定年後の暮らし春秋 ~ 菜園だより ~

現役時代の週末菜園から、定年後の野菜づくりへ。
自由な生活を謳歌する昭和15年生まれの日々。

冬のたき火

2009-01-31 23:12:28 | Weblog
昨日、雨の降り出す前に、ひさしぶりに畑に行き、ダイコンやカブを穫ってから、たき火をした。
たき火は冬の楽しみである。
最近はその辺で気軽にはたき火もできなくなっているから、思い切り燃え上がらせたたき火は爽快である。
寒さに震えていても、たき火をしているうちに汗が出て来て、厚着の服を次々と脱いで行く。
畑には、一年前に使った竹の支柱や、生け垣を剪定した枝や、落ち葉などがあちこちにあるし、特に竹林を間伐した竹の枝や、竹に幹が竹林の前に転がしてある。
こういうのを冬の間に燃やしておかないと、春になると、どんどん成長してくる。
竹は切り倒したまだ青々としたものでもよく燃える。
枝葉などは、ぼっと一瞬の間に燃えてしまう。
竹は、枝葉はそんなことはないが、幹は竹の真ん中から割っていかないと、大きな音を立てて、爆発する。
どうやら節と節の間に空間があって、その中の空気が、火の熱さで膨張して破裂するらしい。
この破裂するときに、あまり近くにいると、燃えて炭になっているものをはじき飛ばすから気をつけないといけない。
目の中に入ったりすると大変だからである。
毛糸のセーターや化繊のジャンバーなどは、いつのまにか、飛んで来た細かい炭火で穴だらけになっている。
去年の冬は、あたりの生け垣や庭の植栽をばっさりと切ってもらったので、切った枝があちこちにいっぱい積んであったものを1週間ほどかかって燃やしたが、今年は、それがないので、あまり盛大なたき火ではない。

これも私の作品なのだが

2009-01-30 23:42:27 | Weblog
干支は龍なのだが、昭和15年生まれ。
紀元2600年である。
この年にできた唱歌に「紀元二千六百年」というのがあるという。
うろ覚えで、「紀元は2600年・・・」というところを覚えているが、その他の歌詞はまったく覚えていない。
ウキペディアによると、この年1940年にできた歌は、「暁に祈る」、「紀元二千六百年」、「月月火水木金金」、「興亜行進曲」、「国民進軍歌」、「空の勇者」、「誰か故郷を想わざる」、「隣組」、「熱砂の誓い」、「めんこい仔馬」、「燃ゆる大空」などというなんだか戦争翼賛歌ばかりが作られて、みんなが歌っていたらしい。
「隣組」などは、「とんとんトンカラリンと、となりぐみ」などというフレーズをわずかに覚えている。
国や大人たちは戦争ばかりやっていて、それでも物足りないのか、すぐに太平洋戦争も始まった。世界を相手に。
それから2、3年すると食料が不足し、配給制度も始まった。
三河の西尾という町で生まれた災難か、昭和19年には濃尾大地震に襲われ、その1か月後にはご丁寧にも三河大地震にも襲われ、終生消えない地震恐怖症になった。
戦時中とあって、この事実は伏せられ、今のような手厚い支援はまったくなかった。
戦争が終わっても、まだ国民学校だったが、すぐに教科書が墨で塗りつぶされて、小学校という名前に変わった。
がらっと態度の変わった先生たちをみて、人間不信が植え付けられた。
以降、激動の時代を過ごして60年余、こんなブログを書いているのである。


