大正12(1923)年の関東大震災直後、復興にともなう渋谷開発計画によって作られた街でした。
箱根土地株式会社(西武グループの中心であったコクドの前身)が中川久任伯爵(旧・豊前岡藩主家)邸の土地を購入し、
そこに百貨店のような空間を出現させるというコンセプトのもと、天賞堂、資生堂、菊屋、大新、来々軒、ジクス堂、西川、十一屋、鹽瀬、三銀、山野楽器店、台湾館などの有名店・老舗を被災した下町から誘致したのです。
当時としては非常に画期的な手法でした。
その賑わいは浅草の仲見世に比べられたほどであり、当時宇田川町に住んでいた竹久夢二(画家・詩人 1884~1934)をして「百軒店で軒別に見歩くのはおっくうになった」言わしめました。
昭和33年頃の百軒店 現在の百軒店
百軒店はこうして2年ほどを比類なく栄えた。しかし、下町の復興とともに当初の有名店は去っていきましたが、
その跡地には飲食店や映画館、カフェーなどが次々と入り、「百軒店」は渋谷における娯楽の中心として、
新たな賑わいを見せます。ジャズ喫茶やロック喫茶によっても有名で、文化の街・音楽の街として栄え、
それはライブハウスとともにある、現在の「百軒店」の姿へとつながっています。

百軒店入口
また、商店街の一角には「千代田稲荷神社」がありますが、このお社も「百軒店」を生んだ都市計画の中で、
商売繁盛の神社として宮益坂から移転されたものです。渋谷の繁華街においてはたいへん貴重な聖域であり、
「百軒店」を訪れる人々に安らぎを与えながら、町の移り変わりをずっと見守り続けました。

1978年頃の百軒店の地図
(『渋谷道玄坂百軒店商店街』より引用)
参考資料
『大正・渋谷道玄坂』藤田佳世/青蛙房:S34(中央所蔵)
『堤康次郎』由井常彦編/エスピーエイチ:289ツツ(保中央所蔵)
『渋谷百軒店ブラックホーク伝説』藤本邦彦編/音楽出版社:S13(中央所蔵)
『渋谷の記憶』渋谷区教育委員会編/渋谷区教育委員会:S13(中央所蔵)
『渋谷道玄坂百軒店商店街HP』
箱根土地株式会社(西武グループの中心であったコクドの前身)が中川久任伯爵(旧・豊前岡藩主家)邸の土地を購入し、
そこに百貨店のような空間を出現させるというコンセプトのもと、天賞堂、資生堂、菊屋、大新、来々軒、ジクス堂、西川、十一屋、鹽瀬、三銀、山野楽器店、台湾館などの有名店・老舗を被災した下町から誘致したのです。
当時としては非常に画期的な手法でした。
その賑わいは浅草の仲見世に比べられたほどであり、当時宇田川町に住んでいた竹久夢二(画家・詩人 1884~1934)をして「百軒店で軒別に見歩くのはおっくうになった」言わしめました。


昭和33年頃の百軒店 現在の百軒店
百軒店はこうして2年ほどを比類なく栄えた。しかし、下町の復興とともに当初の有名店は去っていきましたが、
その跡地には飲食店や映画館、カフェーなどが次々と入り、「百軒店」は渋谷における娯楽の中心として、
新たな賑わいを見せます。ジャズ喫茶やロック喫茶によっても有名で、文化の街・音楽の街として栄え、
それはライブハウスとともにある、現在の「百軒店」の姿へとつながっています。

百軒店入口
また、商店街の一角には「千代田稲荷神社」がありますが、このお社も「百軒店」を生んだ都市計画の中で、
商売繁盛の神社として宮益坂から移転されたものです。渋谷の繁華街においてはたいへん貴重な聖域であり、
「百軒店」を訪れる人々に安らぎを与えながら、町の移り変わりをずっと見守り続けました。

1978年頃の百軒店の地図
(『渋谷道玄坂百軒店商店街』より引用)
参考資料
『大正・渋谷道玄坂』藤田佳世/青蛙房:S34(中央所蔵)
『堤康次郎』由井常彦編/エスピーエイチ:289ツツ(保中央所蔵)
『渋谷百軒店ブラックホーク伝説』藤本邦彦編/音楽出版社:S13(中央所蔵)
『渋谷の記憶』渋谷区教育委員会編/渋谷区教育委員会:S13(中央所蔵)
『渋谷道玄坂百軒店商店街HP』
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