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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 012 (修正版)

2015-04-09 18:08:49 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人の身は百年を以、期とす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ此如くみじかきや。是、皆、養生の術なければなり。短命なるは生れ付て短きにはあらず。十人に九人は皆みづからそこなへるなり。ここを以、人皆養生の術なくんばあるべからず。

人生五十にいたらざれば、血気いまだ定まらず。知恵いまだ開けず、古今にうとくして、世変になれず。言あやまり多く、行悔多し。人生の理も楽もいまだしらず。五十にいたらずして死するを夭と云。是亦、不幸短命と云べし。長生すれば、楽多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なる事も、長生せざれば得がたし。ここを以、養生の術を行なひ、いかにもして天年をたもち、五十歳をこえ、成べきほどは弥、長生して、六十以上の寿域に登るべし。古人長生の術ある事をいへり。又、人の命は我にあり。天にあらず、ともいへれば、此術に志だにふかくば、長生をたもつ事、人力を以、いかにもなし得べき理あり。うたがふべからず。只気あらくして、慾をほしゐままにして、こらえず、慎なき人は、長生を得べからず。

(解説)

 貝原益軒が『養生訓』を執筆したのは、自身が八十三・四歳の頃でした。亡くなったのが、正徳四年(1714年)ですが、その頃、寛文十一(1671)年から享保十(1725)年の二歳児の平均余命は、男は約三十七才、女は二十九才と速水融氏によって計算されています。益軒は、今の時代から見ても長寿でしたが、きっと当時の人々は、益軒に信じられないほどのありがたさを感じたことでしょう。

 人の寿命について考察している文献で、最古のものの一つ、『素問』上古天真論―戦国時代から前漢にかけてまとめられたとされる医学書―には、黄帝と岐伯という太医の対話が、以下のように記されています。

 黄帝は、岐伯に訊ねた。

「余聞く、上古の人、春秋、皆百歳を度えて、而かも動作衰えず。今時の人、年半百にして動作皆衰うる者は、時世異なるか、将た、人之を失するか」

 現代から二千年以上前に、なぜ昔の人は百歳まで衰えずに生きられたのか。なぜ今の人は五十歳にもなると老衰するのかということを疑問に感じていました。そして岐伯は答えます。

「上古の人、其の道を知る者は、陰陽に法り、術数に和し、食飲に節有り、起居に常有り、妄りに作労せず。故に、能く形と神と倶にして、尽く其の天年を終えて、百歳を度えて乃ち去る」

 岐伯は、昔の人は、天地の陰陽の法則に従い、様々な養生術に調和し、飲食をほどほどにし、規則正しい生活をし、過労しないために、百歳まで生きられるのだ、と簡潔に説明し、それから今の人が、その半分の年で衰えてしまう理由を述べました。

「酒を以て漿と為し、妄らを以て常と為し、酔いて以て房に入り、欲を以て其の精を竭くし、耗を以て其の真を散じ、満を持つを知らず。神を御するに時ならず。務めて其の心を快にし、生楽に逆らい、起居に節無し、故に半百にして衰うるなり」

 岐伯は続けて、老化しないための聖人の教えを紹介します。

「虚邪賊風、之を避るに時有り、恬惔虚無なれば、真気之れに従い、精神内に守り、病安くんぞ従い来たらんや。是を以て、志、閑にして少欲、心、安らかにして懼れず、形、労して倦まず、気従いて以て順、各其の欲に従いて、皆願う所を得る。故に其の食を美しとし、其服を任せ、其の俗を楽しみ、高下相い慕わず、其の民、故に朴と曰う。是れを以て嗜欲は其の目を労すること能わず。淫邪其の心を惑わすこと能わず。愚智賢不肖、物に懼れず。故に道に合す。所以、能く年皆百歳に度たりて、動作衰えざる者、以て其の徳は全うして危うからざるなり」

 これらが、益軒が『養生訓』で繰り返し述べたことの基本です。徳川家康に仕えた天海の寿命は百八歳、同時代の医師、永田徳本は百十八歳前後でしたが、益軒が、誰もが百歳の長寿が可能であると考えた根拠がここにあり、「人の身は百年を以、期とす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり」と、言ったのです。

 杜甫は、「人生七十古来稀」と『曲江詩』の中で詠みました。七十歳のお祝いを「古稀」と言いますが、この杜甫の詩が由来です。また、孔子は、七十四にて亡くなりましたが、こう言っています。

「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」

 聖人の一人として数えられる孔子ですら、五十歳で「天命を知り」、本当の人生が始まったのです。それ故、益軒は、「五十なれば不夭」と言い、それ以前に死んでしまうことを「わか死」と言ったのです。また、孔子は『論語』において、「君子に三戒あり。少き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは血気方に剛なり、これを戒むること闘に在り。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得に在り」と言いました。益軒は、五十未満が若いとするならば、「五十にいたらざれば、血気いまだ定まらず」、特に色欲を戒しめて養生するべきであると考えたのでした。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


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