スープ皿も焼き上がった

2009-01-29 22:46:22 | Weblog
干支の牛と同時に作っていたスープ皿も焼き上がった。
粘土を厚さ5ミリほどの板状に切り、それをインスタントラーメンの容器の上に網状の布を置いて、その上から板状の粘土を置く。
容器に粘土をくっ付けるように押さえるのだが、四角い粘土を丸い曲線にすることができないから、4カ所を三角形に切り取ると丸い容器の形ができるが、切った端をそのままにしておいたほうが面白いので、重ねるだけにした。
ラーメンの容器と粘土の間に布を置くのは、粘土が容器にくっ付かないようにするのと、表面に編み目が本焼きの後に、表面に残るのが感じがいいからである。
素焼きの後、影絵を付けた。
この影絵は、雑誌にあったものを利用させてもらった。
デジカメで写真に撮り、多少加工してからプリントし、はさみで切って素焼き後のスープ皿に張り付けてから、霧吹きで釉薬を吹き付けて、貼った影絵を取ると、影絵の形がくっきりと残る。
後は本焼きする。
その焼き上がりが写真である。
皿の写真の左後ろにある小さな手提げ袋は、サライという中高年向けの雑誌の付録に付いていたもので、重宝している。

可児の浅間神社

2009-01-27 23:11:09 | Weblog
可児市の大型住宅団地桜ヶ丘団地の背後に、浅間山がある。
標高370メートルの小山だが、その頂上に浅間神社と言われる小さな社がある。
創建された年月は不詳らしいが、醍醐天皇の延喜5年(905年)に作られた開山神名帳に登録されているというから、相当古いものらしい。
見る方角によっては、きれいな三角形にみえるところからだろうか、美濃富士とも言われているそうである。
昭和34年に名古屋地方を襲った伊勢湾台風で、桧の大木の森の中にあったこの社は桧の大木の倒壊とともに壊れてしまったのをその後、修復されて現在のこじんまりとした拝殿になった。
その拝殿の中に、写真のような光景があった。
狛犬なのだろうが、ちょっと変わった狛犬である。
どうも雰囲気からすると、もともとあるものではなく、だれかが置いたもののような感じである。
しかも、陶器製のようである。
可児市は、西濃に属しているのだが、地図でみると、桜ヶ丘団地は、多治見市との境界線に接していて、多治見市街に近いから
東濃地方といったほうが正確である。
瑞浪や土岐、多治見は陶磁器の産地だが、可児市の一部もその延長で、山の中にはあちこちに窯場があり、古窯の痕跡も多い。

屋台のおでんがなつかしい

2009-01-27 00:06:29 | Weblog
名古屋の千種駅近くに、こじんまりとした料亭で、おでんだけを出すところがある。
八丁味噌のおでんで、予約しないと入れない。
庶民の味のおでんがおでんだけでやっていけるというのは、名古屋ならではである。
居酒屋に欠かせないおでんだが、ほとんど、醤油味で、どろどろした八丁味噌のおでんはあまり多くない。
テレビ小説にもなった岡崎の八丁味噌は、三河地方の朝のみそ汁に欠かせない。
このみそ汁の不思議なところは、冷や飯にぶっかけて食べると絶品なところである。
昔は、今のように炊飯器でいつも暖かい飯があったわけでなく、おひつという木製の容器に焚いたご飯を入れておく。
当然冬になるといくら布団に包んでおいても冷めてくる。
朝炊いたご飯は午後になると冷たくなっている。
この冷たくなったご飯に八丁味噌のみそ汁をかけて、飼い猫や飼い犬の餌にしているのだが、これは餌にするにはもったいないほどおいしい。
飼い猫や飼い犬と同じ食事を嬉々として食べていたものである。
おでんといえば、昭和30年までの栄付近の歩道にならんでいた屋台を思い出す。
一日の労働を終えたサラリーマンたちが屋台ののれんをくぐるときうれしそうな顔が目に浮かぶ。
屋台のおでんや酒はやはり寒い冬が似合う。
足下に寒風が吹いている屋台、テントのシートが伊吹下ろしにぱたぱたと音を立てていても、屋台の中は湯気が満ちているのである。
栄付近の屋台が撤去されてしまっても、金山、神宮前、栄生、大曽根、大須などでしぶとく残っていた。


