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日比谷同友会 サークル活動

第86回 「古き良きカンボジア」 岩噌弘三: 22年 7月

2011年06月12日 | 例会報告
 第86回例会は去る7月7日(水)、銀座ラフィナートで開催、出席者は10名でした。
 今回は元海外連絡室次長岩噌弘三氏に「古き良きカンボジア」(昭和45年頃の同地の状況とポルポト大虐殺に対して)という話題でお話を伺いました。
 岩噌さんは第82回(平成21年6月24日)「シルクロードとイスラエルの旅」のお話をいただきました。
 岩噌さんは長年海外勤務をされ、世界70カ国を周遊されるなど貴重な経験をお持ちで、話題ついて興味あるお話を楽しく伺いました。
 恒例により植木会長の懇篤な挨拶があり、続いて福富禮治郎会員の乾杯の後、本題に入りました。
 話題は席上配布された資料「古き良きカンボジア」、「激動下のカンボジア」、「BHN会員からのレポート」、「カンボジア全図カラー版」等に基づいて進行しました。
  Ⅰ、古き良きカンボジア
 1、 はじめに
 昭和40年から2年間、現在のJICAの前身であるコロンボ計画の専門家としてカンボジアへ派遣された。
 その後、カンボジアの山岳民族のための多様な民族語放送施設提供計画のために、ラオスとベトナムに接するカンボジア東北端のラタナキリ州を2007年に訪れるまで、政府調査団への参加、中部地域電気通信網整備拡充計画の策定など、数回に亘ってこの国で仕事をする機会があった。
 比較的最近のことは報道されているが、静かな平和国家であった時代については、知られていないので、情報を提供したい。
 また、ポルポトが大虐殺を行った意図については、3年前から国際法廷の準備が進められているが、未だ解明されていない。
 しかし当時の社会情勢を知るものについては推定が可能なので、私的な解明を「ある一つの推測」として試みる。
 2、 赴任
 当時は電電公社に入社して10年目であつた。
 カンボジア行きの要請に応じ赴任することになった。
 当時の海外赴任の通例はまず本人が現地入りして環境を整え早期に本来の仕事を軌道に乗せ、居住家屋を確保した後で1~2ケ月遅れて、家族が到着するのがルールになっていた。
 私の場合、幼児3人を抱えた家内に家財を整理し社宅を明け渡して、当時週に1回のみのエールフランス機で追って来させたが、多大な苦労をかけ、機内食もとれずにやっとプノンペンに到着し、幼い子供連れの海外赴任の在り方を考えさせられた。
 3、 日本との関係
  当時は組織的に援助を行っていた。医療センタを開設し、医師数名を派遣していた。
 また農業センタ、畜産センタを開設し、それぞれ多くのの日本人専門家を派遣していた。
 これら3つのセンタを中心に、活発な協力を実施していた。
 2001年にJICAの現地事務所長に現在の多様とも思える援助について、方針を尋ねたが総括的な方針は伺えなかった。
 当時は外国といえば何事も日本が表に出て目立つ存在であった。
 しかし現在では後述するが韓国の進出が目立ち、日本人の活力の無さが心配である。
 電気通信分野の組織は、郵便、電信、電話を意味するPTTと呼ばれ、その本部は今のプノンペン中央郵便局と同じ構内に、各種の電話交換機などの多様な通信機器と共に設置されていた。
 日本人専門家もここに勤務していた。
 国際通信は1組の短波送信機と受信機を使用して、時差に合わせて通信対地を切り替えて提供されていた。
 まず10時から1時間は日本向け、次いで香港、パリと切り替えられた。
 日本向けは一時間しか割り当てられないので、予め申し込みをして順次接続されたが、時間切れで通話出来ないことも多く、翌日回しとなってしまうこともあった。
 しかも短波通信はフェージングの影響で、電波の強度が変わって通信が途切れることもあり、電話交換手は通話をモニターしながら、通話出来なかった時間は、実際の接続時間から差し引いて料金請求していた。
 国内通信は当時の日本の町や村への市外通話に広く使用されていた技術である。
 腕木に二本の裸銅線を張る方式に依存していた。プノンペンとアンコールワットのあるシムリヤップまでは、東京・名古屋にほぼ相当する320KMあるが、通話の増幅をしない裸銅線のみに依存していても、通話は可能であった。
 KDDからは送信と受信の専門家を、NTTからは線路(ケーブルや配線)、搬送(多重通信)及び電話交換の3名を長期専門家として派遣し、さらに日本から、クメール語とフランス語の両方を1台の機械で送信できる「2ケ国語テレプリンタ」を贈与したので、そのための短期専門家を複数回派遣し、電気通信分野はすべて日本の支配下にあった。
 在任中PTT内に設備する沖電気製のA形自動交換機の建設工事の技術指導を行った。
 しかしポルポト以降はNTTからの一人のみとなり、2007年には通信に関するJICA専門家は途絶えることとなった。
 放送については、NHKから専門家が派遣されていた。赴任した年の12月に日本から寄贈したTV放送局の開局式が行はれた。
 スタジオやテレビ塔を含む放送機材一式を日本から贈呈したが、仏語のプログラムを提供できず、プログラムは全てフランスから提供されたので、カンボジア国民はTV番組を見てTVシステムはフランスから提供されたと信じていた。
 当時現地に赴任して各方面で活躍された日本の民間人の多くがポルポトに殺害され犠牲になられたと聞いている。
 私の在任期間は、商社の人々が多く活躍されたが、日本人全体は100人に満たない数であったようである。
 日本でNTTや通信機メーカーの人達ばかりと接した私にとっては、交際範囲を広めて視野を広める必要性を学んだ。
 多様な人々と接してこそ、人間の幅が広がることを痛感した。
 4、現地生活 
 (1)家族生活
 プノンペンの中心街のマンションを住居に選び生活をした。
 現地人のメイドを雇うのが一般的で、比較的余裕のある暮らしが出来た。
 長男は私立の小学校に通学し、すぐに現地の生活に溶け込んだ。
 家族は現地の生活に逐次適応していった。
  (2)医療
  多くの日本人が利用していた近くのフランス人の診療所に依存した。
 着任早々に半生の淡水魚料理を食べ、寄生虫病に悩まされた。
