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好友会 日本語教室

長野県飯田市 竜丘公民舘に教室があります。
中国語を母語とする方の日本語学習をお手伝いします。

帰国者の宅老所(6)

2006-01-13 16:21:02 | 帰国者
「ふれあい街道ニイハオ」が私達の宅老所の名称です。運営に当たっては、帰国者1世の人達だけを対象にするには、経営として成り立ちません。近隣の日本人のお年寄りにも来て頂く必要がありました。そのため、Fさんは精力的に地域の人達に声を掛けました。近隣の多くの人達が呼応してくれました。
中国帰国者だけの宅老所ではなく、近隣の一般日本人を取り込んで、一緒に心置きなく語り、楽しめる宅老所も一つのあり方だと考えたからです。同じ世代が大きく隔たった自分達の歴史を語り合い理解しあうことの大切さも必要だと考えています。
宅老所正式オープン前にこの人達に来ていただき茶菓を一緒に頂きながら色々なご意見をいただきました。勿論帰国者の人達にも来て頂きました。このお試し会には、食事つくりのボランティア、送り迎えのボランティア、来所者に直接対応するボランティアなど、各理事も色々な場面で活動しました。その間、家の改修も行われ、H17年9月19日敬老の日を機に宅老所の内覧会を成功裏に行うことが出来ました。
帰国者1世の人達は週1,2回継続的に来られるようになりました。朝二台のニイハオの車が、この人達をお連れします。
朝来所すると直ぐに、血圧など体の健康状態を調べます。皆で朝のひと時、お茶を頂きながら雑談をしたり、そなえつけの歌集で歌を歌ったり、その間お風呂に入ったり、その後昼食、休憩、Bさんの明るくて巧みな指導で体操やゲームなど楽しいひと時を過ごします。時にはI所長の発案で近くの公園などにも出かけることがあります。
語りつくせぬ苦労をされ帰国された1世の人達をここ託老所ニイハオに迎えて、帰国者2世やボランティアの人や近隣の人達の善意を受けながら懸命にスタートしました。
当面するお金の問題が重くのしかかってきています。皆様の寄付や有形無形のご支援を頂きながら何とかやり抜こうと、、、懸命な努力が続いています。
費用をかけない為の色々な工夫もされています。ゲームや遊びの道具は勿論、歌集なども手作りで用意しました。近くの農家から時々頂く農産物も素晴らしいおやつに変身して来所者を楽しませてくれています。一応建築改修は終わっても、あちこちに改善すべき所が発見されます。手に覚えのある理事の方が休みに出てきてはこつこつ修理に励んでおられます。今こんな努力がふれあい広場をささえています。

帰国者の宅老所(5)

2006-01-11 16:16:10 | 帰国者
NPOニイハオ設立に当たっては、大所から物を見、組織的運営にたけた人材を理事長にとの会長の強い意向から、人望を集めているNさんにお願いすることになりました。会長が自らお伺いし、立ち上げ時の志をお話して、賛同を頂き了解を得ることができました。N理事長の下で「NPO設立に向けての総会」も成功裡に執り行なうことができました。その後、ニイハオは、より具体的な展開をみせました。一つ目はNPOへの手続き開始、二つ目は拠点探しでした。
Kさんの精力的な準備を経て、H16年の年末にはNPOニイハオの登記が完了しました。
翌H17年3月、Kさんの友人の住宅をお借りすることが決まりました。場所は飯田市切石です。近くには常盤台団地、二つ山団地等があり帰国者1世の人達が多く住んでいるところです。陽当りも良く交通の便も良いところです。家主の方は私達の活動に理解を示され好条件でお借りすることができました。契約に先立ち、その地域の人達(区長、組長、組合の人達)に集まっていただきニイハオの計画を説明しご協力をお願いしました。
NPOニイハオのスタート事業を宅老所としました。その為の家屋改造が必要になります。トイレ、浴室、台所など、更には玄関から廊下にいたるバリアフリー設計等が求められています。改造費だけでも700万円を超える額になりました。設備、人件費など運営費用が更に数百万円必要となります。県や市からの助成金と会費を前提に信用金庫から金をかりました。
宅老所には職員が必要です、そしてボランティアも大切な役割を果たさなくてはなりません。通所のための移動車も必要です。

