第86回例会は去る7月7日(水)、銀座ラフィナートで開催、出席者は10名でした。
今回は元海外連絡室次長岩噌弘三氏に「古き良きカンボジア」(昭和45年頃の同地の状況とポルポト大虐殺に対して)という話題でお話を伺いました。
岩噌さんは第82回(平成21年6月24日)「シルクロードとイスラエルの旅」のお話をいただきました。
岩噌さんは長年海外勤務をされ、世界70カ国を周遊されるなど貴重な経験をお持ちで、話題ついて興味あるお話を楽しく伺いました。
恒例により植木会長の懇篤な挨拶があり、続いて福富禮治郎会員の乾杯の後、本題に入りました。
話題は席上配布された資料「古き良きカンボジア」、「激動下のカンボジア」、「BHN会員からのレポート」、「カンボジア全図カラー版」等に基づいて進行しました。
Ⅰ、古き良きカンボジア
1、 はじめに
昭和40年から2年間、現在のJICAの前身であるコロンボ計画の専門家としてカンボジアへ派遣された。
その後、カンボジアの山岳民族のための多様な民族語放送施設提供計画のために、ラオスとベトナムに接するカンボジア東北端のラタナキリ州を2007年に訪れるまで、政府調査団への参加、中部地域電気通信網整備拡充計画の策定など、数回に亘ってこの国で仕事をする機会があった。
比較的最近のことは報道されているが、静かな平和国家であった時代については、知られていないので、情報を提供したい。
また、ポルポトが大虐殺を行った意図については、3年前から国際法廷の準備が進められているが、未だ解明されていない。
しかし当時の社会情勢を知るものについては推定が可能なので、私的な解明を「ある一つの推測」として試みる。
2、 赴任
当時は電電公社に入社して10年目であつた。
カンボジア行きの要請に応じ赴任することになった。
当時の海外赴任の通例はまず本人が現地入りして環境を整え早期に本来の仕事を軌道に乗せ、居住家屋を確保した後で1~2ケ月遅れて、家族が到着するのがルールになっていた。
私の場合、幼児3人を抱えた家内に家財を整理し社宅を明け渡して、当時週に1回のみのエールフランス機で追って来させたが、多大な苦労をかけ、機内食もとれずにやっとプノンペンに到着し、幼い子供連れの海外赴任の在り方を考えさせられた。
3、 日本との関係
当時は組織的に援助を行っていた。医療センタを開設し、医師数名を派遣していた。
また農業センタ、畜産センタを開設し、それぞれ多くのの日本人専門家を派遣していた。
これら3つのセンタを中心に、活発な協力を実施していた。
2001年にJICAの現地事務所長に現在の多様とも思える援助について、方針を尋ねたが総括的な方針は伺えなかった。
当時は外国といえば何事も日本が表に出て目立つ存在であった。
しかし現在では後述するが韓国の進出が目立ち、日本人の活力の無さが心配である。
電気通信分野の組織は、郵便、電信、電話を意味するPTTと呼ばれ、その本部は今のプノンペン中央郵便局と同じ構内に、各種の電話交換機などの多様な通信機器と共に設置されていた。
日本人専門家もここに勤務していた。
国際通信は1組の短波送信機と受信機を使用して、時差に合わせて通信対地を切り替えて提供されていた。
まず10時から1時間は日本向け、次いで香港、パリと切り替えられた。
日本向けは一時間しか割り当てられないので、予め申し込みをして順次接続されたが、時間切れで通話出来ないことも多く、翌日回しとなってしまうこともあった。
しかも短波通信はフェージングの影響で、電波の強度が変わって通信が途切れることもあり、電話交換手は通話をモニターしながら、通話出来なかった時間は、実際の接続時間から差し引いて料金請求していた。
国内通信は当時の日本の町や村への市外通話に広く使用されていた技術である。
腕木に二本の裸銅線を張る方式に依存していた。プノンペンとアンコールワットのあるシムリヤップまでは、東京・名古屋にほぼ相当する320KMあるが、通話の増幅をしない裸銅線のみに依存していても、通話は可能であった。