 診療所で治療したが特別な処置はして貰えなかった。幸運にもそのうちに病状がなくなった。
  (3)市街状況
  当時のカンボジアの人口は約700万人と言われ、ポルポトが200万人近くを殺しても、今は1500万人になっている。
 農村から溢れた人たちはプノンペンに集まり生活している。
 静かな昔が全く想像できないほどに、雑踏と喧騒に満ちている。
 昔は自動車が極めて少なく、街路にはシンクロという三輪車が無数に市街を流していた。
 通りや多くの公園は住民により清掃され、美しい街は、小パリとも言われていた。
  (4)シアヌーク殿下の治世
  政治の実権はシアヌーク殿下が完全に掌握されていた。しばしばヘリコプターなどで地方視察に出掛けて、民衆と良好な関係を保つように心がけておられた。
 殿下が私たちの働いているPTTの自動電話交換機の部屋へ突然視察に来られたことがあった。
  (5)交通事情
  日本からのエールフランス機は週一便であった。
 鉄道はシアヌークビル港からプノンペンとプノンペンからタイ国との国境であるポンペットの間に存在したが、内戦ですべてが消滅した。
 長距離バス網が発達していて、便数も行き先も多かった。
  (6)日本の文化政策
  日本の伝統文化。工芸品、近代産業、最近交通機関など多方面に亘って日本を紹介する仏語の素晴らしい16ミリフイルムが多数大使館に送られてきていた。
 投影機とこれらのフイルムを借用して職場と現地の人々に日本のPRを熱心に行ったこともあった。
 (7)アンコール観光
  当時は観光客は僅かの外国人のみで、閑散とした雰囲気のことが多く、年間200万人といわれる現在の観光客に比べて今昔の感がある。
  (8)フランスの影響
  日本からすると、フランスの優れた影響を感じて、日本も学ぶ必要があると思ったものも多かった。
  しかしポルポトによりインテリや指導者が抹殺されたために、完全な断絶が発生していて、いかにもアジア的な状況に戻ってしまっているのは残念なことである。
 5、 言葉
  観光地のアンコールワットのホテルでは、英語も通じるといわれていたが、仏語がすべてであった。
 今は、プノンペンの中心地ですら仏語はもとより、英語も通用しない。
 多くの学者が殺され、外国辞書の編集、各種文献や図書の翻訳も不可能であろう。
 折角、仏語が普及していたのに1500万人の人々しか話さないカンボジア語の社会としてしまい、世界に通じる窓口を民族主義のために、狭くしたのは残念なことである。
  6、国内諸事情
  (1)当時の保養、観光地は、2001年には侘しくさびれて、昔の面影は全くなかった。
  (2)国道4号線周辺の密林をポルポトが完全に伐採し、材木としてタイ国に売却してしまった。
 2001年には広々と見渡せる荒野がどこまでも広がっていた。
  7、気象
  昔は乾期と雨期が明確に区分出来た。
 5月から10月が雨期、11月から4月が乾期であった。
 乾期は結婚式のシーズンであった。アンコールワットの観光も12月が最適の季節と言われていた。
 2月から4月の乾燥し暑い時期、当時はエアコンを購入する資金が無く、うっとうしい生活を送った。
  8、飲料
  フランスの旧植民地だけあって、各種の飲み物が経験できた。
 ヘネシー・コニャックのソーダ割であった。
 フランス人はカンボジアではヘネシーを、ベトナムではマルテルをそれぞれ仕分けしていた。
 ビールには大瓶の青島ビールとベトナム系の小瓶の33(トラント・トロア)があった。
 最近はインフレ的表示の一ケタ多い333になってしまった。
  9、ポルポトの一見不可解な行動
  これを理解するには昔のカンボジアの社会構造を十分に知る必要がある。
 (1)フランスがインドシナ三国を支配していた時は、仏人を表面に出さず、カンボジアの政府役人と警察官には、すべてベトナム人を充て間接支配をしていた。
 (2)独立後のプノンペンでのカンボジア人は、ベトナム人に代わっての政府の役人と警察官、それに前述のシンクロの運転手が大部分であった。
 (3)プノンペン市内の商業は完全に中国人が支配していた。
 (4)プノンペン市内の機械に関する職業はベトナム人が独占していた。また漁業はベトナム人が行っていた。
 (5)旧仏領インドシナ3国の間ではベトナム、カンボジア、さらにラオスの順で民族の優劣が明確で誰でもがそれを認めていた。
 等など要するに、プノンペンはカンボジアの首都であったにも関わらず、其処の主役は外国系の人たちであった。
  そこで素朴な愛国者は、カンボジア人の首都にするには、まずプノンペンの主役の中国人とベトナム人を首都外に追放し、適切な処理の方法が無いので全てを殺戮し、同時に主役と密接な関係を持ち、甘い汁を吸ってきたカンボジア人高級官僚やインテリも同列に扱う必要があると考えたのでしょう。
 あらたにカンボジア人を住まわせて、カンボジア人が支配する首都にしたかったのでしょう。
 しかし厳しい拷問をしながら、多数の人々を殺戮したことについては(何故に、何を)自白させようしたかは推定できない。
 親しく共に暮らしたベトナム人や中国人が、このように殺害されたことを想像すると、心が痛む思いで一杯です。
 二、 激動下のカンボジア
 1、はじめに
 今年の5月2日から14日まで、ラタナキリ州の先住民族にラジオ受信機を配布するためにカンボジアをおとずれた。4年前に比べて大きく変化していて非常に驚いた。
 2、韓国の進出、土地問題、鉄道計画、中国の進出、ベトナムとの関係、メコン川、タイとの関係、言語、先住民族、以上略
 3、電気通信
 この間の固定電話の数は、競争が導入された10以前から、約4万加入に止まり増加していない。
 一方では携帯電話は首都では一〇社、そのうち地方までサービスを拡大している会社が少なくとも二社あり、人口約1600万の国で500万に達している。
 大きな問題は電話会社間の相互接続が良好でないために、多くのユーザが各社の複数の携帯電話を持っていることである。
 携帯電話の対人口普及率の数値は割り引いて考える必要がある。
 光ケーブルについては逐次敷設されている模様である。
 話題が終わって懇談に入り多くの会員から質疑応答と意見交換が活発になされ、熱心な議論が行はれました。
 例会は和気藹藹の雰囲気の中で経過し、盛会裡に終了しました。                      

