1941年12月28日午後0時30分 ジェーニャが死んだ。
1942年1月25日午後3時 おばあちゃんが死んだ。
1942年3月17日午前5時 リョーカが死んだ。
1942年4月13日午前2時 ワーシャ叔父さんが死んだ。
1942年5月10日午後4時 リョーシャ叔父さんが死んだ。
1942年5月13日午前7時30分 お母さんが死んだ。
サビチェフ家は死んだ、
みんな死んでしまった。
残ったのはターニャ一人だけ・・・
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今日は1月27日。この日は、サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)にとって、決して忘れることの出来ない特別な日になっている。
1941年9月8日、ヒトラー率いるナチス・ドイツによって、モスクワに次ぐ第二の大都市レニングラードの街が完全に包囲された。食料はもちろんのこと、レニングラードに通ずる全ての物資の供給路が遮断された。当時のレニングラードの人口は、約300万人。その300万人の市民が、その日から約900日間に渡って、地獄の日々を送ることになったのである。
厳しいロシアの冬は、容赦なく人々の体力を奪い、1日125グラム程度のパンの配給も滞り、備蓄食料は尽き、ついには人が人を食べるという最悪の状況に陥った。今、一緒に働いている運転手の親戚の叔母さんも、夜中に徒歩で街を移動中に、捕まって食べられそうになったという。女・子供の肉は食べ易いという噂が広まり、常に命の危険を感じながら生きていたそうである。
ところで、人が人を食べる極限状態の心理状況を表したもので、『ひかりごけ』という三国連太郎が主人公の邦画がある。確か、高校生くらいの時に見たのだと思うが、あまりにも衝撃が強く、映画のタイトルや内容を今でも忘れられないでいる。
街中のありとあらゆる食べられるものが食べ尽くされる。歴代ロシア皇帝たちに仕えてきた、エルミタージュのネコたちの子孫の血が絶えたのもこの時期とされている。人肉を売る闇市場があったくらいの状況下である。その前に食べられる肉として、当然、飼い犬や猫なども次々に捕まえられ、食べられていった。ネコ一匹が、その当時の守衛の1ヶ月分の給料で売られていたという記録が残っている。病気になり、極度の栄養失調に陥った隣人を助けるために、自分の大事なネコをあげた女性の記録もある。そのネコは、病人に食べられる前に、泥棒によって強奪され、その泥棒も通りで撲殺され、ネコを奪われている。そして、病人は床で息を引き取る。そんなことになるくらいなら、大事なネコを他人にあげたりするのではなかったと、60年以上経った今でもおばあちゃんは後悔している。
他にも当時の凄惨な記録は、山のようにある。300万人が900日もの長い間包囲され、兵糧攻めを負った結果、実に3分の一にあたる約100万人が命を落としている。
1944年の今日が、包囲するナチス・ドイツを完全に蹴散らした日なのである。冒頭の悲しい記録は、当時若干12歳だったターニャという少女が、親戚家族が次々と亡くなっていく様子を記したもので、こちらでは『ターニャの日記』と呼ばれているものである。日付を見ると分かるが、たった半年の間に近しい人が6名も亡くなっていく。最後に頼りにしていたお母さんをも亡くし、「残ったのはターニャひとりだけ」と日記に記した時の少女の心中を推し量ることは容易ではない。そして、ターニャ自身も、包囲網が解かれた後の1944年5月に悲しく病死している。
彼女の日記は、現在の『レニングラード歴史博物館』に、戦争の悲惨さを後世に渡って忘れない記憶とするために展示されている。一見、煌びやかな文化と芸術の街サンクト・ペテルブルグを語るときに、実は一番忘れてはいけない歴史事実のひとつである。
