張横渠(1020-1077年)は宋代の唯物論哲学者です。彼は全てのものごとを対立する相互関係として理解しようとしました。どうも易の影響を多く受けているようです。
「物に孤立の理なし。同異、屈伸、終始もってこれを発明するに非ざれば、物といえども物に非ざるなり。事は始卒をありて乃ち成る。同異、有無、相感ずるに非ざれば、即ちその成を見ず。その成を見ざれば、即ち物といえども物に非ず。故に曰く、屈伸相感じて利生ずと。」(『正蒙』動物篇)
というように、彼はその対立するものの両方を明白に認識し、統一することでものごとの本質に迫ろうと思いました。例えば善悪に関しては、善も悪も単独では存在しえないものなので、善についても悪についてもよく認識しようとします。またそれは自己の内外についても当てはまります。つまり主観と客観の対立の統一をはかります。そして自己の本質に近づくことが自己の外のものごとの本質に近づくことと同一になりました。これは程伊川(1033-1107年)や朱熹のいう「格物致知」の思想と似ています。
さてそれは置き、張横渠といえば気の哲学で有名です。それは朱子学の根幹を形成しているとともに江戸期の儒家に大きな影響を与えたようです。江戸時代に入ると医師の仕事は儒家の手に渡っていきました。そして朱子学、陽明学に関わらず儒学を学んだ医師(儒医)もその気の哲学を受け継いでいるのではないかと思われます。
その気の哲学は何なのかというと、万物は気によって構成されているということです。宇宙は空虚なのですが気によって満たされて、その気の集合と離散によって万物は生まれ死んでゆくと考えました。これは『荘子』に由来するかもしれませんが、張横渠は気とはとても小さい粒子状の物質として定義して考えたようです。その当時の気については神秘性は全くありませんでした。
これはデモクリトス(BC460-370頃)の原子論と全く同じレベルのものごとの説明方法です。原子論は後にジャン・ぺラン(1870-1942年)によって実証されました。そして原子は陽の電荷を持った原子核(陽子と中性子からなる)と陰の電荷を持った電子から構成されています。
気も陰と陽の二つに大別して考えられていました。したがって陰の気は電子であり、陽の気は陽子なのでしょうか。そうではないでしょう。これらの二つは観測のレベルが異なります。故にものごとの解釈が異なっていても当然であり、単語の定義つまり思想の切りとり方も異なるのです。
(ムガク)