KDDからは送信と受信の専門家を、NTTからは線路(ケーブルや配線)、搬送(多重通信)及び電話交換の3名を長期専門家として派遣し、さらに日本から、クメール語とフランス語の両方を1台の機械で送信できる「2ケ国語テレプリンタ」を贈与したので、そのための短期専門家を複数回派遣し、電気通信分野はすべて日本の支配下にあった。
在任中PTT内に設備する沖電気製のA形自動交換機の建設工事の技術指導を行った。
しかしポルポト以降はNTTからの一人のみとなり、2007年には通信に関するJICA専門家は途絶えることとなった。
放送については、NHKから専門家が派遣されていた。赴任した年の12月に日本から寄贈したTV放送局の開局式が行はれた。
スタジオやテレビ塔を含む放送機材一式を日本から贈呈したが、仏語のプログラムを提供できず、プログラムは全てフランスから提供されたので、カンボジア国民はTV番組を見てTVシステムはフランスから提供されたと信じていた。
当時現地に赴任して各方面で活躍された日本の民間人の多くがポルポトに殺害され犠牲になられたと聞いている。
私の在任期間は、商社の人々が多く活躍されたが、日本人全体は100人に満たない数であったようである。
日本でNTTや通信機メーカーの人達ばかりと接した私にとっては、交際範囲を広めて視野を広める必要性を学んだ。
多様な人々と接してこそ、人間の幅が広がることを痛感した。
4、現地生活
(1)家族生活
プノンペンの中心街のマンションを住居に選び生活をした。
現地人のメイドを雇うのが一般的で、比較的余裕のある暮らしが出来た。
長男は私立の小学校に通学し、すぐに現地の生活に溶け込んだ。
家族は現地の生活に逐次適応していった。
(2)医療
多くの日本人が利用していた近くのフランス人の診療所に依存した。
着任早々に半生の淡水魚料理を食べ、寄生虫病に悩まされた。
診療所で治療したが特別な処置はして貰えなかった。幸運にもそのうちに病状がなくなった。
(3)市街状況
当時のカンボジアの人口は約700万人と言われ、ポルポトが200万人近くを殺しても、今は1500万人になっている。
農村から溢れた人たちはプノンペンに集まり生活している。
静かな昔が全く想像できないほどに、雑踏と喧騒に満ちている。
昔は自動車が極めて少なく、街路にはシンクロという三輪車が無数に市街を流していた。
通りや多くの公園は住民により清掃され、美しい街は、小パリとも言われていた。
(4)シアヌーク殿下の治世
政治の実権はシアヌーク殿下が完全に掌握されていた。しばしばヘリコプターなどで地方視察に出掛けて、民衆と良好な関係を保つように心がけておられた。
殿下が私たちの働いているPTTの自動電話交換機の部屋へ突然視察に来られたことがあった。
(5)交通事情
日本からのエールフランス機は週一便であった。
鉄道はシアヌークビル港からプノンペンとプノンペンからタイ国との国境であるポンペットの間に存在したが、内戦ですべてが消滅した。
長距離バス網が発達していて、便数も行き先も多かった。
(6)日本の文化政策
日本の伝統文化。工芸品、近代産業、最近交通機関など多方面に亘って日本を紹介する仏語の素晴らしい16ミリフイルムが多数大使館に送られてきていた。
投影機とこれらのフイルムを借用して職場と現地の人々に日本のPRを熱心に行ったこともあった。
(7)アンコール観光
当時は観光客は僅かの外国人のみで、閑散とした雰囲気のことが多く、年間200万人といわれる現在の観光客に比べて今昔の感がある。
(8)フランスの影響
日本からすると、フランスの優れた影響を感じて、日本も学ぶ必要があると思ったものも多かった。
しかしポルポトによりインテリや指導者が抹殺されたために、完全な断絶が発生していて、いかにもアジア的な状況に戻ってしまっているのは残念なことである。
5、 言葉
観光地のアンコールワットのホテルでは、英語も通じるといわれていたが、仏語がすべてであった。
