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芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

競馬エッセイ 雑草たちの挽歌

2016年08月16日 | 競馬エッセイ
                                                               

 むかし競馬に興味を持ち始めた頃、スポーツ紙の競馬欄や予想紙の出馬表に、そして血統欄にサラ系、アア系などの表記があって気になった。アア系とはアングロアラブ系のことである。
 当時、中央競馬にイナリトウザイという小柄な牝馬が、アア限定レースでデビューし、恐ろしく強かった。父はサラブレッドのカリムで、その短距離のスピード馬という血を受け継いでいた。アア限定レースで3戦3勝(レコード勝ち2回)、サラ系のオープンレースに駒を進め、3戦3勝(レコード勝ち1回)、後の桜花賞馬となった良血馬タカエノカオリも破っている。その時点で彼女は「アラブの魔女」と異名をとった。その年、優駿賞最優秀アラブに選ばれた。
 翌年オープンクラスで4戦1勝後、アラブのレースが数多く組まれていた公営競馬の大井競馬場に移籍した。大井ではアラブダービーに優勝し、その後のアラブ王冠賞は彼女との対決を回避する馬でレースが不成立となった。その憂さ晴らしのようにサラ系の重賞・東京盃(1200)に出走し、驚異的なコースレコードを叩き出した。このタイムは当時の東京競馬場・芝1200のレコードタイムより0.3秒も早く、計時係は時計の故障を疑った。ダートで、芝のレコードより速いタイムを出したのである。引退し繁殖入りしたイナリトウザイはキタノトウザイを生み、キタノトウザイは種牡馬となって、四度、アア系のリーディングサイアーに輝いた。

 イナリトウザイよりずっと以前に、「アラブの怪物」と呼ばれたアア系のセイユウという馬がいた。父はサラブレッドのライジングフレーム。とにかく強くアア系の重賞・読売カップでは7馬身差の圧勝。66キロや68キロの斤量も、全く苦にすることもなかったという。もはやアア系では敵はなく、以後サラブレッドを相手に戦い続け、皐月賞馬や後の天皇賞馬も破り重賞も制した。
 彼は天皇賞6着を最後に引退したが、レース後に骨折が判明した。渡辺正人騎手はそれがなければ「勝っていたかもしれない」と言った。生涯49戦26勝(うち対サラブレッド戦は24戦5勝)。種牡馬となってアア系の肌馬を数多く集め、「性雄」と異名をとった。

 今はアラブのレースそのものが消滅したが、サラ系の表記はそのままである。サラ系のレースとはサラブレッド及びサラブレッド系種の馬のレースである。サラブレッド系種とは、血統が不明なためサラブレッドとして認められていないがサラブレッドと思われる馬、あるいはサラブレッド以外の馬とサラブレッドを掛け合わせた馬のことである。
 現在は、8代続けて純血サラブレッドを配合し、加えて国際血統書委員会に「サラブレッドと同等の能力を有する」と認められた馬は、サラブレッドとして登録することが可能となっている。

 血統不明、不肖、混血の、この「サラ系」と蔑視されたような馬たちに、いつしか私は惹かれていた。サラ系のヒカルイマイが、とても届くまいと思われるような最後方から、良血のサラブレッドたちをゴボウ抜きにして、皐月賞とダービーを勝ったせいだろう。ヒカルイマイは雑草、反逆児、風雲児と呼ばれた。
 調べると、サラ系は決して能力が劣っているとも言えないのだが、種牡馬としてはアテ馬扱いで冷遇されるのであった。橋田俊三調教師が書いた小説「走れドトウ」にその悲哀が描かれていた。モデルはヒカルイマイと皐月賞馬のランドプリンスである。
 日本のサラ系は牝馬から始まっている。サラ系とされながら特に優れた牝系に、ミラ系とバウアーストック系がいた。ミラはオーストラリアから輸入されたが、港に着くと血統書がなかった。そのためサラ系とされた。
 バウアーストックはその血統書の中に、血統不明の馬がいたため、サラ系とされた。しかし近年の研究によるとほぼ確実に純血サラブレッドであると判明したという。
 そもそも日本の第一回東京優駿(日本ダービー)を優勝したワカタカはミラ系である。戦時中の優勝馬カイソウは母系にトロッター系種が入っていたため種牡馬になれず、名古屋師団の師団長の乗用馬となり、空襲で行方不明になった。カイソウは実は菊花賞に相当するレースも勝っているのだが、そのレースそのものが不成立となってしまった。