12人の優しい日本人

2009-01-26 00:41:15 | Weblog
裁判員制度がいよいよこの5月から始まるという。
先日、裁判所の職員の行う説明会にでかけて、広報用のDVDを見ながら詳しく説明を受けた。
今や、政府、法務省、検察庁、最高裁、日弁連などが裁判員制度の広報に必死である。
インターネットでこれらのサイトを見ると、アニメや動画を駆使してできるだけ分かりやすくと普及におおわらわである。
日本の司法制度の中で、刑事裁判が普通の市民が裁判員になって行われるというのは画期的なことである。
法曹三者というごく少数の専門家が裁判を行っていた日本で、市民が裁判に加わるというのだから、専門家たちもうかうかとしてはいられない。
市民の厳しい目が常に注がれる中で裁判という仕事をしなければならないのだから、これは相当のストレスだろうと想像される。
最近はこの裁判員制度を意識した映画が結構できている。
「12人の優しい日本人」、「それでもボクはやっていない」、「半落ち」、「ゆれる」などである。
他にもゲームソフトに「逆転裁判4」などというものもある。
さらに中学校の公民の授業で裁判員制度について単位を設けたり、最近の企業コンプライアンスで従業員教育に裁判員制度の
資料を使った研修なども盛んになりつつあるという。
今後、法律の役割が重くなっていく日本社会で、司法の問題はこれからますます話題になっていくだろうと思う。

会報のプリント

2009-01-24 23:57:53 | Weblog
退職者会の会報のプリントができた。
1年の4回出している退職者会の会報、今回で19号になった。
パソコンで紙面を作って、それを家庭用のプリンターでプリントしてできるという昔なら考えられない便利さである。
かって謄写版印刷というものがあって、ロウ原紙を縦横に細い線が刻まれた鉄製のヤスリの上から鉄筆で刻んで字を書いて、その原紙を小さな印刷器に取り付けて、インクの付いたローラーを動かすと字の形にロウ原紙が刻まれた穴からインクが出て、紙に印刷されるという簡易な印刷器があった。
ガリ版印刷と言っていた。
活版印刷以外には、学校の先生や、さまざまな団体で使う印刷物はこれしか方法がなかった。
手書きのガリ版印刷から、タイプ印刷に変わり、やがてワープロという便利なものが出来て、誰でも簡単に活字で書かれた印刷物ができるようになった。
ワープロの時代もそれほど長くなく、すぐにパソコンの時代になって、ワープロはパソコンにとって変わられた。
パソコン機能はパソコン機能の一部になった。
そのかわりパソコンの印刷機能は、外付けの器械に追いやられた。
それがプリンターである。
プリンター機能の中にパソコン機能が取り入れられた器具もできた。
それがコピー機である。
そして黒一色しかなかったものがカラー印刷も可能になった。
もはや活版印刷と表面上は変わらないものが自分で出来るようになったのである。
その過程で、ガリ版切りの職人やタイピスト、活版印刷の植字工や印刷工などの労働者が消えて行った。
自分で作った会報を見ていると、そんなことが次々と思い出される。

金華山から見る木曽川

2009-01-23 23:05:23 | Weblog
岐阜の金華山の頂上には、岐阜城があるが、ここからの景色はすばらしい。
眼下には長良川の清流が流れ、長良橋の近くには、河原を掘って鵜飼の船溜まりがあり、鵜飼舟がつないであるのがよく見える。
岐阜に市街から突然競り上がるような金華山からは、はっきり見える長良川のほうを見てしまうが、少し目線を左側に転じると、遠くに大きな河川が流れているのが見える。
これが木曽川である。
岐阜の市街は、この木曽川と長良川、そして金華山からは遠過ぎて見えないが、揖斐川も流れている。
この三つの大河が下流の三重県で合流している木曽三川である。
岐阜城から美濃市方面をみると、標高50メートルほどの小山がかすかに見える。
そこに鷺山城という城があった。
岐阜城を息子に譲って隠居した斉藤道三が数年間住んでいたという城である。
道三といえば、今の可児市瀬田にある長山城、明智城と言われているが、ここの城主の娘と結婚してもうけた娘が信長の正室、濃姫だという。
明智城というと、信長を襲った明智光秀と関係がありそうだが、どうもこのあたりは明確でないようである。
恵那市にも明智城があるし、名鉄広見線には、可児市瀬田の長山城の近くに明智駅がある。
いずれにしても、この近辺は、歴史の匂いがふんぷんとする面白い土地である。