今は、プノンペンの中心地ですら仏語はもとより、英語も通用しない。
多くの学者が殺され、外国辞書の編集、各種文献や図書の翻訳も不可能であろう。
折角、仏語が普及していたのに1500万人の人々しか話さないカンボジア語の社会としてしまい、世界に通じる窓口を民族主義のために、狭くしたのは残念なことである。
6、国内諸事情
(1)当時の保養、観光地は、2001年には侘しくさびれて、昔の面影は全くなかった。
(2)国道4号線周辺の密林をポルポトが完全に伐採し、材木としてタイ国に売却してしまった。
2001年には広々と見渡せる荒野がどこまでも広がっていた。
7、気象
昔は乾期と雨期が明確に区分出来た。
5月から10月が雨期、11月から4月が乾期であった。
乾期は結婚式のシーズンであった。アンコールワットの観光も12月が最適の季節と言われていた。
2月から4月の乾燥し暑い時期、当時はエアコンを購入する資金が無く、うっとうしい生活を送った。
8、飲料
フランスの旧植民地だけあって、各種の飲み物が経験できた。
ヘネシー・コニャックのソーダ割であった。
フランス人はカンボジアではヘネシーを、ベトナムではマルテルをそれぞれ仕分けしていた。
ビールには大瓶の青島ビールとベトナム系の小瓶の33(トラント・トロア)があった。
最近はインフレ的表示の一ケタ多い333になってしまった。
9、ポルポトの一見不可解な行動
これを理解するには昔のカンボジアの社会構造を十分に知る必要がある。
(1)フランスがインドシナ三国を支配していた時は、仏人を表面に出さず、カンボジアの政府役人と警察官には、すべてベトナム人を充て間接支配をしていた。
(2)独立後のプノンペンでのカンボジア人は、ベトナム人に代わっての政府の役人と警察官、それに前述のシンクロの運転手が大部分であった。
(3)プノンペン市内の商業は完全に中国人が支配していた。
(4)プノンペン市内の機械に関する職業はベトナム人が独占していた。また漁業はベトナム人が行っていた。
(5)旧仏領インドシナ3国の間ではベトナム、カンボジア、さらにラオスの順で民族の優劣が明確で誰でもがそれを認めていた。
等など要するに、プノンペンはカンボジアの首都であったにも関わらず、其処の主役は外国系の人たちであった。
そこで素朴な愛国者は、カンボジア人の首都にするには、まずプノンペンの主役の中国人とベトナム人を首都外に追放し、適切な処理の方法が無いので全てを殺戮し、同時に主役と密接な関係を持ち、甘い汁を吸ってきたカンボジア人高級官僚やインテリも同列に扱う必要があると考えたのでしょう。
あらたにカンボジア人を住まわせて、カンボジア人が支配する首都にしたかったのでしょう。
しかし厳しい拷問をしながら、多数の人々を殺戮したことについては(何故に、何を)自白させようしたかは推定できない。
親しく共に暮らしたベトナム人や中国人が、このように殺害されたことを想像すると、心が痛む思いで一杯です。
二、 激動下のカンボジア
1、はじめに
今年の5月2日から14日まで、ラタナキリ州の先住民族にラジオ受信機を配布するためにカンボジアをおとずれた。4年前に比べて大きく変化していて非常に驚いた。
2、韓国の進出、土地問題、鉄道計画、中国の進出、ベトナムとの関係、メコン川、タイとの関係、言語、先住民族、以上略
3、電気通信
この間の固定電話の数は、競争が導入された10以前から、約4万加入に止まり増加していない。
一方では携帯電話は首都では一〇社、そのうち地方までサービスを拡大している会社が少なくとも二社あり、人口約1600万の国で500万に達している。
大きな問題は電話会社間の相互接続が良好でないために、多くのユーザが各社の複数の携帯電話を持っていることである。
携帯電話の対人口普及率の数値は割り引いて考える必要がある。
光ケーブルについては逐次敷設されている模様である。
話題が終わって懇談に入り多くの会員から質疑応答と意見交換が活発になされ、熱心な議論が行はれました。
例会は和気藹藹の雰囲気の中で経過し、盛会裡に終了しました。
