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山梨最初の劇場亀屋座と歌舞伎の隆盛 山梨の歌舞伎の歴史

2025年04月27日 15時07分11秒 | 山梨県の紹介

山梨の歌舞伎の歴史

 

市川團十郎と山梨

 

 甲斐は初代市川団十郎ゆかりの地といわれた関係(他説が多い)もあって、多くの人びとが歌舞伎には特に関心を持ち、立派な歌舞伎会館まで造られた。が、現在はその機能を果たしていない。これは初期から指摘されていたことで、行政の大失態と言わざるを得ない。

数説ある出生地を詳細に調べて見れば解ることで、山梨県の歴史認識の甘さが目立つ所業と言わざるを得ない。

 ここに挙げる初祖市川団十郎の誕生地とされ三珠町も、施設の為に作り上げられた歴史を持つ側面を有しているが、誰も取り上げずに既製の事実として時は過ぎ去っていき、官庁ご用達の歴史家も触れようとしない。

 不思議な事に、過去の「甲斐国志」や山梨の地域歴史書は全く触れていないし、三珠町の町史にさえ一行も書かれていない市川団十郎の祖先の足跡が「歌舞伎会館」建設により、曖昧模糊とした伝承を歴史に格上げして、史実のようにしてしまった。山梨県内ではこのようにイベントや施設建設により多くの歴史を歪めてしまった。これ以上過ちを犯してはならない。

 史料を収集してそこから初祖団十郎の歴史的な価値観と、甲斐との関わりが何処から生まれたかを探ってみたい。

 

 ……市川團十郎…… 『俳優世々の接木』

 本国 甲斐

 傳に曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。農堀越氏といふ。    (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)   

 

 ……『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)

 元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。堀越某カ男、幼名海老蔵。

(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 

 ……團十郎の家紋、三升……

 市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案化したものである。

 一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝える

  (『役者名物袖日記』) また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得たという説もある。正確な由来はわからない。  

(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 

 初代市川団十郎の祖は甲斐国の出身とされているが、その史実を示す資料は少なく、その信憑性は薄い。

初代団十郎の祖についてはじめて語ったのは、五代目の友、烏亭焉馬である。

 不詳であっても著名な人々が史実のように、繰り返すことで史実もどきが、何時の間にか史実として人々に伝わる事は歴史には多くみられる。この拙著は長年の調査資料から市川団十郎の初祖を中心に論を展開していく。浅学の為一部誤字脱字や語釈もあると思われるが、その辺は適切に正していただきたい。また初祖団十郎以前の資料をお持ちの方は是非ご連絡をいただきたい。

  

市川団十郎についての調査報告

 

 かの有名な千葉県成田山新勝寺の案内文によると

 

 ……成田山新勝寺の案内文……

成田屋の屋号を名乗る市川團十郎は、代々、成田山とは深くて強い縁で結ばれています。初代市川團十郎は江戸時代の万治三年(1660)に生まれたが、その父堀越重蔵は下総国埴生郡旙谷村(成田市旙谷)出身でした。今でも成田市旙谷の東光寺の墓地には、二代目が建てた初代団十郎の碑があります。

 

 また初代市川団十郎の墓地については、次の記述がある。

 

……市川團十郎の墓地……

 

常照院はかって歌舞伎の名門である市川團十郎の菩提寺であり、当家の墓所がありました。初代團十郎が刺殺という不慮の死を遂げたのは元禄十七年(1704)でした。いかなる縁かその遺骸は、徳川将軍家の菩提寺で芝増上寺の子院である当常照院に葬られました。現在も三升の紋の香合、五代目が寄進した七代目が修理した一対に唐金(銅)の灯籠、そして七代目文政元年(1818)に贈った石の手水鉢などがその歴史を語っています。八代目團十郎は大阪で自害し、やはり浄土宗である大阪の一心寺に葬られ、常照院には遺髪が納められたそうです。

その後時代は明治に移り、市川家の復興をはかった革新的な九代目の團十郎は神道に改宗、明治三十六年(1903)に亡くなりました。その墓地は神武となり公営の青山霊園に建立されました。以後市川家は神道となりました。

そして大正十二年の起こった関東大震災の被害により寺院の移転、墓地の改修など相次ぐなか、常照院も墓地の整理改修をすることとなりました。そのため、昭和九年(1934)にそれまでの市川家の墓地も青山霊園へ移転改葬されました。

 と記している。

 

 市川団十郎の祖について『山梨県「人物」博物館』は次のように記す。

……五代目市川団十郎……『山梨「人物」博物館』

 

 市川団十郎は江戸歌舞伎の盟主とされ、平成四年(1992)まで十二代を数える。屋号を成田屋といい、初代団十郎は延宝元年(1673)九月、十四歳で初舞台を踏んだ。荒事と隈取りの創始者である。

 この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家 の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州三益峠の法条氏と戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されている。堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙谷村(千葉)に逃れた。

 ここから初代団十郎の父重蔵が江戸に出て町奴などともつき合うようになる。

(略)寛政三年(1791)四月、五代目団十郎は初めて父祖の地甲州に入る。(略)これが初の地方興行となった。五代目団十郎は寛政四年(1792)にも甲斐を訪れている。 (「甲府町年寄御用日記」) 

寛政五年(1793)六月、七年(1795)六月にも甲府にやってきている。

 

 これによれば、その家系は、

  曾祖父堀越十郎家宣―祖父重左衛門―父重蔵(十蔵…………初代市川団十郎となるが傍線についての確かな資料が提示されていない。

 市川家は現在まで血脈で繋がっているわけではなく、服部幸雄氏著『市川団十郎代々』によると、

 

初祖団十郎(本姓堀越)

   ― 二代(実子)

   ― 三代(養子/三升屋助十郎の子)

   ― 四代(養子/庶子)

   ― 五代(四代の実子)

   ― 六代(養子/庶子)

   ― 七代(養子/五代二女、すみの子)

   ― 八代(長男/すみの子)

   ― 九代目(五男(妾、ための子。堀越秀)

   ― 十代(養子/前名、五代市川三升。堀越福三郎)

   ― 十一代(養子/七代松本幸四郎長男。堀越治雄)

   ― 十二代(長男。堀越夏雄)

 

 とあり、堀越姓は一代、二代、……九代、十代、十一代、十二代で途中代には見えず、血脈も途切れているのである。

 また三珠町のシンボルとして建設された「歌舞伎会館」のある市川團十郎発祥の地、三珠町は、ホームページ『甲州勤番風流日誌』によると、

 

 この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野 の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十 郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。その孫の重(十)蔵は弟に田畑を譲り江戸に出る。

 

 とあるが、

 堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。

 

 『山梨県地名辞典』には三珠町及び市川地方に堀越の地名は見えないし、「武田信玄・勝頼に於ける家臣団」などで一条信龍の家臣をいくら調査しても、堀越姓の人物には行き当たらない。『江戸時代 おもしろ人物百科』によれば、初代団十郎は、万治三年(1660)、江戸和泉町に生まれ、父は下総国埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)。延宝元年(1673)十四歳の初舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。とある。 江戸の歌舞伎役者で、初めて甲州の地を踏んだのは坊主小兵衛である。この役者は、坊主のような髪形をしていたので坊主小兵衛の名で通り、延宝、天和のころ道化方(こっけいなしぐさや、せりふで観客を笑わせる役柄)として人気があった名優である。彼は、元禄二年(一大八九)初めて甲府に乗り込み、ヤイト踊り(お国歌舞伎の「やや子踊り」のことで小さな子供の踊りのこと)をしながら、甲府の上一条町から金手町、八日町と町々を歩き、甲府勤番の役宅へ参上したという。

 これがきっかけとなって、宝永年間には上府中の八幡神社の境内で歌舞伎の興行がおこなわれた。

出演者は、中村喜十郎、市川庄五郎ら八名の他、子供八人の一座であった。

次いで、善光寺(今の里垣町)や三吉町(今の相生三丁目)の光沢寺境内でも、この一座の興行が実施された。

 また、桶屋町(今の中央五丁目)の教学院(現存していない)へも、中村四郎五郎、阪東栄蔵ら八名の役者が来て芝居を興行し、光沢寺境内では中村小吉、中村京十郎ら六名が来演した。さらに、伊勢町(今の相生三丁目)の千松院境内でも芝居が掛けられ、沢村喜十郎、沢村今蔵らに子供を含めた一座が上演している。

 このように江戸の役者たちは次々に人甲し、寺社の境内を利用して芝居をおこなったので、歌舞伎に対する人びとの関心は日毎に高まっていったが、その反面、弊害も随所に見受けられるようになった。

当時、寺社境内で興行した一座の中で、人気を悪用して町内で風紀を乱した役者もかなり多く、宝暦九年(1759)五月に甲府勤番支配が御触れを出して取り締まったという記録が残っている。そのころ歌舞伎が世間に与えた影響の度合いを想像することが出来よう。この頃までに、江戸の名題(幹部級の役者)たちは、坊主小兵衛ほか約八十名ほど来甲している。

