芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

掌説うためいろ 火宅と清貧

2015年09月26日 | エッセイ
 台所の戸口が開いて青年らしい大声がし、夫人を呼んだ。菊子夫人が急いで立って行った。夫人が居間の白秋にも聞こえるように、出版社の青年の名を告げた。青年は
「氷が解けてぼたぼたしますので雑巾を…」
 等と言っている。夫人が
「まあ秋刀魚…きれいねえ、活きのいいこと」
 等と言っている。彼が笊籠に秋刀魚と氷を入れて持って来たらしい。声のほうに、
「俺は魚にはうるさいよ。目利きだからね」
 と白秋は大声で言った。
「そうなんですか、先生」
 と青年が入ってきた。
「あゝ、何しろ俺は魚の仲買人をやっていたからね。それに珊瑚礁の魚にも詳しいよ」
 と白秋はニコニコと微笑みながら自慢した。
「魚は目だよ、目。目で活きの善し悪しが分かるんだ」
 と白秋は言った。しかしその時、白秋の目はほとんど見えなかったのである。
 北原白秋が、ごく短期間ではあったが魚の仲買人をしていたのは本当である。ずっと以前の大正二年、三浦三崎に暮らしていた頃である。その翌年には小笠原の父島にも移住した。この前後のほぼ十年、白秋はその身を火宅の中で焼かれ続けていた。

 沖端(柳川)の北原家は江戸時代に立花藩御用達の海産物問屋として財を成し、維新後は酒造業を専らに営み、九州で一二という豪商であった。屋号は油屋である。隆吉・白秋は、父長太郎、母しけの間にうまれた。母しけも熊本県玉名郡南関で酒造業を営む富裕な石井業隆(なりたか)の二女である。業隆は郷士の出で、横井小楠を師とした知識人であった。白秋は膨大な書籍を蔵する南関の母の実家で誕生した。隆吉の命名者は業隆である。赤子は一月後に美しい絹の着物にくるまれ、大勢の男衆女子衆が付き添う見事な籠に乗せられて、柳川の北原家に入った。
 しけは後妻である。長太郎と先妻の間に豊太郎と加代という兄姉がいた。豊太郎は早世、加代は後年県内の薩摩屋という酒造業を営む江崎家に嫁いでいる。
 そのため、隆吉は長男、北原家第八代として育てられた。二年後に弟の鐵雄が生まれると、隆吉は大店の「トンカ・ジョン(大きな坊ちゃん)」と呼ばれるようになった。鐵雄は「チンカ・ジョン(小さな坊ちゃん)」である。
 隆吉は四年制の矢留尋常小学校に入学した。その校舎は祖父の北原左衛門が寄贈したものである。隆吉は本が好きな少年だった。南関町の叔父が読書の大切さを教えてくれた。明治三十年に柳河高等小学校を二年で修了すると県立伝習館に入学した。しかし彼は文学と詩作に熱中するあまり、成績振るわず落第した。文学嫌いの父には厳しく叱責されたが、隆吉はそれでも詩歌にのめり込んだ。
 明治三十四年に沖端は大火に舐め尽くされ、北原家の酒蔵も全焼した。これを機にさしもの北原家も傾き始めたが、隆吉の文学への傾倒は止まず、「明星」を濫読し、藤村の「若菜集」や与謝野晶子の「みだれ髪」に感動し、白秋の号で詩作に熱中した。そのため隆吉は何度も父と衝突し、三十七年とうとう無断で伝習館を退学すると、弟や母の計らいで家出上京した。早稲田大学英文科予科に入学し、ここで生涯の友・若山牧水と出会った。やがて与謝野寛(鉄幹)の新詩社に参加し、木下杢太郎と出会い、石川啄木とも顔を合わせた。白秋の詩は上田敏や蒲原有明らにも認められ、彼ら象徴派の詩人との交流もできた。白秋二十一歳である。