(岩淵 忠 記)
今回は元海外連絡室次長岩噌弘三氏に「古き良きカンボジア」(昭和45年頃の同地の状況とポルポト大虐殺に対して)という話題でお話を伺いました。
岩噌さんは第82回(平成21年6月24日)「シルクロードとイスラエルの旅」のお話をいただきました。
岩噌さんは長年海外勤務をされ、世界70カ国を周遊されるなど貴重な経験をお持ちで、話題ついて興味あるお話を楽しく伺いました。
恒例により植木会長の懇篤な挨拶があり、続いて福富禮治郎会員の乾杯の後、本題に入りました。
話題は席上配布された資料「古き良きカンボジア」、「激動下のカンボジア」、「BHN会員からのレポート」、「カンボジア全図カラー版」等に基づいて進行しました。
Ⅰ、古き良きカンボジア
1、 はじめに
昭和40年から2年間、現在のJICAの前身であるコロンボ計画の専門家としてカンボジアへ派遣された。
その後、カンボジアの山岳民族のための多様な民族語放送施設提供計画のために、ラオスとベトナムに接するカンボジア東北端のラタナキリ州を2007年に訪れるまで、政府調査団への参加、中部地域電気通信網整備拡充計画の策定など、数回に亘ってこの国で仕事をする機会があった。
比較的最近のことは報道されているが、静かな平和国家であった時代については、知られていないので、情報を提供したい。
また、ポルポトが大虐殺を行った意図については、3年前から国際法廷の準備が進められているが、未だ解明されていない。
しかし当時の社会情勢を知るものについては推定が可能なので、私的な解明を「ある一つの推測」として試みる。
2、 赴任
当時は電電公社に入社して10年目であつた。
カンボジア行きの要請に応じ赴任することになった。
当時の海外赴任の通例はまず本人が現地入りして環境を整え早期に本来の仕事を軌道に乗せ、居住家屋を確保した後で1~2ケ月遅れて、家族が到着するのがルールになっていた。
私の場合、幼児3人を抱えた家内に家財を整理し社宅を明け渡して、当時週に1回のみのエールフランス機で追って来させたが、多大な苦労をかけ、機内食もとれずにやっとプノンペンに到着し、幼い子供連れの海外赴任の在り方を考えさせられた。
3、 日本との関係
当時は組織的に援助を行っていた。医療センタを開設し、医師数名を派遣していた。
また農業センタ、畜産センタを開設し、それぞれ多くのの日本人専門家を派遣していた。
これら3つのセンタを中心に、活発な協力を実施していた。
2001年にJICAの現地事務所長に現在の多様とも思える援助について、方針を尋ねたが総括的な方針は伺えなかった。
当時は外国といえば何事も日本が表に出て目立つ存在であった。
しかし現在では後述するが韓国の進出が目立ち、日本人の活力の無さが心配である。
電気通信分野の組織は、郵便、電信、電話を意味するPTTと呼ばれ、その本部は今のプノンペン中央郵便局と同じ構内に、各種の電話交換機などの多様な通信機器と共に設置されていた。
日本人専門家もここに勤務していた。
国際通信は1組の短波送信機と受信機を使用して、時差に合わせて通信対地を切り替えて提供されていた。
まず10時から1時間は日本向け、次いで香港、パリと切り替えられた。
日本向けは一時間しか割り当てられないので、予め申し込みをして順次接続されたが、時間切れで通話出来ないことも多く、翌日回しとなってしまうこともあった。
しかも短波通信はフェージングの影響で、電波の強度が変わって通信が途切れることもあり、電話交換手は通話をモニターしながら、通話出来なかった時間は、実際の接続時間から差し引いて料金請求していた。
国内通信は当時の日本の町や村への市外通話に広く使用されていた技術である。
腕木に二本の裸銅線を張る方式に依存していた。プノンペンとアンコールワットのあるシムリヤップまでは、東京・名古屋にほぼ相当する320KMあるが、通話の増幅をしない裸銅線のみに依存していても、通話は可能であった。
