空の洪水

春名トモコ 超短編、日記など

台風 (超短編)

2005年07月31日 | 超短編
 台風十七号は『光』を吹き飛ばすでしょう。
 天気予報のお姉さんがそう言うので、あたし達はホテルの十五階で接近を待った。
 去年の台風はすごかった。夜に最接近したので、地上に散らばる無数の光がすべて暴風に飛ばされ、空に舞い上がったのだ。台風が去ったあと、光は雪のように落ちてきた。今回も真夜中に上陸するらしい。ホテルの上層階は予約でいっぱいだ。
 窓の前で、ふたり並んで外を見ている。街路樹が揺れだした。大粒の雨がなぐるように降りだす。でもなかなか光は風にのらない。
 おかしいね。と言ったつもりだったのに、声がでなかった。声だけじゃない。風のうなりも時計の秒針もテレビの音も、全部なくなっている。天気予報がはずれたのだ。さらわれたのは『光』ではなく、『音』だった。
 風が落ち着くと、部屋のどこかで羊がなきだした。それは電話から聞こえる。彼が受話器をあげる。口からピアノが流れ出した。笑ったあたしの声はクラクションだった。飛ばされた音は、みんな元に戻れなくなったらしい。
 台風十七号の被害は深刻だ。

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産経新聞 2002年9月14日 夕刊 掲載分

涙 (超短編)

2005年07月13日 | 超短編
 やばい。と思った時には手遅れで、夕闇のなか、地面に落ちる影が青みがかっていると気づいた途端その影に引きずり込まれぐにゃりと俺の中で何かが入れかわった。
 瞳孔が開きっぱなしになって、走り去る車のヘッドライトの残像がどこまでも長く長く伸びて不安定に流れていく。視界は白い光の残像で埋め尽くされ伸びた線が目の中に飛び込んできた。光の線は次々と俺の中に入り、蹂躙していく。目を閉じる。耳を塞ぐ。ぎりぎりと瞼に込めた力で網膜に焼きついた光を消滅させようとする。
うわあああああと声をあげそうになる寸前。

 静寂は唐突にやってきた。
 そこは海のようだった。どこまでも続く浅瀬の中に少女がひとり座っていた。目を閉じている少女は、何かに祈りを捧げているようにも見えた。水底から見上げたような空には、滲んだ月が漂っている。
 静かだった。風も波もない。
 ずいぶん深いところまで潜ってしまったようだ。
 涙の海。
 彼女が俺のために何を祈っているのか俺は知らない、そうじゃない。忘れた。
 俺の中であばれる光線がサーチライトのようになにかを求めさまよい空に広がる薄雲を照らす。
 帰らなければ。あの月の向こう。外側の世界に。涙の海に波が立つ前に。

 動けずにいる俺の前で、少女がゆっくりと目を開く。

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トーナメント3回戦のお題の中のひとつ「祈り」を見たときに思いついた話です。

金魚すくい (超短編)

2005年07月10日 | 超短編
 彼女の浴衣に描かれた金魚がするりと逃げたので、僕は人込みをかきわけて追いかける。金魚は金魚すくいの水槽に飛び込んでしまった。中には無数の赤や黒いのがひらひらと舞っている。
「あれだわ」
 彼女が一匹の赤いやつを指さす。僕には違いが分からないけれど、テキ屋のおやじに紙のすくい網をもらって捕まえようとした。だが金魚が多すぎて見失う。
 はねた金魚に指先をかまれた。血がもりあがり玉を結ぶ。水に落ちるとゆらりと赤い金魚に変わって泳ぎだした。彼女が僕の手をつかみ、指先を口に含んだ。傷口をちろりとなめる。しびれがそこから全身に広がっていく。彼女の顔を見る。ぬらりと濡れたくちびるの赤は、さっきのりんごあめのせいなのか? 頭がしびれて分からない。これは誰だ。
「ねえ、早く。あたしの金魚は?」
 甘えた声で言う彼女の口のはしから、一瞬赤い尾びれがはみ出る。
 水槽の底から金魚が湧いていた。次々と湧いて地面にあふれていく。それを見て彼女は笑う。いつまでも金魚は湧き続ける。
 僕には彼女の金魚を見つけることができない。