(岩淵 忠 記)

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第85回 「下町っ子の昭和」 高橋澄夫: 22年 3月

2011年06月12日 | 例会報告
 第85回例会は去る3月26日(金)、銀座ラフィナートで開催、出席者は11名でした。
 今回は高橋澄夫会員による「下町っ子の昭和」という話題でお話を伺いました。
 高橋さんは第4回と第73回の例会で「剣玉」「わたしの外遊名場面」と題するお話をなさいました。
 恒例により植木会長の懇篤な挨拶に始まり、続いて福富禮治郎会員による乾杯の後、本題に入りました。

席上配布された自伝著書「下町っ子の昭和」、レジメ「下町っ子の昭和について」、「懐かしの歌謡曲」、「小学国語の一部」、「月光の曲」、「写真」(遊ぶ子、寺尾姉妹、望卿、貧乏長屋)、現物資料「メンコ、ベーゴマ、けん玉」に基ついて進行しました。
一、自伝的エッセイ「下町っ子の昭和」の出版まで
1、自分史への動機
昭和は64年で終わり平成元年となった。
 この年64歳の私は第2の人生であった会社役員を退いた。
 これを機に、日記や資料の整理をしているうちに、これらの記録を子らに残したくなった。
 初めは多くの資料がある立石電機(現オムロン)勤務の15年間を主体に、前職26年間の電電公社(現NTT)を含めたものと考えていたが、書き進めるうちに、今日の私を形成した東京下町での幼少期と青年期に至る時期も重要と思われてきた。
 腕白とか悪ガキなどと世間は言うが、当の本人達にそんな意識は微塵も無くひたすら遊ぶ。
 学校では良き先生、家に帰れば親兄弟、友達、親戚、近隣の人々との濃密な人間関係の中で成長していく昭和初期の男の子の自分を認識したことによる。
 本書が私の全昭和時代を語ることとなったいきさつである。
 本席では東京下町での幼少期から青年期に至る時代を主題に進行する。
 2、出版への過程
 子供らに読ませたい気持から、単なるパソコンへのメモに留まらず、ハードコピーにすることにした。
 その間、北九州市の自分史懸賞に応募したが落選、その反省を兼ね、新聞広告(席上回覧、知人の掲載あり)の新風舎、文芸社に相談した。
 一方、宮川岸雄さん、田場實さん、田口正人(当時取材に来た情報産業新聞社員)の各氏から刺激やアドバイスを受け、自費出版することを決意、ネットで出版社を選択、著作権や人権等への配意をしつつ、昭和が終わって20年後に出版にこぎつけた次第である。
二、本書の内容(一冊は同友会談話室に保管)
 「芝で生まれて神田で育つ」江戸っ子とはやや異なる東京下町南千住で生まれ育った戦中派の昭和64年間の記録である。
1、生い立ちから小学校の頃
 昭和の初期、米国発の大不況の影響を受け、失業者が街に溢れ、極めて暗い世相の中を生きた子供の実り豊かな暮らし
(1) 下町の環境・・・長屋、人情、家業手伝い
 私は牛乳屋の長男として大正14年出生した。
 父方の祖父は幕末、山岡鉄舟に師事し、明治4年生地静岡から上京、明治政府の新政策にのっとり、酪農経営を始め明治6年、乳牛を横浜から購入し、南千住の元小塚原刑場の隣接地に牧場を開設して牛乳搾業を営んだ。

 その後伊藤左千夫の「水害雑録」に書かれた明治43年の隅田川の氾濫による大洪水のため廃業し、三輪橋付近に移転し、牛乳屋を開業した。
 この大洪水が荒川放水路開削の端緒となった。
 昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ
 意味もわからぬまま耳に入ったこの 昭和初期の東京行進曲を口ずさむ時、私の脳裏に最も古い我が家が鮮明に浮かんでくる。
 ミルクホールを仕切る若い母、きれいな二人のおねえちゃん、手回し蓄音器から流れる流行歌の数々といった華やいだ映像である。(当時の流行歌を別紙一)
 私の幼児期はそんな家の中と裏腹に、貧しい下町の子らに囲まれて育った。
 戦争が厳しくなる前の下町は貧しいながら平穏で人情豊かであった。
 南千住は下谷、浅草に接し、我が家は其処で父が牛乳販売業の他、テーブルと椅子をそろえ、レコードから流れる歌を聴きながら、牛乳を飲むミルクホールを創めた。
 この店の状況は長くは続かなかった。
 そして私は近所の子と同じ環境の下で成長していった。
 私は小学4年から買ってもらった自転車で、毎朝登校前に牛乳配達をさせられた。当時(昭和10年頃)場末と言っていたこの辺の下町では牛乳を一般的に飲む程豊かではなく、俗に百間長屋とかハーモニカ長屋と言われている棟割り長屋へ主に5勺(90CC)の小瓶を配達した。
 ここでは住人が助け合って生活していた。
(2)子供の遊び  メンコ、ベーゴマ、けん玉、創造的遊び
   夢中に遊ぶ結果として手先の器用さ、集中力、創造力、協調性が養われた。
 昭和7年近くの小学校に入学した。