 なお、その当時の興行方法は「三季芝居」、または「三季興行」ともいって、一年を三季に分けて行う方法だった。それは、「土用芝居」といって、六月中旬ごろ江戸の大歌舞伎を招く場合、「秋芝居」といって、大歌舞伎一座から外れた役者等を中心に人寄せ興行をおこなう場合、秋芝居といって十五夜頃、江戸または大阪の義太夫を招いて「人形浄瑠璃芝居」などを行う場合などであった、これらは、いずれも十日間以上の長期興行が普通とされ、まず奉行所の許可を得た上、神社とか寺院の境内に仮小屋を設けておこなうことになっていた。 

当時は芝居が主に社寺で行われた理由としては、そのような場所が人寄せや小屋掛けに都合のよい広場を得られ、芸能の信仰的起源と社寺の為の勧進という形に借りて入場料を取る興行形式を整えてきたからである。少なくとも、入場料を取って見せる芸能の始まりは、勧進と結びついていたと思われる。このように、社寺の境内は芝居の興行場として長く県内各地で利用されていたが、江戸役者の来談を更に促したのは、甲府に芝居の常設小屋が出来たことである。

 

山梨最初の劇場亀屋座と歌舞伎の隆盛

 

 宝暦十四年(1764)五月、西一条町(今の若松町)の住人亀屋与兵衛なる者は、光沢寺境内に敷地を求め、三季芝居の興行許可を願い出て明和元年(1764)九月(宝暦は六月より明和と改元)許可された。翌二年(1765)四月、都合によって敷地を金手町(今の城東二丁目)の「教安寺境内に定めて亀屋座を建てる」に至った。この芝居小屋は、仮小屋だったが、山梨県における劇場の始まりといえる。

 

 この時来演の一行は、中村助五郎、坂田佐十郎、鎌倉平九郎らで、身延山参詣の途次に芝居をおこなった。この亀屋座が、正式に三季芝居の免許を受けて実施した最初の興行としては、明和三年(1766)正月の芝居である。この時の狂言は、大序「式三番曳」と、通し狂言「義経千本桜」であった。

次いで、翌四年には三代目坂田藤十郎が来甲して、同劇場で「三荘太夫」を演じた。

また、明和六年(1679)には伊勢町(今の相生三丁目)の仏国寺境内で、初めて沢村喜十郎、中村滝三郎、鎌倉長九郎らが「太平記近江八景」を演じた。この一座は、興行場としてしばしば千松院を用いたので、「千松院芝居」ともいわれた。このように、独立の芝居小屋の出現によって、江戸の名題役者らは次々と来甲したので甲府の人びとの関心を集め、その評判は大いに高まった。

引き続いて、亀屋座には明和五年(1768)九月に、二代目中島三甫(さぶ)右衛門が訪れ「一富清和年代記」を演じて大評判になり、明和七年(1770)六月には三甫右衛門が、六月十六日から七月二十日に至る長期興行で、甲府の人びとを驚嘆させた。

ところが、不幸にしてこの年九月二目の大火で、亀屋座は焼失の憂きめにあった。

山梨県唯一の芝居小屋の消失は、芝居の愛好者にとっては大きな痛手であった。しかし、小屋は焼失しても、役者たちの来甲意欲はそれほど衰えず、明和八年(1771)四月には教学院で、晴天二十日の興行がおこなわれた。その時出演の役者は、三甫右衛門、三代目阪東彦三郎、三世佐野川市松、三代目市川小団次らで、狂言は「男伊達廓曽我」であった。幸いにも、この年七月には教安寺境内に亀屋座の新舞台が落成し、寄り所とする芝居小屋が復興した。この時の舞台開きには、三甫右衛門一座があたったが、この後名優の来甲は更に増して行った。

 これから、時代は明和から安永(明和元年十一月安永と改元)へと移って行くのであるが、再建された亀屋座は役者の間でも評判となり、名優が競って入甲するに至った。

 

 参考までに、安永の初期に来談したおもな役者名を挙げると次のごとくである。

 

 安永二年(1777) 阪東彦三郎、五代目 坂田平五郎、四代目 中島勘左衛門。

  安永三年(1779) 二代目 市川八百蔵、四代目 大谷広右衛門。

  安永四年(1775) 役者の突発的事故のために夏の興行は中止。

  安永五年(1776) 初代 阪東三津五郎が山下金作(大阪の女形)一座と来演。

  安永六年(1777) 四代目 岩井半四郎。

 

 その他、安永六年(1777)から安永八年(1779)の夏芝居には、阪東彦三郎一座が来演。また、安永九年(1780)には、村上・尾上一座が金手町(今の城東一丁目)の尊体寺境内で初興行するなど、亀星座の存在は役者たちに大きな影響を及ぼした。

 

 それから、天明、寛致、享和の時代を経て、歌舞伎が総合的発展をとげた文化、文政期にはいるが、時代は移り変わっても、甲府は江戸役者の、地方における芸の見せ場に変わりはなかった。

当時、教学院境内や三日町(今の中央五丁目)の西教寺境内でも芝居が行われるほどで、名優が相次いで来演した。文化の初めに、甲府の地を踏んだ代表的な役者たちといえば、次の名優の名があげられる。

 

 文化四年(1807)~同六年(1809)までの間、五代目瀬川菊之丞一座、阪東三津五郎、松本幸四郎、市川海老蔵一座。

 なお、文化六年の夏には、「河竹黙阿弥」が尾上松助とともに入甲している。特筆すべきことである。

 こうして、亀屋座は甲州唯一の娯楽の殿堂として、三季興行のほか三月~四月にかけて行う春興行や、十月から十一月にかけて宮地役者(地方回りの役者)らの餅つき興行を加えて、

年間五回の定期興行をおこなうようになり、次第にその地歩を築いていった。同時に、亀屋座の存在によって山梨に於いて甲府は歌舞伎の中心となったのである。

 

記録によると、坊主小兵衛の入甲後、時代は移り年は改まっても、七代目市川団十郎をはじめ、江戸や大阪の名優といわれる役者たちは、大正の初めごろまで毎年数名来航している。このように、数多くの歌舞伎役者たちがすぐれた芸を披露し、同時に芝居を通じて江戸の風俗習慣なども伝えたので、芝居に精通する人たちも続出し、その当時甲州の舞台は江戸役者の給料のきめ場と言われたほどだった。

 

 いったい、なぜこのように江戸の役者たちが、頻繁に甲州を訪れ、その舞台に熱を入れたのであろうか。

 それは、甲府が天領として幕府の直轄となり、享保九年(1724)三月以後、勤番制度が始まって、江戸との武士の往来が激しくなるにつれて江戸文化が甲府へ流れ込み、芝居の観客は甲府波動番士の旗本武士や富商、富農らであったことが、最も大きな理由であったと思われる。

 そこで、甲府市を中心に人の往来の激しい地域や宿場などは、特に芝居が多く行われることになり、芝居好きの人たちは幾洗練を経て観賞眼も高まり、相当な見識を深めたことになったのであろう。

 

 


亀谷座「甲府芝居繁盛記」 甲府で公演した 歌舞伎役者等

2025年04月25日 15時26分36秒 | 山梨 文学さんぽ

亀谷座「甲府芝居繁盛記」

甲府で公演した 歌舞伎役者等

甲府市堺町 大和屋書店

 

一部加筆・訂正 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室 白州ふるさと文庫 清水三郎

 

甲府芝居の根原

 

 1……道化形の名擾坊主小兵衛来る。

2……小兵衛の灸踊り-徳川綱豊

 3……徳川綱豊時代の甲府の風俗

4……日暮庄太夫の説教浄瑠璃

5……歌舞伎操等停止の公儀触書

6……寺社境内の芝居

 

甲府の芝居は一体今より何年前に始まったのか、容易に其起原を断定はできないが、元緑二年(1689)……江戸の名優坊主小兵管来る……これに端をはっするともいえるが、これ元より正確な資料・史実に基づくものとも云えないが、他に立証すべき事蹟ない上、口碑または古写本に散見する資料を以て斯く推測する外ないし、而して当時の甲府は、住民四方より聚居し、その以前に比べれば戸口著しく増加し、甲府城下の街の形式を備へたるも人ロ僅に一万二三千、今日の甲府市より観れば極めて微々たる一小都市に過ぎない。

 甲府様治代の御府内の風俗人情を尋ねてみるに、七分は百姓家にて喰い物は米麥栗で、金銭もすくなし、資質の物も多く交易に致し在方より麥豆杯を持ち床って櫨杯と取替る,何れも是に準じて、畳を敷いている家は稀なり、筵の暖簾(のれん)にて家名もなく、塩を売るは、鹽屋と云い、酒を売るは酒屋と呼びしとかや、囲炉裏に筵屏風を立て、裏には蜀黍穀の垣根にて馬家など作り、土蔵という物は無し。

