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素堂と芭蕉の俳諧  著 山梨歴史文学館 白州ふるさと文庫  山口素堂資料室

2024年06月18日 07時49分30秒 | 山口素堂・松尾芭蕉
素堂と芭蕉の俳諧
 著 山梨歴史文学館 白州ふるさと文庫  山口素堂資料室
〔素〕=素堂 
〔芭〕=芭蕉
〔素〕
既に素堂と芭蕉の生い立ちに付いては、多くの人の論及もあり省くとして、素堂は寛永十九年(一六四二)一月十四日の生まれ(『甲斐国志』は五月五日)、芭蕉は正保元年(一六四四)で月日は不詳の二年遅れである。生誕地にしても、素堂は甲州教来石村山口と云うが、本人や周囲が肯定した記述が無いし、その根拠とする資料も「国志」以外無い。甲州教来石村山口と書いているのは後世の「甲斐国志」のみである。また山梨県や地域の多くの俳人達も「芭蕉」はあっても素堂には全く触れていない。少ない資料の中で酒折宮の宮司に勧められ元禄三年に甲斐の俳人達と素堂の句を奉納されている。
▽素堂、元禄三年甲斐酒折宮奉納和漢連句(□―損カ所)
『酒折宮奉納和漢連句』(句作は元禄二年)
夏目成美著。『随斎階話』所収。
さきの年甲斐住原田吟夕子、予か閑庭に入て、折ふしの興を詠しけるに、その冠の句、暗に菅家の□□送る詞にありければ、漢の□□けらし。それより漢和相まじへて面八句となし。かのくにの境にいつきまつる酒折の宮へをさむへきよし、なほことばをそへてしがなとすゝめけれど、我何をかいはん。そも此神所は新墾つくはねのうつりにて日本武尊つらね歌のことはしめにてありよし。むかしの人は連歌席には尊のかげをかけまくもかしこくあかめ奉りて、いまの天満神のごとし。しかれば願主の思ひよられし所まことに故あるかな。
      詩の家にあらん花遅き庭のけさの雪    原田氏
      鶯 寒 似 惜 聲                              素堂
     大気なる春はいたらぬかたもなし      山口氏元長
     下戸も流れにあらふさかつき             内田氏吉賢
      驚 波 石 間 蟹                           森氏
      飛 違 野 等 蜻                           河村氏吉重
      ゆふ日にかけ残りし月の枝なかき     野田氏長成
      粧 葉 露 情 無                          小野氏助元
 
元禄三年庚午秋日
 
素堂の生涯や事績はこの『国志』によって大きく歪められた。
〔芭〕芭蕉も伊賀上野の赤坂町とされているが、これとても別説が有って確定しがたいが、少々より藤堂藩の士大将(伊贅上野支城詰)藤堂新七郎家に子小姓に召出されて、寛文初年(一六六一)頃に新七郎家の後嗣良忠の近習(陪臣)に直されたとされる。
【註】(藤堂藩からすると陪臣、石取りか給金取りかは不明)
【註】芭蕉の生まれた年に関する著述
 
<参考資料>(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)
芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。
正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書「天水抄」の稿を書きあげた年である。
〔素〕素堂も少小より林春斎の私塾に入って漠儒の学を学んだと云う。その後某家(唐津藩)の仕官と成ったらしい。この頃で有ろうか、同家の甲州代官の一人野田氏の娘を嫁(元禄七年没)にした(素堂著「甲山記行」)。まだ山口信章と名乗っていた時代である。
 この信章が、いつ頃から俳諧に手を染めたか定かでないが、寛文七年には貞門俳諧師、伊勢の春陽軒加友編「伊勢踊」に出句した。すでにかなり江戸の俳壇で名を占めていた。
 
