リンポウアカデミア

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青木世界史中世から170305

2017-03-05 03:40:31 | 日記

2017年3月5日、14:22頃目が覚めた。青木世界史中世から。クレルモン公会議。日経新聞、2017年2017年3月5日付を参照した。マレーシアのアニファ外相は4日、同国に駐在する北朝鮮大使、カン、チョル氏を国外追放すると発表した。金正男(キム、ジョンナム)氏殺害の捜査を巡り、協力を拒否する北朝鮮に抗議する意志を示した。外交官の処遇を定めた「ウィーン条約」に基づく措置で、6日午後6時(現地時間)、2017年3月5日、日曜日、までに出国するよう通告した。クアラルンプールの北朝鮮大使館前で記者会見する姜哲(カン・チョル)駐マレーシア北朝鮮大使(2月20日)。クアラルンプールの北朝鮮大使館前で記者会見する姜哲(カン・チョル)駐マレーシア北朝鮮大使(2月20日)。マレーシア政府はカン大使を「ペルソナ、ノン・グラータ(好ましくない人物)」に指定した。ウィーン条約は、好ましくない外交官について、受け入れ国は承認を拒否できると定め、事実上の国外追放が可能だと規定している。カン大使は正男氏殺害事件の後、捜査を主導するマレーシアへの批判を続けている。マレーシア外務省は謝罪や説明を求めて4日午後6時、2017年3月5日に呼び出したが、姿を見せなかった。このため大使の国外追放という異例の強硬措置に踏み切った。正男氏の殺害を巡っては、主犯格とされる北朝鮮籍の4容疑者は平壌に逃亡。殺害への関与が浮上した北朝鮮大使館員や高麗航空職員らは大使館敷地内に潜んでいるとされる。マレーシアは北朝鮮に協力を要求しているが、北朝鮮側は一切拒否する姿勢を崩さない。マレーシアは北朝鮮に圧力をかけて捜査に協力させる構えで、北朝鮮籍者のビザ無し入国を6日付、2017年3月5日付で停止すると発表した。国交断絶も視野に入れ、2国間関係の見直しを検討しているそうだ。「座敷童」。ざしきわらし、について。座敷童子、ざしきわらし、は、主に岩手県に伝えられる精霊的な存在。座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働く、見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承がある。柳田國男の「遠野物語」や「石神問答」などでも知られ、「遠野物語」の17話、18話および「遠野物語拾遺」、87話に「ザシキワラシ」または「座敷ワラシ」の表記で話が掲載されており、17話には「この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり」「ザシキワラシは座敷童衆なり」と記述がある。近年では、座敷わらしに会える宿として岩手県の「緑風荘」「菅原別館」「わらべ」などがテレビ番組や雑誌に取り上げられることでも知られている。主に岩手県を中心として報告されているが、青森県、宮城県、秋田県など東北地方各県にも分布するといわれる。一般的には、赤面垂髪の5、6歳くらいの小童というが、年恰好は住み着く家ごとに異なるともいい、下は3歳程度、上は15歳程度の例もある。髪はおかっぱ、またはざんぎり頭。性別は男女両方が見られ、男の子は絣か縞の黒っぽい着物を、女の子は赤いちゃんちゃんこや小袖、ときには振袖を着ているという。はっきりとした姿がわからないために、性別が不明な場合もあるという。男女2人など複数が家に住み着いていることもある。黒い獣のような姿、武士のような姿といった伝承もある。悪戯好きで、小さな足跡を灰やさらし粉の上に残し、夜中に糸車を回す音を立てるともいわれ、奥座敷で御神楽のような音を立てて遊ぶことがある。また家人が一人で縫い物をしていたとき、隣の部屋で紙ががさがさする音や、鼻を鳴らす音がするので、板戸を空けると誰もいないなどの話が伝わっている。夜になると客人の布団の上にまたがったり枕を返したり、悪戯をして眠らせまいとするが、押さえようとしても力が強くて歯が立たないともいう。子供と一緒に遊んだりもする。岩手では早池峰神社の座敷童子が、遠方から神社に参拝に来ていた者について別の土地へ行くという伝承がある。その土地の子供たちに、岩手のわらべ歌を教えたという伝説もある。青森県五戸町では家を新築する際、床下に金の玉を埋めておくと、座敷童子を呼ぶことができるという伝承がある。姿は家の者以外には見えず、子供には見えても、大人には見えないとする説もある。子供たちの数を大人が数えると、本来の人数より1人多いが、大人には座敷童子がわからないので、誰が多いのかわからないといった話もある。こうした話は、文学上でもよくモチーフとなる。家の盛衰との関連。