 ヒカルイマイもランドプリンスもミラ系であった。
 バウアーストック系もなかなか華々しい。まず成功のはじめは牝馬バウアーヌソルからであろう。このバウアーヌソルからアシガラヤマ(中山大障害・春)、キタノオー(父トサミドリ)が出た。キタノオーは朝日杯3歳ステークス、菊花賞、天皇賞・春に優勝し、ファン投票第1位に選ばれた有馬記念は2着だった。さらにキタノオーの全妹のキタノヒカリが朝日杯3歳ステークスを優勝。続いて全弟キタノオーザが菊花賞に優勝した。
 母となったキタノヒカリから牝馬のアイテイオー(父ハローウェー)が出てオークスに優勝した。さらにキタノダイオー(父ダイハード)が出た。この馬は函館3歳ステークス、北海道3歳ステークスなどを勝ち、ダービーの一番手と言われながら故障し、二年の長期休養後一度は復活したものの、底を見せずに7戦7勝の無敗で引退。種牡馬としてもサラ系のハンデがありながら、そこそこに評価されていた。
 繁殖にあがったアイテイオーは牝馬のアイテイシロー(父セダン)とアイテイグレース(父ゲイタイム)を出した。アイテイシローは重賞・京都牝馬特別に優勝した。アイテイグレースはヒカリデュール(父デュール)の母となった。

 ヒカリデュールは大井競馬場でデビューしたが、後に船橋に転厩した。古馬の5歳(現馬齢4歳)から愛知に転厩し、中京・名古屋・笠松で走り、着実に力をつけ始めた。6歳の夏になって中央競馬に転厩してきた。中央初戦の朝日チャレンジカップを7番人気ながら快勝。続く天皇賞・秋は5番人気で2着、その年の暮れ有馬記念は3番人気で優勝した。彼はサラ系としては初めて、優駿賞年度代表馬に選出された。
 しかし、翌年の天皇賞・春でレース中に故障を発生し、競争中止となった。競争能力喪失の重症だった。引退して種牡馬になったが「サラ系」のため恵まれず、やがて廃用となり、その後は行方不明となったという。
 ヒカリデュールは流れ者である。その後は流れ流れて、どこかに乗用馬として引き取られ、幸せに天寿を全うしたと思いたい。それにしても、グランプリホースが行方不明になるとは、これが日本の競馬文化のレベルなのだろう。

 1984年のキョウワサンダーによるエリザベス女王杯優勝を最後に、「サラ系」のG1制覇は記録されていない。ちなみにキョウワサンダーはキタノヒカリのひ孫にあたる。
 また2000年1月にマイネルビンテージが京成杯を優勝して以降、サラ系馬の重賞勝ちは記録されていない。サラ系種は消滅寸前なのであろう。

