定年後の暮らし春秋 ~ 菜園だより ~

現役時代の週末菜園から、定年後の野菜づくりへ。
自由な生活を謳歌する昭和15年生まれの日々。

信州光前寺のひかり苔

2006-07-31 00:48:49 | Weblog
中央自動車道の駒ヶ根インターを降りると、近くに光前寺という古刹がある。
その参道は、両側が石垣になっていて、石の間にひかり苔があるので有名である。
石垣の上には両側に杉並木があって夕方になると薄暗い。
石積みの石の間をよく見ると奥の方に光を反射して輝く苔が見られる。
最近は少なくなっているので、なかなか探せないが、一カ所だけ小さな看板が苔の存在を教えてくれる。
デジカメのフラッシュで写すと光に反射してよく写る。
この寺には、早太郎伝説もある。
早太郎というのは犬の名前である。
遠州の見附村の見附天神というところで、昔、ヒヒの怪物に人身御供するという習慣があったのを、通りかかったお坊さんがささげられた娘を監視していると、ヒヒの怪物が「早太郎はおるまいな」と言いながら娘をさらっていったので、早速、早太郎という犬を探したところ、ここ信州駒ヶ根光前寺にいた早太郎を見つけて借りだし、見事早太郎は怪物を退治し、行き絶え絶えに光前寺に戻り倒れたという。
この伝説の珍しいところは、ヒヒの怪物を退治した犬の出身地とヒヒの怪物の出現する神社の両方に同じ伝説が残っていることである。
それに、お寺の犬が困っている神社を助けるというのもなにか意味があるようでもある。
静岡県見附村というのは、現在の静岡県磐田市見付というところで、光前寺のある長野県駒ヶ根付近を流れる天竜川の下流にある。

多摩渓谷の吊り橋

2006-07-30 00:00:40 | Weblog
川合玉堂の記念館がある奥多摩御嶽駅付近の渓谷は、霧に覆われていると、玉堂が好んで描いた世界を彷彿とさせる。
去年の秋、東京のウイークリーマンションを1週間借りて、都内の美術館めぐりをしたときに訪れたが、渓谷の急流には、若者たちがカヌーを流していたが、玉堂美術館には、大勢の高齢者の団体がバスツアーでやってきては、さーっと絵を見て早々に切り上げて行った。
美術館を訪れるには、やはりバスツアーではゆっくり鑑賞できない。
奥多摩渓谷の森の中に静かに立っている川合玉堂美術館、一日ゆっくり過ごそうと、この日は一日全部をこの美術館見学に充てた。
新宿から電車で小一時間かかって御嶽駅に着いたが、我々のほかには誰も降りる人がいない。
実に深閑とした渓谷の中の駅である。
30年近く前にも、研修で2年間東京の白山というところに滞在していたとき、この駅から御岳山に登ったことがあった。
よく覚えているのは、昼食にと駅前の弁当屋で寿司弁当を買って、その弁当を食べた直後同行のもう一人とともに猛烈な下痢に襲われて数時間、山の中で回復するまで寝転んでいたことがあったからである。
なんとか回復し、奥多摩ダム湖に降りて来たときはほっとした。
ほかにも印象に残っているのは、登山口を登り始めてまもなく、わさび畑が続いていて、清冽な谷水が木漏れ日に光っていた光景である。
川合玉堂の描いたものに、この奥多摩渓谷を題材としたと思われるものが多くあるが、玉堂は岐阜県で生まれ、岐阜の渓谷を父親に連れられて、歩き回った幼少期があったという。
研究者によると、玉堂の描く日本の自然は、どうやらスケッチではなく、頭の中に創りあげた心象風景だという。
海のない山と渓谷の國岐阜県生まれだと聞くとなんとなくかざってある日本画にも親しみを感じてしまう。