最も特徴的な民間信仰として、座敷童子がいる家は栄え、座敷童子の去った家は衰退するということが挙げられる。こうした面から、座敷童子は福の神のようなもの、または家の盛衰を司る守護霊と見なされることもあるそうだ。「遠野物語」には、座敷童子が去った家の一家が食中毒で全滅した話や、岩手県土淵村(現、遠野市)大字飯豊(いいで)の資産家で、座敷童子を子供が弓矢で射たところ、座敷童子は家を去り、家運が傾いたという話が残されている。座敷童子の去った家が没落する話は、貧乏神が去った家が裕福になるという話と関連しているとの見方もある。白い座敷童子は吉事の前触れであり、赤い童子(赤い顔、赤い服、赤い手桶を手にした童子)が目に見えるのは、童子が家を出て行くことによる凶事の前触れとの説もある。赤い服の童子を見たという家族一同が食中毒死した事例もある。風習。座敷童子は奥座敷におり、その存在が家の趨勢に関ると言われるため、これを手厚く取り扱い、毎日膳を供える家もある。小豆飯が好物といわれることから、小豆飯を毎日供える家もあり、飯が食べられていないと家が衰退する前兆だともいう。座敷童子は狐持や犬神持に類似した構造を持つが、座敷童子の住んでいることを迷惑がらず、むしろ神として保護し、周囲の人間も座敷童子のいる家に対して一種畏敬の念を持って接する点が、それらとは異なる。二戸市の一帯では、かつて亡くなったり間引かれた子の供養のために部屋の一画に子供部屋を作り、菓子や玩具を置いて祀ったというが、この風習が現在でも残っており、座敷童子を家に居つかせ福をもたらせ栄えさせようと、部屋の一画に子供が好む小部屋を作る風習もある。「遠野物語」によれば、土淵村のある豪家には「座頭部屋」と呼ばれる奥まった小さな空間があり、昔は家に宴会があれば必ず座頭を呼んで待たせるのに用いたとあるが、文学研究者、三浦佑之はこれを、家の守護霊を祀る部屋だったのではないかと推測している。様々な座敷童子。座敷童子は「座敷童」、「座敷童衆」、「座敷ぼっこ」、「御蔵ボッコ」、「座敷小僧」、「カラコワラシ」など、地方によって様々な呼び方がある。「座敷ぼっこ」の名で呼ばれるのは岩手の内陸部であり、宮沢賢治の著書でもこの名が用いられている。座敷童子にも位があるとする地域や伝承も存在し、「十方庵遊歴雑記」には、岩手県江刺市(現、奥州市江刺区)稲瀬の座敷童子についての記述が見られ、家の土間にいる座敷童子を、「コメツキワラシ」、「ノタバリコ」、「ウスツキコ」などと言い、 奥座敷にいる色の白い最も綺麗な座敷童子を「チョウピラコ」と呼んでいる。これらの中には家の盛衰とは関係なく、家の中を動き回ったり物音を立てたりするだけの者もおり、単に気味の悪い存在とされることも少なくない。蔓のように細長い手を出して人を招き、洪水、津波などの災禍を知らせるため、「細手(ほそで)」または「細手長手(ほそでながて)」と呼んでいる例もある。似た話に「貧しい男が薪を水中に投じると、龍宮に招かれ土産に醜いが福を招く童子「龍宮童子」を貰った」という話がある。 「クラワラシ」「クラボッコ」と呼ばれる、土蔵の中にいる座敷童子も存在する。民俗学者・佐々木喜善の著書「ザシキワラシの話」によれば、前述の土淵村のある家ではマダの木(菩提樹のこと)に「カブキレワラシ」というものが棲んでおり、童子姿となって家の座敷に忍び込んで娘にいたずらしたり、赤い顔の姿でクルミの木の三つ又で遊んでいたという。マダの木の精霊とする解釈もある。東北地方には座敷童子の伝承が多いにもかかわらず、秋田県のみは伝承が少ない。これは秋田の三吉鬼が、下等な妖怪を秋田に入れないためといわれている。起源。参考:上田秋成「雨月物語」より「貧富論」の銭の霊。前述の佐々木喜善は座敷童子のことを、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと述べている。東北地方では間引きを「臼殺(うすごろ)」といって、口減らしのために間引く子を石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったといい、こうした子供の霊が雨の日に縁側を震えながら歩いていたり、家を訪れた客を脅かしたりといった、座敷童子に似た行為が見られたともいう。特に、前述の「ノタバリコ」や「ウスツキワラシ」は座敷童子の中でも下等なものとされており、前者は内土間から這い出て座敷を這い回り、後者は臼を搗くような音をたてたりと、気味の悪い振る舞いをするといわれていることから、これらの座敷童子に、間引かれた子供の埋められた場所が土間や臼の下などであることが関連しているとの指摘もある。このような間引きとの関連に加え、座敷童子のいる家が旧家であることや、村の外から訪れた六部(巡礼僧)を殺害した家が後に没落するという伝承と結び付けられて語られていることがあることから、座敷童子は村落共同体の暗部の象徴との指摘もある。