモロ寂し 身は悲し

 輿さんの解説と熱唱が終わって、歌は世につれ、世は歌につれであるとの感を深くしました。話題が終わって懇談に移り、多くの会員から質疑応答と意見交換が活発になされ、熱心な議論となりました。
 例会は和気藹々の中で経過し、梅雨の晴れ間の御語を楽しく過ごしました。
        (岩淵  忠 記)

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日比谷笑談会のご紹介

2011年06月12日 | 日比谷笑談会のご紹介
 日比谷笑談会では、会員あるいはOB等の中から毎回、政治・経済・
文化・スポーツ・その他あらゆる分野の、面白い話題や特技の持ち主
をお招きし、笑いの飛び出るようなお話を聞いたり、感心させられる特
技をみせてもらったりしています。


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お問い合わせは次の幹事まで

岩淵  忠 : 03-3904-1500(自宅)
岩渕鉄雄 : 0468-35-2828(自宅)

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第88回 「スペイン女性と付き合った二日間」 岩噌弘三: 22年12月

2011年06月12日 | 例会報告
 第88回例会は去る12月10日(金)、銀座ラフィナートで開催、出席者は八名でした。
今回は元海外連絡室次長岩噌弘三氏(昭和五六年退職)に「スペイン女性と付き合った二日間」という話題でお話を伺いました。

