木曜日は 『 プレバト 』 の日!
いつき組の云うところの プレバト ナイト
Oh yeah ~
は
「 梅雨と猫 」
‥さて 、早速 ‥
第6位 待ちぼうけ紫陽花いらん鯵焼いて (10点)
魚焼けるまで紫陽花と待ちぼうけ
本当に腹立たしい
「アジサイ」と「アジ」を掛けたつもりで季重なりになっている
季重なり 1句のうちに季語が2つ以上入ること、俳句の基本は1つ
「紫陽花」 いらんのですね
「鯵魚焼いてけるまで」 うお、と読んでもいい
「紫陽花といらん」「待ちぼうけ」
第5位 浮かれ猫祖父の姿に水遊び (20点)
水遊びした日の祖父とボクと猫
俳句の取り合わせという作り方の一番の基本
中七と下五でワンフレーズを作る
楽しそうなら楽しそうな季語、悲しそうなら悲しそうな季語を取り入れる
その基本の型を丁寧にやって完全に失敗した人、何を失敗したかというと
浮かれ猫=春の季語 水遊び=夏の季語
恋猫(浮かれ猫) 春の季語 盛りのついた猫の行動
「水遊びした日の」 記憶だと分かる
「祖父との姿に」 「浮かれボクと猫」
第4位 入梅や息吹く命のいとしさよ (35点)
入梅や水たくわえて息吹く木々
一見、格好いい俳句だけど 全体が曖昧
「入梅」という季語じゃなくても大丈夫な句
例えば、春の「啓蟄」
啓蟄(春の季語) 冬籠りしていた虫が外に這い出てくる頃のこと
「啓蟄や息吹く命のいとしさよ」 あー そーですかー
「初夏や息吹く命のいとしさよ」 あー そーですねー
季語がどれでもハマってしまう 「季語が動く」
季語が動かないようにするにはどうするか
残りのフレーズの中に入梅らしい言葉を入れる
水というキーワードを入れると季語が動きにくくなる
「入梅や水たくわえて息吹く命のいとしさよ木々」
作者のイメージがちゃんと映像になって
しかも、「入梅」という季語が動かない
第3位 入梅は夢か現か午後三時 (45点)
夢にまどろむ入梅の午後三時
「入梅は」助詞の使い方がマズイ
「夢か現か午後三時」となるべきところ、
「入梅は夢か現か」と、入梅がまどろんでいる‥
「入梅はの午後三時」とすれば映像がスルスルスルと出てくる
「夢か現かにまどろむ」
第2位 我が友は今日も来ぬのか紫陽花よ (65点)
紫陽花よ今日も来ぬのか我が友は
味わいのある句
惜しいところはある
「我が友は今日も来ぬのか」 作者の呟き
最後に紫陽花という映像
語順を変えるだけ
「紫陽花よ」と詠嘆する、紫陽花の映像が出てくる
そして「今日は来ぬのか」と呟いて、何が来ないんだろうと思ったところに
「我が友は」で終わる
映像を描いておいて呟きを添えるほうが、その呟きも広がるし
紫陽花の光景の中にその人物が立っている姿も見えてくる
この語順の意味が分かれば、才能アリは目の前
まず「映像」次に「つぶやき」
映像が分かりやすい言葉を先に詠むことで読み手に情景を想像させ
作者の心のありさまをより感じさせることができる
第1位 憎らしいあの娘に会えず梅雨の日々 (70点)
ちゃんと出来てる
ささやかなオリジナリティーが確保出来ている
憎らしいと言いつつ どこか気になって会いたい
心のニュアンスは読み取れる
「梅雨の」の後に 梅雨と言ったらある時期のこと
普通なら日々なんて言う必要はない
「梅雨の日々」と言ったのは、どういう効果をもたらしたかと言うと
憎らしいあの子に会えないで悶々とする日々が梅雨の日々でありますよ
さらに、猫の姿を借りて作者自身の気持ちも この句の裏側から滲み出てくる
下手に触るとバランスが崩れるので このまんま
そして 、 ワンランク上の 厳しい査定に挑むのはっ!
特待生4級の 東国原英夫さんっ!
老猫や背筋伸ばして見る蜥蜴
老猫や背筋を伸ばし視る蜥蜴
写真の中から「紫陽花」ではなく、
どこにもなかった「蜥蜴」という季語を引っ張り出すことの出来る想像は大したもの
中七下五できちんと描写している
果たして 査定はっ ‥‥‥ ワンランク昇格ーっ!
想像力とリアリティー!
想像力だけでなく、描写の力でリアリティーになってきた
下手な擬人化とか比喩とか、今までのはただの妄想だった
妄想が想像になって、想像が映像になる
この句のいいところは、老猫が蜥蜴をねらうという緊張感・緊迫感が大事な要素
「背筋伸ばして」 一音だけ緊迫感を緩めている 間合いが空く
1音をどこに使うか、背筋というものをハッキリさせる
「背筋を伸ばして見る」 短い時間が表現される
さらに、ちょっとしたところ、凝視する「視る」
ひょっとしたら、いっぺんにもう一つ上がっていたかもしれない