バートランド・ラッセルの言葉

2016年08月15日 | 言葉
                                                               


 人類の前にただ一つ残された可能性は、
             話し合いによる平和か、
                  一切の死による平和かである。

モンペリエの怪

2016年08月14日 | エッセイ
                                                            

 二十代半ばに会社を辞め、放浪の旅に出た。ちょうど八月の半ば過ぎであったように思う。高島埠頭からバイカル号に乗船し、ナホトカに上陸、夜行列車に乗ってハバロスクに着いた。ハバロスクの駅舎の天井は心地よい高さで、広く壮観だった。シベリア鉄道でモスクワに向かった。一週間の列車の旅である。
 その列車には私を含め五人の日本人が乗っていた。私たちはすぐに親しくなり、コンパートメントを行き来した。
 おひとりは中年の紳士で、そのお名前は失念した。この方は見るからに知的で、落ち着きがあり穏やかな方であった。スウェーデンのウプサラ大学の教授で、言語学を教えているという。ウプサラ大学は15世紀に創立された北欧最古の大学で、屈指の名門校である。彼はバイカル湖畔のイルクーツクで降り、一週間ほど投宿後に再び列車に乗るという。別れ際に大学の連絡先のメモをくださり「いつでも訪ねていらっしゃい」と言った。
 A君は高校を卒業して約半年。秋からモンペリエのポール=ヴァレリー大学(モンペリエ第3大学)に入学が決まっているという。モンペリエ大学は13世紀から存在するフランスで三番目に古い大学で、三つに分かれている。卒業生のひとり、作家で詩人のポール=ヴァレリーの名を冠しているモンペリエ第3大学は人文科学系と芸術系があって、A君が文学科なのか社会学科や哲学科なのかは聞き漏らした。留学生用の寮に入るのだという。彼は「現地に着いたら、もう日本人とは付き合いません、日本人と付き合っていたら、フランス語で考えるのが身につきませんから」と言ったことが印象に残った。羞らいがちに語る、おとなしい若者だった。
 B君は長髪とむさ苦しい髭面のヒッピーである。花園大学を中退して旅に出たという。コテコテの大阪弁だった。彼もイルクーツクで下車した。バイカル湖周辺で何日か過ごしてから、再びモスクワを目指し、北欧、東欧から巡りアフリカまで行くという。後に私はイタリアで彼の噂を耳にした。ハシシを吸引し過ぎて心臓発作を起こし、病院に担ぎ込まれた日本人の話である。その男の風体や名前から、間違いなく彼であったろう。「で、無事だったの?」「さあ、そこまでは聞いてません」…私にその話をした青年は「日本の恥ですよ」と吐き捨てるように言った。
 そして自転車で世界一周の旅をするという、高校を出て半年ばかりのC君である。高校時代に、自転車で二度日本一周を達成し、世界一周の準備をしていたという。彼は大学で過ごす四年間の代わりに世界を巡りたいと、ご両親を説得したそうである。ご両親も了承し、その旅費を十数回に分けて送金してくれるという。C君は軽量のサイクリング用自転車を列車の貨物室に預けていた。その分の料金を払っているらしい。彼は一日一回、自転車を見に貨物室に行った。盗難を警戒していたのかも知れない。彼もイルクーツクで降りた。彼の自転車の旅はイルクーツクのバイカル湖から始まるのだ。

 私はA君とモスクワ駅まで一緒だった。彼は別の列車に乗り換え、ポーランドのワルシャワ経由でパリに出て、そこからモンペリエに向かうという。私はモスクワに泊まり、その後レニングラードへ行き、さらにフィンランドのヘルシンキに向かうことにしていた。
 A君は「いつかモンペリエに来られることがあったら、あなただけは寮に訪ねてくださっていいですよ。お泊めします。これが寮の住所と電話番号です」と一枚のメモをくれた。
 シベリア鉄道の降車ホームで「お元気で」「元気でね、体に気をつけて。…機会があったら連絡するね」と握手し、互いに手を振って別れた。私のもとにインツーリストの女性が迎えに来た。