帰国者の宅老所(4)

2006-01-08 16:02:12 | 帰国者
平成16年に入りFさんは会長として、Hさんは通訳を兼ね、Kさんは介護の専門家として精力的に活動を始めました。
メンバーは飯田にあるデイサービス、グループホーム等の介護サービス施設を五箇所ほど見学しました。Kさんが私達の思いをお話しして交渉してくれました。皆こころよく見学させていただきました。トイレ、浴室、休憩室、運動するスペース、バリアフリー、そして歌やゲームなど学ぶことが沢山ありました。このような動きはメディアの知るところとなり、既に北方デイサービスで行われつつあった、1世を2世が介護支援する試行的現場がSBCスペシャル「老い先に保障を」で紹介されました。
一方、帰国者1世が多く住むといわれている集住地域(常盤台団地、二つ山団地)で「介護保険制度等の説明会」を行いました。この説明会では1世だけでなく2世の人達も集まってくれました。ホームヘルパー2級の受講募集もおこないました。その結果2名(H,Bさん)の方が、5月から飯田社協で行われた「ヘルパー養成講座」に参加し、両名とも2級に合格することが出来ました。
拠点施設、運営費、人件費などを考えれば、NPOへの展開が必要であることは当然のことでした。Kさんが中心となってNPO設立総会の準備に入りました。皆始めてのことで経験がありません。特にKさんは、設立趣意書、定款などそのたたき台を作るのに大変苦労されました。そして、H16年8月1日何とか「NPO設立に向けての総会」を行い、「中国帰国者等のための介護・福祉の会 ニイハオ」(以下ニイハオと称する)が誕生しました。


帰国者の宅老所(3)

2006-01-07 09:24:15 | 帰国者
長野県下伊那地方は戦前多くの満蒙開拓団を出したところです。そして、戦後残留邦人の帰国には、山本慈昭(阿智村)さんが率先して動かれた土地柄でもあります。Hさんの友人で同じ帰国2世のBさん、国際結婚で来日されたWさん、そして介護関係の会社をされているFさんの友人たちが参加してくれました。
月1,2回のペースでFさんの自宅にお邪魔して、介護の専門家であるKさんから話を聞いたり、どのような支援の仕方があるのか等の検討をしました。
訪問介護、中国製品の商売をしながら「たまり場」を作る、デイサービス、宅老所など色々なアイディアが出されました。
勿論資金があって始める事業ではありません。人、物(家)、金の中の「人」だけがもがき始めた段階です。それ以外はまだ目途が立たない状況でした。
こうした経過をへて、15年の暮れも押し詰まった12月27日第一回の発起人会「中国帰国者等のための福祉介護の会」を発足させました。
この時点での参加人員は8名でした。
Fさんが推されて会長になりました。帰国者2世のHさんが副会長になりました。

帰国者の宅老所(2)

2006-01-01 06:14:58 | 帰国者
 同じ平成15年のこと、Kさんは、お知り合いのFさん(介護関係の仕事をされている)に相談を持ちかけました。Fさんは、かねて中国帰国者に関心をお持ちでした。というのは、帰国者の多く住む市営団地をケアーマネージャーの方と訪問したことで、1世の人達が介護から置き去りにさられている実情を知っていたからです。
KさんとFさんは、早速行動に移りました。
・先ず、有志を募ること
・ 帰国者の人達の介護に関する現状を知ること
・ 取敢えずの活動拠点を決めること  等でした。
 有志の人の中に、帰国2世の人達に入っていただくことを優先的に考えました。2世の人達は、1世の窮状をより具体的に理解している、そして日本語がかなりのレベルで話せることを知っていたからです。既に、前報で述べたHさんが貴重なメンバーとして参加してくれました。
 そして、この2世の人達を通じて現状を理解しようとしました。しかし、何処にどのような人がいるかさえ分かりませんでした。
 活動拠点としてFさんのご自宅を利用させて頂くことになりました。今年3月飯田鼎切石にご厚意により民間のお宅をお借りしましたが、それまではFさんのお宅を利用させていただいた事は大変ありがたいことでした。

