空の洪水

春名トモコ 超短編、日記など

桃色涙 (超短編)

2006年10月13日 | 超短編
 部活から帰ってきたら誰もいなくて、ソファの上にカバンを投げ出し窓の近くに寝転がった。西の空。イチゴミルクの雲。水色の空はソーダ水みたいで。部屋の中は刻々と暗くなっていく。いつも鼻歌まじりに夕食を作っている母がいない。
 たとえば。夜遅く塾から帰ってきたわたしが玄関を開けると、血まみれの父が倒れている。リビングには母と姉。何ヵ所も刺されて、なにもかも赤く染まっている。犯人はつかまらない。ショックでわたしは声が出なくなる。でも健気に生きていくのだ。やめられない想像ごっこ。
 夕明かりを吸い込んで、窓ガラスが水あめみたいにやわらかくなる。とうとう穴が空いて、極甘の夕焼けが部屋の中に入ってきた。あたたかくて優しい夕暮れと血まみれの妄想が混ざってリビングいっぱいに満ち、ぞわぞわ、わたしの中で蠢くもの。膨れあがって、息苦しくなるぐらい。甘い空気がのしかかる。暗いキッチン。メモひとつなく。赤い妄想に飲み込まれたわたしからこぼれ落ちたものは、化膿した傷のようなにおいがした。
 夕雲が黒く塗り潰されている。
 何も起こらない。何も起こらない。何も起こらない。

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500文字の心臓 MSGP2006 準々決勝
「桃色涙」
家族愛がテーマであること