数年前から急に生理痛が重くなり、レディースクリニックに通い始めたのが2年半前。
加齢による体質変化で生理痛が重くなることはよくあることで、恐らく関係は無いものの数ミリ程度の“筋腫の芽”がいくつかあると判明。
すぐさま子宮筋腫になることは無いだろうけど、普通の人よりかは1~2割程度妊娠できる割合が落ちるかもしれないと言われ、漢方薬を処方され経過観察となりました。
1年近く通院したとある時、基礎体温をつけてひたすら漢方薬を飲むだけの診察にも疑問を抱き始めていたその頃(最近どう?→変わりないです。のような問診のみで生理痛もあまり改善されている感じが無かったし)…その病院の受付で保険証の取り違えをされ(受診前に出したが会計時に戻ってこなかったので、探してもらった所、違う患者さんへ渡っていたことが判明)、それが決定打となりセカンドオピニオンと言うか転院を決意。
次に通院したクリニックでは、“双角子宮”でかつ、血液検査で“高プロラクチン血症”とわかる。
双角子宮とは、普通子宮は卵型なのですが、私の場合生まれつき双角…いわゆるハート型で、妊娠しても流産しやすい・育つ部分が卵形に比べて狭くなってしまうため早産しやすい形の子宮なのだそう。
そして高プロラクチン血症…母乳を出すホルモン濃度が非妊娠時の基準値より高いらしく(基本、母乳が出ている間は妊娠しないでしょ?)、これまた不妊の原因だそう。
その時点では自分が不妊もどきだとも思っていなかったし、あくまで生理痛改善のための通院であったので、「あ~、そうなんだ」程度にしか思わなかったけど、先生の「子供を全く考えないと言うのでなければ治療して、年齢もあるし早めに子供も考えたほうがいい」との方針で自動的に投薬治療へ。
(後から知ったのだけど、先生自身も不妊で子供が授からず諦めたばっかりだったらしい。プロとして皮肉なもんだよね…)
投薬治療の効果あって2ヵ月後にはホルモン濃度も基準値まで下がりました。
先生は基礎体温表を見るたび「また来月がありますよ!」みたいに励ましてくれたけど、実は私、そんなに積極的に子供望んでいたわけでもなく…まぁ出来たら出来たで考えよう、程度だったんですよね(^^;
それよりも、妊娠がわかった時が驚いた。
月のモノが来ないので、ほぼ確定だとは思ったし、かなり早い段階でわかっていたのだけど、それこそ…いつの?!…みたいな(爆)。
震災の影響で連日放射能の話題で持ちきりだったし、相方も復興の仕事で被災地にしばらく行っていたし(被災地の方には本当申し訳ないけど、体への影響がホントに無いのだろうかとも思った)、こんな時に子供が出来て大丈夫なんだろうか、と。
仕事もちょうど夏季休暇を取得できる期間で、沖縄行こうかグアム行こうかなんて考えていた矢先で(それから子作り?)、すべてが白紙になりガッカリ(笑)。
それより…妊娠を甘く考えていたので、この時期まだ気づかない人だっているよなぁと普通に生活をしていたら、7週目いきなり大出血で切迫流産に。
夏休みは自宅安静ですべて消え、会社への報告も余儀なくされたのでした。。。
切迫流産のピンチを乗り越えると3ヶ月ほど普通に元気に生活出来たのですが、前述の12/16検診の日に22週で子宮口がすでに開き始めている&頚管長が2センチまで短くなっているとのことで切迫早産・緊急入院となり2ヵ月半に渡る入院生活とその後1ヶ月の自宅安静療養となったのでした。
入院と言われても自分自身が元気だったし、妊娠や切迫流早産にに対する予備知識もほとんど無かったので危機感はあまり無く…いや、危機感は結局出産するまで薄かったかもしれないです。←深く考えない、なるようにしかならないと思う性格が良かったのかも。たまには考える日もあったけどね。
まぁ、それこそT大病院でダメなら、しょうがないだろう…と。
切迫早産の原因は“子宮頚管無力症(疑い)”だそうで大きくなるお腹に子宮口と頚管が耐えられない体質ではないかとのことでした。
今思えば、“筋腫の芽”・“双角子宮”・“高プロラクチン血症”・“子宮頚管無力症(疑い)”と、ひとつひとつは大きな不妊の原因とはならないものの、私は妊娠・出産に適したカラダでは無かったんだなぁと思います。
出産時も後から聞けばトラブル続きだったみたいだし(^^; (出産記録参照)
家族や周りの親しい友人達は安産で子沢山な人が多く、私自身妊娠出産を安易に考えていただけに…ね。
入院時、同部屋のUさんと連日深夜までのガールズトーク(?)で、自身の状況を「絶対、妊娠出産に向き不向きがあるよね!」「普通の人はそんなことも気がつかないよね?!」「うちらなんて次の出産があるか、出来るかさえわからないけど、次も絶対同じ道(長期入院や帝王切開予定)になるもんね~」なんて語り合いました(笑)。
「それこそ、そんなウチらのお腹に今も居る位だから生命力の高い子であることは間違いないよね!」なんて励ましあったり。
Yさんは私が入院となった22週よりもさらに早い段階18週での入院。
自身の前回24週で死産であったという辛い経験を話してくれたのですが、その後状況の悪化、一進一退に前回のお産を思い出してはナーバスになる日が多くなり、私も隣で何も出来なくて歯がゆい辛い日々を送りました(Yさんは今も入院療養中。もうひと頑張りです!)。
変な話、最悪の状況で死産になってしまった場合、出生届と死亡届を同時に出さなきゃいけないなんて、普通知らないでしょ?!