高橋貞子著「座敷わらしを見た人びと」によれば、座敷童子は大工や畳職人が、家の工事の際に気持ちよく仕事できなかったことに対する呪いから生じたとする話も残っており、木片を薄く剥いだ人形を柱と梁の間に挟みこむなどの呪法があったという。河童を正体とする説も多く、淵に住む河童が近くの家に上がりこんで悪戯をするものが座敷童子だとする話や、河童が家に住み着いて座敷童子となった話などもある。また、座敷童子が子供の姿なのは、仏教でいう護法童子(仏法を守る童子姿の鬼神)が童子(子供)の姿であるように、子供を神と人間を繋ぐものとする民間信仰に由来するという説、または子供の姿が神性を体現しているなどの説がある。柳田國男は、高僧が天から呼んだ護法童子と同様、仏教や民間巫女の守護霊が、若葉の魂の清新さを尊重する信仰へとつながり、さらに神意を人間に伝えるため家の守護霊としての座敷童子信仰へとつながったとみている。柳田以降の民俗学でも、オクナイ様との繋がりや竜宮童子など異界から訪れる童子との関連などが論じられている。また、民俗学者、小松和彦は文化人類学的視点から童子に注目し、村落における家の盛衰や富の移動の問題を取り上げ、座敷童子の属性はイズナ使いなどの動物霊としての憑き物とほとんど重複しているとし、精霊がついている家の共同体の優越性と劣等性を詳しく分析し、座敷童子を民俗社会内、特に旧家層における貧富の差と変動の説明原理としている。上田秋成による江戸後期の読本「雨月物語」の「貧福論」で、陸奥国(現、青森県)の武士の家に銭の霊が小さな翁で現れて「黄金の精霊」を名乗り、「お金を大事にしてくれるから嬉しくて話に来た」という話があるが、文学博士、阿部正路はこれを座敷童子の祖型ではないかと考察している。戦後の伝承。東北地方の人々にとって、座敷童子は決して戦後の伝承ではなく、明治以降、昭和以降になっても座敷童子の話は語られている。柳田國男の著書『妖怪談義』によれば、1910年(明治43年)7月、107年前頃、陸中上閉伊郡土淵村(現、岩手県遠野市)の小学校に座敷童子が現れ、1年生の児童にだけ見え、年長の生徒や大人たちの目には見えなかったという。昭和、平成以降も営業し続けている、岩手県の金田一温泉「緑風荘」、盛岡市天神町の「菅原別館」「わらべ」などの旅館は、座敷童子のいる宿として知られ、宿泊客が座敷童子を見た、足音を聞いた、体を触られた、といった話がある、(緑風荘については内部リンク先を参照)。ただし、一般的な座敷わらし伝承とは異なり緑風荘では病死した先祖が守り神となったと位置づけている。「わらべ」の近くには、1200年以上前に開山された早池峰(はやちね)神社があり、ここでは「わらべ」創業当時から座敷童子の祈願祭が行なわれているため、神社の座敷童子が「わらべ」に来ている、などともいわれているそうだ。「菅原別館」の座敷童子は、もとは江戸時代に女将の実家で火災から家を守護していた火の神であり、女将が同館に嫁入りする際に実家からついて来たという。同館には、宿泊客が結婚や仕事で成功したといった体験談も寄せられている。日本各地の類話。座敷童子に類するものに、遠州門谷(現、静岡県)の「座敷坊主」、徳島の「アカシャグマ」がある。四国金毘羅宮の、奥の院周辺の家には、夜になると仏壇の中から「アカシャグマ」が出てきたという。アカシャグマとは、赤く染めたクマの毛のことで、これを被った小さな子供のようなものが、家の持ち主の老婆を毎晩くすぐったという。山梨県の旧東八代郡には倉の中に「お倉坊主、おくらぼうず」がいるといって、座敷童子の一種と考えられているそうだ 。石川県の「マクラガエシ」は、ある家の座敷に寝ると、特に二本差しや髭を立て洋服を着て高慢な顔をしたものが泊まると隣室に引き出すという。香川県大川郡白鳥町(現、東かがわ市)に伝わる座敷童子は童女姿で、髪の毛がショボショボに垂れていることから「オショボ」と呼ばれ、家の者には見えないとも、家の者のみに見えるともいう。ほかにも、北海道で人家で寝ている者を襲うといわれる「アイヌカイセイ」、沖縄県で人家で寝ている者に悪戯を働く「アカガンター」といった妖怪を、座敷童子と同様のものとする解釈もある。民俗学者、折口信夫はオクナイサマ、座敷坊主、アカシャグマ、沖縄のキジムナー、壱岐のガアタロなどの例を引いて、外の土地のある家のために働きに来る忠実な精霊がいて、いなくなると家が衰えると言う型の話と見た。そして座敷童子が庭に降りない点に注目し、かつての芸能が庭・座敷・舞台とに分けられていたことと関連づけて考えているそうだ。(感想)私には目に見えない、「誰か」が、私の部屋のいたずらをする。ウィキペディアに書いてあるように、くしゃみみたいな音や、ガサガサした音を出して、私の部屋の本をひっくり返したり、物の場所を変えたり、いろいろいたずらをするが、あまり、物や本の価値などは分かっていないようである。

