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韮崎偉人伝 宮崎汀亀 『甲州俳人伝』韮崎市藤井

2023年08月11日 22時04分02秒 | 文学さんぽ

韮崎偉人伝 宮崎汀亀 『甲州俳人伝』韮崎市藤井

汀亀は峡北逸見筋不二井の郷(韮崎市藤井町)に生まれる。本姓中込、名は政長、稍(やや)長じて(須玉町)若神子の辺り、東向(須玉町)で全巷(ちまた)の宮崎氏を継ぐ、天性風雅を愛して古池の流れを汲み、湖南亭字石な師と緩みて俳諧を修め、また常に四方に遊びて雅懐を養う、身の命長かれと祝して不老軒と称し、汀亀と号す、

沫雪やうゑ木に塞ぐ町の幅

笹板の舟ひく兒や雪解川

蝶々の中跳廻る野馬かな

急がれて葉は間に合す梅の花

蝶々や人も茶飯に遊ぶ頃

蜘も糸はりはぐれたる暑さか

白壁の鼠壁のとあつさかな

泊らうとおもふ家なし蕎麦の花

紅茸や爰が昔の局(つぼね)跡

白露や御坊は猫を呼びあるく

蛤にならばなれなれ稲雀

達磨忌や我さへ壁を撫でゝ居る

楠は石になるかも小夜時雨

今朝の雪ここも花降る浄土かな

才情縦横.語亦精巧、不朽に垂るゝに堪へたり、狂歌の名は壮の中をさまろといひて、吐すてし歌共少からず、

吹かれてはどちらへなりと月の影

堪忍つよき柳なりけり

弥陀様の恵の笠をかりの世に

ちかひもらすな後のよしくれ

 

これその一、二なり、此叟文字書く業に秀でければ、柴刈る童を集へて水莖の歩みを教え、或はまた圍碁に耽りて飽くことを知らず、悠遊自適、世外に超然たり、寛政九年(一七九七)十一月十六日病を以て卒す、行年七十余。

辞世

袂から数珠粒おとす雪見かな

箕輪の幸松園利窮は此叟と莫逆の語らひあり、叟の子「流亀」を勧めて追善集を編して梓に上さしむ、

叱られし事思ひ出す雪野哉   流亀

風流の果墜兵や雪佛      利窮

松見ても櫻を見ても涙かな   甫秋(塚原)

繰返す手紙の上に時雨哉    梅英

訪ね寄る月をしるべや東むき  稲後

荘子読む窓を出て行く小蝶かな 調唯

あれ見よや彗に埋れる鳥の跡  兀貫

彼の世も埋み火あらば向ひ見ん 敲氷

皆これ当時の俳匠なり、交遊の広かりしこと知るべきなり。

寛政七年(一七九五)二月三日、幸松園に遊びて和漢俳諧を催せしことあり、

雪解やつづく日和に九十九川  利窮

鷺聲動暁天                    汀亀

春の人笠一統に装うて     汀亀

餅酒強偸黨          利窮

客帰蕭瑟處          利窮

画毫を洗ひながら眠れる    汀亀

唱応尚盡きず、以上その一節なり、春日の光景写し得て意気勃々たり。

 


韮崎市偉人館 島津寿伯 韮崎穴山

2023年08月11日 16時00分25秒 | 歴史さんぽ

韮崎市偉人館 島津寿伯 韮崎穴山

 

 

 

 

嶋津寿伯 逸見筋穴山村次第窪

本姓源氏、諱は義豊、晩年襲名して三代寿健と称す。祖父寿建、諱は義篤。

天明中(一七八一~八八)穴山に創業し、文化初年幕府痘科医官池田錦橋入峡するや、就て痘科を学び、文政五年(一八二二)十一月、六十二歳にして歿す。

父義親、二代寿健と称し、文化末年(一八一七)、祖父の軒家甲府勤番医官瀧野元寿に学び、天保二年(一八三一)五十一歳にして歿す。

寿伯、少壮江戸に往き、幕府奥医帥六世瀧野元寿に従學し、慶應二年(一八六六)八月五十三にして歿する。

門人

二代中村寿仙 

若神子新町、父寿策、文化五年(一八〇八)九月生れ、少壮にして江戸瀧野元寄島び、天保中創業し明治二十年(一八八七)一月八十歳にして歿す。寿仙は其長子なり。明治六年(一八七三)十二月外傷に依り三十五歳にして歿し、.弟寿建嗣く。

福島寿伯 

韮崎祖母石(うばいし)村 上州佐波郡藤嶋村に生る。少壮甲州に来り、寿伯に従學し師名を継ぐ。蓋し異例なり。明治二十八年(一八九五)四月歿す。

享年六十六。業務一世。

高橋寿碩 

長坂清春 通称正之。明治三十五年一月歿す。享年四十五。業務一世。

四世寿安

三代寿伯の長子なり。嶋津氏世業の師、幕府医官瀧野氏七世元寛に江戸に従學し、本道を修め、明治三十三年(一九〇〇)六月、五十七歳にして歿し、左記門人あり。

養子庄太郎

 大正十年(一九二一)歿す。享年六十二歳。継業三世。

三代中村寿健

寿仙の弟なり。大正六年(一九一七)四月、六十五歳にして歿す。継業三世。


韮崎市偉人館 島津寿伯 韮崎穴山

2023年08月11日 16時00分25秒 | 歴史さんぽ

韮崎市偉人館 島津寿伯 韮崎穴山

 