農村景観日本一

2006-07-29 00:25:27 | Weblog
岩村城で有名な岐阜県恵那郡岩村町は、平成元年に農村景観日本一と報道されて、一躍有名になった場所のある町である。
城下町である町並みから、少し外れて車を走らせると、道路脇に、農村景観日本一展望所と書いた看板があるが、小さな看板なのでつい気づかずに通りすぎてしまうほどである。
駐車場も数台しか止められないが、閑散としていて、ほとんど車は止まっていない。
道路から直接狭い急な階段を登っていくと、展望台があり、ここからの眺めが農村景観日本一というわけである。
典型的な日本の農山村風景で、なんだかなつかしい気持ちがする場所である。
大都市郊外の農地は、休耕田があちこちに散在し、草むらになっていたり、トタン屋根の小屋や鉄屋根の倉庫や、空き地などが無秩序にあって、お世辞にも美しい景観とは言えないが、ここはそんな無粋なものはなく、ちゃんと田んぼには緑の絨毯が敷き詰められ、田んぼのあぜ道に道具小屋などもなく、すっきりとして美しい。
田んぼの近くに道具小屋がないということはそれだけ日常的には持ち込んだ農機具を必ず屋敷まで持ち帰らなければいけないという苦労があるのだが、それをちゃんとやっていて始めてこの景観が出来上がっているのである。
ヨーロッパの古い町では、空からみると街全体が赤茶色の屋根で統一されていて、一服の絵のような光景になっているから、そこに観光客が押し寄せるということになっている。
おそらく厳しい規制があって、勝手にばらばらな建物や色を使うのを禁止されているのだろう。
日本でも、世界遺産に指定された岐阜県白川村の合掌造りの集落は、統一された家並みがあって、景観としては実に美しい。
これは、別に後世の観光客を予想していたわけではなく、豪雪地帯の建物としては合理的な建築方法だったと聞いている。
しかし、40年も前に一度、合掌造りの民宿に泊まったことがあるが、当時は隙間だらけの欄間から雪が吹き込んで朝、肩のところに雪が積もっていたという信じてもらえないような経験をしたことがある。
このときは、ここには民宿が数軒あったが、何もないで、メイン通りに一見のパチンコ屋があり、だれもいない立って打つパチンコ台に向かって、雪の中、寂しくパチンコを打っていたのを思いだす。
それが今は、街中は観光客で混雑している。

今年もスイカが豊作

2006-07-27 23:42:25 | Weblog
昨年に続いて、今年もスイカがごろごろ成っている。
野菜づくりの本を見ると、スイカを育てるには、受粉させたり、花が咲いてから何十日ごろが食べごろだとか、難しいことが書いてあるのだが、我が家のスイカは苗を植えてビニールのマルチを敷いたあとは何にもしない。
それでも適当に自分で受粉し、適当な数の実が育っている。
おそらく菜園は、まったく農薬を使わないから、チョウなどの昆虫が多く、自然のままにしておけばちゃんと育つのだろう。
受粉した実が多すぎれば、自然に余分な実は落ちてしまうらしい。
ただし、自然のままにしておくと、成った実が全部大きくなるということはなく、苗が4本で大きいスイカの球は6、7個で、あとは、直径が20センチぐらいの小玉スイカである。
専業農家がつくるスイカは、売れるものをつくらなければいけないから、商品にならない小玉では困るから、全部が同じく大きくなるように手間をかけるのだろう。
素人の野菜づくりでは、売るということはないから、スーパーで買えば1800円ぐらいもする大玉が6個も7個も穫れれば、十分なのである。
それに小玉のスイカでも十分に甘くておいしい。
毎年、多すぎて食べられず、自宅の車庫に置いている冷蔵庫の中で腐らせてしまう。
スイカは切ってみないと食べごろかどうかわからないので、なかなか近所でもらってもらうのがむずかしい。
ちょうど食べごろでないと、住宅団地に住んでいる、もらった人は処分に困ってしまうからである。
畑で鳥に食われてしまったスイカは腐って臭いを発散させても、別に迷惑になることもないからいいが、土の肥えにすることのできない住宅に住んでいると確かに腐ったスイカの処分には手こずるだろう。
だから、野菜を隣近所にもらってもらうには、取り立てで、しかもあまり多すぎないようにといろいろ気を使ってもらってもらっているのである。