KDDからは送信と受信の専門家を、NTTからは線路(ケーブルや配線)、搬送(多重通信)及び電話交換の3名を長期専門家として派遣し、さらに日本から、クメール語とフランス語の両方を1台の機械で送信できる「2ケ国語テレプリンタ」を贈与したので、そのための短期専門家を複数回派遣し、電気通信分野はすべて日本の支配下にあった。
在任中PTT内に設備する沖電気製のA形自動交換機の建設工事の技術指導を行った。
しかしポルポト以降はNTTからの一人のみとなり、2007年には通信に関するJICA専門家は途絶えることとなった。
放送については、NHKから専門家が派遣されていた。赴任した年の12月に日本から寄贈したTV放送局の開局式が行はれた。
スタジオやテレビ塔を含む放送機材一式を日本から贈呈したが、仏語のプログラムを提供できず、プログラムは全てフランスから提供されたので、カンボジア国民はTV番組を見てTVシステムはフランスから提供されたと信じていた。
当時現地に赴任して各方面で活躍された日本の民間人の多くがポルポトに殺害され犠牲になられたと聞いている。
私の在任期間は、商社の人々が多く活躍されたが、日本人全体は100人に満たない数であったようである。
日本でNTTや通信機メーカーの人達ばかりと接した私にとっては、交際範囲を広めて視野を広める必要性を学んだ。
多様な人々と接してこそ、人間の幅が広がることを痛感した。
4、現地生活
(1)家族生活
プノンペンの中心街のマンションを住居に選び生活をした。
現地人のメイドを雇うのが一般的で、比較的余裕のある暮らしが出来た。
長男は私立の小学校に通学し、すぐに現地の生活に溶け込んだ。
家族は現地の生活に逐次適応していった。
(2)医療
多くの日本人が利用していた近くのフランス人の診療所に依存した。
着任早々に半生の淡水魚料理を食べ、寄生虫病に悩まされた。
診療所で治療したが特別な処置はして貰えなかった。幸運にもそのうちに病状がなくなった。
(3)市街状況
当時のカンボジアの人口は約700万人と言われ、ポルポトが200万人近くを殺しても、今は1500万人になっている。
農村から溢れた人たちはプノンペンに集まり生活している。
静かな昔が全く想像できないほどに、雑踏と喧騒に満ちている。
昔は自動車が極めて少なく、街路にはシンクロという三輪車が無数に市街を流していた。
通りや多くの公園は住民により清掃され、美しい街は、小パリとも言われていた。
(4)シアヌーク殿下の治世
政治の実権はシアヌーク殿下が完全に掌握されていた。しばしばヘリコプターなどで地方視察に出掛けて、民衆と良好な関係を保つように心がけておられた。
殿下が私たちの働いているPTTの自動電話交換機の部屋へ突然視察に来られたことがあった。
(5)交通事情
日本からのエールフランス機は週一便であった。
鉄道はシアヌークビル港からプノンペンとプノンペンからタイ国との国境であるポンペットの間に存在したが、内戦ですべてが消滅した。
長距離バス網が発達していて、便数も行き先も多かった。
(6)日本の文化政策
日本の伝統文化。工芸品、近代産業、最近交通機関など多方面に亘って日本を紹介する仏語の素晴らしい16ミリフイルムが多数大使館に送られてきていた。
投影機とこれらのフイルムを借用して職場と現地の人々に日本のPRを熱心に行ったこともあった。
(7)アンコール観光
当時は観光客は僅かの外国人のみで、閑散とした雰囲気のことが多く、年間200万人といわれる現在の観光客に比べて今昔の感がある。
(8)フランスの影響
日本からすると、フランスの優れた影響を感じて、日本も学ぶ必要があると思ったものも多かった。
しかしポルポトによりインテリや指導者が抹殺されたために、完全な断絶が発生していて、いかにもアジア的な状況に戻ってしまっているのは残念なことである。
5、 言葉
観光地のアンコールワットのホテルでは、英語も通じるといわれていたが、仏語がすべてであった。
今は、プノンペンの中心地ですら仏語はもとより、英語も通用しない。