 

 

 

嶋津寿伯 逸見筋穴山村次第窪

本姓源氏、諱は義豊、晩年襲名して三代寿健と称す。祖父寿建、諱は義篤。

天明中(一七八一~八八)穴山に創業し、文化初年幕府痘科医官池田錦橋入峡するや、就て痘科を学び、文政五年(一八二二)十一月、六十二歳にして歿す。

父義親、二代寿健と称し、文化末年(一八一七)、祖父の軒家甲府勤番医官瀧野元寿に学び、天保二年(一八三一)五十一歳にして歿す。

寿伯、少壮江戸に往き、幕府奥医帥六世瀧野元寿に従學し、慶應二年(一八六六)八月五十三にして歿する。

門人

二代中村寿仙 

若神子新町、父寿策、文化五年(一八〇八)九月生れ、少壮にして江戸瀧野元寄島び、天保中創業し明治二十年(一八八七)一月八十歳にして歿す。寿仙は其長子なり。明治六年(一八七三)十二月外傷に依り三十五歳にして歿し、.弟寿建嗣く。

福島寿伯 

韮崎祖母石(うばいし)村 上州佐波郡藤嶋村に生る。少壮甲州に来り、寿伯に従學し師名を継ぐ。蓋し異例なり。明治二十八年(一八九五)四月歿す。

享年六十六。業務一世。

高橋寿碩 

長坂清春 通称正之。明治三十五年一月歿す。享年四十五。業務一世。

四世寿安

三代寿伯の長子なり。嶋津氏世業の師、幕府医官瀧野氏七世元寛に江戸に従學し、本道を修め、明治三十三年(一九〇〇)六月、五十七歳にして歿し、左記門人あり。

養子庄太郎

 大正十年(一九二一)歿す。享年六十二歳。継業三世。

三代中村寿健

寿仙の弟なり。大正六年(一九一七)四月、六十五歳にして歿す。継業三世。


北杜市偉人館 成島栄懐 須玉町若神子

2023年08月11日 15時59分48秒 | 文学さんぽ

北杜市偉人館 成島栄懐 須玉町若神子

『峡北物故文化人集』堀内(田力リク)一郎氏著 一部加筆

文政三年(一八二〇)浅神村下神取皆川栄治郎家に生れ、後当村成島大兵衛の婿となり、総平と改め名主となる。八代健保につき医学を修め業とすり、傍ら国学者落合真澄について国文和和歌を学び、「宝の舎」又は「喜翁」の雅号を以て知られる。

明治二十九年(一八九六)九月十二日、七十七歳にて病没す。

詠首二萬首に及ぶ、門弟遺稿を玉園遺光と名つけせに世に伝わる。

 夕富士 

村山はかけほのくらく暮はてて

夕日かかなふふしのたか山

萬年橋を渡りて

橋の名にちなみて老の身なからも

萬代かけて渡りてしかな

辞世

言の葉の花を心の友として

かへらぬ旅に今日そいてたつ

 《註》この成島翁の著作物がネットに見える。


北杜市の先人 武川村出身 甲府市長 斉木逸造氏

2023年08月11日 15時58分19秒 | 歴史さんぽ

北杜市の先人 武川村出身 甲府市長 斉木逸造氏

 少にして自由民権を唱へ、本県政界の先覚に伍して北馬南船大に民意暢達萬様公論実規の為に挺身した。

而して一方新聞人として、輿論の指導に任じ、「甲斐新聞」社長として苦酸に耐え、清貧以て布衣の宰相たる使命に邁進した。

明治三十八年(一九〇五)五月、甲府市会議員に当選依頼甲府市の政治に参与すること七期に及び、市会の雄として副議長を再度、而して議長を又再度務める。甲府市政の大御所的存在であった。この間に衆議院議員の候補に推される事もあったが更に県政界にあっても、政友派の大御所として、時に支部に幹事長として釆配を振るい、以て大に党勢を拡充した。  

明治四十年(一九〇七)十月、山梨県会議員に当選して依頼、県会議員四期に及び、時に県会議長として声望は山梨県に及び、本県に於ける老政客として、政界稀に見る大人格者としてその徳望は反封派の議員も畏服した。

昭和十年(一九三五)八月、市会議長在職中、市長の改選にあたり、議員多数に押されて選任の栄冠を得て、以て甲府市長として十萬市民福利のため、その全身全霊を捧げて精励している。

蓋し市の大都市計画、観光への躍進、博覧会に象徴する振興等々、我等市民市長として、全市民の景仰礼讃する所である。甲府市に一種の天民党とも云うべきものであり、氏を支持する市民人意の結合は、この人の徳であり清負に一貫する人格の光りである。

 (昭和十三年 『昭和山梨自治大観』)