缶入りサクマ式ドロップス

2009-01-22 22:37:06 | Weblog
おそらく限定復刻版だと思うが、子供のころ食べた覚えのあるドロップの入った缶である。
映画「火垂るの墓」で、節子が離さなかった缶入りドロップである。
サクマ式ドロップスという名前が変わっているが、何でも明治時代に作られたのだという。
缶入りができたのも大正2年だというから、昭和世代もびっくりである。
インターネットで調べると、このドロップスの愛好会などもあって、大正から昭和時代に子供の世界に広く広がっていた菓子らしく人気がある。
アニメと映画の火垂るの墓に出て来て、泣けるシーンなので見た人で、経験のある人は、この缶を見ただけで、中に入っているドロップを思い出す。
ところで、この缶に入っているドロップの種類がすごい。
パイン、ハッカ、チョコ、イチゴ、グレープ、レモン、青リンゴ、オレンジなどが入っている。
これ以外にも入っているかもしれないが、この中身を詳細に調べた人がいた。
それぞれの種類のドロップの個数は缶によって違っていたそうだが、中身のドロップの個数は、どうやら44個で一定しているという事件結果が出たそうである。
愛好家らしい実験である。
この菓子、夏の暑さでも溶けないというところが人気の秘密で、ゴミだらけのポケットの底に1個見つけたときのうれしさが今でも思い出される。

焼き上がった干支の牛

2009-01-21 22:29:27 | Weblog
去年の暮れに素焼きができていた干支の牛、今年のはじめに黒い色の出る釉薬をかけて本焼きを待っていたのが、焼き上がった。
真っ黒な色を出す釉薬は、3種類あるそうだが、作り方は知らない。
素焼きの段階で、色はどうすると言われて、黒がいいと言ったら、じゃあこの薬を掛けなさいと言われて掛けたら、本焼きが終わると真っ黒な色が出ている。
陶器の薬掛けは、ここのところが難しい。
絵の具のように薬に色が付いていないからである。
絵の具のような色の付いた釉薬もあるらしいが、普通、陶芸教室などでは使われていない。
陶器の表面に絵を描いたりするときには、焼いたときに同じ色が出る薬でないと、描いた絵の色の見当が付かないのである。
もっとも色を発色させるには、薬を塗ればいいという訳ではなく、焼く温度も重要だし、一度で焼き付けられるのではなく、何度も焼いて焼き付ける場合もあるというから、これはもう長い経験が必要なのだろう。


下呂温泉合掌村

2009-01-20 22:49:41 | Weblog
下呂温泉の温泉街の坂道を上がっていくと、かなり広い駐車場があり、その駐車場のさらに上に合掌村がある。
合掌村というだけあって、飛騨の合掌造りの建物が集められている。
建物の内部には、民俗道具が展示してあり、博物館のようでもある。
博物館のようであるというのは、敷地内には飲食店や土産物屋なんどもあるし、奥の方にいくとなにやらあちこちに小さな小屋のような建物が建っていて,中に入ると、世界のカエルが飾ってあったりする不思議な施設である。
その一角に、円空館という建物あり、この建物の内部には、円空仏がたくさん並べられている。
円空仏は各地のいろんな場所に散らばっていて、いったい幾つあるのか見当もつかないほどらしいが、生涯に10万体ぐらいあるというのがほぼ定説になっているという。
写真は、かざられていた稲荷大明神である。
たしかに見ると狐の顔なのである。
しかし、円空仏は笑っている顔が多く、そこが表情の少ない仏像とは違って人々の好まれる理由のような気がするが、この稲荷大明神と題された、木彫りの狐の像は、実に不思議な表情である。