 明治四十年夏、白秋は鉄幹、杢太郎、吉井勇、平野万里と「五足の靴」という会をつくり、故郷柳川の家産傾く実家を起点に、西九州を旅行して歩いた。実に暢気なトンカ・ジョンである。この旅で白秋は長崎、佐世保、平戸、天草に遊び、南蛮・異国情緒と、その絢爛と頽廃の詩語に目覚めた。ちなみに、白秋ほど旅好きの詩人も珍しい。
 この年の冬、白秋は団子坂の森鴎外邸で行われていた観潮楼歌会に参加するようになり、斎藤茂吉とも出会っている。
 翌年、木下杢太郎、吉井勇、石井柏亭、山本鼎(かなえ)等と「パンの会」を結成した。パリの一群の若き芸術家のように気取り、隅田川をセーヌ川に見立てて、両国や小伝馬町界隈を文学や芸術を論じ暴飲暴食して歩いた。これらの酒食の費えは実家から送られてきていたのだ。白秋は陽気で豪快なトンカ・ジョンであった。ちなみに画家の山本鼎は、後の大正六年に白秋の妹・家子と結婚している。また島崎藤村の「新生」で、パリの日本人画家・岡のモデルとなっている。 
 二年前の長崎、平戸、天草の旅は、「邪宗門」となって結実した。白秋は詩壇の寵児になったが、この年から彼の火宅は始まったのである。実家の破産である。家からの支援の仕送りも途絶え、白秋の暮らしはたちまち窮迫した。
 
 明治四十三年、白秋は原宿に越した。二十五歳である。隣家に松下長平という写真家夫妻が暮らしていた。妻の俊子は二十二歳と若く、大人しげな人であった。夫の松下長平はほとんど家に帰らぬ様子で、たまに帰ると俊子に暴力を振るった。その怒声や平手の音や、何かが倒れ、壊れるような激しい物音が白秋の家にも聞こえた。白秋は暗い気持ちになり、その若い人妻を気の毒に思った。彼女には幼い娘がいた。その幼女の泣き叫ぶ声も哀れだった。
 やがて庭掃除をする俊子と、白秋は垣根越しに会釈を交わすようになった。それは幼女がきっかけだった。庭でひとり遊ぶ幼女と目が合い、子ども好きの白秋が「お早う」と声を掛けたのである。さらに「お名前はなんていうの?」「いくつ?」と尋ねると、幼女ははにかみながら両手で小さな指を立てた。それは二本にも三本にも四本にも見えた。幼女は母親のほうに危なげに駆けだし、その腰にまとわりついて母親の顔を見上げた。
 いつしか白秋と俊子は道端で挨拶や時候について言葉を交わすようになっていった。幼女がくみ子という名前だということも知った。白秋はくみ子に菓子を与えた。また白秋の家に遊びに来たくみ子を、まぶしい縁側で膝に乗せ、童唄やお伽話を聞かせるようになった。白秋は優しく、子どもと遊ぶのが楽しかった。幼い子どもは日だまりの匂いがした。
 そのうち俊子の口から、彼女の実家が三重の名張であることや、夫が愛人の家に行ったきりで別居状態であること、夫の暴力のこと、離婚話しが続いていることまで話されるようになっていった。正義感の強い白秋は憤激した。二人は惹かれ合っていた。
 翌年、白秋は没落した郷家を想い、詩集「思ひ出」を刊行した。これは上田敏等に絶賛され、露風と共に白露時代と称されたが、困窮は続いた。
 