 当時の女子の遊びは、おはじき、お手玉、折り紙、縄跳び、男子はメンコ、ベーゴマ、けん玉、チャンバラ、凧揚げ、竹馬などが主であった。
 メンコの勝負は知恵と駆け引きの競争だった。
 メンコに画かれた役者や力士の名を自然に覚えた。
 ベーゴマは数人のコマと戦う。
 勝つためには紐と形状の工夫が必要で、種々の工作をこらした。
 勝負には弊害も伴うので、遊びの中心がけん玉に移っていった。
 種々の技は配達手伝いで年長の従兄に教わり、以後練習に励み上達していった。
 けん玉の世界では多くの技が創造され、それらを競うようになっていた。
 けん玉遊びが校庭や町内で流行し、私は練習の甲斐があって、校内町内の誰にも負けず天下を取り続けた。
 小学校卒業のころ、三輪で見た映画
「望郷」のシーン、ジャンギャバン演じるペペルモコの用心棒「振り剣」のけん玉やる光景が印象的でいまだに記憶に残っている。
 数十年後私も設立に加わった日本けん玉協会から五段の免状を貰い、私の技は日米のテレビ、新聞に紹介されている。(3) 恩師や大人達の教え
 東大出の教師からの授業――国語、読書、俳句、父や使用人からーー珠算、江戸しぐさ、つけ足し言葉、小学3年の時、東京美術学校出の女教師に絵の特別レッスンを受け、絵画の趣味は現在まで続いている。
 小学4,5、6年の担任は異色のH先生で東京帝国大学文学部史学科出身であった。
(因みに当時は青山、豊島師範学校出身の訓導が主流であった)
 普通の授業時間に内外の名著を読んで解説された。
 先生宅を訪問し蔵書を読み漁ったこともあった。
 国語読本に、ピアノを弾く盲目の少女の処に立ち寄ったベートーベンが「今、月の光がさしている美しい夜だ」と言って月光の曲を弾いた話があったが、その国語の時間に、先生は蓄音器とレコードを持ってきて、月光の曲をクラス一同に聴かせてくれた。
 国語教科書のないようと、6年時の「国旗」を別紙2に示す。
 また先生は俳句を教えて、名句や生徒の句をプリントして配った。
 私の俳句の趣味は今も続いている。
 人それぞれの長所を受け入れること、価値観の多様性を私たちに教えてくれた。
父の勧めで4年の冬から珠算塾へ通い始めた。

 珠算で父を手伝い益々上達し、5年生になって珠算競技大会で準優勝の銀メダルなどを獲得した。
 父から学んだ、人とすれ違う時、お得意さんなら立ち止り待ってお辞儀をする、他人でも互いに肩を引く「肩引き」、雨の時は傘をすぼめ斜めにする「傘傾げ」、といった「江戸しぐさ」はいつの間にか身に着くようになった。

  使用人たちからは種々教えられた。
「そうか(草加)越谷千住の先」、「驚き桃の木山椒の木」、「その手は桑名の焼蛤」、「栗(九里)より旨い十三里」、(焼芋)、「うま(馬)かった牛負けた」といった駄洒落や、映画「男はつらいよ」の渥美清がよく使った「付け足し言葉」の「たい(田)へしたもんだよイナゴのしょんべん」、「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」、結構毛だらけ猫灰だらけ」なども覚えた。
別紙1
 懐かしの歌謡曲集より----戦前よく歌われた想い出の歌(歌詞省略、数字は昭和の年)
波浮の港(昭和2年)・出船(昭和3年)・君恋し(昭和3年)・東京行進曲(昭和4年)・銀座の柳(昭和6年)・ 酒は涙かため息か(昭和6年)・影を慕いて(昭和7年)・涙の渡り鳥(昭和7年)・並木の雨(昭和9年)・国境の町(昭和9年)・赤城の子守唄(昭和9年)・むらさき小唄(昭和10年)・明治一代女(昭和10年)・男の純情(昭和11年)・人生の並木道(昭和12年)・裏町人生(昭和12年)・青い背広で(昭和12年)・妻恋道中(昭和12年)・すみだ川(昭和12年)・別れのブルース(昭和12年)・十三夜(昭和13年)・旅の夜風(昭和13年)・雨のブルース(昭和13年)・上海ブルース(昭和13年)・人生劇場(昭和13年)・(昭和13年頃から軍歌――麦と兵隊・暁に祈る・月月火水木金金・若鷲の歌・同期の桜・轟沈・海ゆかば)名月赤城山(昭和14年)・誰か故郷を想わざる(昭和15年)・ 湖畔の宿(昭和15年)・蘇州夜曲(昭和15年)・きらめく星座(昭和15年)・湯島の白梅(昭和17年)

別紙2
 国語教科書(下の写真は昭和初期の教科書復刻版)

1、 大正7年――昭和7年
(1) ハナハトマメマス ミノカサカラカサ
(2) 白うさぎ 
(3) 冬の旅
(4) 一太郎やい 塙保己一
(5) 国旗(次に掲載)
(6) 月光の曲
2、 昭和8年――昭和15年
(1) サイタサイタサクラガサイタ コイコイシロコイ(初めて文に)
(2) 弟橘姫笛の名人、錦の御旗
3、 国旗(巻12・6年生後半)   日本の国旗

  雪白の地に紅の日の丸をえがける我が国の国旗は、最もよく我が国号にかなひ、皇威の発揚、国運の隆昌さながら旭日昇天の勢あるを思はしむ。
 更に思えば、白地は我が国民の純正潔白なる性質を示し、日の丸は熱烈燃ゆるが如き愛国の至誠を表すものといふべきか。
 1イギリスの国旗

 2アメリカ合衆国の国旗

 3フランスの国旗

 4ドイツの国旗

 5中華民国の国旗

 6イタリアの国旗

  (以上説明略)

 かくの如く各国の国旗は、或は其の建国の歴史を暗示し、或はその国民の理想・信仰を表すものなれば、国民の之に対する尊敬は、即ち其の国家に対する忠愛の情の発露なり。故に我等は、自国の国旗を尊重すると同時に、諸外国の国旗に対しても、常に敬意を表せざるべからず。
(高橋会員註)
国旗に敬意を持つべきことを、じつに素直に、しかも諸外国にも言及して公平に説いている。
 文章も緊密である。
戦前の国定教科書を見直させるだけのものがあるのではないか。
2、戦中戦後の学徒――戦争を知る最後の世代として伝えたい。
(1) 非常時の教育と勤労奉仕
 軍事教育、旧制高校の教養、工場への短期勤務から、海軍工廠への長期動員
(2) 空襲

昭和20年3月10日の下町大空襲
焦土と化した東京の下町
(写真はウィキペディアの東京大空襲)