やきもの修行僧

2009-01-20 00:59:42 | Weblog
今日の陶芸教室、着くまでは何も考えずに行ったので、初めは何を作ろうかと考えあぐねていたが、簡単なものにしようと、ぐい吞みをつくることにした。
簡単といっても、まずはおおざっぱにぐい呑みの大きさの粘土の固まりを作り、真ん中を指で押さえて、次第に盃の大きさに広げて行き、あとはそのまま適当な固さに乾燥するまで削るのを待つために、この日はここまでで、発泡スチロールの箱に入れて、次回まで置いておく。
それだけでは、時間が余ったので、くずの粘土を使って、修行僧を作ることにした。
なんとか喜怒哀楽の表情を表そうとしたのだが、なかなか難しい。
顔の部分は,白くして、あとは真っ黒の衣を着ている感じになれば成功である。
前回,本焼きにまわしていた今年の干支の牛とスープ皿が焼き上がっていた。


オオムラサキのマンホール蓋

2009-01-18 23:42:08 | Weblog
須坂市に蝶の民俗館という小さな博物館があるのだが、展示館の入り口に色彩豊かなマンホールの蓋が飾ってある。
写真の楽しいマンホールの蓋は、埼玉県の嵐山町のマンホールである。
国蝶オオムラサキの生息地で、町をあげてオオムラサキの保護をしている町である。
オオムラサキは、オスは輝くような紫色が美しいが、雌は焦げ茶色である。
友人に、あちこちのマンホールの写真を撮って蒐集している人がいる。
マンホールには、いろんなデザインが刻み込まれていて、旅行であちこちの町を歩くとき、めずらしいデザインのマンホールの写真を写して歩くのは、結構おもしろい。
道路上の鉄製の蓋なのだが、いろんな蓋がある。水道の蛇口を塞いでいるだけのものもあるし、防火用水の蓋、下水道の入り口の蓋、配線口の蓋などで、デザインにこっているのは、どうやら下水道の蓋が多いようである。


崖の上のロボット兵

2009-01-17 00:28:11 | Weblog
三鷹市にあるジブリの森美術館の入り口である。
めざとい人ならすぐ気づくが、崖の上にロボット兵が頭を覗かせている。
ジブリ美術館提供の「動物農場」というアニメが、昨年12月に東京と大阪で公開された。
ジョージ・オーウエルの小説「アニマル・ファーム」が原作である。
全体主義を強烈に批判したものだが、作者は、イギリス人で、当時イギリスの植民地だったインドで生まれた。
後にスペインのフランコ独裁政権の対抗した国際義勇軍に参加した経験もある。
アニメ「動物農場」を提供するにあたって、宮崎駿のコメント、「今、豚は太っていない」の全文を見ると、自社制作でないこのアニメを提供したわけが分かる。


牧場

2009-01-15 23:40:40 | Weblog
美濃加茂市の高台に、日本昭和村が出来て大分経つが、昭和が終わって平成になってから、もう20年が経った。
平成生まれが今年、成人式なのである。
平成という年号の紙をかざしているテレビの映像を見たのは、つい最近だと思っていたが、高齢になってくると、月日が経つのが早いと感じるのは、だれも同じらしく、同年齢の人に聞くとだれも平成生まれが成人ということに驚いている。
横道に入ってしまったが、写真は、日本昭和村の奥にある牧場である。
ここまで来る観光客は少なく、あまり知られていないが、いい景色である。
写ってはいないが、近くには厩舎があり、結構広い草地が広がってる。
広い高原を歩いていると、春、一面の菜の花畑もあって、昭和生まれには懐かしい光景である。
ここでは、稲刈りもあり、はざ掛けして乾燥させた稲を脱穀機で脱穀するイベントもあり、見ていると昔を思い出してしまう。
田舎の小学校の校舎や、芝居小屋など昭和の時代の雰囲気を醸し出しているから、昭和生まれの観光客が結構訪れている。
東海地方にはどういうわけか江戸村から明治村、大正村、昭和村となんでもある。
大正時代は短くて、もう平成時代のほうが長くなったから、どこかに平成村ができてもおかしくないが、平成村はいったい何をテーマにするのだろう。