ラノベとは何かなどという話はウェブに山ほどある話なので今更どうこうというものでもないんだけど僕自身は朝日ソノラマ、80年代コバルトというラノベ概念成立前夜からのラノベ読みなので(ついでにいえばもう一歩遡る秋元文庫のシリーズも兄がいくらか持っていて結構読んでいた)当然今も読み続けていてとはいえ月に30冊とか読むツワモノには当然及ばずまぁでも年に7~80冊程度は読んでいるかという一応ラノベ読みと名乗って良いだろうと自分でも思うくらいのアレなのだけど結局のところラノベは普通の人、まして大人が読むものでもないよなぁと思うのでとりあえず世間体が良さそうな新書あたりからセレクションしておく。
「戦後の思想空間」は大澤真幸という宮台真司や東浩之程ではないにしてもわりとサブカル系に親和的な社会学者が(東浩之は社会学者じゃないけど)98年に書いた新書でかと言ってだからという理由で手に取った訳でもなく荻窪の会社に出向になっていた時にレンダリング(画像計算)中に暇なので近所の古本屋で3冊500円で買った本の一冊。もう一冊は三木清の哲学入門なんだけど未読。さらにあと一冊はなんだったか覚えていない…。
新書には刊行ブームがあって60年代に岩波、中公、講談社現代の三つの新書ができてしばらくその三つが市場を独占していたらしいのだけど90年代中頃に新書刊行ブームがまたあって光文社集英社新潮文春ちくま新書がそれぞれ刊行された。この頃できた新書には特徴があってそれは「語りおろしたものを文字起ししてつくっている」ものが非常に多いということ。だから内容は薄いけど気軽に読める。
この「戦後の思想空間」もその例に漏れず97年に池袋リブロフォーラムで3回に渡って行った講演を書き起こした上で修正したもの。なのでかなりすらすら読める、とは言っても良くわからんところも多いのだけどw
一章では戦後、敗戦という自己否定の中から50年代から60年代頃にアメリカを超越者(色々言ってるんだけどここの限りでは目標、と言ってもいい)とすることで日本人はアイデンティティ(世界における日本の地位とそれへの認識)を構築したけど70年代以降、アイデンティティが確立されるにつれアメリカが超越者としての地位を失っていって目的自体が欠落した時代になったと論じ二章で明治が終わり大正の時代というのはそれまで日本を引っ張ってきた元勲や明治天皇といった存在が消えそのような力を持ち得ない大正天皇の世になった、そこに70年代以降の超越者を失った日本が重なるのではないかと論じる。そして同時に存在感のない天皇という存在がそれゆえに超越性を持ち得えたのではないか、そこで昭和に通じるウルトラナショナリズムが生まれたのではないか、それを生み出す構造とはどのようなものかを西田幾多郎らの言葉を引き合いに仮定する。
そして三章では90年代(この本が書かれた時代)においてオウムのような組織が何故力をもちえたのかを浅原がその愚昧さゆえに超越性を持ち得、人を引き込んだのではないかという仮説について論じている。
まぁ要するによくある話として例えば最近木嶋佳苗の事件が話題になったけれどああいう、馬鹿げた行いをする人がそれゆえに崇拝されてしまうということが社会的に起きた時期があるんじゃないかと。戦前において天皇制ファシズムが深く浸透していったのは実は本当にカミサマとして扱われた明治天皇や昭和天皇の時代ではなく大正天皇の時代だったのではないか、そういうことが社会にとっての目標、超越者の不在に滑り込むように起きてそれが戦前では大正期のそれであり戦後のオウムなんじゃないか、という話。
最後に自由とはただ漫然と昨日と同じ明日を過ごさないところにあるのではないか、しかしそれは超越者なきところではありえないんじゃないか、しかしそれを嘘でもいいからというシニシズムで埋めようとすれば愚者への崇拝となり嘘ではダメだということになれば超越者の地位は空席のままになる、それが今の自由の困難さではないか、という話で結ぶ。
社会学っていうのは非常によくわからない学問でw色んな角度、見方から社会の問題を論じようというモノらしいのだけど「そんなの人それぞれじゃん」というのもまた一方で成り立っていて社会学内部には色んな派があってそれぞれに社会を論じているらしいのだけど「そんなのそもそもひとつの学問して成立してなくね?」というのを皮肉った恐らくはおなじ社会学者やってる人が書いたであろうといわれている「反社会学講座」という結構有名な本もあったりするのだけど逆にいってしまえばその社会学者の社会観や切り込みの仕方自体が面白みをもってるんだろうな~、ということがなんとなくわかる本だな~って感じ。彼は「経験可能領域」という概念を使って資本制度が社会をどう変革していくのかを論じていて第二次大戦前夜である大正期やあるいはバブル期、その崩壊直後の90年代の日本の類似性を指摘するんだけどそういう概念は勿論事実、ということではないし眉につば付けてみとけくらいの感じはあるけど切り込みのやり方はすごい面白いな~って思ったんだよね。社会学ってそういうことなのならちょっと物語論にも通じるものがあるなぁと思う次第。(実際今この本で大澤真幸ちょっと読んでみるかと思って「『正義』を考える」を読んでいるんだけど(これがまたいかにもサンデルの「これからの正義の話をしよう」にあやかって商売しましょうって感じの本で苦笑はするんだけどwまぁ商売が上手い人なのかなって感じではあるw)そこでは個人の体験における物語性の喪失がちょっと冒頭で触れられていた)