 此貧弱なる甲府に、江戸の名優坊主「小兵衛」来る。実に晴天の霹靂(へきれき)なるべし、小兵衛は延宝(1673~81)・天和(1681~84)の頃、道化形を以て其名高く、其頭糸鬘坊主に髣髴(ほうふつ)の姿で練り歩く、時の人これを坊主と呼ぶ、さればその頃「小兵指人形」とて、小兵衛が糸鬘姿を五月の兜人形に作りしなどの名優なりし者と云う、此時小兵衛の演じた狂言は不明なるも、上一條町より「ヤイト踊」という事をして町々を多き、御城番迄参りし由。

 

 常時甲府は徳川綱豊の領地にて城代及定番を置く、城代は元元禄二年(1689)八月二日迄戸田阿波守、其後を継いだのは岡野伊豆守定番二人の内、高林五左衛門は二年の三月二十六日死去、他の人は森川四郎右衛門と云い、元禄四年(1691)四月迄在役、思うに小

兵衛は、上一様町より金手町、八日町.柳町等の町々を経て、此定番の役宅へ参向した。

即ち後世の乗り込という型にて、「坊主小兵衛」の入府を町々へ触れ廻った。

 

 さて、この「ヤイト踊」とは何か、未だその名を聞かないが「阿國歌舞伎」に「ややこ踊」あり、或はそれを云うのではなかろうか。「阿國」は「出雲のお國」。女歌舞伎の創始者にて日本に於ける歌舞伎の元組なり。

 阿國は出雲大社の巫女、父はこの大社所属の鍛冶、中村三右衛門という。

 若し阿國の念佛踊なれば、絹の僧衣を着け、鉦を真紅の鉦を真紅二筋にて襟にかけ、それを打ちながら歌って踊る佛號を唱え、世の無常を歌って踊る。その歌は、

 

  光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨、南無阿弼陀佛、

なむあみだ、はかなしや鈎にかけては何かせん、

心にかけよ彌陀の名號、南無阿弥陀仏、なむあみだ。

 

 そのころ、江戸の堺町には、

天満八太夫の「浄瑠璃芝居」、

江戸孫四郎の「説教芝居」、

江戸次郎右衛門.丹波和泉、薩摩太夫、虎屋源太夫等の「浄瑠璃芝居」、

猿若勘三郎、中村善五郎の「歌舞伎芝居」

 

ありて、芝居道しばらく華やかならんとする。

印本「元禄曾我物語」には、

ある時中村が芝居にて、坊主小兵衛が「やつし芸」、花弁才三郎が「長口上」、あくびしながら見物、十文字さつまが「景清門破り、天満八太夫がかるかや道ならず聞いてやる。

 

この小兵衛が甲府に来る。夥しき人気を博せしや疑いなかるべし。

 

 それより十四五年の後、宝永の初年(1704)、府内御崎神社の修理に就いて、東光寺の日暮(ひぐらし)庄太夫に勧進芝居を演ぜたることが同記に見える。東光寺村は今西山梨郡里垣村に属す。『甲斐国志』に

 

一、説教太夫 万力筋東光寺村、戸六、口十三、男七人・女六人

按に唱門師は、

釋寛印所作領文立入家門戸ノ傍金鼓及彫(ささら)

俗云門教ナリ、是も呼びて、「佐々良」トハ云ヘドモ、

釋氏ニ関カラズ業ノ転シタルナルベシ

 

 説教の語り物は、尾陽戯場事始に、寛文五年名古屋に於いて、日暮小太夫

五翠殿、山椒太夫、愛護若、苅萱、小栗判官、俊徳丸。松浦長者、生贅(いけにえ)、小晒(こざらし)物語の九作を語り、

 

同九年、日暮市九郎 同小九郎、曇鸞記(どんらんき)、誓願寺本記を語り、また天満十太夫、横笛滝口、善光寺開帳を語るとあり、外題は略これに盡く、

尚その他にも、熊谷、志田小太郎、法蔵比丘、伏見常盤、阿禰陀胸割、信田妻、梅若、の数曲あれど、右の内、愛護若、山椒太夫、苅萱、梅若、信田妻を五説教として珍重せり。

その起しは、詞にて、

只今語り申すは物語、國を申さば丹波の國かなやき地蔵の御本記をあらあら

書きき立て弘め申すに、これも一たびは人間にておはします。

 

此時の芝居といふは如何なるものか今詳ならす、ただ説教節は多く操芝居にて、

享保の末年には殆ど其後を絶ちたりと。

 

 宝永二年(1705)五月の公儀触法度書中に、

 

  寺社境内において歌舞伎繰等停止彌可為守候、然れ共先例有之候儀は、

委細書付を以て、申聞可被候。

 

とあり、その頃説教節の操芝居の流行せしこと想ふべし。

 

❖それより約五十年後の宝暦(1755)年月不詳、上府中八幡社の境内に於いて歌舞伎芝居の興行あり、狂言役割共に不明なるも、登場の俳優は、

  中村吉十郎、市川庄五郎、中村藤十郎、中村京十郎、中村姫吉、市川九蔵、中島龍右衛門、中村鶴太郎、右の外、子供。

 

 ❖それに次いで善光寺境内に於いて此一座の芝居あり、尚此一座は引続き光澤寺境内に於いて興行。此時敬學院境内に於いて大黒屋清次郎芝居あり、狂言は不明なるも一座の俳優は

  中村四郎五郎、阪東栄蔵、中島蔦右衛門、中島三甫次、鎌倉金五郎、

  市川助五郎、市川力蔵、中村國太郎。

 

❖其後、光澤寺(元稲門村、今伊勢町)境内にては、

中村小吉、中村京十郎、中村蔵右衛門、中村八十治、中村鶴次郎、市川武十郎。

 

❖千松院詣(元稲門村、今伊勢町)境内にては、

澤村喜十郎、澤村今蔵、市川民五郎、市川和十郎、中町彦五郎、

大谷幸蔵、中村山三郎、中村鶴吉、右之外小結五人、小供三人。

 

甲斐国志、恵林寺公儀触留、峡中戯場記録、日本演劇史、町年寄坂田氏御用留、

耳の曾宇志、富士川町倉本氏所蔵聞書、同古き日記。

 

甲府城勤番……支配……組頭……旗本……與力……同心……梅澤芝居……

 

宝暦九年(1759)五月、左のお触あり。

 

去比(さるころ)一連寺・光澤寺にて、仕形芝居有之相済侯以後野郎非のものは富

 所退散いたし叉立戻り営所にかくまい罷在候(中略心召捕侯節は町役之者可為無念候                

                     丹 波

                     近 江

 

 丹後、近江共に時の甲府勤番支配なり、丹後は八木三郎盈道(かねみち)、宝暦八年七月二十八日、小普請組支配より勤番支配となり、安永四年(1775)四月朔日御槍奉行となる。近江は川勝左京廣忠、宝暦五年(1755)八月二十八日小普請組支配より勤番支配となり、同十三年十二月十五日御持筒頭となる。

丹後は丹後守に、近江は近江守に任官され、斯く稀したるなり。

 

 此触書を見るに、当時この境内に於いて興行したる芝居の座中に、「野郎陰間」の徒輩あり、市在に出沒して大いに風紀を乱すこと明かなり。

 

 甲府城は、享保九年(1734)三月、松平甲斐守(柳沢吉保)郡山に添封せられし以 来、城主久は国主を置かず、甲府勤番なるものを旗本の内より任 命じて、甲府城の警護に当たらせ、其上に勤番支配二人を置き、一人は大手に、一人は山手に役宅あり、勤番の士百人宛、其上に組 頭二人宛、其下に与力十騎宛、同志五十人宛、以上年な遂うて交替進退するの制度となせり。此制度に依り、始めて甲府に勤番を 置きしは享保九年七月四日なり。

 

賓暦十年(1760)二月十九日より二十一日迄三日間、赤尾村(塩山)湧泉寺の開帳に「梅澤芝居」の興行あり。

 

梅澤芝居、是は惣村若者より御取持候、十九日より二十一日まで三日修行、他に一日寺の祝いとして小屋右同断、半之丞屋敷の田一東むき東西六間内前のはり出し手すり一間、南北横八間内振舞毫の所三間五間の積り,甲一両壹分にて、外に惣若者より花代三百支出之、尤花代ぐるみに申定候事、賄は寺にて三日共に致し、宿は喜平次 勘右衛門 権之丞に、致す事、芝居三日の外題、十九日「一谷嫩(わかい)軍記」、二十日「祗園祭禮信仰記」、二十一日「姫小松子日之道」、寺より花甲二朱一樽被遣わし候事、十九日に被遣候事、並び名主長百姓上中下閉帳世話人都合九人にて二百文遣わす事、尤も十九日朝、座元吉右衛門右九人へ廻り候事、二十二日寺にて祝い操有之候、芦屋道満を出す事、(赤尾村保坂無究古日記)。

上記以外にも寺社境内において演劇の興行少なからざるも、古書の多くは散逸して今は知る由もなし。

 

 

 

 はしがき 小澤柳涯

 

