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by hamarie_february

『それボク』的冤罪

2007-01-11 23:30:03 | 映画・TV・書籍

『それでもボクはやってない』の試写会に行ってきました.

キャッチ・コピーは,「これが,裁判。」

うーん,なるほど.さすが周防監督,笑わせてくれました!...と言いたいところでしたが,意外と真面目でした.やっぱりテーマがテーマですからね...

逮捕から勾留,起訴,公判そして判決にいたる一連の流れを,過剰な演出を抑えつつも飽きさせず,考えるきっかけもちゃんと残してくれました.残念だったのは,もう少し弁護士の役所さん,瀬戸さんが頑張るのかと期待していたのですが,たぶんあれが現実に近い「本音の本音」「ありのまま」ではなかったかと思いました.あれよあれよと「痴漢犯罪者」にさせられていく前半.公判の経過を冷静に描写する後半.この時間感覚の対比も,実は綿密に考えられたものだったと思います.

これはやっぱりエンターティメントでした.冤罪をテーマにしたエンターティメント映画!...って日本語おかしかったですね....

 

有罪率が99.9%という日本の裁判は,やはり尋常な状況じゃないのだろうと思います.起訴の大部分が被告人が起訴事実を認めている量刑裁判(罪の程度を決める裁判)になるからですが,非常に稀に無罪を主張している場合でも,いや,むしろ無罪を主張しているからこそ,検察,警察に代表される国家の「無謬性」という壁は相当に分厚いようですね.

もちろん,「無謬性」を分厚くせざるをえないという状況は,何も検察・警察だけが責めを負うものにあらずと思います.つまり誤認逮捕をどこまで許容できるのかというわれわれの問題に戻ってくると考えるからです.

さらに,容疑を認めたら示談で釈放という仕組みを温存する限り,痴漢犯罪は減るどころではない.どうもおかしい気がします.それはとりあえずの「処理」をしているだけで,根本的な解決を目指そうとしていません.

この映画を観ることで,「痴漢をしようと思っていた人」が恐れを感じて痴漢犯罪が減るとすれば願ったりですが,そういった旨い話にはならないでしょう.なればいいですけど.

おそらく考えられる流れは,「無実なんだけど,とりあえず認めたよ.裁判が大変そうだから」なんていう言い草が,「疑う点無き加害者」においても成り立ってしまう危険性です.

検察や警察は取調べの可視化や被疑者弁護士制度の創設,証拠資料の全面開示など,いますぐにでも条件整備をしなければ,逆にすべての裁判において,検察・司法への信頼性が揺らいでしまうような気がします.「裁判員制度」が始まる09年までに何とかならないのでしょうか.

 

わからない(2006-10-22 Intersecting Voice Cafe) 

ある訴訟(2006-12-12 Intersecting Voice Cafe)

裁判員制度全国フォーラム

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2 コメント

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冤罪裁判の苦しさ (鈴木健夫)
2007-01-12 09:25:44
「痴漢犯人生産システム」(太田出版)「ぼくは痴漢じゃない」(新潮社)の著者です。試写会に当って、昨日観てきました。
いろいろなブログを拝見して、勝手ながら書き込みをさせていただきました。
 まず最初に申し上げておきたいのが「同じ痴漢冤罪裁判を味わった私が、感情移入が出来なかった」という感想です。
映画そのものは「ああ、そうそう。その通りだった」という、私の記憶にも残る箇所がいくつもあり、見事にリアルなドラマに描かれていました。にも関らず感情移入できなかったのは、本当の裁判がなんのドラマ性も期待できない、あまりに陳腐な現実であったからだと思います。
しかし、ここにこそ「痴漢冤罪裁判」の本当の闇があります。取り調べの刑事が言っていましたが、痴漢=迷惑行為防止条例違反は交通違反並みの罰金刑です。認めた別の犯人はすぐに帰っていきました。
ところがやっていないのだから裁判で闘うと決めたとたんに「人生を賭けたルールの分からないゲーム」になってしまうのです。「本当におしりに触ったかどうか」を若者は将来を賭け、警察・検察はメンツを賭けて、「5万円の罰金刑(2002年当時:現在は30~50万円の罰金もしくは懲役6ヶ月)を争う」のです。
 私の場合は1審有罪、上告、2審で無罪は勝ち取ったものの、判決までの2年間に会社を追われ数百万の借金も背負いました。
またどんな些細な嫌疑、例えば「台所の電気つけっぱなしだったでしょう?」程度の疑いにさえ、「絶対オレじゃない!第一昨夜最後にここに来たのは・・」等、「過剰な自己弁護」をしてしまうという症状?に悩まされました。
私達の中には「最後は正義が勝つ」という、ほぼ無意識の期待があります。依り頼む先は親兄弟、お金、法律、国家、お天道様や神様と順序の違いはそれぞれでも、上にいくほど「まさか裏切らないでしょう?」という「夜明け前」的な期待の元で暮らしています。
ところが取り調べ・調書作成の過程で、「警察はどうしてもオレを犯人にする気だ」という事が分かってきます。映画の中の刑事たちの態度、検察庁での副検事の態度は、まさかと思うでしょうが、全くあの通りなのです。
痴漢に間違われる→駅事務室に行く→警察に連行→取調べ(否認)→拘置→起訴→裁判(有罪率99.9%)というでっちあげの仕組み(痴漢犯人生産システム)が出来上がっているのです。
無罪判決の後でさえ刑事、副検事、1審の裁判官を殺してやろうと本気で思っていました。いっそ殺人犯の方がまだ納得できる。それほどのやり場の無い怒りに見舞われます。
さらに過酷なのは、それが「日常生活の中で行われる」という事です。裁判所でのやり取り、留置場での出来事は非日常の闘争状態ですが、家に帰ったとたんに、仕事はどうする?次の就職活動はいつから?保釈金が返ってくるまでの生活費は?等の、「現実の生活」に引き戻されるのです。常に襲う「有罪」という恐怖、それでも家に帰ればいい息子、いい友達、いい住人を期待されるのです。そんな精神状態の中で3ヶ月先の次回の公判を待つという生殺し状態が続くわけです。
 裁判で無罪を勝ち取ってから6年が過ぎ、最近ようやく友人や知人に話が出来るようになりました。それはキリスト教に出会い、洗礼を受け、神様が本当にいることを信じることが出来たからです。それでなければ、わが身に降りかかった「理不尽」に耐えられず、精神を病んでいたことでしょう。
「雨の日に道を歩いていたら、さしていた傘に雷が落ちた。そう思うしかないんだ」という弁護士の一言が今は懐かしく思い出されます。
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はじめまして (hamarie_february)
2007-01-13 11:37:14
鈴木健夫さま,コメントありがとうございます.昨夜お返事をしなければと思いつつ,帰宅が遅かったこともあり,失礼いたしました.

大変なご経験だったかと思います.心中をお察しいたします.無罪を勝ち取られて本当に良かったと思いますが,それで解決したと終わりにされてしまう無念さをお察しします.

もちろん格差をつけるわけではないですが,物事には権利の問題とケアの問題があって,支援をする際には根本的な考え方の土台が違う.あるいは「支援の仕方」が変わってくるとワタシは思っています.ですから,鈴木さまが無罪判決後の心の拠り所を宗教におかれたのはよく理解できますし,正しい選択だったと思います.

ご著作本,読ませていただきたく思います.ご紹介いただきありがとうございました.今後ともよろしくお願いいたします.

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