生け垣の竹筒から笹の葉が

2006-07-27 00:04:02 | Weblog
タケノコが伸びる勢いの強さは有名だが、笹の強さもそれに劣らず強い。
菜園の休憩小屋の庭にある生け垣は、真竹の竹垣だが、この竹の中を貫通して、笹の葉が顔を出した。
花器に笹の葉をさしたような感じである。
竹垣の使う竹は、乾燥して丈夫になってから使う。
もちろん節はそのまま残してあるから根本から3個ぐらいの節があるのだが、この節をつぎつぎと破って笹が伸びて来たのである。
自然にできた光景だが、なかなか面白いので、このまま残しておこう。
そういえば竹林の前の広場に生えてくるタケノコの先端部分を切り取っておくと、そのまま生き残って先端を切られていても、先端部分から枝が出て、ちょっと変わった竹になる。

セミが啼かない

2006-07-26 00:23:08 | Weblog
去年は大発生といっていいほど沢山のアブラゼミが喧しいほど啼いていたのだが、今年はどういうわけか、セミの初啼きがない。
もう夏休みが始まって五日も経つのに、セミの声がないというのはなんだか異常である。
秋の虫の声と夏のセミの声は、いつも耳についていて普段はあまり気にも留めないが、真夏にセミの声が聞こえないのは、なんとなく別の世界に来たような違和感がある。
きょうあたりからっと晴れて強烈な太陽が照りつければ鳴き出すのではないかと思うが、まだ聞こえて来ない。
何でも、アブラゼミは卵を産みつけられてから1年経ってからふ化して幼虫になってから土に潜り、土の中で脱皮を繰り返してながら7年も暗い土の中で暮らし、やっと土から這い出て広い世界で大声で啼き、卵を産んで、一週間で短い生涯を終えると聞いたことがある。
早朝、木の葉っぱや枝にとまって羽化するのを見ていると、実に不思議な光景が展開される。
チョウでも、トンボでもセミでも同じだが、殻を破って出てくるまでの姿と羽化した後の姿は、変身そのもので、こどもたちが自然の不思議さに驚くのも当然である。
今年は、雨ばかり降って、梅雨明けが遅れているからだろうかと思うが、6月の末にはまるで真夏のような暑さが続いていたから、セミが地上に出て来ない理由は何か別の理由があるのだろうか。
研究者によると、7年前にもセミの発生が少なかったという。


野菜づくりに活躍する草刈り機

2006-07-25 01:23:17 | Weblog
草刈り機のない時代の農家は、いったい雑草との闘いはどうやっていたのだろうと思う。
昔から、広々とした田んぼの光景を見ると、きれいにあぜ道は草が刈られている。
きれいに刈られた田んぼのあぜ道や畑の土手が美しい農村の原風景であるが、そんな絵のような風景が作られるには、次々と生えてくる雑草を刈り取らなければならないのだが、日本の農家に草刈り機という便利な農機具が使われるようになったのは、戦後10年以上経ってからのことである。
それまでは、草は鎌で刈り取られていた。
よく切れる鎌が必需品だったに違いない。
鎌と砥石がいつも一緒にあった。
やってみてわかったが、鎌で草刈りをする苦労は実に大変である。
田んぼの草取りが大変であるのと同様、炎天下での草刈りは、エンジンで高速回転する草刈り機でも、草刈りは重労働である。
現代農業で、草刈り機の重要性は、耕運機に勝るとも劣らない。
むしろ耕運機よりも使用頻度は高い。
素人農業は、耕転機と呼ばれる小型の耕運機とエンジンで廻る草刈り機があって始めて成り立つ。