帰国者の宅老所(1)

2005-12-30 07:23:14 | 帰国者
平成15年の秋風の吹く時分でした。日本語教室にボランティアとしてきていたKさんが私に声をかけました。
「私は、介護の仕事をしていますが、最近中国帰国者の方から介護を受けたいがさっぱり分からないと、苦情を受けている。何か出来ませんかね?」と問いかけられました。
私達の竜丘日本語教室は、元々帰国者の人達の2,3世を対象に始まった日本語教室です。1世の人達の過去と現状を熟知している人達です。でも介護に関しては殆ど知りません。Kさんの提案は、この2世の人を中心にホームヘルパー2級の資格を取ってもらって、徐々に増えるであろう帰国者の介護支援をやりたいが一緒にやりませんかといものでした。
Kさんは、教室に来ているHさん(2世の奥さん、中国人)に直接声をかけてみました。これが「宅老所ニイハオ」の具体的なスタートになりました。
「宅老所ニイハオ」は今年9月飯田鼎きり石でスタートを切りました。中国帰国者1世の方々が通所して一日を楽しく過ごしいます。まだスタートを切ったばかりですから色々な問題を抱えています。ひとつひとつ解決するよう頑張っている最中です。

満州唱歌

2005-11-11 14:29:19 | 帰国者
 昨年の夏、Hさんのおばあちゃんが日本語教室に来てくれました。その時お手玉をしながら歌を歌ってくれました。中国残留婦人や孤児の人達の心の中には未だに残っている歌があるとお聞きしました。それはうろ覚えの子守唄であったり、童謡であったり、時には軍歌だったそうです。
 年があけて、暮に借りた本を返しながら図書館新入荷本の棚を覗いて見ると当時満州にいた子供たちのための唱歌が出ていたと云う本を発見しました。
 その書棚で手にしたのが「満州唱歌よ、もう一度」(産経新聞社特集部 喜多由浩著)という本です。渡満開拓団子女のための満州唱歌が当時の錚錚たる人達によって作詞・作曲されていたことを始めて知りました。それらは、決して戦意高揚を煽ろうとするものではなく、内地とはあまりにも違う風土に移り住んだ子弟に、そこを故郷とした新しい唱歌を与えようとするもののようでした。
 第一章・満州唱歌の成り立ち のところで、石森延男先生のことが書かれています。石森先生は飯田に住んでいた音楽で有名な羽場先生と深い交流がありました。それが「縁」で何回か来飯され講演もされています。今回「満州唱歌集」と石森先生、満州と残留孤児の幾重もの深い「縁」で飯田の地に繋がっていたのだなーとしみじみ感じ入りました。先生は大正15年(1926年)満州に渡り南満州教育会教科書編集部編集委員として、「満州補充読本」制作に携わったとありました。先生の言葉によれば「満州に生まれ、満州で育つ子供らは、この土地を愛し、この土地の良さに親しみを抱かなければ、よき故郷として郷土愛をもつまい。その郷土愛を養うためには、どうしても満州らしい風物や習慣、伝説、天候、四季感といったものになじませねばならない。」と述べられました。そして、相次いで作られていったのが「満州唱歌集」と「満州補充読本」だそうです。
        

みと さん(続き)

2005-11-04 12:14:10 | 帰国者
みとさんは、宅老所「ニイハオ」の常連になりました。何時も、お体の不自由なご子息と一緒に来られます。
今日は金曜日、とてもいい天気になり、宅老所に来られた人全員で「紅葉狩り」です。あいにくと私は別の仕事があって同道できませんでした。
みとさんは、杖を突きながらですか、すっかりハイキング気分で、人手も借りず元気に車に乗りました。
先週の來所日には、私達に、よそで習ってきた「たいそう」を教えてくれました。いま、盛んに介護しせつなどで、運動を取り入れるようになりましたが、なるほど手応えがありました。
「たいそう」なんてと、思っていましたが、真剣に考える必要がありそうです。 自分自身にとっても。


