韮崎偉人伝 宮崎汀亀 『甲州俳人伝』韮崎市藤井
汀亀は峡北逸見筋不二井の郷(韮崎市藤井町)に生まれる。本姓中込、名は政長、稍(やや)長じて(須玉町)若神子の辺り、東向(須玉町)で全巷(ちまた)の宮崎氏を継ぐ、天性風雅を愛して古池の流れを汲み、湖南亭字石な師と緩みて俳諧を修め、また常に四方に遊びて雅懐を養う、身の命長かれと祝して不老軒と称し、汀亀と号す、
沫雪やうゑ木に塞ぐ町の幅
笹板の舟ひく兒や雪解川
蝶々の中跳廻る野馬かな
急がれて葉は間に合す梅の花
蝶々や人も茶飯に遊ぶ頃
蜘も糸はりはぐれたる暑さか
白壁の鼠壁のとあつさかな
泊らうとおもふ家なし蕎麦の花
紅茸や爰が昔の局(つぼね)跡
白露や御坊は猫を呼びあるく
蛤にならばなれなれ稲雀
達磨忌や我さへ壁を撫でゝ居る
楠は石になるかも小夜時雨
今朝の雪ここも花降る浄土かな
才情縦横.語亦精巧、不朽に垂るゝに堪へたり、狂歌の名は壮の中をさまろといひて、吐すてし歌共少からず、
吹かれてはどちらへなりと月の影
堪忍つよき柳なりけり
弥陀様の恵の笠をかりの世に
ちかひもらすな後のよしくれ
これその一、二なり、此叟文字書く業に秀でければ、柴刈る童を集へて水莖の歩みを教え、或はまた圍碁に耽りて飽くことを知らず、悠遊自適、世外に超然たり、寛政九年(一七九七)十一月十六日病を以て卒す、行年七十余。
辞世
袂から数珠粒おとす雪見かな
箕輪の幸松園利窮は此叟と莫逆の語らひあり、叟の子「流亀」を勧めて追善集を編して梓に上さしむ、
叱られし事思ひ出す雪野哉 流亀
風流の果墜兵や雪佛 利窮
松見ても櫻を見ても涙かな 甫秋(塚原)
繰返す手紙の上に時雨哉 梅英
訪ね寄る月をしるべや東むき 稲後
荘子読む窓を出て行く小蝶かな 調唯
あれ見よや彗に埋れる鳥の跡 兀貫
彼の世も埋み火あらば向ひ見ん 敲氷
皆これ当時の俳匠なり、交遊の広かりしこと知るべきなり。
寛政七年(一七九五)二月三日、幸松園に遊びて和漢俳諧を催せしことあり、
雪解やつづく日和に九十九川 利窮
鷺聲動暁天 汀亀
春の人笠一統に装うて 汀亀
餅酒強偸黨 利窮
客帰蕭瑟處 利窮
画毫を洗ひながら眠れる 汀亀
唱応尚盡きず、以上その一節なり、春日の光景写し得て意気勃々たり。