多くの学者が殺され、外国辞書の編集、各種文献や図書の翻訳も不可能であろう。
折角、仏語が普及していたのに1500万人の人々しか話さないカンボジア語の社会としてしまい、世界に通じる窓口を民族主義のために、狭くしたのは残念なことである。
6、国内諸事情
(1)当時の保養、観光地は、2001年には侘しくさびれて、昔の面影は全くなかった。
(2)国道4号線周辺の密林をポルポトが完全に伐採し、材木としてタイ国に売却してしまった。
2001年には広々と見渡せる荒野がどこまでも広がっていた。
7、気象
昔は乾期と雨期が明確に区分出来た。
5月から10月が雨期、11月から4月が乾期であった。
乾期は結婚式のシーズンであった。アンコールワットの観光も12月が最適の季節と言われていた。
2月から4月の乾燥し暑い時期、当時はエアコンを購入する資金が無く、うっとうしい生活を送った。
8、飲料
フランスの旧植民地だけあって、各種の飲み物が経験できた。
ヘネシー・コニャックのソーダ割であった。
フランス人はカンボジアではヘネシーを、ベトナムではマルテルをそれぞれ仕分けしていた。
ビールには大瓶の青島ビールとベトナム系の小瓶の33(トラント・トロア)があった。
最近はインフレ的表示の一ケタ多い333になってしまった。
9、ポルポトの一見不可解な行動
これを理解するには昔のカンボジアの社会構造を十分に知る必要がある。
(1)フランスがインドシナ三国を支配していた時は、仏人を表面に出さず、カンボジアの政府役人と警察官には、すべてベトナム人を充て間接支配をしていた。
(2)独立後のプノンペンでのカンボジア人は、ベトナム人に代わっての政府の役人と警察官、それに前述のシンクロの運転手が大部分であった。
(3)プノンペン市内の商業は完全に中国人が支配していた。
(4)プノンペン市内の機械に関する職業はベトナム人が独占していた。また漁業はベトナム人が行っていた。
(5)旧仏領インドシナ3国の間ではベトナム、カンボジア、さらにラオスの順で民族の優劣が明確で誰でもがそれを認めていた。
等など要するに、プノンペンはカンボジアの首都であったにも関わらず、其処の主役は外国系の人たちであった。
そこで素朴な愛国者は、カンボジア人の首都にするには、まずプノンペンの主役の中国人とベトナム人を首都外に追放し、適切な処理の方法が無いので全てを殺戮し、同時に主役と密接な関係を持ち、甘い汁を吸ってきたカンボジア人高級官僚やインテリも同列に扱う必要があると考えたのでしょう。
あらたにカンボジア人を住まわせて、カンボジア人が支配する首都にしたかったのでしょう。
しかし厳しい拷問をしながら、多数の人々を殺戮したことについては(何故に、何を)自白させようしたかは推定できない。
親しく共に暮らしたベトナム人や中国人が、このように殺害されたことを想像すると、心が痛む思いで一杯です。
二、 激動下のカンボジア
1、はじめに
今年の5月2日から14日まで、ラタナキリ州の先住民族にラジオ受信機を配布するためにカンボジアをおとずれた。4年前に比べて大きく変化していて非常に驚いた。
2、韓国の進出、土地問題、鉄道計画、中国の進出、ベトナムとの関係、メコン川、タイとの関係、言語、先住民族、以上略
3、電気通信
この間の固定電話の数は、競争が導入された10以前から、約4万加入に止まり増加していない。
一方では携帯電話は首都では一〇社、そのうち地方までサービスを拡大している会社が少なくとも二社あり、人口約1600万の国で500万に達している。
大きな問題は電話会社間の相互接続が良好でないために、多くのユーザが各社の複数の携帯電話を持っていることである。
携帯電話の対人口普及率の数値は割り引いて考える必要がある。
光ケーブルについては逐次敷設されている模様である。
話題が終わって懇談に入り多くの会員から質疑応答と意見交換が活発になされ、熱心な議論が行はれました。
例会は和気藹藹の雰囲気の中で経過し、盛会裡に終了しました。
(岩淵 忠 記)