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火170304

2017-03-04 05:17:09 | 日記

「火」について。ウィキペディアを参照した。火、ひ、とは、熱と光を出す現象。化学的には物質の燃焼(物質の急激な酸化)に伴って発生する現象、あるいは燃焼の一部と考えられている現象である。火は熱や光と共に様々な化学物質も生成する。気体が燃焼することによって発生する激しいものは炎と呼ばれる。煙が熱と光を持った形態で、気体の示す一つの姿であり、気体がイオン化してプラズマを生じている状態である。燃焼している物質の種類や含有している物質により、炎の色や強さが変化する。人類の火についての理解は大きく変遷してきている。象徴的な理解は古代から現代まで力を持っている。また理知的には古代ギリシアにおいては4大元素のひとつと考えられた。西欧では18世紀頃までこうした考え方はされた。18世紀に影響力をもったフロギストン説も科学史的に重要である。人類は調理、暖房、合図として、また動力源としても火を利用してきた。火は火災を引き起こし、燃焼によって人間が物的損害を被ることがある。また、世界的な生態系にも影響する重要なプロセスである。火はある面では生態系を維持し、生物の成長を促す効果を持つ。また、火は水質・土壌・大気などを汚染する原因という側面もある。火の理解史。人類は火を様々に理解してきた。いかにして火を手に入れたのかという、火の起源神話も世界各地から知られている。このタイプの火の起源神話として最も知られているものの一つに、ギリシア神話におけるプロメテウスの神話がある。火を信仰の対象とする宗教もある。古代世界において火は神格化され、畏敬の対象とされた。例えばインド神話におけるアグニがある。また拝火教という異名を持つゾロアスター教もある。日本でもお盆の送り火(京都市の五山送り火が有名)をはじめ、国内各地で特徴的な火祭りが数多く存在する。なかでも小正月に行われる左義長(どんど焼き)は、日本各地にほぼまんべんなく存在する。信仰の場以外でも、例えばキャンプファイヤーなど多くの行事、象徴的な場などで火は用いられている。現代でも火は象徴としての力を持ち続けている。四元素説における元素の関係図。前6世紀、ヘラクレイトスは、流転する世界の根源に火を位置づけ、魂を神的な火とみなした。前5世紀のエンペドクレスは、火を四元素のうちのひとつとした。デモクリトスは、魂と火を同一視し、原子は無数あるとしつつ、「球形のものが火であり、魂である」とした。アリストテレスの『自然学』において、火は四元素のひとつと位置づけられていた。古代ギリシャ哲学の流れを汲むイスラム科学でも火は元素の1つであると考えられた。(また中国の哲学でも類似の考えかたがされていた)。18世紀ころまでのヨーロッパでも、おおむね主にアリストテレスの『自然学』における火の理解のしかたを継承したと考えてよい。ただし、他方で錬金術においては、火は物質や物質に仮託された精神の統合や純化を促す力、と考えられていた。ゲオルク・エルンスト・シュタール。18世紀になると、多くの思想家は、熱や光に火の本質を求めようとした[8]。カントは、温度上昇を火の元素の移動と関連付けて理解した。ゲオルク・エルンスト・シュタールは、火というのは可燃性の原質「フロギストン」によって起きていると考え1697年の著書『化学の基礎』でこれを表明した。この説(フロギストン説)は多くの人々に支持され最大の影響力を持っていた。同説に対抗する諸説はあったが、18世紀末にラヴォアジエが行った批判や同氏の理論の説得力などにより、燃焼を酸素との結合現象とする説を採用する人が増え主流となってゆくことになった。火には、燃料と酸素と熱が必要である。火が点火するには、可燃物、酸素ガスのような酸化剤、それらの混合物が引火点を越えるための熱が必要である。そして火が燃焼し続けるには連鎖反応を生み出すよう酸素が連続的に供給される必要がある。