私も聞くまで知らなかったし、そんな辛いなか、そんな辛いことしなきゃいけないんだと、頭を殴られたような衝撃でした。
その話を聞いた時、頭が真っ白になってかける言葉が何も浮かばなかったです。
今度こそ、無事に元気な赤ちゃんを産んでほしい、心からそう思います。
以前読んだ海堂尊さんの小説【マドンナ・ヴェルデ】。
妊娠出産することそのものが『奇跡』だと言うこと、ホントそうなんですよね。
私自身、いわゆる普通の妊娠・出産していたら絶対にわからなかったこと、気づかなかったことです。
強がりとか負け惜しみではなくて、この入院生活になったことで、その『奇跡』を感じることが出来て…経験することが出来て私の財産になりました。
自分の経験上、兄弟が居た方が絶対いいし、もう少しラクに妊娠生活を送ることが出来るなら2人目もいいけど…こればっかりは体質も年齢もある授かりものだからどうなるのかな?結構厳しいかもな…というのが今の心境です(^^;
加齢による体質変化で生理痛が重くなることはよくあることで、恐らく関係は無いものの数ミリ程度の“筋腫の芽”がいくつかあると判明。
すぐさま子宮筋腫になることは無いだろうけど、普通の人よりかは1~2割程度妊娠できる割合が落ちるかもしれないと言われ、漢方薬を処方され経過観察となりました。
1年近く通院したとある時、基礎体温をつけてひたすら漢方薬を飲むだけの診察にも疑問を抱き始めていたその頃(最近どう?→変わりないです。のような問診のみで生理痛もあまり改善されている感じが無かったし)…その病院の受付で保険証の取り違えをされ(受診前に出したが会計時に戻ってこなかったので、探してもらった所、違う患者さんへ渡っていたことが判明)、それが決定打となりセカンドオピニオンと言うか転院を決意。
次に通院したクリニックでは、“双角子宮”でかつ、血液検査で“高プロラクチン血症”とわかる。
双角子宮とは、普通子宮は卵型なのですが、私の場合生まれつき双角…いわゆるハート型で、妊娠しても流産しやすい・育つ部分が卵形に比べて狭くなってしまうため早産しやすい形の子宮なのだそう。
そして高プロラクチン血症…母乳を出すホルモン濃度が非妊娠時の基準値より高いらしく(基本、母乳が出ている間は妊娠しないでしょ?)、これまた不妊の原因だそう。
その時点では自分が不妊もどきだとも思っていなかったし、あくまで生理痛改善のための通院であったので、「あ~、そうなんだ」程度にしか思わなかったけど、先生の「子供を全く考えないと言うのでなければ治療して、年齢もあるし早めに子供も考えたほうがいい」との方針で自動的に投薬治療へ。
(後から知ったのだけど、先生自身も不妊で子供が授からず諦めたばっかりだったらしい。プロとして皮肉なもんだよね…)
投薬治療の効果あって2ヵ月後にはホルモン濃度も基準値まで下がりました。
先生は基礎体温表を見るたび「また来月がありますよ!」みたいに励ましてくれたけど、実は私、そんなに積極的に子供望んでいたわけでもなく…まぁ出来たら出来たで考えよう、程度だったんですよね(^^;
それよりも、妊娠がわかった時が驚いた。
月のモノが来ないので、ほぼ確定だとは思ったし、かなり早い段階でわかっていたのだけど、それこそ…いつの?!…みたいな(爆)。
震災の影響で連日放射能の話題で持ちきりだったし、相方も復興の仕事で被災地にしばらく行っていたし(被災地の方には本当申し訳ないけど、体への影響がホントに無いのだろうかとも思った)、こんな時に子供が出来て大丈夫なんだろうか、と。
仕事もちょうど夏季休暇を取得できる期間で、沖縄行こうかグアム行こうかなんて考えていた矢先で(それから子作り?)、すべてが白紙になりガッカリ(笑)。