(3) 終戦
 飢えとの戦い・・・・闇屋、塾、家業再開等の中での勉学、思想変化への戸惑い。
3、社会人Ⅰ 電話復興からIT社会の実現へ
本田中継所、調査課、東京市外局、警察通信建設、横浜都市管理部、訓練課、クエイト、中央学園、日本情報処理開発センタ、データ本部普及開発部長。
4、社会人Ⅱ 通信技術強化のために
  オムロンシステム(株)、立石電機(株)(現オムロン)――データ端末、カード電話、デジタルPBX,立石通信研究所
三、本書に関連して
 1、詳細記述を避けた体験から・・・・正力マイクロと通信開放
 立石電機における外様・アウトサイダーでの葛藤
 データ通信回線開放に関連して、昭和27年当時の正力マイクロ構想を回想し、時代の変遷を感じた。
 正力松太郎氏は通信事業を国の独占でなく民間にも、という論で日本テレビ放送網(株)を設立、全国にマイクロ無線回線網を張り巡らせて、テレビ中継をするだけでなく、市外電話通信を行うという構想を打ち出したのである。

 この構想には反共産主義戦略に役立てようとした、米国のCIA(情報機関)の支援があった、と有馬哲夫氏が(日本テレビとCIA)で述べている。
田場實さんの著書「緒方研二さんの電電公社に対する思い」(同友会談話室に所蔵)にある緒方さんの父君緒方竹虎副総理にお願いして吉田茂内閣の力で正力構想を下すことが出来たのだと思う。

 「下町っ子の昭和」では単に日本の中枢神経ともいうべき通信事業を、民間に任せるべきではないという当時の世論が電電公社に味方したと書いてあるのみである。
 「下町っ子の昭和」を読んで未知の二人の方から連絡をいただいた。
 一つは南千住町内ミニコミ紙に掲載され、もう一つは情報産業史への参考にとの大学準教授からであった。
 話題が終わって懇談に入り、多くの会員から質疑応答と昔懐かしい想い出話や意見交換が活発に行はれました。
 例会は和気藹藹の雰囲気の中で経過し、盛会裡に終了しました。     
                    

(岩淵 忠 記)