 それからかなりの時が経った。ある朝、私はモンペリエの駅に降り立った。モンペリエに行こうと思って列車に乗ったわけではない。列車がモンペリエに着いたので降りてみたのだ。私の旅は、どこに行こうという目的を持った旅ではない。
 駅舎の並びのカフェでクロワッサンとカフェオレをとった。その後、公衆電話からA君の寮へ電話を入れた。電話に出た方とはなかなか話が通じなかった。A君は留守であった。名前を告げ、電話があったこと、夕方前にまた電話を入れると伝えてくれと告げた。まあ、突然だからこんなものだ。
 モンペリエは地中海に面した町だが、市街地は内陸部に奥まっていて海辺は遠い。ニースやカンヌほどの著名な観光地ではなく、またマルセイユのように大きくもなく喧騒感もない。しかし古風な石造りの建物、彫刻と噴水の泉、路面電車(トラム)が街路を走る、穏やかで静かな町であった。
 道行く人たちにポール=ヴァレリー大学の場所や道などを尋ねたが、パリや他の町では多少は通じた私のフランス語が、なぜかあまり通じなかった。まあ付け焼刃のフランス語だからこんなものだ。
 ぶらぶらと街を歩き回り、公園で休み、時間をつぶした。夕方近くに再び留学生寮に電話を入れた。午前とは違う方が電話に出たが、A君はまだ帰っていなかった。私はまた時間をつぶした。そのうち夕闇が迫ってきた。またA君に電話を入れても迷惑だろう。今夜はどこか安い所を探して投宿しよう。貧乏旅行である。
 しかしなかなか星のない安ホテルは見つからなかった。これまでの旅の経験から、安宿は駅裏に多い。私は一度駅に戻り、駅を背に向かって左に歩き出し、しばらく行って左に折れた。そうして改めて見ると、意外に地味な街である。まっすぐ歩き続けると雑草が簇生し有刺鉄線が張られた場所に突き当たった。有刺鉄線の向こうは鉄道の操車場のようである。左に折れて操車場を右手に見ながら進めば、駅裏あたりに出るだろう。

 ふと、焦げ茶色の石造りの円筒状の建物がある。ドアの上に、見落としそうなオテルと表示された小さな吊り看板が掛けられていた。星はない。
 小さな窓が縦に一列あるだけで、どこか陰鬱な建物である。まるでその円筒部分はバスチーユ監獄に似ていた。
 ドアを開けると中は薄暗く、ずいぶん古びている。小さなカウンターの中に中年男が座っていた。挨拶や「いらっしゃいませ」を言うわけでもなく、私を無言で見つめた。なんと陰気な奴だろう。
 部屋が空いているか、泊まれるかどうかを尋ねると泊まれるという。差し出されたカードに記入していると、宿泊料は前払いで、パスポートを預かると言う。男はカードと金を受け取り、パスポートを背後のキーボックスに置き、私にキーを渡し五階の部屋番号を伝えた。キーボックスを見る限り、宿泊者は私だけのようである。
 部屋は最上階で、五階までの階段はギシギシと軋む木製で狭く、まるで梯子のように急であった。階段を上りきると二メートル幅くらいの木製の廊下に面した部屋があった。廊下もギシギシと軋む。
 ドアを開けるとこれもギーっと軋んだ。部屋に入ると廊下と同様の木製の床である。小さなテーブルと椅子が一つ、そして奥の壁際にベッドがあった。天井は裸電球一個である。廊下に出るとその階の部屋は三室だけのようであった。廊下も裸電球が二つぶら下がっている。廊下の薄暗い奥にトイレがあった。私は用を足して部屋に戻った。
 一日歩き回って疲れていた私はさっさと横になることにし、灯りを消した。廊下側の壁の上部には透明ガラス張りの枠がはめこまれていて、そこから廊下の灯りが差し込んでくる。だから室内は決して暗くはない。私はすぐ眠りに落ちた。

