コントロールまでの道のり

2008-03-19 15:47:54 | はなみず君でコラム
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 曾祖父の葬式にて、お坊さんと話した時、適当に訊ねてみたことがある。「人間にとって何が一番大切なことですか?」無礼が何を持って無礼かを知らない僕に、知的アウトサイダーのルーツを持つであろう人は、柔らかに、こう答えた。

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 仲良しの仲良しさんが、仲良しの一期舎さんがTIBETの暴動について、いや、中国政府の対応について書いていた。僕も中国に対して好意的に興味を抱く人間として、何か考えなければいけないと思ったんだけど、問題意識は別の方に走り出した。


『コントロールまでの道のり』と題してみたんだけど、ワイドショーなどをひっくるめた日常で、僕は思うところがある。

 それは、何故、人は人をコントロールしようと思うんだろう?ってこと。

 支配欲ってものが、僕は心底理解できない。理解できないわけではなく、途方もないことに対して降服しているに過ぎないんだけど。まま、そんな欲求を感じることはある。けれど、その後ろに在る『思い上がりスパイス』の利いた責任を、ダサいと感じる。「俺って、なんて、大変なんだぁ…!!」みたいな、感じ。好きでやっているくせに。

 しかし、僕のような人ばかりでは、快適な暮らしを維持することは出来ないんだろう。支配することの苦悩を、高給と引き換えに受け入れる人がいなければならない。それは、分かる。執行の『執』という字には、変な力がある。

 自分をコントロール出来て、エネルギー飽和していて、そのエネルギーが外に向かうのなら僕はそれでいいと思う。それが「思い上がり」であっても。しかし、そうじゃない場合、例えば『不安』に駆られて、の場合。『体裁』を繕う場合。または、後ろめたい事を隠す為だったりした場合。「じゃあ、辞めれば…?」と言いたくなる。

 そもそも、人をコントロールすることなんて不可能だと思う。いや、人間ひとりひとりをコントロールすることが不可能なんだ。自分をよく観察してみれば、すぐに分かる。「面倒臭くて、難しい、ヘンテコな奴だなあ…」って思うだろう。
 ヘンテコってのは、最も慎ましやかな自意識だと思う。自分ですら、そうなのに、ましてや他の人間をコントロール出来るなんて、思えない。ただ、例外として『大衆』はコントロールできるんだ。扇動もできるし、人間って群れちゃうと、どうかしちゃいがちだから…(笑)

 話が逸れに逸れた。

 始めに、「理解できない!」と宣言しちゃう。「分からない!」と相手に伝える。そんな、姿勢を示すことが大事だったり、逆に楽だったりする。「分からない!」と宣言するのは降参じゃなくて、対決でもなくて、相手に対しての『信頼』を表しているんだ。別に、商売じゃないんだから簡単なことだと思えるんだけど、違うかな。

 冷静に考えて見ればいい。そもそも、標高4000mとかの砂漠に住む人の考えていることを理解出来るか?「ちゃんとした自治権を与える」とか、「独立を認める」とかの話ではないんだ。そんなのは、オリンピックの話とは関係なしに、認めることはできないだろう。台湾、内蒙古、新疆ウイグル、その他の少数民族を抱えていて、天安門とか、色々あって、でも、なんとかかんとか、よっしゃ!中国だから。


 もともと、よっぽど難しい問題だったんだ。何とかしようとも、多分、していた。民族浄化って、余り上品な言葉じゃないけれど、それでも何とかしようとしていた。そんな中、やり方云々で反発を招いた。誰かに責任を押し付けて、乗り切るのか?稚拙で下品だ。「とりあえず謝らなくて、人も殴らなくて、んでも…相手も納得する良策はないんだろうか?」って、ちゃんと考えているのかな。


 そうだった…。チベット仏教と関係があるかは知らんけど、冒頭に書いたお坊さんの答えが、何となく教訓になる。




>「人間にとって何が一番大切なことですか?」

「あ、寛容かな…?」


 だってさ。


 疲れていなくて、ヒステリックにならなければ、人間はそんなに無茶な馬鹿はしないと思うんだけど、田舎者っぽいかな。



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