 元禄の昔、坊主小兵衛の来りしこと、古き寫本に見えたれど、詳しきは知る人絶えて無く、夫れより降って賓暦の晩年(明和元年 1764)亀座屋が創設され、初めて江戸役者の乗り込めりしこと、甲府御町年寄の御用留に見える。これぞ甲府芝居の根原か、爾来命々江戸大阪の名優理を接して登場するあり、見物ひた押に押寄せて、其繁昌算にも盡されず、云ひ傅へ語り傅へて櫓太鼓の昔よりも高し。

 さても其年々乗込みし(甲府に来た)役者の面々は、

 

坊 主 小兵衛    ……江戸の俳優、道化師の名人なりと。

三代目 坂田藤十郎  ……二代目の養子、俳號車連、安永三年(1774)歿。

 二代目 中村助五郎  ……江戸の俳優、屋號仙国屋.俳名魚業。

 二代目 中島三甫右衛門……江戸の俳優、俳名天幸、綽号を湯島天神と云う。

三代目 坂東彦三郎  ……江戸の俳優、屋号萬屋、俳名楽喜、宝暦四年(1754)生。

五代目 坂田半五郎  ……江戸の俳優、俳名杉曉。

三代目 佐野川市松  ……同   市村羽左衛門の門人。

 三代目 市川小團次 ……同   五代目市川團十郎の門人。

 二代目 市川八百蔵 ……同   屋号蓬莱屋、俳名中車、四世團十郎の門人。  

四代目 大谷廣右衛門 ……同   俳名晩風、寛政二年(1790)歿。

初 代 坂東三津五郎 ……同   屋号、大和屋、俳名中車、四世團十郎の門人。

二代目 山下金作   ……大阪の俳優、屋号、天王寺屋、俳名里紅、

享保18年(1733)生。関西屈指の女形なり。

岩井半四郎      ……江戸の俳優、俳名杜若、延享四年(1747)生。 

四代目 市川團蔵   ……大阪の俳優、屋号三河屋、俳名市紅、

延享二年(1745)京都に生。 

五代目 市川團十郎  ……江戸の俳優、屋号成田屋、俳名三升、後白猿と改める。

             寛保元年生(1741)生。

初 代 西川伊三郎  ……大阪の傀儡師。初吉田氏、天明五年(1785)歿。

    吉田文吾   ……大阪の傀儡師。後二代目文三郎。文政十年(1827)歿。

三代目 竹本政太夫  ……浄瑠璃太夫、義太夫節を着す、利兵衛と称す、

             江戸に下り、文化十年(1813)歿。

三代目 瀬川菊之丞  ……江戸の俳優、前名、市山富三郎、屋号濱村屋、

             俳名路考、寛延三年(1850)生。

二代目 坂東三津五郎 ……江戸の俳優、後荻野伊三郎という、』屋号大和屋。

             俳名是葉、寛延三年(1750)生。

四代目 松本幸四郎  ……江戸の俳優、屋号高麗屋、俳名錦江、又錦考、

             元文二年(1737)京都で生。

三代目 市川八百蔵  ……江戸の俳優、屋号紀伊国屋、俳名中車、

延享四年(1748)生、文化二年(1805)京都生。

初 代 浅尾爲十郎  ……京阪の俳優、屋号銭屋、俳名奥山、

享保二十年(1735)生。

三代目 澤村宗十郎  ……江戸の俳優、屋号紀伊国屋、俳名訥子、

宝暦三年(1753)生、三世市川八百蔵の弟。

四代目 岩井半四郎  ……江戸の俳優、屋号大和屋、俳名杜若、

延享四年(1747)生。

三代目 大谷廣次   ……江戸の俳優、屋号丸屋、俳名十町、延享三年(1746)生。

二代目 小佐川常世  ……江戸の俳優、屋号綿屋、俳名巨撰、文化五年(1809)歿。

二代目 嵐 冠十郎  ……大阪の俳優、後の二世嵐山猪三郎、屋号貝疋屋、

             俳名慶舎、安永三年(1774)生。

初 代 市川男女蔵  ……江戸の俳優、屋号瀧野屋、俳名新写、

天明元年(1781)生。

初 代 尾上松助   ……江戸の俳優、屋号新音羽屋、俳名三朝、後に松録、

             延享元年(1744)生、初世菊五郎の高弟。

    瀬川路之助  ……江戸の俳優、後、路考と改める。四世菊之丞なり。

二代目 澤村源之助  ……江戸の俳優、後の五世澤村宗十郎、

五代目 松本幸四郎  ……江戸の俳優、屋号高麗屋、俳名錦江また錦升、

明和元年(1764)生。

二代目 中島三甫右衛門……江戸の俳優、俳名天幸、綽號を湯島天神と称す。

三代目 坂東彦三郎  ……江戸の俳優、俳名楽喜、宝暦四(1754)生。

五代目 坂田半五郎  ……江戸の俳優、俳名杉曉。

三代目 佐野川市松  ……江戸の俳優、市村羽左衛門の門人。

三代目 市川小團次  ……江戸の俳優、五代目市川團十郎の門人。

二代目 市川八百蔵  ……江戸の俳優、屋号蓬莱屋、俳名中車、四世團十郎の門人。

四代目 大谷廣右衛門 ……江戸の俳優、俳名晩風、寛政二年(1790)歿。

初 代 坂東三津五郎 ……江戸の俳優、屋号大和屋、俳業是葉、

延享二年(1745)大阪に生。

二代目 山下金作   ……大阪の俳優、屋号天王寺屋、俳名里虹、

享保十八年(1733)生、関西屈指の女形。

二代目 岩井半四郎  ……江戸の俳優、俳名杜若、延享四(1747)年生。

四代目 市川團蔵   ……大阪の俳優、屋号三河屋、俳名市紅、延享二年

五代目 市川團十郎  ……江戸の俳優、屋号成田屋、俳名三升、後白猿と改、

             寛保元年(1741)生。

初 代 西川伊三郎  ……大阪の傀儡師、初吉田氏、天明五年(1785)歿。

    吉田文吾   ……大阪の傀儡師、後二代目文三郎、文政十年(1827)歿。

三代目 竹本政太夫  ……浄瑠璃太夫、義太夫節が得意、利兵衛と称す。

             江戸に下り、文化八年(1810)歿。

三代目 瀬川菊之丞  ……江戸の俳優、前名市山富三郎、屋号濱村屋、俳名路考、

             寛延三年(1750)生。

二代目 坂東三津五郎 ……江戸の俳優、後、荻野伊三郎、屋号大和屋、俳名是葉、

             寛延三年(1750)生。

四代目 松本幸四郎  ……江戸の俳優、屋号高麗屋、俳名中車、

延享四年(1747)生、

文化六年(1809)二世助高屋高助と改。

 三代目 市川八百蔵  ……江戸の俳優、屋号紀伊国屋、俳名中車、

延享四年(1747)生、

文化六年(1809)二世助高屋高助と改。

初 代 浅尾爲十郎  ……京阪の俳優、屋号銭屋、俳名奥山、

享保二十年(1735)京都に産。

三代目 澤村宗十郎  ……江戸の俳優、屋号紀伊国屋、俳名訥子、

             宝暦三年(1753)生、三世市川八百蔵の弟也。

四代目 岩井半四郎  ……江戸の俳優、屋号大和屋、俳名杜若、

             延享四年(1747)生。

三代目 大谷廣次   ……江戸の俳優、屋号丸屋、俳名十町、

             延享三年(1746)生。

二代目 小佐川常世  ……江戸の俳優、屋号綿屋、俳名巨撰、

文化五年(1808)歿。 

二代目 嵐 冠十郎  ……大阪の俳優、後の二世嵐山猪三郎、屋号貝疋屋、

             安永三年(1774)生。

初 代 市川男女蔵  ……江戸の俳優、屋号瀧野屋、俳名新車、

             天明元年(1781)生。

 初 代 尾上松助   ……江戸の俳優、後に松録と改、屋号新音羽屋、俳名三朝、

              後に松録、延享五年(1748)生、初世菊五郎の高弟。

     瀬川路之助  ……江戸の俳優、後露考と改、四世菊之丞也。

 二代目 澤村源之助  ……江戸の俳優、後の五世澤村宗十郎。

 五代目 松本幸四郎  ……江戸の俳優、屋号高麗屋、俳名錦江、又錦升、

              明和五年(1768)生。

 二代目 助高屋高助  ……江戸の俳優、三代目市川八百蔵、前に記す。

 二代目 關 三十郎  ……大阪出身の俳優、天明二年(1782)生、

文化五年(1808)襲名、江戸に下る。

 二代目 市川 市蔵  ……のちの元祖市川鰕(えび)十郎、大阪の俳優、屋号播磨屋、

              俳名新升、安政六年(1859)生、

 二代目 藤川 友吉  ……大阪の俳優、屋号江戸屋、俳名花友。

 二代目 澤村田之助  ……江戸の俳優、屋号紀伊国屋、俳名曉山、

享和二年(1802)生。