 ふと目が覚めた。誰かがぶつぶつと呟きながら、ギシギシと廊下を歩いている。その声と廊下の軋む音に靴音が混じる。どうやら行ったり来たりしている様子である。それが続いている。私はそっとベッドから起き、耳を澄ました。
 誰だろう。宿泊者だろうか。…私は音の立たぬように裸足のまま、椅子を持って壁際に行き、椅子にあがりガラス越しに廊下を覗いた。…廊下の灯りの下に白髪の小柄な老婆がいた。老婆はぶつぶつと呟きながら廊下を行ったり来たりしている。
 やがて老婆は私の部屋のドアの前で立ち止まった。彼女はドアのノブをガチャガチャと回し始めた。私の膚は粟立った。老婆は開けるのを諦め、ドアから離れ、またぶつぶつ言いながら廊下の奥の方に行った。そして私からは見えなくなった。その後はなんの物音もしない。廊下の軋む音も、ドアのノブを回す音も開けた際の軋む音もせず、静まりかえっていた。
 私はベッドに戻った。全身に気持ちの悪い汗をかいている。耳を澄ましたがなんの物音もしない。廊下から差し込む光で時計の針を見た。午前の二時過ぎである。もう眠れなかった。
 この部屋には窓がない。外が白む様子も分からない。私は何度も時計を見た。とにかく、朝一番でここを出る。…
 針が五時を回った。もう外は明るみ出した頃であろうか。私は荷物を持って廊下の外に出た。急な階段に気をつけながら一階のカウンターまで降りた。誰もいない。カウンターの小さな鐘を振った。やがて例の男が仏頂面で出てきた。チェックアウトを伝え、部屋のキーとパスポートを交換した。私は転げるように外に出た。夜は明けつつあった。
 私は駅舎に向かった。時間をつぶし、駅舎の並びのカフェでクロワッサンとカフェオレで朝食をとった。
 その午前中にA君の寮に公衆電話から連絡を入れた。やっと彼と話すことができた。A君は驚きながらも喜んでくれた。午後四時にカフェで会う約束をした。

 約束の時間に、A君は途中で出会ったという三人の留学生の寮生たちと連れ立って現れた。再会の挨拶とそれぞれの自己紹介をした。三人はカナダ、イタリア、ベルギーからの留学生たちであった。
 私はA君に、前夜泊った安宿の出来事を逐一話し、A君がそれを友人たちに通訳した。全員が顔を見合わせ、驚いたり笑ったりした。「本当?」と、私が怪奇譚好きでそんな話をしていると思ったのだろう。そのうち一人が言った。「そんな所に、そんな建物あったかな?」…それを受けてもう一人が言った。「いや、僕は初めて聞いたな」「あっちまで行ったことがないから分からないけど」「どうだい、見に行ってみようじゃないか」
 私たちは連れ立って外に出た。私が説明した。駅舎を背にしばらく左に行く、そして、この角を左折する、そのまましばらく行くとやがて有刺鉄線の柵と操車場に突き当たる。また左折して道なりに進むと…今はまだ明るいから、少しあたりの様子が違って見えるが、その先の右手に、石造りの円筒形の塔のような建物が…そこに塔のような…無いのである。どこにも見当たらないのである。
 私たちはしばらくその周辺を歩き回ったが、そんな建物は見当たらなかった。有刺鉄線の向こう側の遠くに操車場は見えるのだが、私がこの辺りと主張した場所には、そのような建物は見当たらなかったのだ。近くに何棟もの建物はあるのだが、ついにあの特徴的な建物は探すことができなかった。
 その夜、留学生寮は私が体験したことと、その消えた円筒形の安宿の話で持ちきりになった。私はA君の部屋に一泊させてもらった。
 モンペリエ駅は十年ほど前から駅名もサン=ロシュ駅と呼ぶようになったそうである。その駅裏が、今どうなっているのか知らない。だいぶ変貌しているに違いないが…。私のモンペリエでの不思議な体験の話である。


                                                                
 

Kちゃんの結婚

2016年08月13日 | エッセイ

 先日、長い付き合いのTさんという照明さんと仕事をした。
 仕事の合間に調光室で、彼の娘Kちゃんの話を聞いた。結婚したのだそうである。おめでたい話だが、それはそれは驚いた。私は彼女を赤ちゃん時代から知っている。
 Tさんの家に遊びに行くと、彼女はまだ歩けず、這っていた。Tさんと同じような髭をたくわえていたせいか、Kちゃんは私と父親を見間違えたか、よく私の膝の上に這い上がってくつろいでいた。
 彼女が三歳の頃、トイレを借りるとドアに小さな良い絵が架けられていた。まるで熊谷守一のような、シンプルで実に素晴らしい絵だった。聞けばKちゃんが描いたという。私がKちゃんに「何という題ですか?」と尋ねると、彼女は「人生の道」と即答した。私はたまげた。この子は天才だ。
 私はその日のうちに共通の友人の現代アートの作家に電話し「Kちゃんは天才だ。見てこい。まるで熊谷守一だ。題名は『人生の道』というのだそうだ!」
 その友人は絵を見に行ったらしい。10日ほど経ってから興奮した様子の電話をもらった。「あの子は天才だ!」
 