ウシガエルに睨まれる

2006-07-23 00:31:01 | Weblog
大賀ハスが可児市の薬王寺というところの池にきれいな花を咲かせているというニュースを2週間ほど前に聞いて、是非見てみたいと思ってインターネットで探したが、地図上にはいくら探しても出て来なかった。
しかたなく、見当をつけて現地で探そうと、梅雨の合間の今日の晴れ間に、車ででかけた。
土田にあるという情報と東帷子にあるという情報が頼りである。
まず名鉄の可児川駅に行き、駅員さんに聞いたが、「可児駅の近く」ということしかわからなかった。
「可児駅?」近くは、JRの可児駅と隣接して名鉄の新可児駅があるし、反対方向には名鉄の西可児駅があるから、一瞬迷ったが、「東帷子」という言葉を思いだして、おそらく西可児駅方向だろうと、リトルワールド方面に向かった。
だんだんと山奥に入って行くので、これはどうかなと途中から西可児駅方面に曲がり、西可児駅で駅員さんに聞いたが、わからないから売店で聞いてくれと、隣にあるコンビニを指差した。
そこで店員さんに聞くと、駅前の道を上がっていくとガソリンスタンドがあり、そこを通り過ぎてしばらく行くと坂道があり、そこを登っていくとあると聞いたことがあるという。
ガソリンスタンドを過ぎると確かに坂道があったが、そこを上がっていったら、さきほど西可児駅に行くときに通った道に出てしまった。
とにかく何処にも標識や看板がないのである。
しかたなく諦めて、帰ろうとしたら、左手の丘の斜面に新しいパンとカフェの店があった。
ちょうど昼になっていたので食事をしようと入ったところ、最近新聞に出ていた障害者の施設で障害者が社会生活をする訓練施設だったが、普通のしゃれたカフェなので入りやすい。
そこでもう一度レジの女の人に聞いてみたら、従業員みんなに聞いてくれた。
その結果、すぐ隣の消防署の向こうの坂道を入ったところだということがわかった。
駐車場に車を置かせてもらって、歩いて行くと、さきほど通過したときに旗竿が立っていた山道のところを入っていけばいいということがわかり、よく見るとその入り口の反対側の道路脇に小さな看板があった。
ようやく薬王寺がみつかったわけである。
写真のカエルは、薬王寺の裏側の谷間にある湧き水のきれいな池にいた。
あまり大きいのでびっくりである。
薄暗い鎮守の森の深閑とした古池の岸辺で、私を睨んでいたので余計にぎょっとした。
想像だが、食用として輸入し全国に広がったウシガエルではないかと思う。
多い時は一度に20000個も卵を生むというウシガエル。
池の中には5センチほどのオタマジャクシがうじゃうじゃと泳いでいた。
目的の大賀ハスも、別の浅い池の中で花を咲かせていた。

龍神(枇杷島)

2006-07-22 01:38:07 | Weblog
これはなかなかリアルな龍である。
長野県にある野尻湖の島の神社にあった。
枇杷島(弁天島)という島らしいが、長野県では諏訪湖につぐ大きな湖が黒姫高原にある。
なぜここに大きな湖ができたのか、よくわからないらしいが、いまのところ、黒姫山などの噴火によって渓流がせき止められたことと、隆起によって出来たのではないかと言われているらしい。
野尻湖と言えば、ナウマン象の化石と、作家であり、日本の自然をこよなく愛するニコルが森を育てている「アファンの森」でよく知られているが、実にきれいな湖水をたたえている。
湖岸には40数カ所の岬があって、森からは入れない入り江が数多くある。
ナウマン象は氷河期に日本に棲息していたと言われていて、40万年ぐらい前から2万年前に絶滅した大型の象である。
中国と日本で化石が出土するらしいが、野尻湖は化石の出土が多い場所だと言われている。
友人が黒姫高原でB&B方式の黒姫フォレストというペンションを経営しているので、以前4日ど逗留したときに写した龍神である。

ん!酒で手を清める?