みと さん

2005-09-27 06:11:57 | 帰国者
 熊谷みとさんとお知り合いになったのは、もう7,8年も前のことです。私は、まだ、現役で技術関係の仕事をやっていました。毎朝散歩で家の周辺を30~40分ほど歩きます。糖尿病の進行をくいとめるためのものです。散歩コースの後半に、T建設という会社があります。その横に簡易的に建てられた住宅がありました。玄関脇の椅子に、いつも温和な顔をした老人が独り煙管タバコを吹かしていました。今時煙管タバコなんてと思い、又見かけも少し中国的なので、話しかけてみました。はたして、中国の方でした。みとさんのご主人でした。そんな偶然からみとさんと知り合ったのです。
みとさんは、昭和15年一家7人で渡満しました。10歳でした。渡満後3年ほどして、父と姉を病気で亡くしました。母が病弱なため幼くして一家を支える立場に立たされました。そして、終戦を迎え、あの死の逃避行が始まりました。このお話しは、「下伊那のなかの満州」聞き書き報告集1(飯田市歴史研究所発行)に詳しく述べられています。
みとさんは、終戦時15歳でしたが、しかし、学校で勉強する時間などありませんでした。今でも満足に字が書けないといいます。平成5年、万感の思いを胸に養父母の地・方正県を後にして永住帰国を果たしました。  
飯田市桐林のT建設に身を寄せました。長年使っていない日本語が口から出てきません。親切な方が字の読めないみとさんの為に、色々な歌をテープにとってそれを日本語勉強の教材にと送ってくれました。それを聞きながら子供の時の日本語を思い出すように毎日勉強しました。
みとさんは、今75歳になりました。長年働き続けてきた身を一本の杖で労りながら、毎日運動を欠かさないといいます。新しい宅老所「ニイハオ」を尋ねてきたみとさんに若い新聞記者がききました。「何故ここに、来ようとおもったのですか」、「なぜって、お風呂に入って、おしゃべりをして、一生懸命日本語を覚えたあの時の歌を歌えれば、いいんですよ!」。みとさんの足には鉄の金具が埋め込まれています。転んで折れたのじゃなく、働き過ぎで自然に折れたのだそうです。
                   

NPO 宅老所「ふれあい街道 ニイハオ」の紹介

2005-09-21 17:07:33 | 帰国者
  このたび、特定非営利活動法人(NPO法人)「中国帰国者等のための介護・福祉の会 ニイハオ」は宅老所「ふれあい街道 ニイハオ」を開設し、小規模の通所介護等のサービスを行うことになりました。
  宅老所「ふれあい街道 ニイハオ」は、中国から帰国された方々や、地域の方々のどなたでも「お寄りて・お上がりて」の施設です。介護サービスを通じて、また、多くの方々にご利用頂き、その中から交流やコミュニケーション輪が拡がり、生きがいが持てて、生きる力が湧き出てくる場に致したく思います。また、中国帰国者等や高齢者への生活情報・サービスの提供やいろいろな講座や教室を開催してまいります。
  飯田下伊那地域は、第二次世界大戦時、旧満州(現在の中国東北部)に満蒙開拓団を日本で一番多く送り出した地域で、その当時に幼少時代を過ごした方々も高齢になり、帰国されても、言葉の壁に阻まれ、満足な介護・医療を受けられないのが現状です。
  このことが、宅老所「ふれあい街道 ニイハオ」を設立するきっかけですが、中国帰国者等の皆さんや地域の皆さんの拠りどころとして愛される宅老所にしてまいりたいと思いますので、どうぞ、よろしくお願いいたします。 
               理事長 中平龍興
            宅老所管理者 熊谷好晃