 明治四十五年、母しけと弟の義雄、妹の家子、従兄弟の正雄が上京し、白秋の原宿の家に同居するようになった。すでに鐵雄は東京暮らしだったが、一家全員で暮らす方が経済的だという理由で、彼も同居することになった。
 ある日夫の虐待から逃げ出した俊子と道で出くわした白秋は、彼女を知人の家に連れて行って匿ってもらった。俊子の世話を焼くうち、白秋は恋をしていることを知った。白秋は俊子と関係を持った。その後も俊子と夫の離婚話は進まなかった。
 七月五日、松下長平が白秋を姦通罪で告訴した。彼は未決監に拘留された。詩壇の寵児の姦通事件は連日新聞を賑わし、白秋を糾弾した。鐵雄が奔走し、白秋は二週間を未決監で過ごした後、その拘留を解かれた。しかし白秋の名声は地に堕ちてしまった。かつての文学仲間等も彼から距離をとり、どこかよそよそしくなった。若山牧水と、それまでさほど親しくもなかった志賀直哉だけが、白秋を擁護し励まし続けた。
 告訴した松下長平は、白秋が高名な詩人であったことから、金がふんだくれると思ったのだろう。しかし詩人は貧乏だったのだ。そうして明治が終わり、大正元年を迎えた。俊子はくみ子を連れて三重の名張に帰って行った。
 その暮れ、父の長太郎も柳川を離れ、白秋の家に同居した。彼はその後、死ぬまで柳川に帰らなかった。柳川の話すらしなかった。長太郎は完全に故郷を捨てたのである。
 白秋の肩に一家の暮らしがのしかかった。白秋は貧窮と白眼視に耐えなければならなかった。生活苦と、俊子への自責と悔恨と、別れの悲しみが重なり、さすがの白秋から豪邁さが消え、気鬱状態に陥っていた。いつも死を考えていた。
 大正二年の春まだき、白秋は傷心を相州の三浦三崎に遊ばせた。死のうとも思ったが、風光が心を慰めた。春の煌めく海、明るい陽光、まだ冷たいが頬に心地よい風…。白秋にはどこか天然の明るさがある。大店のトンカ・ジョンの大らかさがある。そもそも文学とか詩とかは、現実離れしたノーテンキな精神をつくるのだ。絢爛たる語句の、どこに現実の生活感があるだろう。白秋は優しく、明るいのだ。
 白秋は元気を取り戻して東京に戻った。かねて準備の「桐の花」が刊行され、その巻末で白秋は事件を謝罪した。事件の余波もあってか、この詩集はあまり評価されなかった。白秋の姦通事件は「桐の花事件」と呼ばれるようになった。
 やがて白秋は横浜のアパートに暮らす俊子と再会した。夫との離婚が成立し、福島俊子となっていた。娘のくみ子は夫の実家が引き取ったという。膝に抱いたくみ子の温もりが蘇えり、母と引き離された幼女の悲しみを想って白秋の目が潤んだ。
 白秋は俊子と結婚した。白秋は、松下家へ引き取られたくみ子が、もし不幸なようなら、いつでも自分が引き取って娘として育てると約束した。

 五月、白秋夫婦と一家は三崎に引っ越した。最初の住まいは三崎町向ヶ崎である。父の長太郎と鐵雄が魚類仲買業を始め、白秋もそれを手伝った。しかし魚の仲買業はうまくいかなかった。父子はたちまち新たな借金を膨らませて、秋になると白秋夫妻を残して東京に移って行った。夫妻は三崎二町谷の臨済宗見桃寺の一室に寄寓することになった。白秋は魚の仲買を続けていたが、生活は逼迫した。俊子の体調もすぐれなかった。肺を患っていたのである。

 ちょうどその頃、島村抱月が主宰する芸術座が、日本歌曲の質の向上を謳って、音楽会を開催することになった。本番日は十月三十日で、会場は数寄屋橋有楽座である。抱月は白秋に作詞を依頼した。彼も松井須磨子との醜聞で新聞を賑わしていた。抱月にとって白秋には同病相憐れむものがあったのだろう。作曲は東京音楽学校出身で市立一中の音楽教師・梁田貞に決めているという。作曲が抱月の書生だった中山晋平でなかったのは、師の三角関係を諫めた晋平に抱月が腹を立てたためと思われる。
 白秋は作詞を引き受けた。時間はたっぷりとあった。
 引き受けたものの、何の詩想も言葉も浮かんでこなかった。極貧の日々に鬱々とするばかりで、日は足早に過ぎていき、詩は一行も書けなかった。追い込まれていた。
 白秋は秋雨の中を散策に出た。向ヶ崎から対岸の城ヶ島を見た。島は冷たい雨にけむり、木々の緑はくすんでいた。「利休鼠だな」と白秋は思った。「利休鼠の雨が降る」と白秋は呟いた。利休鼠とは「鼠色がかった利休色」で、利休色とは「緑を帯びた灰色」のことである。つまり、茶人利休が好んだ侘び寂びの色合いである。この「利休鼠の雨が降る」という詩句から、白秋の裡に詩想と詩句が次々と浮かび始めた。雨は真珠か夜明けの霧か、それとも私の忍び泣き…濡れた帆をあげ、通り矢の端を…。
 
   雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る
   雨は真珠か夜明けの霧か それとも私の忍び泣き
   舟は行く行く通り矢のはなを 濡れて帆あげた主の舟
   ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
   雨は降る降る日は薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ

「主(ぬし)」とは地元でよく使われる「おぬし」のことで、「ええ」という掛け声は三崎甚句にもある漁師たちの掛け声である。
 いっこうに詩が送られてこないことに業を煮やした抱月から、使いの者が原稿を受け取りに来た。詩を渡したのが十月二十七日の夜である。作詞の依頼を受けてから五ヶ月が経っていた。
 これが作曲担当の梁田貞の手元に届けられたのが二十八日である。本番まで二日しか残っていない。作曲、編曲、練習、本番…梁田は呆然とした。しかし「やっつけなければならない」のだ。何度も「城ヶ島の雨」を読み返した。これは北原白秋の胸の裡そのものではないかと梁田は思った。そして「ええ」から後の詩が妙に明るいことに気づいた。「舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気/舟は行く行く」とは、どこか投げ遣りなほどの明るさではないか。梁田は思わず微笑んだ。そこに白秋の明るさと救いがあった。梁田もたちどころに曲想が浮かんだ。ハ短調で詩人の悲しみに濡れ、「舟は行く行く通り矢の」から明るくハ長調に転調し、「船頭さんの心意気」から再びハ短調に戻り、希望と不安が入り混じった出たとこ勝負の出帆の舟唄ができた。
 十月三十日の本番当日、「城ヶ島の雨」は梁田自身の朗々たるテノールで披露された。詩も曲も、そして唄も喝采を浴びた。梁田はもともと声楽科の出身だったのだ。
 
 翌大正三年の一月、夫妻は三崎町六合に仮寓し、三月に小笠原の父島に移住した。俊子の療養のためである。しかし島の暮らしが合わなかったか、俊子は白秋より一足先に東京に戻って、北原一家と同居した。
 ほどなく白秋も東京に戻ったが、貧窮生活もあってか、俊子と白秋の両親とは折り合いが良くなかった。白秋は俊子が三崎の家に出入りしていた学生と不貞をはたらいたのではないかという疑いも持った。
 やがて白秋は俊子と離婚することになった。俊子は再び三重の名張の実家に帰って行った。その年、白秋の三崎と小笠原の暮らしは、「真珠抄」と「白金之独楽」として結実した。