「戦後の思想空間」は大澤真幸という宮台真司や東浩之程ではないにしてもわりとサブカル系に親和的な社会学者が(東浩之は社会学者じゃないけど)98年に書いた新書でかと言ってだからという理由で手に取った訳でもなく荻窪の会社に出向になっていた時にレンダリング(画像計算)中に暇なので近所の古本屋で3冊500円で買った本の一冊。もう一冊は三木清の哲学入門なんだけど未読。さらにあと一冊はなんだったか覚えていない…。
新書には刊行ブームがあって60年代に岩波、中公、講談社現代の三つの新書ができてしばらくその三つが市場を独占していたらしいのだけど90年代中頃に新書刊行ブームがまたあって光文社集英社新潮文春ちくま新書がそれぞれ刊行された。この頃できた新書には特徴があってそれは「語りおろしたものを文字起ししてつくっている」ものが非常に多いということ。だから内容は薄いけど気軽に読める。
この「戦後の思想空間」もその例に漏れず97年に池袋リブロフォーラムで3回に渡って行った講演を書き起こした上で修正したもの。なのでかなりすらすら読める、とは言っても良くわからんところも多いのだけどw
一章では戦後、敗戦という自己否定の中から50年代から60年代頃にアメリカを超越者(色々言ってるんだけどここの限りでは目標、と言ってもいい)とすることで日本人はアイデンティティ(世界における日本の地位とそれへの認識)を構築したけど70年代以降、アイデンティティが確立されるにつれアメリカが超越者としての地位を失っていって目的自体が欠落した時代になったと論じ二章で明治が終わり大正の時代というのはそれまで日本を引っ張ってきた元勲や明治天皇といった存在が消えそのような力を持ち得ない大正天皇の世になった、そこに70年代以降の超越者を失った日本が重なるのではないかと論じる。そして同時に存在感のない天皇という存在がそれゆえに超越性を持ち得えたのではないか、そこで昭和に通じるウルトラナショナリズムが生まれたのではないか、それを生み出す構造とはどのようなものかを西田幾多郎らの言葉を引き合いに仮定する。
そして三章では90年代(この本が書かれた時代)においてオウムのような組織が何故力をもちえたのかを浅原がその愚昧さゆえに超越性を持ち得、人を引き込んだのではないかという仮説について論じている。
まぁ要するによくある話として例えば最近木嶋佳苗の事件が話題になったけれどああいう、馬鹿げた行いをする人がそれゆえに崇拝されてしまうということが社会的に起きた時期があるんじゃないかと。戦前において天皇制ファシズムが深く浸透していったのは実は本当にカミサマとして扱われた明治天皇や昭和天皇の時代ではなく大正天皇の時代だったのではないか、そういうことが社会にとっての目標、超越者の不在に滑り込むように起きてそれが戦前では大正期のそれであり戦後のオウムなんじゃないか、という話。
最後に自由とはただ漫然と昨日と同じ明日を過ごさないところにあるのではないか、しかしそれは超越者なきところではありえないんじゃないか、しかしそれを嘘でもいいからというシニシズムで埋めようとすれば愚者への崇拝となり嘘ではダメだということになれば超越者の地位は空席のままになる、それが今の自由の困難さではないか、という話で結ぶ。
社会学っていうのは非常によくわからない学問でw色んな角度、見方から社会の問題を論じようというモノらしいのだけど「そんなの人それぞれじゃん」というのもまた一方で成り立っていて社会学内部には色んな派があってそれぞれに社会を論じているらしいのだけど「そんなのそもそもひとつの学問して成立してなくね?」というのを皮肉った恐らくはおなじ社会学者やってる人が書いたであろうといわれている「反社会学講座」という結構有名な本もあったりするのだけど逆にいってしまえばその社会学者の社会観や切り込みの仕方自体が面白みをもってるんだろうな~、ということがなんとなくわかる本だな~って感じ。彼は「経験可能領域」という概念を使って資本制度が社会をどう変革していくのかを論じていて第二次大戦前夜である大正期やあるいはバブル期、その崩壊直後の90年代の日本の類似性を指摘するんだけどそういう概念は勿論事実、ということではないし眉につば付けてみとけくらいの感じはあるけど切り込みのやり方はすごい面白いな~って思ったんだよね。社会学ってそういうことなのならちょっと物語論にも通じるものがあるなぁと思う次第。(実際今この本で大澤真幸ちょっと読んでみるかと思って「『正義』を考える」を読んでいるんだけど(これがまたいかにもサンデルの「これからの正義の話をしよう」にあやかって商売しましょうって感じの本で苦笑はするんだけどwまぁ商売が上手い人なのかなって感じではあるw)そこでは個人の体験における物語性の喪失がちょっと冒頭で触れられていた)