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第84回 「宇宙あれこれ」 堀内昭八: 21年12月

2011年06月12日 | 例会報告
 日比谷笑談会 第84回例会は去る11月4日(金)、銀座ラフィナートで開催、出席者は11名でした。
 今回は堀内昭八会員に「宇宙あれこれ」という話題でお願いしました。
 堀内さんは宇宙への造詣が深く、興味あるお話を楽しく伺いました。
 開会に先立ち、10月31日に逝去された緒方研二会員に黙祷をささげました。
 長い間ご指導ご支援誠に有難うございました。
恒例により植木会長の懇篤な挨拶があり、続いて前島七郎会員による乾杯の後、本題に入りました。
 話題は席上配布された資料「宇宙あれこれ」、「太陽系天体の構成要素」と供覧資料「太陽系太地図」に基づいて進行しました。
 1、世界天文年(2009年)
I ガリレオの宇宙観測から400年
○ 三大発見は太陽の黒点、金星の満ち欠け、木星の4大衛星である
2 人類初の月面着陸から40年
○ アポロ11号が昭和44年初の有人月着陸
3 世界天文年にあたり日本委員会の取組み
○みんなで星を見ようキャンペーン(100万人から1000万人へ)
ニ、宇宙創成
1 信号は告げる。(宇宙はビッグバンで始まった。)
 昭和40年5月21日ニューヨークタイムズー面トップ記事・米ベル研の若き学究ペンジャスとウィルソンがビッグバンのこだまCMB放射を雑音として検出に成功したと報道した。(ビッグバン説95%確定)
○ 平成4年4月米物理学会でスムートが、宇宙初期のCMB放射の10万分の1の波長を検出に成功した旨発表。
はじめてビ。グバン説の確定となる。対立していた定常宇宙モデル説は殆ど信憑性が無いとされた。
2 宇宙創成要約
○ 最初全ての物質エネルギーは一点に集中していた。
 突如壮大なビッグバンにより空間、時間が爆発した。
 (その時、空間、時間は作られた)
○ 直後超高温だった宇宙は膨張(インフレーション)して劇的に冷えた。
○ 最初の数分間で陽子は他の粒子と反応水素、ヘリウムを生成した。
○ 30万年経過後、温度が十分に下がり原子が形成された。
 この時以降、光はまっすぐに突き進めるよ うになった。
(宇宙の晴れ上がり)こうして生じた自由の光が、CMB宇宙マイクロ波背景放射、先によるビッグバンのこだまである。
○ 10億歳頃には最初の星、銀河が形成された。
 生命が現れたのは数十億年前、人間が現れてからは10年しか経っていない。
3 宇宙年齢
○ 百三十億歳、宇宙の膨張を遡ることにより宇宙年齢を知る。ハップル時間という。
○ 現在は137億プラスマイナス2億歳が支持されている。
4 インフレーション理論
○ 宇宙誕生初期の途方もない膨張のことをインフレーションという。
宇宙は10のマイナス37乗秒毎に大きさが倍になり、倍倍ゲーームは100回読いた。
○ その凄さは例えばビリヤードの球が27回続けて倍々になると、その大きさはなんと地球の大きさになる。
○ その後、宇宙の膨張はゆったりしたものに切りかわった。
三、広大な宇宙
I 宇宙の銀河 1兆個
○身近な我々の天の川銀河は、2000億個程の恒星を含む渦巻銀河で、太陽クラスの星が少なくとも一千億個以上集まっている。
 直径10万光年、厚み1万光年(1光年は9兆4600KM) ○広さ 137億光年・・・宇宙が生まれて現在まで光が旅することができる距離。
 465億光年・・・宇宙膨張モデルを採用すると、現在遠ざかっている距離。
 凡そ3、4の膨張である。2 宇宙の典型的な存在は?
○ 銀河や星は宇宙では非常に稀な愛すべき存在だ。
○ 果てしなく広がる冷たい真空の中の夜の闇に沈む星間空間である。
○ 密度は空間ばかりで地球1000個分の体積で僅かIグラムである。
3 宇宙の構成
 A 水素、ヘリウム、炭素、K、Feなどの元素、星、銀河などが4%
 B ダークマター(光らないので観測できない)22% C ダークェネルギー(宇宙が膨張しても薄まらないようなエネルギー)73%四、太陽系
1 成り立ち
○ 太陽などの恒星は水素を主な材料とする物質が重力で集まった天体で、その内部で水素がヘリウムに変換される核融合反応がおき、これに伴ってエネルギーが生じ自ら輝く。
○ 太陽は星間ガスが自分の重力で縮んで出来たもの。
2 構成
○ 太陽を中心に8つの惑星、準惑星、衛星、彗星、小惑星、外縁天体、空間塵、プラズマなどで構成されている。
○ 太陽 太陽系の全ての天体の運動、温度を支配、プラズマの発生源である。
 中心部の核融合反応の結果、その温度は1500万度C、半径69万6000KMの太陽、200万年かけて表面に達する頃は、冷えに冷えて6000度Cである。
○ 惑星 地球型惑星4個(水金地火)と木星型惑星4個(木土天海)
○ 衛星 地球には月だけだが火星には2個、木星には63個、土星には64個、水星と金星は0、さまざまの衛星のうち大は木星の衛星のガュメデイで半径3631M(水星の半径は2440KM)、小は木星に多数、半径1KMのもの20個、500Mが2個、有名なイトカワ(小惑星)は535×294×209M。
 月は地球から38万KM、半径1738KM、内部は冷えている。
 大気は殆どないが対地球比が半径で4分の1と大きいため、その重力(地球の6分の1)と潮汐力で地球に大きな影響を及ぼし続けている。
3 解明への先人の偉大な功績
○ 太陽系で一番身近な地球、月、太陽の状況を見きわめた先人はBC3世紀、今のリビヤに生まれたエラトステネス、当時最も権威のある学術ポスト、アレキサンドリア図書館長で地球の周長を4万KMと測定した。
 月、太陽までの距離とそれぞれの大きさを2300年前に推定したのである。
五、国際宇宙ステーション
1 巨大な宇宙研究所は重力がほとんどなく地上では不可能な実験も可能な貴重な場である。
2 規模、参加国など
○ 大きさサッカー場位(2400坪)重量は420トン、400KM上空にあり、電力110KWである。
 参加国はカナダ、EU各国など15ケ国である。
3 我が国の役割
○ 実験棟「きぼう」で参加、NTV(無人宇宙船)の開発、輸送、研究、通信。
六、宇宙旅行
1 宇宙行きの現状は高いうちあげ費用
2 宇宙旅行企画
O JTBの宇宙旅行価格表では1224万円。 ○ 英国のスペースシップ2では20万ドル200人分完売している。
3 宇宙旅行躍進を妨げるコストの現況
○ スペースシャトル打ち上げ費用がIKGが2500万円である。 ○ シャトル計画当初飛行回数は4機体制で10日に一度としていたが、実績飛行回数は150~200日に一度である。
4 顕在需要の現況
○ 国レベル、ナショナルプロジェクトレベルの需要低迷(予算縮減)
○ 爆発的需要の低さには飛行インターバル長期化の容認が必要。
5 需要動向調査とビジネスチャンス
○ 宇宙旅行希望者の過半数は給料の3ヵ月程度なら・・
○ 宇宙旅行ビジネス成否の鍵としては完全再使用型宇宙船の建造や強くてより軽い材料の開発等
○ 民間資本、民間人の手になる宇宙船の開発として、アンサリーX賞、懸賞全10億円のスペースシップ1の見事な成功がある。
  宇宙旅行ビジネスは10000億円産業に成長。
7、テラフォーミング   惑星地球化計画
1 人類が生き延びるために
○ 1961年カールセーガン博士が金星テラフォーミングをサイエンスに発表した。
2 火星のテラフォーミング・・・・・かって大量の水が存在していた。
3 金星や月のテラフォーミング話題が終わって懇談会に移りました。
 多くの会員から質疑応答が活発に行はれ、熱心な議論を交わしました。
 例会は和気蕩蕩の雰囲気の中で経過し、歳末の一日を楽しく盛会裡に終了しました。
                    

(岩淵 忠 記)

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第83回 「古代の房総 人の動きとモノ・情報の流通」中野雅男:21年9月