 大正四年、白秋は弟の鐵雄と阿蘭陀書房を創立した。森鴎外と上田敏を顧問に迎え、白秋が編集顧問となって芸術誌「ARS」を創刊した。顧問の名もあって錚々たる執筆陣が揃った。白秋は叙情小詩集「わすれなぐさ」と歌集「雲母(きらら)」を阿蘭陀書房から刊行した。しかし白秋の暮らし向きはいっこうに改善することがなかった。この阿蘭陀書房は二年後に手放され、二人は新たにアルスを創立した。写真と文学系の良質の出版社である。
 翌五年五月、白秋は歌人の江口章子(あやこ)と結婚した。章子も二度目の結婚である。章子は大分県香々地の富裕な家に育った。まさに乳母日傘で、少女時代、学校の行き帰りには使用人の婆やや姐やが付き添った。
 弁護士と結婚したが離婚し、平塚らいてうや与謝野晶子を慕って上京した。誰も彼女を「あやこ」とは呼ばず「あきこ」と呼んだ。章子は与謝野晶子と同じ「あきこ」と呼ばれることを好んだ。
 白秋によれば、「二人はたゞ互に愛し合ひ、尊敬し合ひ、互に憐憫し合った」のである。章子は優れた歌人・芸術家で、芸術家の白秋を理解した。章子は「恋のない世になにがあるでせう」と言う、恋に生きる女性だった。しかも彼女は、火のように気性の激しい女性だったのである。白秋は無邪気だったが、やんちゃで向こう見ずで、駄々っ子だった。そして癇癪持ちである。二人の生活は新しい火宅の始まりだったのだ。夫妻は葛飾真間の亀井院に仮偶し、すぐ小岩村三谷に移り、その寓居を「紫烟草舎」と名付けた。
 紫烟草舎での白秋の暮らしも貧窮を極めた。白秋と章子は時々激しく衝突した。白秋が真っ赤に熾った炭を手掴みして章子に投げつけたこともある。自ら火のようにカッとなった白秋は別に熱さを感じなかったものらしいと、章子は面白可笑しく書いている。彼女も激しい気性だから、白秋に凄まじい反撃をしたに違いない。
 しかし章子ほど白秋の芸術を理解する女性もいなかったのだ。章子は質屋通いをし、その着物のほとんどを流してしまった。弟の鐵雄、義雄、従兄弟の正雄たちも白秋の生活を支えた。ちなみに、後に義雄は美術系出版のアトリエ社を創業し、正雄は写真系出版の玄光社を興した。
 この時期、白秋は西行と芭蕉に傾倒し、清貧の思想に至って、充実した創作活動の日々を送った。貧しい白秋を慰め、共に遊んだのは庭の雀たちだった。彼は雀たちに釜やお櫃を洗った際に出るご飯粒をあげた。そして「雀の卵」「雀の生活」を書き始める。「もしあなたが立ち行く事も出来ず、もう餓死するばかりだという場合が来たら、この雀たちが一粒づつお米を銜えて来て、きっとあなたをお助けすると思いますわ」と章子は言った。この予言は当たって、雀たちは後に白秋の暮らしを助けることになる。「雀の生活」「雀の卵」が本になって、売れたからである。

 大正七年三月、夫妻は小田原に転居した。鈴木三重吉が七月に創刊する「赤い鳥」に白秋を迎えた。童謡のための詩に、白秋の最も至純で良質な才能が発揮されることになったのである。この童謡にこそ、白秋の天稟が輝いたのだ。後に三好達治は、白秋のどんな詩歌より、その童謡を高く評価したものである。
 翌年には「葛飾文章」「金魚経」などの小説も発表し、彼の生活は安定していった。白秋は三重吉の支援も受けて、小田原の天神山に家を建てることにした。小さいながらも彼が初めて持った家は「木菟(みみずく)の家」と名付けられた。
 童謡や歌謡の詩作は旺盛を極め「白秋小唄集」「とんぼの眼玉」が刊行された。大正九年も詩文集「雀の生活」「白秋詩集」が本になった。
 白秋は木菟の家の隣に洋館を新築した。赤屋根の三階建てである。新築披露と祝宴は小田原中の芸者総出の派手なものとなった。この馬鹿騒ぎに、これまで白秋の生活を支えてきた鐵雄、義雄や正雄らが反発し、怒りの矛先を章子に向けた。その非難に対し、章子が白秋の家族に向けた怒りはもっと凄まじいものであった。瀟洒な洋館の新築も、芸者総揚げのドンチャン騒ぎの祝宴も、章子が手配したわけではない。彼女の憤怒が激しい火炎を噴き上げた。
 章子はそのまま家を飛び出したきり、何日も帰ってこなかった。白秋は章子の不貞を疑った。そのとおりで、章子は家に出入りしていた新聞記者の池田林儀を誘って駆け落ちしたのである。白秋は章子と離婚した。
 その後の章子の生涯は凄まじい。まさに火宅の女だった。愛人の池田林儀がベルリン特派員になることが決まると、章子はさっさとと別れた。池田はベルリンで優生学の強い影響を受け、後にナチスとヒットラーの信奉者となっている。さて、池田と別れた章子はすぐに平塚らいてうの家に行ったが、らいてうは章子の軽率を呆れ、たしなめた。「まあ、あなたは何という人でしょう。白秋さんの元にお帰りになるか、自立なさい」
 と言って、章子を家に置いてくれなかった。
 章子は谷崎潤一郎のもとに転がり込んだ。潤一郎は章子のために白秋と絶縁した。しかし流石の潤一郎もこの火のような女を持て余した。章子は潤一郎の元を飛び出した後、放浪し、故郷大分の香々地に帰ったが、裕福だった実家はすでに没落し、養子がその後を継いでいた。章子は空き家を借り、仕立物の内職で暮らしを立てたが、やがて再び放浪し、京都に移って郡是製糸の女工となった。この京都で一休寺住職の林山太空と結婚したが、すぐ別れた。
 章子はかねて知り合いだった大徳寺の僧侶中村戒仙を訪ねたが、彼はすでに松戸の実家の栄松寺に帰っているという。章子はすぐに松戸に奔り、戒仙にその身を投げ出した。章子は柏・増尾の広幡八幡宮近くの墓地の辻堂を借りて住み、戒仙の下に通った。やがて戒仙が再び大徳寺に迎えられると、章子は彼のあとを追い京都に奔った。彼女の愛欲、愛憎に鬼気迫るものが漂う。
 禅僧の戒仙は妻帯を禁じられていた。二人は隠れて共に暮らしていたが、戒仙は火のような章子を持て余すようになる。彼女の精神は壊れていった。大徳寺大法要の日、章子は全裸で外に飛び出し、大樹の下で座禅を組むという大騒動を起こした。戒仙は章子を精神病院に入院させた。その後、章子は大分の実家に戻されたが、狂疾は進行するばかりだった。最晩年、家の座敷牢の中で、糞尿にまみれて死んだと伝えられる。
 大分県豊後高田市香々地の長崎鼻に、章子の歌碑がある。