 彼女の母親はシャガール風の幻想的な絵を描いていたが、その後、Kちゃんはもう絵を描いていないという。
 小学生の頃、まるで男の子のように、半ズボン姿で野山を駆け回っていた。中学生の頃も、決してスカートをはかず、スボン姿で真っ黒になって野山を駆け回っていた。
 高校を卒業した頃、これがあのKちゃんか! というほど変貌し、美人になった。女の子というものは、かほどに変貌するものなのか! 
 彼女はハリー・ポッターに夢中らしい。全巻読破し、何度も読み返しているという。
 二十歳を過ぎていたろうか、イギリスに留学するという。聞けばハリー・ポッターのせいらしい。彼女は夢中でハリポタの魅力とイギリスについて語った。

 その後、Tさんと会うたびにKちゃんの話を聞いた。就職しているが、旅行が好きで、よく休暇をとっては世界中に出掛けているらしい。どうもパックツアーとは異なるらしく、僻地や秘境にも臆することなく、現地の人たちにすぐ溶け込み、一味も二味も密度の濃い旅だという。

 そのKちゃんが結婚した。お相手は中国人の方で、日本の大学に留学、卒業後は大手グローバル企業に就職し、日本国籍を取得したという。Tさんもお婿さんの中国のご両親や親戚とも会い、無事結婚式を挙げたという。二人は日本で暮らすらしい。
 Kちゃんは父親に似て風変わりで、いやかなりの変わり者だから、思えば実にふさわしい話である。スマホで久しぶりに写真を見せてもらった。夫婦二人で並んでいる。「ところでKちゃんは幾つになったの?」「今年の誕生日で34かな、たしか?」
 そんなになるのか。思えばTさんとは、35年の付き合いになるか。
 Kちゃんとその旦那には、どうか日中友好の小さな架け橋の一つになってほしい。
 先日もブログに書き、Face Bookにも紹介したが、憲法学者の星野安三郎の言う通りだ。「政府は戦争を欲するが、国民は平和を欲する」
 だからフランス革命以来の伝統的思想として、権力を持つ政府、国家間の政治的条約や経済的条約にはあまり信を置かず、平和を保つためには人類の知的及び精神的連帯を築かなければならない。平和を愛する「諸政府、諸国家」ではなく、平和を愛する「諸国民」の精神的連帯なのであると。日本国憲法の前文にも「諸国民」と明記してある。


怪談 モーレンヤッサ

2016年08月12日 | エッセイ
                                                              

 子どもの頃、銚子に暮らしていた。
 小学生一年生のときである。その日の授業の終わり間近に、空はにわかに曇り、黒く厚い雲に覆われた。風が起こり、やがて大粒の雨が降り出してきた。私の授業は終わったが、しばらく待っても雨はなかなか止みそうもなかった。
 私は傘を持たずに登校したが、たしか五年生の姉は傘を持って出たはずだ。私は姉と一緒に帰ろうと思い、その教室をたずねた。しかし五年生の授業はあと一時間続くのだった。すると姉の担任の先生(確か男性であった)は姉の席の隣に私のために椅子を並べてくれ、一緒に授業を受けるように言った。私はそれに従った。
 授業が始まるとその先生はこう言った。「今日はとっても怖い話をしましょう。銚子に伝わる怪談です…」(ヒェ〜やめてくれ)
 私は幽霊と蛇が大の苦手である(国語でも社会でもなく怪談の時間かよ、そんな授業あるのかよ)。そんな怖い話を聞くはめになるくらいなら、濡れてでも先に帰ればよかったと悔いた。
 その教師は続けた。「モーレンヤッサの話です」(初めて聞く言葉だ〜、なんだそれ〜)