火はこれらの要素が揃わない環境では存在しない。燃料と酸素だけでなく、触媒が必要な場合もある。触媒はそれ自体が燃焼するわけではないが、化学反応を促進する役目を果たす。火が点火すると、燃焼によって発生した熱エネルギーがさらなる燃焼を起こす。火が燃え続けるには燃料と酸素の継続的な供給が必須となる。火を消すには、上述の要素のいずれかを取り除けばよい。例えば天然ガスの火を消すには以下のいずれかを行えばよい。炎は可視光や赤外光を放つ化学反応中の気体と固体の混合物であり、その周波数スペクトルは燃焼物や中間生成物の化学組成によって異なる。木などの有機物を燃やしたり、ガスを不完全燃焼させると、すすと呼ばれる白熱した固体粒子を生じ、おなじみの赤からオレンジ色の火になる。火の発する光は連続なスペクトルを有する。ガスが完全燃焼すると、炎の中では励起された分子の電子が様々な遷移を起こして単一の波長の光を発するため、やや暗い青色の光になる。一般に火には酸素が必須だが、水素と塩素が化学反応して塩化水素となる場合も炎を生じる。他にも、フッ素と水素、ヒドラジンと四酸化二窒素の化学反応でも炎を生じる。炎の発する光は複雑である。すす、ガス、燃料の粒子などが黒体放射するが、すすの粒子は完全な黒体として振舞うには小さすぎる。また、ガス内で下方遷移した原子や分子が光子を放出する。放射のほとんどは可視光と赤外線の範囲にある。色は黒体放射の温度や燃焼に関わる物質の化学組成によって変化する。炎の色を最も左右するのは温度である。山火事の写真を見ると、様々な炎の色が見てとれる。地表付近は最も激しく燃焼しているため、有機物が最も高温で燃焼しているときの白または黄色の炎が見える。その上にはやや温度の低いオレンジ色の炎があり、さらに温度の低い赤い炎が見える。赤い炎の上では燃焼は起きず、燃焼しきらなかった炭素粒子が黒い煙となっている。アメリカ航空宇宙局 (NASA) は、炎の形成に重力もある役目を果たしていることを発見した。重力の条件が異なれば、炎の形状や色が変化する。通常重力下では対流によってすすが上に登っていくため、右の写真に見られるような形になり、黄色になる。宇宙空間などの無重力状態では対流が起きないため、炎は球状になり、完全に燃焼するため青くなる(ただし、燃焼によって発生したCO2がその場に留まって炎を包むため、ゆっくり炎を移動させないと火が消えてしまう)。この違いの説明はいくつか考えられるが、温度があらゆる方向に等しく伝わるためすすが生じず、完全燃焼するためという説明が最も妥当と見られる。人類がいつごろから火を使い始めたのか、はっきりした事は解っていない。人類が突如、火起こしをはじめたとは考えにくいため、初期の火は落雷や山火事によって燃えている木の枝などを住居あるいは洞窟に持ち帰り、火種として保存していたと考える人も多い。現在、火を使用した痕跡として発見されている最古のものは、南アフリカ、スワルトクランス洞窟の160万年前、東アフリカのケニア、チェソワンジャ遺跡の140万年前、エチオピアのミドル・アワシュ、イスラエルのゲシャー・ベノット・ヤーコブ炉跡といったものがある。この時代の人類はホモ・エレクトスと云われており、一説にはホモ・ハビリスまでさかのぼることができるという人もいる。また北京原人の発見地では、非常に厚い灰の層が発見されており、火を絶やさぬように燃やし続けたためではないかとの説もある。現在では明かりの主力は電気であるが、蝋燭は宗教行事では多用するし、薪能のように松明の明かりの雰囲気を楽しむ例もある。たき火は暖を取るためにも使えるが、炎が大きいとあまり近寄ることができない。むしろ炎が小さくても長くじっくり燃える小さな火が望ましい。燃えても炎が出ない炭はそのために有効だったと考えられる。さらに火を弱く長持ちさせるために灰に埋める方法がとられた。食物の加工に火を利用するようになったのは、おそらく山火事で逃げ損ねた動物の焼けた肉を食べた、といったことがあったのではないかといわれている。