それより…妊娠を甘く考えていたので、この時期まだ気づかない人だっているよなぁと普通に生活をしていたら、7週目いきなり大出血で切迫流産に。
夏休みは自宅安静ですべて消え、会社への報告も余儀なくされたのでした。。。
切迫流産のピンチを乗り越えると3ヶ月ほど普通に元気に生活出来たのですが、前述の12/16検診の日に22週で子宮口がすでに開き始めている&頚管長が2センチまで短くなっているとのことで切迫早産・緊急入院となり2ヵ月半に渡る入院生活とその後1ヶ月の自宅安静療養となったのでした。
入院と言われても自分自身が元気だったし、妊娠や切迫流早産にに対する予備知識もほとんど無かったので危機感はあまり無く…いや、危機感は結局出産するまで薄かったかもしれないです。←深く考えない、なるようにしかならないと思う性格が良かったのかも。たまには考える日もあったけどね。
まぁ、それこそT大病院でダメなら、しょうがないだろう…と。
切迫早産の原因は“子宮頚管無力症(疑い)”だそうで大きくなるお腹に子宮口と頚管が耐えられない体質ではないかとのことでした。
今思えば、“筋腫の芽”・“双角子宮”・“高プロラクチン血症”・“子宮頚管無力症(疑い)”と、ひとつひとつは大きな不妊の原因とはならないものの、私は妊娠・出産に適したカラダでは無かったんだなぁと思います。
出産時も後から聞けばトラブル続きだったみたいだし(^^; (出産記録参照)
家族や周りの親しい友人達は安産で子沢山な人が多く、私自身妊娠出産を安易に考えていただけに…ね。
入院時、同部屋のUさんと連日深夜までのガールズトーク(?)で、自身の状況を「絶対、妊娠出産に向き不向きがあるよね!」「普通の人はそんなことも気がつかないよね?!」「うちらなんて次の出産があるか、出来るかさえわからないけど、次も絶対同じ道(長期入院や帝王切開予定)になるもんね~」なんて語り合いました(笑)。
「それこそ、そんなウチらのお腹に今も居る位だから生命力の高い子であることは間違いないよね!」なんて励ましあったり。
Yさんは私が入院となった22週よりもさらに早い段階18週での入院。
自身の前回24週で死産であったという辛い経験を話してくれたのですが、その後状況の悪化、一進一退に前回のお産を思い出してはナーバスになる日が多くなり、私も隣で何も出来なくて歯がゆい辛い日々を送りました(Yさんは今も入院療養中。もうひと頑張りです!)。
変な話、最悪の状況で死産になってしまった場合、出生届と死亡届を同時に出さなきゃいけないなんて、普通知らないでしょ?!
私も聞くまで知らなかったし、そんな辛いなか、そんな辛いことしなきゃいけないんだと、頭を殴られたような衝撃でした。
その話を聞いた時、頭が真っ白になってかける言葉が何も浮かばなかったです。
今度こそ、無事に元気な赤ちゃんを産んでほしい、心からそう思います。
以前読んだ海堂尊さんの小説【マドンナ・ヴェルデ】。
妊娠出産することそのものが『奇跡』だと言うこと、ホントそうなんですよね。
私自身、いわゆる普通の妊娠・出産していたら絶対にわからなかったこと、気づかなかったことです。
強がりとか負け惜しみではなくて、この入院生活になったことで、その『奇跡』を感じることが出来て…経験することが出来て私の財産になりました。
自分の経験上、兄弟が居た方が絶対いいし、もう少しラクに妊娠生活を送ることが出来るなら2人目もいいけど…こればっかりは体質も年齢もある授かりものだからどうなるのかな?結構厳しいかもな…というのが今の心境です(^^;