 銚子は漁師町です。河口にはたくさんの漁船が繋いでありますね。漁師さんたちは毎日海に出て魚を獲っています。漁師さんたちは日に焼けて、力強く逞しく、勇気がありますが、そんな漁師さんたちが一番恐れているのがモーレンヤッサです。
 漁をしていると、沖の向こうの空に黒い雲が湧いてきました。ちょうど今日のような雲です。急に冷たい風が吹いてきます。波も高くなってきました。これはいかん。船頭さんが大声で漁師たちに言います。まずいぞ、今日の漁はおしまいだ、引きあげるぞ! 急げ! さあ急いで港に帰ろう。
 しかし黒い分厚い雲は、たちまち船の真上に立ち込め始め、猛烈に強い風が吹き始めました。急げ! モーレンヤッサが出るぞ! 海が沸騰するように荒く波立ち、船を木の葉のように、激しく上下、縦横に揺らして翻弄します。
 やがて海の底のほうから「モーレンヤッサ、モーレンヤッサ…」という男たちの低い声が聞こえてくるではありませんか。漁師さんたちが恐ろしがる声でした。それはこの世の者の声ではありません。モーレンヤッサは、これまでに海で死んだ漁師さんたちの幽霊なのです。
 その声は海の中からどんどん近づいてきました。そして、すでに船はたくさんの、青白いモーレンヤッサたちの船に取り囲まれていました。もう船はもがくだけで、一向に前に進みません。
 モーレンヤッサたちは「モーレンヤッサ、モーレンヤッサ」と呪文のような掛け声を唱えながら、荒波にもがく船に、いっせいに海の水をかけてくるのです。船の中はたちまち海水に満ちてしまいます。みんな必死に海水を汲み出しますが、船はどんどん沈み始めます。
「モーレンヤッサ、モーレンヤッサ」…。とうとう船は荒波の中に沈んでしまいます。こうしてモーレンヤッサは、新しい海の死者の仲間たちを増やしていくのです。

「モーレンヤッサ」とは、げにおどろおどろしい響きの呪文に聞こえたものである。大人になっても、その意味はなかなか分からなかった。あれはどういう意味だろう?
 ある時私は地誌や各地の文化圏の文献などを読み漁るうちに、南紀あたりでは「亡霊」を「モーレン」と読むことがあると知った。南方熊楠なら「モーレン」は「亡霊」のことと、いとも簡単に断定したことだろう。「ヤッサ」とは漁師たちが網を上げたりするときの、労働の掛け声なのであった。
 やはり紀伊半島の海辺の文化圏は伊豆半島や房総半島の文化圏に近いのである。それは海流に乗って、あるいは漂流して伝播したものであろう。
 五年ほど前、京王フローラルガーデン・アンジェでイベントをやったおり、千葉県長南町の長福寿寺のご住職にお世話になった。かつて房総の長南周辺では紅花が栽培されていたというのである。それは平安から鎌倉、室町時代頃であったろう。ご住職はそれを現代に復活させ、紅花と紅花染めなどで町おこしをしていたのである。「べにばなまつり」だ。
 さらに驚いたのは、紅花は房総の長南あたりから海路を北上し、宮城県の寒風沢(さぶさわ)に伝わったという。寒風沢は松島湾の入り口の島である。
 そしてさらに寒風沢から山形に伝えられたというのである。江戸時代に入ってからである。いま、紅花といえば誰もが山形を想起する。おそらく紅花は遠い昔、南紀あたりで栽培され、房総の長南あたりに伝えられ、海路で宮城の寒風沢に、そして寒風沢から陸路で山形に伝播されたに違いない。
 ずいぶん時間はかかったが、私は銚子のモーレンヤッサからいろいろなことを知り、その好奇心を持続させることができたのだった。それにしても、あの頃の教師はずいぶん自由だったのだろう。思えば微笑ましく、またなんと楽しい授業であったことだろう。
 モーレンヤッサ、モーレンヤッサ、モーレンヤッサ…