 五代目 嵐  雛助  ……江戸の俳優、初名市川鯉三郎、後嵐姓を改めて叶となす。

     阪東 簑助  ……江戸の俳優、屋号大和屋、俳名秀朝、後の七世岩井半四郎、

              文化元年(1804)生。

 七代目 市川團十郎  ……江戸の俳優、屋号成田屋、俳名白猿、

寛政三年(1791)生。

     市川九蔵   ……江戸の俳優、屋号三河屋、俳名市紅、

寛政十二年(1800)生、後の六世市川團蔵。

 二代目 市川男女蔵  ……江戸の俳優、屋号瀧女屋、大阪に生まれる。

     中村傳九郎  ……             

 初   中村 歌六  ……大阪の俳優、屋号播磨屋、俳名梅枝、

安永八年(1779)生。

 四代目 市川八百蔵  ……江戸の俳優、俳名中車、振付師藤間勘十郎の子。

 三代目 尾上 松助  ……江戸の俳優、二代目の子。

     阪東玉三郎  ……江戸の俳優、四代目三津五郎の子。

 四代目 阪東彦三郎  ……江戸の俳優、屋号岡島屋、俳名新水、

寛政十二年(1800)生。初名九蔵。

 三代目 嵐 吉三郎  ……大阪の俳優、屋号岡島屋、俳名鱗昇、

              文化七年(1810)生。

 初 代 尾上菊次郎  ……江戸の俳優、屋号音羽屋、俳名歌山、

文化二年(1805)生、振付師藤間勘兵衛の子。

 初 代 阪東しうか  ……江戸の俳優、屋号大和屋、俳名秀歌、

文化十年(1813)生、

     尾上多見蔵  ……京阪の俳優、屋号音羽屋、俳名松玉、また松朝、

              寛政九年(1799)京都に生。

 四代目 阪東三津五郎 ……江戸の俳優、屋号大和屋、俳名秀朝、

              享和二年(1802)生。

 六代目 松本幸四郎  ……江戸の俳優、屋号高麗屋、俳名錦升、

              文化十年(1813)生。

     尾上 梅幸  ……江戸の俳優、文化五年(1808)大阪に生、

後の四世菊五郎。

 四代目 大谷友右衛門 ……大阪の俳優、屋号明石屋、俳名此友、

              寛政三年(1791)生。

 四代目 市川鰕十郎  ……大阪の俳優、屋号小紅屋、俳名眼玉、

              文化六年(1809)生。  

 四代目 市川小團次  ……江戸の俳優、屋号高島屋、俳名米升、

              文化九年(1812)生、江戸市村座火縄売榮蔵の子。

 八代目 片岡仁左衛門 ……大阪の俳優、屋号松嶋屋、俳名我童、

              文化七年(1810)生。

 八代目 市川團十郎  ……江戸の俳優、屋号成田屋、俳名三升、

              文政六年(1823)生。

     岩井粂三郎  ……明治五年(1872)、八世岩井半四郎を襲名。

              明治十五年(1882)歿。

     中村 芝雀  ……江戸の俳優、四代目歌衛門の門弟。

 五代目 阪東彦三郎  ……江戸の俳優、屋号音羽屋、俳名薪水、

明治十年(1877)歿。

三代目 澤村田之助  ……江戸の俳優、屋号紀伊国屋、俳名曉山、翫

晩年脱疽を病み舞台に立つこと適わず。

明治十一年(1878)歿。

   河原崎権十郎  ……天保九年(1839)江戸に生まれる。

後の九代目市川團十郎。

四代目 中村 芝翫  ……初名福助、大阪に生まれる。明治三十一年(1898)歿。

五代目 尾上菊五郎  ……前名市村家橘、同羽左衛門、吾郷音羽屋、俳名梅幸、

           ……弘化元年(1844)六月生。

    市川 新車  ……江戸の俳優、明治三年(1870)五世市川門之助を襲名、

             文政四年(1821)生、屋号瀧野屋、門之助の俳名新車。

七代目 市川 團蔵  ……本名市川九蔵、初名九蔵、

天保七年(1836)江戸八丁堀に産まれる。

実父は丸屋伊三郎、料理人、六代目の養子となる。


山梨県の先人 歌田靱雄(うただゆきえ)

2025年04月01日 11時49分54秒 | 山梨県の紹介

山梨県の先人 歌田雄(うただゆきえ)

『郷土にかがやく人々』青少年育成山梨県民会議編 一部加筆

歌田靱雄の略歴

安政元年(1854)韮崎市下円井(しもつばらい)宇波戸神社神官の歌田昌保の長男に生まれた。生年月日は不詳。

通称・敏雄、少年のころ徳太郎とも呼ばれた。のちに稔と改名する。諱は有誠または兵部。文久三年(1863)、九歳の時に、武芸・神道・国学・和漢の修学のため今の甲府市の御崎神社の宮司で心形刀流剣法指南の水上貞道に預けられる。

『断金隊』

当時は倒幕、王政復古の機運が高まり世情騒然となる。慶応四年(1868)三月三日、東山道軍先鋒参謀板垣退助以下土州・因州の官軍六百人余りが甲府に入る。同月八日、水上神官の斡旋で十五歳の執雄、官軍に入隊、神官や地域の人々で結成した断金隊に参加して江戸へ向けて出発、奥州征伐に加わって会津城攻略の最前線で戦う。会津城が堕ちるとともに江戸に帰り、翌明治二年二月、任務を終えたあと神田大和町の井上頼圀の門下に入り、さらに弘道館に学ぶ。 

『郷土で教鞭を執る』

二年間の学習を終えて故郷に帰り、明治六年(1873)九月、円井学校の訓導に任ぜられ、ついで校長になる。翌年宇波刀神社四十七

代の神官、八幡社神官および学務委員となる。

 明治九年(1876)、在家塚村(現白根町)の斎藤さいと結婚、同年十月、山梨県庁第一課一等付属に任官、藤村紫朗知事に仕える。同九年八月、静岡裁判所甲府支庁書記局貞を兼務する。

略歴

安政元年(一八五四)北巨摩郡下円井宇波戸神社・神官・歌田昌保の長男として生まれた。生年月日は不明。

通称靱雄、少年のころ徳太郎とも呼ばれた。のちに稔と改名する。諱は有誠または兵部。

文久三年(一八六三)、九歳の靭雄、武芸・神道・国学・和漢の修学のため今の甲府市の御崎神社の宮司で心形刀流剣法指南の水上貞道に預けられる。

倒幕、王政復古の機運高まり世情騒然となる。

慶応四年(一八六八)三月三日、東山道軍先鋒参謀板垣退助以下土州・因州の官軍六百人余りが入甲。同月八日、水上神官のあっせんで十五歳の靱雄、官軍に入隊、神官、郷土で結成した断金隊に参加して江戸へ向けて出発、奥州征伐に加わって会津城攻略の最前線で戦う。

落城とともに江戸に帰り、

翌明治二年二月、任務を終えたあと神田大和町の井上頼圀の門下に入り、さらに弘道館に学ぶ。二年間の学習を終えて故郷に帰り、

明治六年九月、門井学校の訓導に任ぜられ、ついで校長になる。

翌年宇波刀神社四十七代の神官、八幡社神官および学務委員となる。

 明治九年三月、在家塚村(現白根町)の斎藤さいと結婚、

同年十月、山梨県庁第二謙一等付属に任官、藤村紫朗知事に仕える。

同九年八月、静岡裁判所甲府支庁書記局員を兼務する。養蚕振興を目指す県は執雄を商品評会審査委員に命じ、各郡市を回って優良繭生産を督促した。

 明治二十年五月、県庁を辞した靭雄は、円野、清哲、神山連合の戸長(准判任十等、年俸百四十円)に任命され、

二十二年二月、円野村の初代村長に任命された。

ついで二十六年六月、北巨摩郡選出の郡会議員となる。

断金隊の最年少の隊士だった靱雄は、帰郷後村から一歩もでることなく、ふるさとの子弟の教育に努め、質実剛健の気風をもたらした。本名を稔と改めた壮年期をへて、三男二女の父となったが、

明治三十一年、長女朝が二十二歳で病歿してから稔は気力を失い、

同三十五年四月十五日、甲府市泉町の自宅でロク膜炎を患い、数え年四十九歳で病撤した。神式によりおくり名を鏡足可美珍彦命(ニヒタラシウマシウズヒコノミコト)とし、甲府市愛宕町の長禅寺に埋葬した。下円井の歌田家の畑地にも墓がある。

偽勅使事件 小沢雅楽助(うたのすけ)

 天領の甲州に住む人たちの多くは、はげしく移り変わる幕末の動乱期をどうとらえていたのだろうか。

 官軍とは、どういう組織でなんのために幕軍と戦うのか…その意味をのみ込んでいた甲州人は、ごく限られた有識者だけだった。

 貧乏にあきあきしていたから世の中がひっくり返るような大事件が起きればいい…と世直し大明神に願をかけたとたんに官軍が攻め込んでくるという情報が町から村へ流れ込んできた。

(いよいよいくさが始まるぞ-)