2006-07-21 00:47:53 | Weblog
神社やお寺の入り口に、手水口があり、大抵は水が出てくる蛇口は、龍の口になっている。
なぜ、龍の口から出てくる水で、手が清められるのか分からないが、何か理由があるのだろう。
農民にとって水は命の次に大切だったろうから、農民の龍神信仰から来ているのだろう。
それにしても、写真はどうみても龍の口ではない。
明らかにとっくりから酒を注いでいる姿である。
岐阜県のあるお寺の手水口である。
これを見ると、手水口というのは、必ずしも龍神信仰でなくてもいいらしい。
日本人の結婚式は神式で行われることが多いが、そこでは盃で酒を飲む仕草が行われる。
結婚と酒とがつながるのかわからないが、これもまた何か理由があるのだろう。
巫女が酒をついでまわるのだが、どうみても神様からのお下がりをうやうやしくちょうだいする図である。
列席の親戚縁者、友人知人たちもお下がりをちょうだいしてスズメの涙のような酒を飲む。
年金生活者ともなると、誰も過去に相当なこのような場数を踏んでいるのだが、なぜ杯で暴力団の儀式のように酒を飲むのか解説を聞いたことがない。


カミキリムシ

2006-07-20 00:36:13 | Weblog
写真は、カミキリムシだが、菜園の小屋の前に敷いた板の上を歩いていた。
何でも日本には800種類ものカミキリムシの仲間がいるらしいが、どうやらこれは、ゴマダラカミキリムシという種類らしい。
毎年、カエデの木の根元に数匹、真夏になると現れる。
モクレンや堤防の桜の木にもいることがある。
カミキリムシは、名前がカミキリというぐらいだから、ほんとに紙が切れるのだろうかと、小さい頃紙を挟んでみたら、ほんとに紙を切った。
ヒゲというか触覚というか永い触覚のようなものが生えているので捕まえやすい。
カミキリムシといえば、写真のような特徴のある虫だと思っていたら、800種類もあるというのは驚きだったし、色も形も全然異なるカミキリムシの写真が載っていたのにも驚いた。
しかし、インターネットというのは、ほんとに便利だと改めて思う。
こうして日記を書いていて、カミキリムシという言葉がでてきたときに、検索サイトでカミキリムシと書き入れて検索を押すと無数といっていいほどのホームページが出てきて、カミキリムシに関するいろんなことを教えてくれる。
便利さでいうと辞書や百科事典に数倍勝る。

菜園の休憩小屋

2006-07-19 01:03:20 | Weblog
15年前に、週末菜園を始めたときに、造った休憩小屋である。
まだ現役だったから、休憩小屋というよりも酒場といった利用のされかただった。
北側が土岐川、南側が笹の繁った丘陵、東側は竹林、西側は畑という人里離れた里山地帯といった感じの場所だったし、ほとんど遊び場という利用をしようと、造った小屋に沢山の知人友人が来てくれた。
午前中に来て、午後4時ごろ解散するという長時間の酒盛りの場所として歓迎された。
もっともこれはルールであって、もういらないというほど呑んでも、醒めるまでは帰らないというルールである。
ここに来るには車でしか来れないから、このルールは自覚的に守られた。
野菜づくりは口実で、のんびりとここで過ごすのが目的だった私にとって、この小屋は不可欠の道具だったのである。
知り合いの大工さんが釘を一切使わずに建ててくれた。
休憩小屋に必要なものは、冷蔵庫と携帯用のガスレンジ、アウトドア用の折りたたみ式のイス、テーブル、ピーチパラソルなどである。
緑陰で心地よい風を受けるには、イスやテーブル、パラソルは欠かせない。
最初は小屋の前に酒盛りの開けるベランダもあったが、ペンキ塗らず、白木ままにしておいたために10年で腐って来たから、6年前に、ベランダを取り壊して、土足で入れる土間を増築した。
いまでは、土間のほうで過ごす時間が多い。
土間にも、冷蔵庫とポット、ヒーター、パン焼き機、コーヒー湧かし機などが順次増えて来て、もうあとは布団さえあればここで暮らせるということになった。
一度、ここで泊まってみたいのだが、閑静な場所であるということがわざわいして、ここは夜になると真っ暗になる。
なんとなく危険を感じていまだに泊まったことはない。