ただし、火を使って料理をするには、普通は火にかけられるような容器の存在が必要で、これは土器や金属加工の技術の出現を待たねばならない。それが不用な方法としては、串に刺して直接に火にかざす方法、木の葉でくるんで火に投入して蒸し焼きにするなどの方法がある。また、直接に火を使うのではなく、火に石を入れて加熱し、この石を熱源とする方法もあり、石蒸し料理として現在も伝えられている地方もある。食物に火を通すことを覚えたことは、人類にとって重大な進歩だった。単に火を通すことで食味が良くなるだけではなく、それまで生では食べることの困難だった穀物や豆、芋など多くのものが食用可能になり[13]、さらに動物の肉や魚などに火を通すことで寄生虫や病原菌の危険なしにこうした食物を摂取することができるようになった。こうした加熱消毒は現代においても調理の重要な一側面である。調理(料理)では、火の強さの調整(火加減)の巧拙は料理の出来に大きな影響を及ぼす。米の炊飯では、日本では伝統的に「はじめチョロチョロなかパッパ、ぶつぶついうころ火を引いて、一握りの藁燃やし、赤子泣いても蓋とるな」などと言われた。山火事などで焼けた土地には草原ができ、これは草食動物のエサ場となり、当時まだ狩猟のみに頼っていた人類においては見逃せないほどの食糧供給の増大をもたらした。山火事が幾度も繰り返されるうちに人々はこのことに気づき、こうして人類の一部は適当な時期を見計らって野焼きを行って人為的に草原を維持するようになった。やがて森林地域においてもこの方法が持ち込まれたが、立木や生木を燃やすのは困難を極めるので、あらかじめ木を切り倒しておき、それを乾燥させてから火を放つようになった。さらに農業がこの地域に持ち込まれると、この野焼きによって空いたところに穀物や芋などを植え、畑とするようになった。これが焼畑農業の起源とされている。火を放つことによって地面に残された灰は良い肥料となり、このため焼畑を行った土地においては数年間は良い収穫を得ることができた。やがて地力が落ちてくるころになると畑は放棄され、新たな土地の木を切り倒してそこを新しい畑とする。放棄された畑には数十年後には再び森林が生い茂り、数か所を回ってきた人間がふたたびそこに火を放って畑にするといった形で循環がおこなわれていた。焼畑農業は現代においても熱帯地域を中心に広く行われているが、サイクルが短くなったため地力の消耗を招き、また森林火災を招き地球温暖化にも悪影響をもたらすとされ、しばしば問題となっている。燃料に点火することで利用可能なエネルギーが放出される。先史時代から木材が燃料として使われている。石油、天然ガス、石炭といった化石燃料が火力発電で使われており、今日の発電量の大きな部分を占めている。国際エネルギー機関によれば、2007年、10年前時点で全世界のエネルギー源の80%強が化石燃料だという。発電所では火によって水を熱し、蒸気を発生させてタービンを駆動する。タービンが発電機を駆動し、発電が行われる。外燃機関や内燃機関では火が直接仕事をする。他方、地球上の普通の環境は、火の温度に比べて遙かに低い。そのため火の周囲の温度が低下すれば火は消えやすい。たき火の場合には、ある程度燃えれば底にたまった灰が良い受け皿になる。これを応用してあらかじめ灰を敷いたところで火を燃やすのが火鉢などである。ちなみに、灰で火のついた炭を覆うことで、火を完全に消さないままに長時間保存できるうまみもある。生命はしばしば火に喩えられる。また、火も生命にたとえられる。炎が動く様、燃料を消費しつつ燃えるのが摂食しつつ活動するのに似ていること、火が消えることでそれらの動きが消えることと死の類似などによると思われる。(感想)人類は、「火の発見」とその安全な使用により、「文明」を得たが、「火」を「安全に」使用できる、ごく少数の人類を除いては、すでに、「トリ」に退化しているか、滅亡している。