さて、このブログはエルミタージュのネコたちに捧ぐブログであるから、話はここで終わらない。包囲網が解かれた後の傷ついたレニングラードの街には、ネズミが大量発生した。天敵のいないネズミたちは、ありとあらゆる齧れるものを齧った。ネズミという生き物は、食べるためにだけにものを齧るのではないそうで。一生伸び続ける歯を研ぐためにもガジガジとものを齧るのだそうだ。美術館でいえば、貴重な絵画や彫刻、木工細工など様々なものがその対象となる。
街にネコはいない。ところで、このネコがいなくなったはずの街で、解放後に白いネコを見た女性の話が記事になっていた。神々しいまでに白く輝くネコを見て「どうか、誰もあのネコに手をかけるようなことはしないで欲しい」と祈ったという。
ネズミは次々に増え、その勢力を伸ばした。文化遺産や貴重な食料が被害に遭う。
業を煮やした、行政府がモスクワ郊外のヤロスラブリという古都から、数両の貨車に煙色のネコたちを満載して、レニングラードに送らせた。ネズミ捕りの名手とされる煙色(あえて煙色と訳しているが恐らくは薄い灰色のことで、ロシア語ではдымчатый)ネコたちは、大活躍を見せ、街のネズミたちを殲滅する。(殲滅は、ちょっと言いすぎかもしれない。てっちゃん感情的になってますので、その辺、割り引いて読んでくだされ)
現在でも、エルミタージュのネコの話になると、必ず、このヤロスラブリの煙色のネコたちのことが引き合いに出される。だから、このネコたちの活躍がなければ、現在のエルミタージュ美術館やロシア美術館の展示品が無事であった保証はないのである。そういう意味では、ネコたちが『エルミタージュの小さな番人』であったことには、全く疑いの余地がない。比喩的な表現でもなんでもなく、誠に事実なのである。
話はもう少し続く。
やがて、平和を取り戻したレニングラード。エルミタージュには、煙色の勇敢な血を継ぐ自然繁殖したネコたちが勢力を拡大していた。増えすぎたのである。
そこで、当時のネコたちを次々と捕獲して、その大半をレニングラード郊外へトラックで連れて行ってしまう。再び、人間の都合でネコたちが消えたエルミタージュを襲ったのは、もちろんネズミたちであった。人間たちは、毒薬を使い、ネズミ退治を行った。しかし、ネズミは何回も毒薬を食べるほど同じ過ちを犯さない。ネズミ捕りにかかるよりも、繁殖スピードのほうが速い。
三度、ネコたちがエルミタージュに導入されたのは、言うまでもない。そして、それ以来、エルミタージュではネコたちが大切にされ、現在に至っているのである。
恐らく、こういうことは洋の東西の違いはあれ、全世界で経験があることなのだ。人間の都合によって、ネコの運命が翻弄される歴史は、世界全般に渡って、もう何千年も前から繰り返されているに違いないのである。ただし、ネコたちが不当に間引かれた後に起こることは概して不幸なことばかりのようである。
私はこの類の話を聞くといつも、あるエピソードを思い出す。かつてのヨーロッパで、『ネコは魔女の手先』であるとされ、数多くの罪のないネコたちが惨殺されたというもの。その後、ネコたちの消えた街で、ネズミが猛威を振るい、ペストという歴史上最悪の伝染病が世を席捲する結果となったというものだった。もっとも、ネコさえいればペストの流行がなかったというわけではないだろうし、実際に『魔女の手先疑惑』で、ネコが大量虐殺された事実があるのかどうかも定かではない。しかし、ネコが多くいた地域(大切にされていた地域)とそうでなかった地域では、病気の伝播速度は違ったはずである。後に、ペスト菌研究の第一人者となる北里柴三郎も、ペスト予防対策として、猫を飼うことを政府に進言しているという事実もあるようだ。(参考:『その時歴史が動いた』平成20年5月放送)
何度も同じ過ちを繰り返してはならない。いかなる時代であっても、再び、人間がネコの命や存在そのものを軽視しようとする場合には、よくよく過去の事実に立ち戻ってみるべきであると思う。ネコたちを追いたて追い詰め、排除することに尽力するよりも、どのようにしてネコと上手く共存するかを建設的に考えることに力を注ぐことのほうが、結果的に双方にどれだけの幸福をもたらすかは歴史が知っているはずなのである。