 岩噌さんには「シルクロードとイスラエルの旅」、「古き良きカンボジア」の話題で以前お話を伺っております。都合により植木会長の挨拶を省略し、前島会員による乾杯の後、本題に入りました。
 話題は席上配布された資料「スペイン女性と付き合った二日間」に基づいて進行しました。
 五月に、BHNテレコム支援協議会の仕事で、カンボジアの首都から車で九時間の先住民族に、太陽電池と手回し発電機で動作するラジオ受信機の配布に行った。その準備段階から、現地での配布に一生懸命協力してくれた、現地UNESCO事務所勤務の若い多分三〇歳位のスペイン人女性がいた。
 このミスイザベルが休暇を取って、日本へきて一カ月滞在した。来る前に、合気道を修行したいとの相談のメールのやりとりもあり、彼女の日程は、大阪、広島、宮島、奈良、伊賀忍者の里、金沢、白川郷合掌集落、高山、東京、箱根、出羽三山、一〇日間の合気道茨城道場、最後に京都であった。
 彼女の探究心とバイタリテイは将に驚くばかり、今の無気力で海外勤務を避けたいとする日本の若者に少しでも見習って欲しいと思うばかりであった。
1、日本への機内では、この機会とばかりに蔵書の夏目漱石の「心」や村上春樹の本を読んだ。
2、合気道を選んだ理由は、柔道などと違い、精神面を重視するので若い時からの憧れであった。
3、七月一四日の朝からの浅草寺では、仏教と神道の礼拝方法の違い、鳥居の意味と赤色の理由などを尋ねた。
4、東京タワーの直下に見えたお墓~葬儀の実行方法を尋ねた。
5、築地魚市場が定休日のため、上野公園近くの御徒町の回転すし店では、システムに非常に関心を示し、魚の名前を尋ねては手帳に書き込んだ。自国の昼食の値段と比較して、いずれのすしも一三五円の安さに驚いた。最近のFT紙に「世界の居住快適度序列」が掲載されていて、ミユンヘン、コペンハーゲン、チューリッヒ、に続いて東京が来て「ビッグシテイとしてはナンバーワン」と報じられているのも分かるとのこと。
6、私の提案を積極的に受け入れて、上野の国立博物館の常設展を見た。
インドから中国、韓国などを経て日本へ伝わった仏教伝来の特別展から始まり、彼女にとっては全てが興味の対象になり、古ぼけて薄暗い感じの仏画まで熱心に見ていた。古墳からの発掘物、国宝を含む多数の日本刀、高いレベルの美術工芸品、多くの画などを写真に収めていた。特に興味を引いたのは、昔の精魂こめて作られた豪華絢爛の衣装類であったり、私にとっては意外であったが、考えてみれば当然なのは多種類の屏風であった。「折り曲げた画」、吊るすことも固定もしない画で、自立する画ですから、このような画は世界にありませんから。
私たちは、四時間近くを過ごしたが、彼女は「まだ時間が足りない。時間があれば再度来たい。六〇〇円の入場料は安い」と言っていた。
7、秋葉原で日本のエレクトロニクス・パワーを知っておいて欲しいと、六階建てのヨドバシカメラへ案内した。また日本の部品産業とそれを利用するアマチアの特異性を示すために、JR線路下の小さな店の行列へと案内し、五五年前のNTT入社時には既に同様の店が並んでいて、そのまま続いていると説明したところ、彼女は無数の多種類部品が売られているのに感動していた。
8、彼女は芸者について非常な興味を持っていて、会える機会はないかと質問され、月末に京都へ行った時に小劇場風の「ギオンコーナー」へ入場することを勧めた。彼女は芸者という日本語について詳しい説明を求めた。芸とはアートであり、歌踊り、三味線等の楽器について、多様なスキルを身につけるための厳しい稽古が要求される。
またレベルの高いお客との会話を交わすために高度の教養が要求される。その一例として、FT紙が世界の有名人とのインタビューを掲載していて、中曽根元相もでたが、祇園の老妓もでたことがあり、トップクラスの芸者となると、このようなレベルの人間として扱われる。京都では舞妓から芸妓へと
成長し髪型も衣装も変わることや、置屋について説明した。
9、翌日は東京駅の「銀の鈴」で朝九時に待ちあわせた。在来線で行った小田原からは箱根登山鉄道経由で、強羅からはケーブルカーを利用して大涌谷で降りた。ここでは一面の霧で、一縷の希望を持っていた富士山の遠望をすっかり諦めざるを得なかった。大涌谷では、ロープウエイから温泉の噴出口まで、幅の狭い上り坂となり、多くの子供を含む中国人で溢れていた。温泉の硫化ガスの作用で、外側が黒く変色するユデ卵が昔から有名である。中国人たちは列をなして黒いタマゴを買い、大勢にぎやかに食べていた。昔は一個食べると七年寿命が延びると宣伝していたが、過大広告になるためか、今はその表示はない。彼女に七年の話をし、購入したところ大喜びであった。
10、湖尻からは海賊船に乗船した。定員一杯の乗客の大部分は子供連れ、若者二人組みなどを含む中国人で溢れていた。
今日本では旅行者の増加策に積極的に取り組み、七月からはビザの緩和も行われた。これらは友好増進や景気高揚のためには大いに望ましいことであるが、別の問題点を発見した思いである。
梅雨期のために、日本人の観光客は極めて少なかったにも係わらず、中国人観光客のみで、春秋の最盛期の日本人観光客数のレベルに到達している。今でも昔の日本人観光客数に匹敵するところを、ビザの緩和で増える中国人が従来からの好シーズンの日本人観光客と合流となれば、どうなることかと心配した。
11、箱根町の「箱根関所跡」へは、中国人が来ていなかったのでヒッソリとしていた。「入り鉄砲、出女」に特に注意が払われた関所の意味を説明し、彼女は関所破りに対する「すまた」などの各種武具にも興味を持った。帰りは小田原から東京まで三〇分の新幹線にした。外国人に新幹線のスゴサを見せるには通過する列車を見せることである。今回も彼女は小田原駅で轟音と共に通過する列車の速さに驚いていた。夕方五時過ぎに、品川駅で何時の日かの再会を約して別れた。