 緊迫した空気が甲府の城下町に漂ったのは慶応四年の新年を迎えてからである。殊に甲府城の甲府勤番支配の佐藤駿河守信崇(ただ)以下勤番士とその家族に狼狽ぶりは目に余るものがあった。

 同じく徳川三百年の余慶にあずかってきた甲府の町人と職人、近郷の名主級の支配者たちである。逆に官軍の蜂起に欣喜雀躍したのは菊のご紋をいただく神官たちである。

 慶応四年二月一日、官軍の先発隊として信州・諏訪口から甲州の台ケ原に到着したのは勅使高松皇太后宮少進(実村)の後見役小沢雅楽助(うたのすけ)以下二十人であった。

 黒ラシャの詰め襟の上衣に金モールつきのズボン、金びかの陣羽織に白い兵子帯をしめて大小の刀をはさんだ隊長格の小沢は栗毛の馬に乗り、白布に「鎮撫」と善かれた肩章をつけていた。年のころ二十七、八歳の精かんな壮士であった。

出迎えた近郷の名主、神官らに対し

一、甲斐国中武田信玄公ノ旧政ヲ復古シ一国別制ヲ免許ノ事

 一、大小切卜唱候金納免許ノ事

一、甲金二十万四両追々廃絶ノ所、今度吹替通用免許ノ事

 一、武田浪士ノ儀ハ此度勤皇相励ミ、就而ハ向後其住所ニ於テ石高下サレ北

面ノ武士同様オ取立ノ事

 このほか

・「金銀桝秤講座免許」

・「名主、長百姓諸役免許」

・「コノ年二限り年貢米ハ半収納ニテ、半納ノ分米ハ百姓・共へ下シ置カレ候事」

など十カ条の恩典を書いた条目を示し、金沢宿から甲府に至る宿々に対し、人足五人と宿駕龍一挺の調達を命じ、その日の夕方、韮崎本陣に着いた。

 武田滅亡以来、徳川の圧政に苦しんできた甲州人を味方にするため、武田信玄の旧政を復古し、官軍に加わった浪人、神官には官軍と同等の資格を与えるという好条件の十ケ条に乗せられて武川筋の白須村若宮八幡、折居村の八幡宮、下条中割村の丸林神明宮の神官を除くすべての神官が集まって韮崎宿の本陣に訪ねて甲府へ同行することを願い出た。その中に下円井村の宇波刀神社の神官歌田昌保がいた。靱雄の父である。

小沢雅楽助一行が甲府に入る

 二月三日、小沢雅楽助一行が甲府に入り、尊体寺に着陣、甲府勤番支配の佐藤駿河守を呼びつけて甲府城明け渡しを申し入れた。佐藤は「私一存では返答申しかねる。暫時、江戸の指示を仰ぐまでお待ち下され」と、急使を江戸へ

送り、その間、勅使二打を厚くもてなした。一週間後、江戸から大目付の棚錠之助…行三人が入甲、「戦火を交えず

穏やかに取り計らうようお願い申す」と上意を伝えた。

同じ日の二月十日、東海道鎮撫総督府所属の肥州藩の林恵右衛門、土州藩の黒岩治部之助ら三人が入甲、勤番支配、甲府町奉行らと会い、「われわれこそ本物の甲斐鎮撫の使者・小沢なる者は偽物でござろう」と激怒した。そこで翌十一日、幕府大目付、甲府代官立会いのもとに林、黒岩ら三人の鎖撫隊員と小沢らと対面し論争した結果、小沢らを偽勅使と断定した。

 この日、高松実村は甲府宿所の教安寺に到着したが、京都の中山前大納言から引返也との命令書が届けられて十三日早朝、実村、小沢一行は、旅装をととのえて甲州街道を西下した。怒り狂ったのは甲府の民衆である。雅楽助こと

彫刻師小沢一仙とわかって引き返す一行に石を投げ、罵声を浴びせた。

小沢一仙は二月十八日、韮崎宿で逮捕され、一行に加わった神官の歌田昌保らに逮捕状が出た。昌保らは捕吏の目をかすめて山林に逃げ込み、身を隠した。

 官軍の朝敵征伐の道具に使われた小沢一仙は三月十一日、山崎の刑場で首を刎ねられ、その首は三日間荒川の河原に曝らされた。それとは裏腹に高松実村は「維新のさい、大いに功あり」として明治十七年、華族に列し子爵を授けられた。

 この偽勅使事件のあった翌月の三月四日、東山道軍先鋒支隊の土州軍大隊司令の板垣退助(旧姓乾退助)が約一千五百人の官軍を統率して甲府城に無血入城した。

 

山梨県の先人 歌田雄(うただゆきえ)十五歳で官軍入隊

 

 この物語の主人公の歌田靱雄は、板垣退助の甲府入城に始まる。父昌保が偽勅使事件に巻き込まれて捕らわれる身であることを知ったのは二月十九日、その時、靱雄は甲府・御崎明神社の神官水上中務貞造の塾生として道場に住んでいた。数え年十五歳であった。

 靱雄の家は代々白川神祇伯家、卜部神道管領家に仕え、公卿の日野家とも縁故が深く、いまの山梨市歌田の領地を有していたことから歌田の姓を名乗り、諏訪大明神兼武神官として、いまの韮崎市円野町下門井の宇波刀神社の神官を継ぎ、靭雄は四十七代目を継ぐ神官として水上道場で文武両道の修行を重ねて五年目の春を迎えていた。

 靱雄は恩師の水上貞道に伴われて甲府城に駐とんとする板垣退助と会い、

官軍入隊を許されたのは三月八日、筋骨隆々として背丈も大きい靭雄は、どこからみても十七、八歳の若者にみえた。

この日、退助は官軍志願の靱雄に「何歳になる?」と聴いた。靱雄はためらわず「十八歳です」と答えた。恩師とは事前に打ち合せていた偽りの年齢である。三つ年上の十八歳と答えても退助は、すこしも疑念を抱かなかった。靱雄の家柄については先生から詳しく紹介し、「人物は保証する」と申し添えた。

退助と貞造は、かつて江戸お玉ケ他の千葉道場で剣の道を学んだ同期生で道場では腕を競い合った旧知の間柄であった。退助の入甲と同時に甲府城に参上して退助と会い、旧交を温めた。

官軍入隊を即座に認められた靭雄は、忠誠を誓う血判をして城を出た。その日、甲府から約二十キロ離れた鳳凰山麓の下円井の実家に向けて足を急がせた。正月の帰省以来三カ月ぶりの帰郷である。

 逮捕を免れた父昌保と母の伊登、それに妹や弟たちに暇乞いするための帰郷であった。(これが最後の帰郷になるかもしれない)

 敏雄は漠然と、死を考えながら足を早めた。

官軍入隊と聴いて両親は複雑な面持ちで靭雄を出迎えた。ことの経緯を聴いた父昌保は「父の分までご奉公してくれ」と励ましたが、まだ十五歳の若輩の身、果たして戦場で役に立つのか…といった一抹の不安がよぎった。

その夜は家族水いらずで別れの宴を開き、叛雄は早目に床に就いたが、息子の出陣を前に夜遅くまで旅支度の縫いものをしている母の息づかいが伝わってきて仲々寝つかれなかった。

九日の朝、ゆっくり体を休めて午後、家族や近所の人たちの見送りを背にして家を出た。「武運を祈る」とひと言、秋雄を励まして奥座敷に消えた父の姿がいつまでも執雄の脳裡に焼きついて離れなかった。

甲府の上水道場についたのは夕暮れどき、靭雄の晴れの首途を祝い、門↑生も加わって壮行会が開かれた。水上夫人は、出陣する靭雄のために衣服、陣羽織、武者わらじを撃えていた。

 十日丑の刻(午前二時)、貞道は靱雄を自室に招き、免許皆伝の目録を渡した。十五歳の年少者に皆伝の目録を伝授したのは後にも先にも靱雄ただ一人であった。余程帥には見込まれていたものと思われる。

午前五時、身を清め旅装を整えた靭雄は、五年の間世話になった水上家の人たちに厚く礼を述べた。貞道は出陣する靱雄に「もし、強敵と渡り合うときは、落ち着いて鍔元で敵を斬れ」と教え、道中、必要な印寵、矢立てに多額な旅費を添えて渡した。感涙する靭雄は即興の歌を声をからして吟詠した。

帥の君の教えのわざを御いくさの場(にわ)に試めさん時は来にけり

断金隊に参加して出兵

 柏手と「万歳」の声に送られて水上道場を出た靱雄は、その足で甲府城に出頭、大目付役の大石弥太郎に謁見して入隊の手続きを済ませた。そのまま城内にとどまり、官軍に志願する神官、武田の浪士が集まってくるのを待った。城内で一夜を明かした執雄は巨摩郡小尾村の神官小尾宗義から「同行しなさい」といわれ、数人の浪人たちと一緒に城を出て、岩窪村の武田信玄公廟所に案内された。集まった浪士、神官は靭雄を加えて十三名だった。いずれも靭雄よりずっと年上の青壮年で父昌保の友人である初老の赤岡真常(まさつね)、蔦木盛政も加わっていた。