収穫真っ盛り

2006-07-18 00:12:15 | Weblog
去年の同じ7月の末の写真だが、今年はまだ梅雨明けはしていないので今年の収穫の写真ではない。
でも、畑に行けば、今はこのような野菜が収穫できる時期である。
真ん中に写っているのは、マクワウリ(真桑瓜)である。
最近は、マクワウリはメロンに取って代わられてしまってスーパーの野菜売り場でも売っていないが、昔はウリと言えばマクワウリだった。
何でもマクワウリとメロンを交配させてつくったのが、今どこでも売っているメロンらしい。
マクワウリはメロンほど柔らかくもなく甘さもないので、今では忘れされてしまうのも仕方がないのだが、しかし、子どもの頃、一面田んぼの中に幅10メートルほどの川が流れていて、その川で水遊びをして帰る途中、堤防の脇の畑に成っているマクワウリを失敬して食べながら歩いたことを思いだす。
皮が結構厚くて、皮を取るのが難しかったが、当時としては甘い果物代わりとして、桑の実と双璧だった。
中身が柔らかくなるまで熟したものは、大変甘い。
メロンでも完熟でないものはそれほど甘くないから、同じである。
トマトも真っ赤に完熟してから食べるのが一番おいしい。
テレビで、トマトの出荷風景を見ていると、まだ青いうちから収穫して出荷しているのが不思議である。
もっともトウモロコシは、収穫時期が非常の難しい。
早すぎると粒が小さいくて甘みもないし、遅すぎると虫が人間よりも先に食べた後なのである。

精霊送り

2006-07-17 00:42:17 | Weblog
毎年7月の15日になると、多治見市内を流れる土岐川の河原で精霊送りという行事がある。
昔から、この地方ではおしょろながし(お精霊流し)という名前で呼ばれていたが、お盆の行事として、1週間仏前に飾った果物や野菜をワラで作った舟の積んで土岐川に流す。
日本全国どこでも同じような行事があるが、この地方ではこうして連綿と続いてきた風習である。
しかし、この風習どこかおかしなところがある。
先祖の魂は山から下りてくると伝えられているのだから、送り火を焚いて魂を元に戻すのは山に返さなければならない。
しかし、どこでも山から降りて来た精霊を川に流すことによって送り返したことになるということが信じられている。
いずれにしてもこのような風習は自然を大切にする日本人の心が形になって残っているのだろうが、実は今から30年ほど前には実際に果物や野菜をワラの舟に乗せて川に流していたが、ある時期に同じ自然保護の観点から流した野菜や果物によって川が汚れるという理由で、この風習は禁止されてしまった。
完全に禁止される前に数年間は、川に流さずに河原で焚き火をして焼いてしまうということになったが、やがてそれも危険だという理由で禁止され、いまでは仏壇で飾られた果物や野菜はほとんど腐敗を始めているので、生ゴミとして焼却されるようになってしまった。
たしかに土岐川は汚れるが、その汚れは精霊流しで流すものだけで汚れているのではない。
プラスチックやビニールなど腐らないものは精霊流しに関係なく人間たちがゴミとして川に捨てている。
精霊流しの際に流すものは、流れて行くあいだに腐って水になって浄化されてしまうか、魚や鳥などの餌や川の堤防に生える草たちの栄養分として吸収されるように、くさらないものは決して流してはいないのである。
なんだか自然を大切にする心まで禁止されてしまったようで、この風習も形式的すぎて寂しくなった。

驟雨直後の排水路

2006-07-16 01:17:51 | Weblog
梅雨の末期には、よく俄雨や雷雨がある。
菜園の休憩小屋の前の排水路、いつもはきれいな水が流れているのだが、梅雨の終わりの時期になって、突然の驟雨があると、急にいままでの穏やかな姿が一変する。
普段は深いところでも十数センチの流れも、60センチから1メートル近くにもなって濁流と化す。
この写真のときも、畑で草取りをしていて、突然降りだした雷雨が10分ほど続いたら、汚れた濁流が勢い良く土岐川へなだれ込んでいった。
このくらいなら、まだ安心だが、豪雨が30分も降り続くと、土手を乗り越えそうになる。
土手を乗り越えると、その先に、野菜畑が広がっているから、一気に濁流が畑に流れ込み、野菜は全滅してしまう。
野菜が必要とする雨水も、雨の量が問題ではなく、一定の量とともに、雨水の降り方が問題である。
濁流にならない適度の雨が野菜にとっては最適なのである。