「結末」
彼女がカンボジアへ帰任後に送信してきたメールでは次のように日本を絶賛している。
「日本で素晴らしい経験をしました。何事も円滑に進行し、些細なトラブルにも全く遭遇しませんでした。ほぼ1か月の間、貴方の国を訪れて、多く町や都会を尋ね、さらに独特の日本人が創始した武術を最善の場所で修練できた私は幸せな人間です。
日本人ほど親切で尊敬に値する人々が、この世界に存在するのを知っていることを、私は誇りに思います。超近代性、伝統及び自然の毎日の完全な統合を実現した国が、この世界に存在するのを知っていることを、私は誇りに思います。貴方がたは、その伝統、古い習慣と尊敬を広範に保護することにより、近代化へ開花できました。さらに、世界を出来る限りクリーンに保つことを認識し、意義を見つけることにより、環境保護に努めています。
多くの点で私たちは貴方がたから学ぶ必要があります。これらはほんの僅か気付いた点にすぎません。時間が許せば、さらに詳細をメールしたいと思っています。
私のこの日本への旅行は私の心の中で、末永末長く特別な位置を占め続けることでしょう。」
ISABELという外国人によって、外国のインテリは今の日本の若者とは比較できない強烈なバイタリテイを持っていることと共に、日本の素晴らしさを教えられた思いが強い。新幹線やエレクトロニクスのハイテクから始まり、各地の手入れの行き届いた多くの社寺、白川郷のような古い民家や自然の景観の保護、武道の維持、塵一つない清潔な街々等、欧米に誇れるものを無意識のうちに一杯持っている。また、忍者の里へ降り立った時に英文の案内板もなく途方に暮れているときに、ある男性が近づき、案内、自宅での食事、最後には下駄を贈り物として渡してくれた親切心は、強烈な印象として残ったようである。
 話題が終わって懇談に移り、多くの会員から質疑応答と意見交換が活発になされ、熱心な議論が行はれました。
例会は和気藹々の雰囲気の中で経過し、師走の午後を楽しく過ごしました。
(岩淵 忠記)

