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富士浅間神社 不爾の高根 小島鳥水

2025年03月31日 14時06分05秒 | 山梨 文学さんぽ

富士浅間神社 不爾の高根 小島鳥水

 

 浅間神社の後からならでは、出すまじき馬を、番頭か気を利かして、宿まで馬士にひかせて来てくれたが、私はやはり、参詣を済ませてから、乗りたいため、馬を社後まで戻させ、手軽なリュクサックを提げて町を歩きだした。

さすがに上吉田は、明藤開山、藤原角行(天文十年~天保三年)が開拓して食行身禄(寛文十一年~享保于八年辻が中興した登山口だけあって。旧御師町らしいと思わせる名が、筆太にしたためた二尺大の表札の上に読まれる。大文司、仙元房、大注進、小菊、中雁丸、元挺祖身禄宿坊、そういった名が、次ぎ次ぎに目をひく。宿坊の造りは一定していないが、往還から少し引っ込んだ門構えに注進を張り、あるいは幔幕をめぐらせ、奥まった玄関に、式台作りで、どうかすると、門前に古い年号を刻み入れた頂上三十三度石などが立っている。芭蕉翁に、一夜の宿をまいらせたくもある。

 

 みやげ印伝水晶や、百草などを売っているに交って、朴にして勁なる富士道者の木彫人形を並べてあるのが目についた。近寄って見たら、小杉未醒原作、農民美術と立礼してあった。小流れを門前に控えたどこかの家の周りには、ひまわりの花が黄色い焰を吐いている。こ  の花の放つ香気には、何とかしに日射病の悩みが思われる。

 

 町は、絶えず山から下りる入、登る人で賑わっている。さすがにアルプス仕立の、羽の帽子を冠り、ピッケルを拒ぐ人は少ないが、錫杖を打ち鳴らす修験者、継ぎはぎをした白衣の背においずるを被せ、御中道大行大願成就、大先達某勧之などとしたため、朱印をベタ押しにしたのを着込んで、その上に白たすきをあや取り、白の手甲に、渋塗りの素足を露わにだした山羊ひげの翁など、日本アルプスや、米国あたりの山登りには見られない風俗である。大和大峰いりのほら貝は聞えないが、町から野、野から山へと、秋草をわたり、落葉松の枯木をからんで、涼しくなる鈴の音は、行くさ来るさの白衣の菅笠や、金剛杖に伴って、いかに富士登山を、絵巻物に仕立てることであろうか。

行者と修験者の山なる点において、富士と木曾御岳は日本の山岳のうちで、ユニークな位置を占めていると思う。その上、同じ登山口でも、御殿場は停車場町であって、宿場ではない。須走は鎌倉街道ではあるが、山の坊という感じで、浅間山麓の沓掛や追分のような、街道筋の宿駅とは違ったところがある。吉田だけは、江戸時代から、郡内の甲斐絹の本場を控えて、旅人の交通が繁かっただけあって、山の坊のさびしさが漂うと共に、宿場の賑わいをも兼ねて見られる。

裾野の草が、人の軒下にはみ出るさびしい町外れとなって、板庇の突き出た、まん幕の張りめぐらされた木造小舎に、扶桑本社と標札がある。扶桑講を講中としているところの、富士崇拝教の本殿である。講中でこそないが、私も富士崇拝者の一人として、黙礼をして、浅

間本社へと足を運んだ。

 一歩境内に入ると、乱雑なる町家から仕切られて、吉野山の杉林を見るような、幽遠なる杉並木が、富士の女神にさす背光を、支持する人柱であるかのごとく、大鳥居まで直線の道をはさんで、森厳に行列している。

その前列の石灯籠は、あまり古いものとは思われないが、六角形の笠石だけは、奈良の元興寺形に似たもので、掌を半開きにしたように、指が浅い巻き方をしている。瓦屋根の覆いを冠った朱塗の大鳥居には、良恕法親王の筆と知られた、名高い「三国第一山」の額が架けてある。鳥居は六十一年目に立て替える決めるようで、今のは二十七回だと、立札がしてあるが、そんなことはどうでもいい。登山者の眼中には、金剛不壊の山の本体の前に、永久性の大鳥居が、ただ一つあるばかりだ。神楽殿の傍には、周囲六丈四尺、根回りは二丈八尺の神代杉がそそり立って、割合に背丈は高くないが、一つ一つの年輪に、山の歴史の秘密をこめて、年代の威厳が作り出す、色付けと輪廓づけを、神さびた境内の空気に行きわたらせている。        

 この吉田口の大社は、大宮口の浅間本社と比較して建築学上、いずれが価値ある築造物であるかを、私は知らないが、大宮口は、山の社であると共に、町の神社で、町民の集団生活と接触するところに、その美しい調和力と親和力が見られるのに対して、吉田の浅間社は、礎石をすえた位股が、町から幾分か離れて、大裾野のひろがり始めるところに存するだけ、構図の取り方が一層大きく、三里の草原を隔てて、富士につながる奔放さは、位置の取り方が一倍と広く、社殿そのものも、天空高く浄められたる久遠の像と、女神の端厳相を仮現する山の美しさを、十分意図に入れ、裏門からの参街道を、これに南面させて、人類の恭敬を表示したところの、信条的構造と見られる、建築の手法、細故のテクニックに渡っての是非は知らず、楼門廻廊の直線と曲線が、あるいは並び下り、あるいは起き伏すうねりにつれて、丹碧剥落したりとはいえ、燦然たり、赫焉たるに対面して、私はここでもくりかえしていう、「目本の山は、名工の建築があるからいいなあ」と。

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