旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

須磨浦公園と源平史蹟「戦いの浜碑」、安徳帝内裏跡伝説地、敦盛塚石造五輪塔、句碑

2014-06-26 17:59:03 | 神戸市須磨区
2014年6月24日
須磨浦公園は山陽電鉄須磨浦公園駅周辺にあります。散策しました。
公園

源平史蹟「戦いの浜碑」
「一の谷は、鉄枴山と高倉山との間から流れ出た渓流に沿う地域です。一の谷から西一帯の海岸は、源平の戦いにおける「一の谷の合戦」の舞台となったことから、「戦いの浜」といわれています。一の谷川は上流で東西2つにわかれ、東の一の谷川本流に対し、西の市龍の谷を「赤旗の谷」といい、平家の赤旗で満ちていた谷で、毎年、決戦のあった2月7日の夜明けには、軍馬のいななく声が聞こえるといわれています。」
map

説明書

みどりの塔

案内図、上が南です。

阪神・淡路大震災で丸い石が落ちました。

海釣り公園



須磨海岸



鉢伏山

安徳帝内裏跡伝説地
「戦いの浜碑」の北側の細い道と階段を登ったところにあります。
map
安徳天皇は、平清盛の娘の建礼門院徳子を母として生まれた悲劇の幼帝です。寿永4(1185)、壇の浦の戦いで平家滅亡とともに祖母二位尼にいだかれて入水したと伝えられています。この伝説地には、一時内裏がおかれたとのいい伝えがあり、安徳天皇の冥福を祈って安徳宮がまつられています。江戸時代には松尾芭蕉も訪れています。

前にある一対の燈籠は「モルガン燈籠」と云われ、モルガン・ユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、明治37年日露戦争が始まる直前にアメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに熱望され国際結婚をした人。)がこの辺りが異人山とよばれた頃この東に住んでいた。信仰心のあついユキは宗清稲荷。安徳宮の社前に二基の石燈籠を献納した。加藤コト、モルガン・ユキの母子の名を並べて刻まれ、明治44年9月10日と刻まれている。」



眞理胡弁財天(龍神)
安徳帝は、平家物語にあるように「海の下にも都があります」との祖母二位の尼の言葉と共に千尋の底に鎮まれました。







再び公園に降りてきて









案内図

須磨浦駅とロープウェイ乗り場です。

線路の上にあります。

敦盛塚石造五輪塔(神戸市指定有形文化財)
須磨浦公園駅の西側100mのところにあります。
map
説明書より「この五輪塔は花崗岩製の総高4m近い堂々たるもので、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で2位の規模を誇る。法量は総高397㎝、2石から成る地輪は幅126㎝、高さ98.5㎝、水輪は最大径130.4㎝、高さ99㎝で下部がすぼまり、火輪は軒幅126.4×119㎝、高さ78.5㎝(上面に径30㎝、深さ20㎝の枘穴)、風・空輪は一石彫成で、風輪の径73㎝、高さ56㎝、空輪の最大径69㎝、高さ72.9㎝。各輪四方にそれぞれ五輪塔四門の梵字を薬研彫りに配している。紀名年はなく、梵字が大きいことや水輪や火輪の様式にやや古調がみられるが、風・空輪は明らかに近世塔の先駆的様式を示していることから室町時代末期から桃山時代にかけての製作と思われる。この付近は源平一の谷戦場として知られ、寿永3年(1184)2月7日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によつて首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から、"敦盛塚"と呼ばれるようになった。このほか、鎌倉幕府の執権 北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288)に造立したなどの諸説がある。」



句碑

敦盛橋

ホテル花月への坂道の途中に句碑が並んでいます。
蕪村句碑
「春の海 終日のたりのたりかな」

芭蕉句碑
「蝸牛角ふりわけよ 須磨明石」

播水句碑
「下り佇てば 遅日の淡路籬の上に」

子規句碑
「ことづてよ須磨の浦わに晝寐すと」
虚子の「月を思ひ人を思ひて須磨にあり」



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 村上帝社 | トップ | 子午線通過地標柱、千鳥の碑... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神戸市須磨区」カテゴリの最新記事