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第87回 「地球2周の船旅」 松本慎二: 22年 9月

2011年06月12日 | 例会報告
 第87回例会は去る9月29日(水)、銀座ラフィナートで開催、出席者は9名でした。
 今回は元日本電業工作社長松本慎二氏に「地球二周の船旅」という話題でお話を伺いました。
 都合により植木会長の挨拶を省略し、前島会員による乾杯の後、本題に入りました。
 話題は席上配布された資料「地球二周の旅(108日間南半球と南極遊覧、112日間北半球と北極遊覧)」、「ルート図とオセアニック号」と供覧資料「カメラ紀行(南半球一周108日間の船旅)」、「南極はパラダイス」、「風と音の詩」、「潮の道」(船内発行紙)、そしてパソコンによるビデオの映写に基づいて進行しました。
  「地球二周の船旅」
 1、 船旅の概要
 ここ一年間に念願だった船の旅に2回行った。
 2008年1月から108日間で南半球を一周し、さらに2009年4月から112日間で北半球を一周した。
 (1)航海ルート
  ◎1回目・・約3.2万海里(5.9万KM)、13カ国、18地域横浜―香港―ベトナムーシンガポールーセイシェルー南アフリカーナミビアーブラジルーアルゼンチンー南極大陸パラダイス湾―チリーイースター島―タヒチ島―ニュージーランドーオーストラリアーラバウルー横浜と一周(南シナ海、マラッカ海峡、インド洋、大西洋、ドレーク海峡、ビーグル水道、南極海、マゼラン海峡、太平洋)、乗客約1000名、クルー約300名。
  ◎2回目・・約2.9万海里(5.2万KM)、20カ国、22地域横浜―アモイーシンガポールーヨルダンースエズ運河ーエジプトーギリシャーイタリアースペインーフランスースウェーデンーロシアーフィンランドーデンマークーノルウエーー北極圏―アイスランドーニューヨークーベネズエラーパナマ運河ーコスタリカーメキシコーバンクーバーアラスカー横浜(南シナ海、マラッカ海峡、インド洋、紅海、スエズ運河、地中海、ジブラルタル海峡、ドーバ海峡、北海、バルチック海、ノルウエイ海、北極海、カリブ海、パナマ運河、太平洋)、乗客約500名、クルー約200名
 (1) 船の概要
  ◎1回目 ドパーズ号(内容省略)
  ◎2回目 オセアニック号(内容省略)
 2、船内生活の楽しみ方は様々
  乗客は、ほぼ全員が日本人(幼児から90歳超)で南回りの時は約1000人、北回りは500名、その内6割以上が女性、また親子、夫婦、兄弟等の組み合わせは少なく1割もいない様子、また55歳以上が7割近くで20代、30代が2~3割、さらにリピーターが2割(2回目が多く、最高14回目の人も)。
  学生や休職中のような方も見受けたが、退職者が圧倒的に多い。
 堅苦しいドレスコードはなく、特別な場合を除いてカジュアルな服で過ごせる。
 食事は、ほぼ日本で食べるような和洋エスニック料理が種々出てきて、味もまずまずであった。
  2回の船旅で約11万キロを航海し、世界の主だった海洋・大陸・運河を巡り、延34ケ国40都市、21箇所の世界遺産を訪れた。
  ◎主催側企画に参加(有料語学講習、有料環境講座、映画会、カラオケ、ダンスパーテイ、等など多数)、乗客参加の手作りイべント。
 ◎水先案内人企画に参加(寄港地で交替で乗船してくる講師やエンターテイナーによる講演や公演)
  ◎乗客自主企画に参加(楽器演奏、社交ダンス、語学、学習会、趣味各種)
  ◎仲間(魅力的な老若男女)
  ◎自分で楽しむ
  ○孤高、思索、読書、論文を書く、翻訳。
  ○海を眺める(スエズ運河、パナマ運河、氷河、フィヨルド)、日の出、日の入り、星空、
 自然現象(グリーンフラッシュ)、鯨、イルカ、飛び魚。
  ○体を鍛える(各種スポーツなど)
  ◎医者、マッサージ、理髪、バー(二ケ所)、居酒屋は有料ながらある。
  ◎客室備え付けテレビで毎日2本の映画(洋画、邦画など)が常時繰り返し上映されている。
 また毎週、船内活動のビデオ放映がある。
  ◎毎日、夜19時に翌日の新聞が発行され、翌日の予定が掲載される。また興味深い乗客の紹介記事等が出る。
  ◎イベントなどは乗客参加型で、船旅のモットーは「みんなで創る船旅」。
  3、寄港地での過ごし方
  寄港地では1~2泊することもあったが、早朝到着深夜出発が多いので、ご当地観光には物足りない。
 もっとじっくり観光したい人は一度下船して、次の寄港地で合流することになる。
 そのような内陸部の観光地を巡るコースや寄港地近辺を観光するコースなど種々ツアーが用意されていて、それに参加する人が大勢いた。
 私はほとんどの寄港でのツアーには参加せず、親しくなった人達と気ままに行動したが、内容と費用の点では大いに満足した滞在となった。
  ◎主催者提供の催しに参加(ツアー、オーバーランドツアー)、(現地人、現地NPO、大学などとの交流)
  ◎自由行動(離脱も可能)
  ◎感想―どこもそれなりに良かった。