2011年06月12日 | 例会報告
 日比谷笑談会 第83回例会は去る9月25日(金)、銀座ラフィナートで開催、出席者は11名でした。
 今回は元東京綾瀬電話局長の中野雅男氏(昭和60 年退職)、に「古代の房総 人の動きとモノ・情報の流通」という話題でお話を伺いました。
 恒例により植木会長の懇篤な挨拶に始まり、続いて鈴木清会員による乾杯の後、本題に入りました。
 席上配布された資料「古代の房総 人の動きとモノ・情報の流通」、「氷河時代の旅」と供覧資料「石材の実物見本」「金鈴塚の輝き (木更津市)」に基づいて進行しました。
 始めに
 何万年も前から人は房総の地に住み続けてきた。
 人の動きやモノと情報の流通を通して房総の古代を探ってみた。
 千葉県に住み考古学に興味をもち、現職のころからそれらを経験しだのが動機である。
1、ナウマン象を狩ったころ
 今から3万年から2万年前、人々はナウマン象などの大型獣を狩って暮らしていた。
 2万年の下総大地は日本列島で最大の狩場であった。
 人々は定住せず、遊動し、この時代の遺跡の多くはキャンプサイトの跡で、狩りなどの道具を加工した工房の跡である。
 房総の地に人々が住み始めたのは日本列島の他の地域に比べると相当遅く、2万年前ころになってからである。
 有名な石器時代の遺跡の野尻潮は5~4万年前で、岩宿は3~2万年前、東京都の鈴木遺跡は3万年前である。
 気候の寒冷化によりナウマン象などが食糧を求めて移動するのに合わせ、人も移動した結果である。
 香取海(手賀沼、印旛沼、霞ケ浦を含む海域)は草原化し、そこへ大型の動物が集まった。
 今から1.8万年前ころは最も寒い時期で海は後退し、東京湾は連絡フエリーが通う浜金谷-久里浜を結ぶ線が水際であった。
 相模野大地、大宮台地、下総台地の間を流れる川は1本になって今は東京湾にあたる場所を目も眩むほど下流に流れていた。
 現在の市川や船橋は下総台地の突端の絶壁上に位置していた。
 東関東と南関東はこの大渓谷により隔絶されていた。
 この時代、生活に必要な道具はすべて石製で、用途に応じて石材が選ばれた。
○石材の種類 狩りの道具は石槍で槍先は鋭利な物が必要で、加工しやすい黒曜石、丸疎(メノウ)、珪質泥岩、珪質頁岩等、石斧には蛇門岩等が使用された。
○石材の入手 石材はもともと在他のものが使用された。
 房総でも安房地域には「嶺岡山地」に石材があり、下総と上総の分水界の周辺に20万年から30万年まえの海底に堆積した「万田野層」の丸礫かあり、一部にはこれらの石材も利用された。
しかし下総地域には全く石材の産地はなく、石材の供給の多くは関東地方北部や磐越地域に頼らざるを得なかった。 ○石材の流通 下野高原由や磐越高地との流通は、利根川と鬼怒川の分水界である「下野-北総回廊」を経て行われた。
 高原山や磐越高地の石材は、採石や運搬を専業とする人々により行われ、ナウマン象の狩入たちは交易によりそれらの石材を入手した。
 今島田遺跡(市川市)から「万田野層」のメノウが出土し、白幡前遺跡(八千代市)、百々目本B遺跡(どどめ、袖ケ浦市)で箱根山の、また「中山神田」遺跡(柏市)で神津島産の黒曜石製の石器が出土していて、海を隔てた島からの流通がみられる。
○石の文化 旧石器時代、日本列島には比較的に均質な「石の文化」が敷衍していた。
 これを表すのが「局部磨製石斧」である。
 この石斧は日本列島の各地で出土するが、日本列島以外での出土はない。
 それに、旧石器時代にあって、縄文時代に一時消え、復活するのは弥生時代になってからである。
 このことは列島各地人の交流と情報ネットワークがあり、人々はモノの交易を通じて情報を得ていたことを示している。
 1~3万年前年前ころから始まる縄文時代には、気候の温暖化により海進に転じ、東西間の交流、交易が進み、石材、石器の流通はさらに拡大する。
 飛ノ台貝塚(船橋市海神)で出土したご二点の黒曜石の産地は神津島系のほか関東地方の全産地を網羅している。
 列島規模でみると、交易の跡は歴然とする。
 南海産のオオツタノハ貝製の装身具の貝輪が船橋市の古作貝塚でも出土している。
 房総各地の貝塚の貝は乾燥加工され、塩乾物が交易品として奥地に運ばれた。
 一般に旧石器時代の人々に対する偏見がある。
 下野高原山で「旧石器時代に原石加工」、黒曜石の加工をした遺跡が発見される等、その知恵は、ホモサピェンスとして我々現代人とどこも変わらない。
 ただ知識の蓄積が少ないだけである。
 陸で大型獣を追い、海で船を乗り回す、分業し交易する、知識の多寡とは関係ない。
 地図を持たずに遠方の高山に登る。
 海図、気象図なしに海原で丸木舟を操る。
 このような知識は現代人には及ぶべくもない。
二、ヒミコのころ
 倭国ができる前、耶馬台国のヒミコが死んだとされる西暦260年頃、既に印旛沼の南岸で鉄の精錬が行われていた。
 沖塚遺跡(八千代市勝田台)である。
 10数年前鉄道工事に先立ち発掘調査が行はれ、鍛冶工房の跡が見つかった。
 この遺跡は砂鉄から銅(はがね)をつくる製錬、精錬を行い、さらに鉄製品を生産する鍛錬まで行った遺構である。
千葉県で発行した「千葉県の歴史・資料編」の解説によると、「銅精錬としては現在全国で検出されている資料中、最古のものである。」と述べている。
しかし、常陸の国土風土記によれば、国司が砂鉄で刀を作ったのは慶雲元年(704年)のことである。
 約500年の差異があるので、「倭人と鉄の考古学」(村上恭通著)を調べてみた。
ヒミコのころの製鉄遺構が博多遺跡、奈良県纏向(まきむく)遺跡、神奈川県南千代原遺跡、千葉県の沖塚遺跡の各地で出土しており。日本列島ではこの時代に急速に鉄の精錬が普及したことがわかる。
 西暦280年に成立した(魏志東夷伝)に古代朝鮮の弁韓や辰韓の地で韓人、漬(わい)人、倭人が鉄をとっていると書かれているが、その時期に前後して列島に精鉄が起こっている。
 精鉄の普及の早さは驚異的である。
 この沖塚遺跡での発見は、ヒミコの時代房総の地域で人々がどのように暮らしていたのか、それは日本列島の他の地域と比べてどうなのかを教えてくれる貴重なものである。
 鉄を制することがどのようなことか司馬道太郎氏の著書「砂鉄のみち」に詳しい。
 精錬成立の条件は砂鉄、木炭運搬、労働力、ノウハウ、製品の流通確保である。
 沖塚遺跡の地域はこの条件を満たす土地であった。