   ふるさとの香々地にかへり泣かぬものか
            生まれし砂に顔はあてつつ

 一方白秋は、長く貧窮の辛酸を舐め続け、清貧を理想とするようになったとはいえ、やはり大店のトンカ・ジョンなのであった。彼には大らかな明るさがあった。
「小田原の天神山はあらゆる星座の下に恵まれていた。山景風光ともに優れて明るかったが、階上のバルコンや寝室から仰ぐ夜空の美しさは格別であった。」…実にノーテンキではないか。
 章子と離婚した翌大正十年、白秋は国柱会の田中智学の秘書・佐藤菊子と結婚した。菊子も大分の女である。彼女との結婚生活は、白秋に平安な家庭をもたらした。
 白秋は「雀の卵」と翻訳「まざあ・ぐうす」等を次々に出版した。かつて章子が予言したとおり、雀たちは白秋に幸せな米粒をもたらしたのだ。
 彼は長い火宅の日々を抜け出した。菊子は賢夫人だった。彼女との間には、かつて章子と激しく癇癪をぶつけ合ったようなことは起こらなかったのである。彼らの生活は清貧を旨とし、実に静穏なものであった。
 長男の隆太郎も生まれ、白秋はやっとごく普通の家族の幸福をつかんだのだ。白秋は子煩悩で、いつもニコニコと慈愛深く、殆ど子どもを叱ることがなかった。子どもの進学のため、世田谷の砧村・喜多見成城に転居もした。
 白秋は糖尿病を患い視力が落ちた。彼は菊子夫人に口述筆記をしてもらい、旺盛に作品を生み続けた。昭和十五年に阿佐ヶ谷に移った頃は、腎臓病との合併症も起こした。
 彼の視力はほとんど失われるに至り、大好きな旅行もできなくなった。白秋は黒眼鏡をかけステッキを頼りにするようになった。「白秋失明・盲目の詩人」と報道されると、「私は失明もしていなければ盲目でもない。ただ『薄明微茫』の中に居る。」と白秋は言った。「薄明微茫」とは何とも美しい詩人の言葉ではないか。

 昭和十七年、秋の気配とともに白秋の体力は衰弱していった。糖尿病と腎臓病が悪化し病褥についた。
 十一月二日の朝、目覚めた白秋は、息子の隆太郎に窓を開け放つように言った。隆太郎が窓を開けると室内に爽涼たる朝の気が入り込んだ。白秋は大きく息を吸い込み、そして息を吐きながら
「新生だ」
 と言った。白秋最期の言葉である。隣家の瓦屋根や微かに揺れる電線、そして庭の梢に、いつもの朝のように雀たちが集まり、チチチ、ジュリ、ジュリと鳴いた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