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日本文化史170304

2017-03-04 05:05:34 | 日記

石川の日本史文化史。2001年のCDだから、16年前だ。蘇我氏の独裁体制。四天王寺、伽藍、がらん、が建てられる。儒教は、律令として建てられる。「渡来人」。602。17条憲法、「熱く、敬え」。歴史書には書いていないが、「火」。2016年9月20日のブログを加筆修正した。火、ひ、ウィキペディアより。人類は火の使用により、照明、暖を取る、獣から身を守る、食物に火を通すなど多くの利益を得た「火」の使用により初めて人類は文明を持つ余裕を持てた。」と考える人もおり、火を文明の象徴と考える人もいる。これはギリシャ神話における「プロメーテウスの火」の話を思い起こさせる。その後も火は人間の生活の中で非常に大きな地位を占め、水の供給と共に火を起こすための燃料の確保は全ての時代において政治の基本となっている。とくに20世紀中盤以降はもっとも広く使用される燃料は石油であり、石油を産出する産油国はその生産によって莫大な利益を上げ、また石油価格の上下は世界経済に大きな影響を及ぼす。火の利用、用途、火の利用は、大きくは二つに分けられる。一つは光源であり、その炎から発する光を利用するものである。もう一つは熱源であり、燃焼による発熱を利用するものである。もっとも古い火の利用は、おそらく焚き火の形であり、これはその両方に利用された。現在でもキャンプにおける重要な事項の一つが焚き火の確保である。火の利用の始まり人類がいつごろから火を使い始めたのか、はっきりした事は解っていない。人類が突如、火起こしをはじめたとは考えにくいため、初期の火は落雷や山火事によって燃えている木の枝などを住居あるいは洞窟に持ち帰り、火種として保存していたと考える人も多い。現在、火を使用した痕跡として発見されている最古のものは、南アフリカ、スワルトクランス洞窟の160万年前、東アフリカのケニア、チェソワンジャ遺跡の140万年前、エチオピアのミドル、アワシュ、イスラエルのゲシャー、ベノット、ヤーコブ炉跡といったものがホモ、エレクトスと云われており、一説にはホモ、ハビリスまでさかのぼることができるという人もいる。また北京原人の発見地では、非常に厚い灰の層が発見されており、火を絶やさぬように燃やし続けたためではないかとの説もある。光源として、ごく初期には焚き火がそのまま光源として用いられたと思われる。その薪を持ち上げれば松明になる。その後明かりの燃料としては油が使われるようになり、ランプや行燈などは昭和初期までは現役であった。他に蝋燭も明かり用の火を作るもので、これは現在でも停電時に重宝する。現在では明かりの主力は電気であるが、蝋燭は宗教行事では多用するし、薪能のように松明の明かりの雰囲気を楽しむ例もある。生活用熱源として、火の生活用熱源としての利用には二つある。ひとつは暖房のためであり、もう一つは調理のためである。たき火は暖を取るためにも使えるが、炎が大きいとあまり近寄ることができない。むしろ炎が小さくても長くじっくり燃える小さな火が望ましい。燃えても炎が出ない炭はそのために有効だったと考えられる。さらに火を弱く長持ちさせるために灰に埋める方法がとられた。部屋全体を暖かくするような暖房には、より激しく燃える火が必要になる。しかし室内で炎が上がるのは危険なので、火を閉じこめた上で激しく燃やすためにストーブや暖炉が作られた。液体燃料や気体燃料は、それを十分安全に供給する仕組みが発達するまでは利用されなかった。現在ではむしろこちらが主力である。電気はこちらではそれほど燃料の代替をしていない。人類は、「火の発見」とその安全な使用により、「文明」を得たが、「火」を「安全に」使用できる、ごく少数の人類を除いては、すでに、「トリ」に退化しているか、滅亡している。