「われわれは武田浪士と兼武神官。これより浪士隊を結成し、板垣参謀の土州藩に所属して朝敵征伐に参加する」

小尾宗義のかん高い声が要害山にこだました。土州藩大隊が出発する前日のことであった。「断金隊」に参加した十三人の隊員の多くは北巨摩地方の神官と武田旧臣の郷士であった。その住所・役職・年齢は次のとおりである。

 

甲斐国巨摩郡小尾村神官 嚮導   小尾修理進源宗義   三十五歳

同国同郡大蔵村(須玉)神主 嚮導 赤岡五三太藤原宗長 

同国同郡五三太の父・神主 輜重衛 赤岡式部藤原真常   五十六歳

同国同郡浅尾村(明野)神主    赤岡兵部藤原光文   三十八歳

同国同郡上神取村(明野)神主   赤岡保丸藤原正高   二十三歳

同国同郡下円井村(韮崎)神主   歌田靱雄藤原有誠    十五歳

同国同郡牧野原村(武川)浪人   蔦木総四郎源盛政   五十八歳

同国山梨郡小河原村浪人      山下又吉源光茂    二十八歳

同国巨摩郡上円井村(韮崎)浪人  内藤幾右衛門源義成  三十八歳

同国同郡宮脇村(武川)旧臣    米倉善八源則重    二十九歳

                   米倉幸七源昌幸    三十六歳

同国同郡上石田村         中込中郎左衛門澱重次 二十九歳

                   山川次郎源盛行     十九歳

「断金隊出陣日記」

 断金隊一行は

*三月十二日朝、土州藩大隊のあとに従って江戸に向けて出発した。同夜は石和泊まり。

*十三日は笹子峠を越えて黒野田泊まり、

*十四日は猿橋泊まり、

*十五日は小仏峠を越えて八王子泊まり。江戸の内藤新宿に到着したのは十六日の夕方であった。新宿で断金隊の命名は、尾州邸にいた東山道総督岩倉具視公がつけた。

*一泊して翌十七日、市ヶ谷の尾州邸に入った。ここで正式に断金隊が結成されたのである。

 歌田執雄が参加する断金隊の隊士たちに肩章、上着マンテル、下着ズボン、小銃が渡され、月三両の手当を与えられることになった。土州本陣となった尾州邸で疲れを休める暇もなく、非常召集がかかり、米倉幸七、内藤義成、歌田の三人は旗本の彰義隊が攻めてくるという情報に基づき、奥州街道の探索を命ぜられた。

*十八日には靭雄ら三人は小山に到着した。この辺には彰義隊三百人ばりが布陣し、結城城を焼き打ちしたことがわかった。

 確実な状況をつかんだ三人は、そのまま引き返し、翌日、関宿から夜舟で下り、

*十一日、ようやく市ヶ谷の尾州邸に帰って上司に彰義隊の動きをつぶさに報告した。

 本隊に復帰した三人は、断金隊に属し、二十二日から五日間、邸内で小銃の撃ち方など近代戦法の心得えを実地に訓練を受けた。

 *三月二十七日、土州大目付役の美正貫一郎が断金隊長に命ぜられ、同時に執雄は隊長付使役を任命された。奥州街道の小山まで探索に出かけて冷静な判断で敵情を報告した秋雄の行動をみていた美正隊長は「信頼に値する若者」と見抜き、腹心の伝令役を命じたのである。

 *翌二十八日。断金隊に大砲隊が加わり、隊士たちは江戸市中の見回りと不審な行動を探索する任務に就いた。

 *四月九日、断金隊に八代郡中川村浪人小山田主水源昌則、二十四歳が新たに入隊を許可されて仲間に加わった。

このほか使役として巨摩郡宮脇村の米倉丹三(二十一歳)が採用された。のちに丹三は七月、欧州棚倉の戦いで軍功をたて正隊士に編入された。

 

 *四月十一日、江戸城明け渡しが行われ、官軍入城、徳川慶喜は水戸へ退去した。だが、武士の面目にかけて官軍に徹底抗戦を続ける幕臣がいた。房総の結城にたてこもる幕軍に先発の長州軍の官軍が手を焼き、土州軍に援軍を求めてきた。

 *日、断金隊は土州軍に従って尾州邸の本陣を出発十五里(約六十キロ)の道を強行軍して栗橋に到着、敗走してきた長州軍を援けてその夜、古河城下にたどり着いたと同時に官軍が彦根藩兵との戦いで官軍が敗走したとい

ぅ情報を聴いた。しかも古河城主の土居利則を官軍への帰順をこばんでいると聴いた土州軍の村田牛郎は十九日、因州の宮木代歳、それに若輩の歌田靭雄を随い、古河城に乗り込んで城主に帰順を説得して従わせた。つぎに土州の浜田良作に従った秋雄は下野壬生城主鳥居忠宝の家老を説いて帰順させ、その夜は壬生城に泊まった。

 十九日、彰義隊は宇都宮城を占拠し、四日後の二十二日、因州勢の官軍が攻めて敗走させた。ここで土州軍が彰義隊と衝突、断金隊も彰義隊と戦った。土州軍は苦戦のすえ、敵を敗走させたが、この戦闘で土州隊長の大石利左衛門が戦死した。

 断金隊は奮戦の末、小銃十五挺を分捕った。宇都宮城の攻防戦で幕軍の戦死者百五十人、味方の死傷者は合せて二十一人だった、と靭雄は記録している。勒雄は、もっぱら隊長付で本部にいた。時折、上司から授かったドイツ製の双眼鏡を携えて敵陣近くしのび込み、敵の動きを刻明に調べて本部に引き返して上層部に報告する斥候の任務を勤めた。

 直接、敵と白刃を交えることはなかったが、敵小深く帝人する依令役は危険が伴う任務であった。いつ敵の流れ弾が飛んでくるか予測もつかないし、出合いがしらに敵と遭遇する危機をはらんだ忍者もどきの軍務であった。

 四月朔日、日光東照宮」に籠る幕府軍との対戦に参加した断金隊は最前線日光山に討ち入り敵とわたり合って敗走させた。この戦いで、のちに断金隊に入隊した臼井清左衛門が戦死した。この日断金隊は今市に宿営して千本木口を固めた。

 二十一日、今市の南関門の宇都宮街道から幕軍が改めてきた。約五時問応戦の末、辛うじて敵を破り、小銃十三挺、毛布七枚、刀七本、脇差五本を押収した。

 五月五日の節句は、靱雄が生涯で最も危機に曝された日であった。

会津戦争の最前線で戦う

 この日朝五ツ刻(午前八時)ごろ、彰義隊の集合地点の探索のため、宇都宮在の森友村に出向き、民家に身をひそめて敵の情勢を探っていたところ、不意に三人の彰義隊士が現われて「不審なやつ」と襲いかかられて捕えられてしまった。

 三人の隊士は荒ナワで縛りあげた靭雄を東の山中に連れて行き、枯れ木に縛られ「土州軍の手先だろう。白状しろ」と強問された。靱雄は度胸を据えて「実は弟が上州軍に加わってこの辺にいると聴いて連れ戻しに来た。見つけ次第、甲州に送り届けたい。捜しに来たのだが、道に迷ってここへ来てしまった」と言った。

 しかし、彰義隊上は信じなかった。靱雄を縛りつけたまま暴行を加えて「本当のことを言え」と脅した。およそ三時間、強問したあと、一人の武士は「斬って捨てよう」と言い張ったが、ほかの一人は「百姓の事だ、何で殺すことがあろう。それよりもあすの今市進撃の用意が先だ、さあ行こう」とせき立てた。ほかの二人は斬るのをあきらめて縄を解き、「さあ帰れ」とアゴで退去を命じた。

 三人が立ち去ったあと、体中の痛みに耐えながら大沢村に下りてきて農家に転がり込み、按摩さんを呼んでもらって痛む所を揉ませながら敵状を聴いた。その夜は、ここに泊めてもらい、翌五月六日朝五ツ刻(午前八時)、開戦の砲声に驚いてはね起きた。山へかけ登って下界をみると、今市では官軍対幕軍の戦が始まっていた。

 再び大沢村に引き返した執雄は途中、大砲数門を備えた三百人ほどの土州軍と出会った。この隊を森友村に案内して敵の背後を叫時間ほど砲撃したため、彰義隊の攻撃が乱れて逃げ出した。

 こうして三百人の土州軍と共に今市官軍本部に合流した。断金隊の隊上たちは「靱雄は戦死したのではないか」

と心配していた。そこに傷だらけの靭雄が帰ってきて、生きていたことがわかってホッとした。

 鞭雄は本部司令の命令で再び大沢村に出向いて敵状を詳しく探った。翌朝、本部へ帰って敵情を報告した。その間、

断金隊は今市表関門から彰義隊の猛攻を受けて戦い、七時間余りの戦いで敵を追い払った。

 翌七日、断金隊は単独で今市の在の小百村に向かい、幕軍の大砲一門を奪取した。同夜帰陣した靭雄は敵情報告のあと断金隊士から小百村の戦果を聴き、慰労の酒をくみ交わした。翌日、都留郡秋山村旧臣萩原源五郎源信澄、二十八歳が入隊を認められて断金隊に加わった。