古代の房総は木炭を造る樹木が豊富で、太平洋に面した椿海や鹿島灘で容易に採取できた。
 列島西部、北東部から人が来て労働力が豊富で、人材の確保ができ、地勢的にも砂鉄や木炭の運搬、ニーズに応えるのに最適の地であった。
 精錬の技術、ノウハウは朝鮮からどのようなルートで来たのか。
 当時列島では日本海の沿岸を伝う海上交通、交易の道が発運していた。
 ヤマト王権に従う形で現れた前方後円墳に先立って日本海沿いに四隅途津突出型古墳が展開し、会津にまで達していた。
 鉄精練の技術は日本海ルートと「下野-北総回廊」を通って到来したと考える。
 ヒミコ前後、倭人の土地は大乱のさ中で、それを避けての、日本海沿いの交易ルートを重視するからである。
 ヒミコの時代、西国では「倭国の大乱」とか「東征」とかいわれ、古墳から鉄鏃などの出土が多くみられるが、房総の地ではその後の出土は殆どない。
 ヒミコの前後、房総の人々は西国の争乱に巻き込まれることなく、玉を身につけて、豊かな夜明けを迎えつつあった。
3、馬が来たころ
 古代房総で栄えた馬米田の国は木更津市の奥の丘陵上にあった。
 木更津から出るJR久留里線に「馬来田」の駅がある。
 木更津に「金鈴塚」と呼ばれる前方後円墳があり、馬米田の国の貴公子の墓として知られている。
 馬米田はヒミコの時代以降に拓かれた土地である。
ヒミコの時代、日本列島に馬がいなかったことは魏志倭人伝の伝えるところで、馬米田の地名からそれ以降に拓かれたことが分かる。
 金鈴塚が築かれたのは西暦600年だが、馬米田に馬が米だのはそれ以前の450年ころとみられる。
 因みに継体天皇に馬米田皇女(まぐたのひめみこ)がおられる。
 「馬米田」の地名からきているように思われる。
 もう一人の茨田皇女(まんだのひめみこ)の「茨田」の地名は大阪市鶴見区に残っている。
 馬米田皇女の生誕が470年前後であることからの推計である。
 馬は朝鮮半島から人とともに日本海を渡り越の国に入り、信濃川を遡って科野(しなの)国や甲斐の国に定着し、馬牧を展開した。
 そこで飼われた馬が商品として、また人に連れられて馬米田に来たとみている。
その交易者は渡来系といわれる若狭、近江の豪族の息長(おきなが)氏であろう。
 息長氏は継体天皇の有力な支長者で、継体天皇、息長氏、馬米田の豪族は同じ系列で結ばれていた。
 古代馬米田国とその周辺に二人の皇女に由来する馬米田郎女社と阿須波神社、足羽神社等がある。
 金鈴塚に行ったが、副葬品が素晴らしく驚くばかりであった。
高麗剣(こまつるぎ)の黄金談の直剣17振り、黄金装の馬具、王冠などが出土し、木更津市立博物館に展示されている。
 銅わんなども大量に出土し、東国随一のもので、藤の本古墳の出土品に次ぐという。
 これらの出土品は朝鮮からの渡来品で、馬と同じルートで来たと思われる。
 馬米田を開いた豪族の一団が朝鮮から直接ここに持ち込んだか、交易を通じて入手したかである。
 出土した石棺は秩父からの舟運である。
石棺はヤマトでは早くから流通品であった。
4、麻の長者がいたころ
 今から約1000年前の寛仁4年(1020年)、上総の国司の任を終えた菅原道真の4世の菅原孝標の娘が後年、都への帰路下総などで見聞きしたことが「更級日記」に記録されている。
 この記録は平安中期の気象変動(地球温暖化による平安海道)、房総地域の経済事情等を知るうえで極めて貴重である。
 下総の麻の長者「まののてう」が織らせ、漂らさせた麻織物を手掛かりに、平安時代中期における房総の地域事情を探る。
 房総地域は律令時代以前には全域が「総の国」と呼ばれ、「総」は麻のことと理解されている。
 ヒミコ以降の古墳時代に四国の阿波から、忌部氏が移住し、一族が「倭文(しず)」とか「文織」(しどり)」と呼ばれる織物を織ったことがうかがえる。
 古代馬米田の高級な麻織物「望多布(もうだぬの)」を手がけたかもしれない。
 「志津」、「幡」等の地名が多く残っている。
 1300年前の佐倉市臼井に麻布伝説があり、「江原台遺跡」から麻織物について裏付けが得られた。
 大量の皇朝12銭が出土している。
 付近の八千代市「菅田遺跡群」などから大量の紡錘車が出土していることから、織物の専業集団が残したものと考えられる。
 それで「更級日記」の下総で麻布が大量に生産され、「まののてう」、麻の長者がそれに係わっていたことが、十分に解明されたことになる。
 この時期、富豪の輩(ともがら)と呼ばれる富裕層が出てくるが、麻の長者もこの層の人であり、世の中に麻織物に分業システムを持ちこんで成功し「有徳人」として世間の尊敬を受けている。
 麻布とも商布(たに)と呼ばれる布は銭や塩と同様に「現物貨幣」として広く流通していたので、どこへでも売れる商品だった。
 菅田遺跡群では貝殻が大量に出土して、貝は東京湾産で、麻布は貝の来た道を逆に湊へ運ばれたものと考える、船橋へ遺跡が連坦していることから説明がつく。 平安時代の初期、船橋の周辺は平安海道により水位が上昇し、海水が川を遡り内陸の低地に入り込み、幅一キロ、長さ二キロ程度の内海が形成され、「夏海潟」とも呼ばれていた。 船橋市海神に伝説かおり、海神に「天沼千軒」と呼ばれる賑わった場所があったという。
天沼から5.1キロ離れた所に延喜式(927年)に登載されている「意冨比(おおひ)神社」があり、周囲に集落が形成された。
 神官と麻の長者の協力関係が地域の繁栄に寄与したといわれている。
 皇朝12銭(和銅開称、神宮関宝、冨寿神宝など)出土具合をみると、その地域の繁栄状況がわかる。
 これは地域内よりも中央との交易に使用されたといわれている。
 房総地域での出土は、関東地方で多い方だが、銚子から船橋へ東西に延びる「下総横断ベルト地帯」の出土数は抜群である。
終りに
 時間をタテ系に、流通をヨコ系に古代の房総をみてきた。
 この地が日本列島の遅れた域ではなく、豊かな土地であったことが分かった。
 西国のような争乱の跡はみられなかった。
 房総の地の古代の繁栄がその後「固結平氏」を生み、日本列島を巻き込み争乱の世に繋がり、この例会では古き良き時代を語れて幸いであった。
 話題が結わって懇談に入り、多くの会員から質疑応答と意見交換が活発に行はれました。
 例会は和気藹藹の雰囲気の中で経過し、盛会裡に終了しました。                    
(岩淵 忠 記)

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