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人類史170304

2017-03-04 04:39:47 | 日記

人類史。2016年12月13日のブログを加筆修正した。直立二足歩行をする人類は、アフリカに誕生した。猿人、アウストラロピテクスという。原人は、氷河期を乗り切った。20万年前、ネアンデルタール人などが現れた。4万年ほど前に現れた人類を、「新人」という。新人は、まもなく、全世界に住み着いた。約1万年前に、自然環境が大きく変化した。9,000年前に、農耕、牧畜を始めた。獲得経済から、農耕経済に変わった。同時に、人口が増えたが、環境破壊が始まった。メソポタミアで、灌漑農耕が始まり、「国家」という仕組みが始まった。文明には、「都市」が発生し、「文字」が発明された。これから、歴史が始まった。そして、「人種」による分類が始まった。「黒色人種」と、「白色人種」と、「黄色人種」である。ただ、科学的根拠はない。言語グループを「語族」という。古代文明でもっとも古いのは、オリエント文明である。パレスチナは、後に、キリスト教となった。ギリシャ文明から、直接民主制が始まった。イタリアのローマは、地中海全体を統一した。紀元元年ころ、イエスキリストが、「火」を用いた。ローマ文明は、ヨーロッパ文明の直接の母体である。オリエントとは、「日の登るところ、東方」という意味である。チグリス川、ユーフラテス川のあるところである。シュメール人の都市国家。シュメール、Sumer、紀元前4,000年期にメソポタミア南部に侵入した民族。紀元前3,000年紀に、多くの都市国家を建設し、楔形文字を初めて使用するなど、高度な文明を築いた。また、その支配した地方のこと。スメル。ナイル川に、エジプトが成立した。シリアは、カナーン人である。イエスキリストが「火」を用い始めてから、約2017年後くらいに、人類が滅亡した。人類は、「文字」と「言葉」を失い、直立二足歩行と、少しばかりの道具が使える、「おし」、「文盲」、「ロボット」、「鳥」へと、退化した。

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NHKニュース170303

2017-03-03 22:14:54 | 日記

NHKニュースウォッチナイン。大阪の国有地問題。工事のおじさんたちが、真面目に働いていてよかった。業者側は、ごみの撤去が終わる予定は、未定だという。平成25年8月5日の記録。自宅周辺の時計で計算すると、2013年、4年前の記録という計算になる。奥さんのへそくりなんて、いいじゃん。一般に、へそくりをする奥さんって、しっかりものじゃないの?蓮舫代表。なんか、女の戦いに持ち込むと、面倒になるぞ。始めるのは、担当者でもできるから、「やめる」決断だけは、トップがやって。キムジョンナム氏殺害事件。キムウギル容疑者。警察が、「朝鮮出兵」をやっちゃったから、北朝鮮側が停戦しても、なかなか終わらないんだ。戦争は、撤退戦が難しい。キムウギル容疑者。警察もトップが「止める」と言わない限り、やめられない。とにかく、撤退戦は、難しい。北朝鮮のことは、北朝鮮の内政問題です。アド、マチダ氏。2017年2月28日のスピーチ。「単純に、トランプ大統領は、安倍総理が好きなのではないか」という。「国際関係でも、よき、equalなパートナーではないか」。「蕨岱、わらびたい駅」が、今日で終了する。「駆け引き」って、女性用語なんだ。「恋の駆け引き」。一般に、敗戦国の賠償金は高い。私が調べた限りでは、(1)電話、(2)電気、(3)ガス、(4)水道は24時間、動いているので、後は、働いて返すことだね。

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