 兵士一人に酒と一両二分、づづ配ばられ、断金隊は十三日間、土州軍に従って宇都宮を出発した。先頭に立つ断金隊は、白川の東方・鹿島村から来放した幕軍を迎え撃ち、敵に大損害を与えた。

 この辺の地理に疎い土州軍は、執雄ら斥候からの情報が頼りだった。靭雌は地元の名主から地図を入手した。

白川、会津若松への順路と各宿場、平野、山林などを書き込んだ貴重な地図であった。

 本陣では、この地図を写して本部に備え、斡旋もその地図をたよりに敵情の探索を続けた。

 五月二十八日、士州軍は会津湯本口ほか一カ所に砲兵陣地を築いて大砲十数門を据えた。

 六月一日、湯本口へ幕軍五百来攻、断金隊これを追撃して敵首二十三を獲た。味方の負傷八人。

 同二日、仙台口より敵来攻、長州・大垣軍の陣地を襲う。六百の敵、ふた手に分かれ、一手は本道東口から、一手は本道から攻めたが長州・大垣これを討ち、半里先で敵の伏兵に陥って、たちまち十三人戦死。断金隊は金正寺より美正隊長五十余人、敵中に討ち入り十八人討ち取る。戦況逆転して敵をハサミ撃ちにして長・土・大垣の三藩兵は攻勢に出て敵の首級三十九、手負い数知れず、味方は土州兵二人。

 いずれも最前線で靱雄が書き綴った生々しい実戦記録である。

 断金隊は、つねに士州軍の先陣を切って東北の山野を駆け巡って長州・薩州・大垣兵と共に大詰めの会津若松の攻略戦に参加する。

 敵味方とも数多くの戦死、重軽傷老を出して九月二十二日、若松城への総攻撃が始まった。翌二十三日、ついに若松城主の松平容保父子は官軍に降伏した。最後まで戦った年少組の白虎隊士は炎上する城を無念の涙で見守り。全員自害して果てた。

 九月二十三日をもって休戦となり、断金隊は江戸に帰還し、十一月十五日、土州侯から食糧、金三両の月給が一人当たりに支給された。翌十七日から断金隊員は軍務局の両玄関および通用門の守衛を命ぜられ、二十五日、同役が廃止となって翌日から大病院表御門および通用門の守衛を仰せつけられた。

 会津戦争の功績者である甲州兵団の断金隊の処遇としては、余りにもみすぼらしかった。

 明治二年三月十二日、大病院守衛廃止とともに断金隊は解役となり、小銃は軍務局へ返上、秋雄は大事にしていた斥候用の双眼鏡がすこし破損していたため、もらい受けた。

 この双眼鏡は先輩の尾崎彦四郎(尾崎一雄の父・当時二十四歳)と共に斥候に使用した思い出深い記念品であった。

 断金隊解散のときの褒賞金はスズメの涙ほどの薄謝であった。斡旋の記録「断金隊出陣日記」には、批判めいた事柄が一行も載せていない。主観をまじえず、下書きした日記帳をもとに書き改めている。日記の最後に「寄剣祝」と題し

  剣太刀鞘に納まる世なりとも 勝ちて兜の緒を囲むべし

と結んでいる。弱冠十五歳の少年が断金隊に入隊して、会津戦争に参加し、敵と白刃をまじえなかったにせよ、近代国家に生まれ変わる明治維新の記録を後世に残したいという願いがこめられているようだ。

除隊後、歌田稔と改名

無事に除隊し、普通の少年なら喜び勇んで両親や恩賜の待つ郷里に一目散に帰るのだが、靱雄は東京に踏みとどまる事を決意した。

「これからの世の中は武芸ではない。学問だ。これを機会に学門所にかよい、学ぶだけ学んで神職を継ぎ、子弟の教育に尽くそう」

と、除隊と同時に蓄えた金で神田大和町の国学者上頼圀の塾に入門。ここで両親、恩師、友人たち墓状で無事任務を終えたことを報告している。半年ほど経て水戸弘道館に入門、農業、養蚕術技の新しい勉強も兼ねて高度の学問を修めている。ここで「歌田稔」と改名している。稔り多い人生を願って命名した。三年の修業を経て帰郷したのは明治四年五月、そして七月には旧山梨師範の前身・徽典館授続(講師)として迎えられ、二年間、ここで教べんをとる。

地方行政と教育に貢献

 藤村紫朗県令が着任して小学校の設置に伴い、明治六年九月、稔は故郷の円井小学校訓導試補(教諭)に任ぜられ、まもなく同校訓導つまり校長に就任した。稔の宿願が実を結んだのである。

校長として子弟の教育に専念する一方、翌七年七月三十日、郷社祠官に叙任、父昌保の跡目を継いで下門井村の字波刀神社および八幡社の神官となる。稔二十二歳であった。

明治八年三月二日、母堂の伊登が死去した。そのころ、稔は県庁に就職しないか、という誘いがあった。田舎の校長で一生すごすのは惜しい人物と、藤村県令らの誘いがあり、翌九年十月十八日付で県庁第一課一等属(課長級)の辞令をもらい、新妻のさいを伴い、甲府の泉町に移り住み、県庁にかようようになった。

 養蚕技術、良質繭の普及を職務に組み入れられていたらしい。このほか静岡裁判所甲府支庁書記局員を兼務していた。

 藤村県政が揺らぎ始めた明治十八年十二月、県庁を辞任して実家に帰り、翌十九年七月七日、北巨摩郡役所の繭品評会の審査員になり、二十年五月二十七日、北巨摩郡円野、清哲、神山(現韮崎市)の連合戸長に任ぜられ、准判任官十等、年俸百四十円を支給された。そして山二十二年二月、稔は円野村の初代村長に就任した。

厳格な好骨漢

 村長時代の稔は、村の振興策に心を砕いて養蚕の普及に努めた。家にあっては厳格な父であった。長男昌翰(まさふみ)、二男恭逸、一二男保、長女の朝、二女のひでの三男二女に漢詩を教えた。その稔の五人の子供たちも今はこの世にはいない。

 つい先ごろ九十三歳で亡くなった、三男保は生前、父稔の思い出を語っている。

「父が座敷で七、八歳の私をすわらせて唐詩選第一巻を二度読んでくれた。そのうちの子夜具歌の〝長安一片の月萬戸口攮衣声〟が印象深い。父は非常に感化力のある人だった。善悪をきちんとわきまえていて、悪いことをした人にはきびしかった。春先、山火事があった。四十歳ぐらいの女性が家に来て、座敷の下の段の間で両手をつき〝お宅の山に薪を採りに行って火を出してしまいました〟と謝った。母がその女性に座布団を出して座らせたことについて父は後日、母に惑いことをした者を座布団にすわらせるとは何事だ″と叱っていたのを覚えています。ある日、春蚕の桑摘みに下の畑に数人で出かけたとき、薮の中でウーウーと恐ろしい声がするのでみんなふるえていると薮の中から父が笑いながら出てきたことがあります。奇行も多かったように思います」・

(昭和五十七年刊「歌田稔抄」より)

明治二十六年六月、北巨摩郡会議員に就任した翌年の三月二十七日、父昌保が死去した。稔には父の死もかなしかったが、明治二十一年三月、二十二歳の若さで病没した長女の朝の死はこたえたらしい。そのころから稔の覇気が少しづつ失われていったようだ。肋膜に水が溜まり、県立病院に通い始めたのは明治三十四年の暮れごろからであった。しかし、治療の甲斐なく明治三十五年四月十五日、甲府市泉町の自宅で四十九歳の生涯を閉じた。十七日午後、甲府の自宅にて神式で葬儀が行われ、愛宕町の長禅寺に埋葬された。下円井の実家の屋敷内にも墓がある。

未亡人になった妻さいは残された四人の子供たちを立派に成長させて昭和二十四年一月元日、九十二歳で昇天した。

現在、宇波刀神社と歌田家には稔の孫の歌田昌収夫妻が居住している。神社も歌田家の家も歌田鞍雄が生まれ育った当時のままのたた住いを今にとどめている。

 

「歌田稔」執筆者 坂本徳一氏略歴

 

 大正十五年十月三十日、仙台市で生まれる。旧目黒無線高工卒。両親の郷里山梨市小原東に移り、山梨日日新聞社編集局に入社、文化家庭部次長、文化

部長、東京支社編集部長、編集局次長、論説委員を経て退社、現在山梨日日新聞社友、日本文芸家協会会員。山梨郷土研究会理事、甲府市史編さん専門委員など。

 著書「武田信玄合戦記」「武田二十四将伝」(新人物往来社刊) 

「関ケ原合戦始末記」(教育社刊)「甲府の歴史」(東洋書院刊)など。