 (ビデオ映写)一回目(南アフリカ、ナミビア、南米、南極、イースタ島、タヒチ)
 二回目(ヨルダン~ペトラ遺跡、スエズ運河、ポートサイド。エジプト~ピラミッドそしてスフインクス、地中海遊覧、ギリシャ~パンテオンの丘、マラガルアーブルの九日間の旅~アルハンブラ・バルセロナ・カルカソ・モオンサンミシエル・ドービル、バルチック海、スェーデンとデンマーク~自転車で市内観光、ノルウエイ~ベルゲントフロム鉄道、アイスランド~ブルーラグーンの温泉、と登山、ベネズエラ~ドイツ人コロニー、パナマ運河、アカプルコ、バンクーバー~ウイスラーで登山とゴルフ)4、船旅の運営体と経費
   ◎NPO法人スピードボートと旅行会社ジャパングレースそして船会社の共同運営
  ◎経費
  費用は船代(食事込み)が1人150万円から350万円、早期申し込み割引あり(私の場合は1回目160万円、2回目200万)円)費用の差は部屋の広さや快適さの違いで、食事や待遇の差はない。
  ○高い部屋はバスタブ付き(少数)、他はシャワートイレ。
  ○その他の経費(ビザ取得費、港湾使用料、チップ、保険料)約12万円。
  ○部屋は1人部屋、2人部屋、3~4人部屋。
 5、船旅をどのように過ごしたか
  一言でいえば100%以上の大満足。
  ◎動機―仕事を辞めて、長期に旅をしながら、未知の体験をしたかった。
 また船の長旅を経験して、解放感と安息と思索を味わい、70歳以降の将来生活に向けて実験と準備活動をしたかった。
  ◎1回目の船旅では
  ○船内新聞発行支援、無料語学講座、シャンソンの自主企画(歌い・習う)、船側企画の興味深いイべントなどに参加。
  ○健康生活の実践と種々の健康法(食事、清潔、運動等)(快食、快眠、快便)
 毎食、野菜を大量に食べ、ウオーキング、ゴルフの素振り(プレーは一回)、オーラルケアはほぼ満点。
  ○同室の娘とのコミユニケーション(つかずはなれず)
  ○飲み会は多かった。離脱旅行はせず船旅を楽しむことに専念した。
 他動的に時間がばたばたと過ぎて忙しかった。
  ◎2回目の船旅では
  ○乗船一週間目に船旅生活の基本を定め、部屋に張り出し、実行した。
 基本、行動はほぼ同じ(若干の修正)。
  ○上陸地ではタクシーを利用して効率的に観光した。
 上陸地の自由行動で、同行の希望者が多かったのでお世話をした。
  ○同行した竹馬の友とのコミュニケーションそして真髄発見。
  ○毎日のゴルフ練習(自室でパターとアプローチ)、七ランドの上陸地プレイ。
   ○自分の思う通りに生活をコントロール出来たので極めて満足。
 6、気づいたこと、珍しいこと、出来事など
  ○船の中は社会の縮図。
  ○若者の生き様を観察。
  ○船揺れと船酔い・・最大12mの波、船酔い者多数(慣れと薬で克服)
  ○船内風邪などの蔓延・・時々風邪が流行(1回目に2度、2回目に1度ひいた)
  ○いろいろな人々との出会い、様々な出来事を見聞。
  ○寄港地での旅行中の事故あり、また被害に遭う人も多い。
  ○衣類の変更が頻繁(冬~春~夏~初秋~秋~冬~極寒~秋~夏~秋~夏~真夏~初夏、体調維持に注意。
  ○一回目に比べると二回目は乗客が少なくて、落ち着いていた。
  ○旅行期間中に締め切り日などが来ることを予想して済ませておく。
  ○普段の生活で必要なものは何でも持っていくと役立つ(荷造りテープ、紐など)。
  ○普段服用している薬は持参が肝要。
  ○大事なものは予備を持参する。
  ○携帯電話は必携。世界どこでも良く通じる。通信の進歩の速さを実感(携帯の通じ方、船のインターネット環境が1回目に比して2回目は格段に改善)
 7、感想と結論
  ◎一回目の旅で船旅は「楽」で楽しいことを実感した(荷物の運搬なし、自分専用の部屋そして移動手段の合体、一回は娘と同室・2回は竹馬の友と同室)。
 船内生活は退屈とは程遠い。
 最初は船内生活のペース配分が分からず、「何でも体験」スタイルで過ごしたので大変忙しかった。
  ◎2回目の船旅は1回目よりさらに「楽」で、楽しく計画的に過ごした。
  ◎100%自由気儘な生活、義理や責任はほぼなし。
  ◎船内生活を楽しむのが船旅の醍醐味。寄港地近辺は楽しめるが、内陸部を楽しむには「船から離脱」が必要。一回目は離脱なし。
 2回目はスペインのマラガ~フランスのルアーブルまで離脱し、汽車と車そして飛行機の9日間の旅で十二分に楽しめたが、ジブラルタル海峡からドーバ海峡までの海岸線を見逃したのは少し残念。
  ◎船旅は優しいーーハンデキャップのある人、老齢者、体の弱い人。
  話題が終わって懇談に移り、多くの会員から質疑応答と自らの想い出話や意見交換が活発に行われました。
  例会は和気藹々の雰囲気の中で経過し、とどこおりなく終了しました。                        
(岩淵 忠 記)

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