【註】伊勢踊 素堂句
   予(加友)が江戸より帰国之刻馬のはなむけとてかくなん
    かへすこそ名残おしさは山々田 江戸 山口氏信章
 
【註】素堂の俳諧論 素堂の長崎旅行の目的 
 素堂は延宝六年(1678)三十七才の夏に、長崎に向かった。素堂研究家の清水茂夫氏(故人)は『大学をひらく』の中でこの旅行に触れ、
「二万の里唐津と申せ君が春」
の句は「仕官している唐津の主君の新春を祝っている」としている。これが事実とすれば『甲斐国志』の言う素堂の仕官先桜井孫兵衛政能とは大きな食違いが生じる。
〔素〕
その後、貞門の石田未得の遺稿を息子の未啄がまとめ、寛文九年に「一本草」として刊行したこの集に人集している。これからすると寛文年間の前半には、当時の江戸俳諧師の重鎮高島玄札や石田未得辺りから、手解きを受けたと考えられ、北村季吟との接触は仕官して以後のことと考えられる。素堂と京都の公家との繋がりについては、述べてあり重複を避けたいが、仕官した事と関係があると考えられる。つまり、仕官先と二条家との間のお使い役をしていたのであろう、その関係から歌学を清水谷家、書を持明院家と習ったのであろう。でないと延宝年間の致任するまでに、定期的に江戸と京都を往来する意味が不明になる。
〔芭〕
芭蕉は幼名金作の時召出されて良精の嫡子良忠に仕え、寛文の始め頓に士分として出仕と直り、宗房名を名乗る事になったようである。主人の良忠は寛文五年に貞徳十三回忌追善を主催したことから、始めは松永貞徳(承応二年没)に手解きを受けたか、卓徳に近い門人に受けていたとされる。宗房こと芭蕉も勤仕者として受けていたのであろう。
寛文二年の歳暮吟が初出で、良忠は蝉吟の俳号を持っているところから、寛文四年以前に北村季吟の添削教授を受け始めたらしい。宗房は良忠の小姓役とされているが、本来の役職は台所用人と伝えられるから、当主良精の奥方役で賄い役であろうか、以外とお役時以外は閑職で自由がきく役職である。
〔大きな家ともなればお毒味役なども、小姓の中から選抜される事もある)寛文四年蝉吟と共に、松江重頼の「佐夜中山集に入集しているが、この時期の重頼は良いパトロンを得るため、俳諧好きの大名・良家に出入りしていたから、重頼にも指導を受けていたかもしれない。
寛文六年(一六六六)に良忠が没し、高野山に遣いをした後から同十二年までの所在が不明で、
「遁世の志をいだき敦仕を願うも許されず主家を出奔」の伝は疑問であり、出奔となれば武家の体面上の仕置きがある。主人が黙殺していたとしても、領内には一歩も踏入れないし、まして実家に立ち入ることも出来ないし、江戸に出て家中の親類に身を寄せるなど、身分制度の厳しい時代の中では出来ない話である。高野山から復命してからは別の役を与えられ、伊賀と京都の間を往来していたのであろう、この間に儒学・医術・神道や仏教・書道などを学んだと云うが、その証がみえない。
寛文十二年初頭、伊賀上野の天満宮に三十番発句合「負おほひ」を奉納して、江戸に東下したらしい。(辞職してからの事かは不明)江戸での寄寓先は今日でも論じられているが、駿河台の中坊家(藤堂家中)に身を寄せたと見るのが妥当であろう。この出府は俳諧師になるためではなく、就職が目的であった。でなくてはこの斯の、江戸での消息が不明で有ることが埋められない、日本橋小田原町の仙風宅に寄宿した(杉風秘話)と云うのも、この時期の事と考えられる。
 寛文十二年春に芭蕉は出府したが、その年の十二月には良忠の後を継いだ、弟の良重も若くして没し、良忠の遺子良長(後の探丸)が嫡立され、後見の良精も延宝二年(一六七四)五月に没した。これより先き三月十七日附で、季吟の俳諧免許と云はれる連俳秘書「埋木」が授けられた。芭蕉が受けたものかは不明だが、「埋木」伝授の通知は良精を経由したものと考えられ、この時に呼び戻されて、職を免じられたと見るのが穏当である。
 
この「埋木」の奥書に季吟が
  此書 為家伝之探秘 宗房生依俳諧執心不浅 免書写而且加奥書者也
  必不可有外見而巳   延宝二年弥生中七     季吟(花押)
とあるが、この識語には真偽両説あって掲出するに止める。
〔素〕
この年の十一月、公用かで上洛していたと思われる素堂は、季吟と会吟した。(九吟百韻、廿回集・江戸より信章のぼりて興行)この折にまだ京都に居た芭蕉を、季吟から紹介された素堂は、芭蕉の江戸での身の振り方を依頼されたのであろう。素堂の友人で京都の儒医の桐山正哲(俳号知幾に「桃の字をなづけ給へ」と俳号を依頼して、『桃青』号を撰んでもらった。〔類聚考外〕
〔芭〕
蓑笠庵梨一の「菅菰抄・芭蕉翁伝」に依ると、季吟の江戸の門人孤吟(後のト尺)が所用で上洛していたが、江戸へ帰る時に芭蕉を誘って下ったとある。孤吟は江戸日本橋本船町の中の八軒町の長(名主)小沢太郎兵衛で、季吟門から俳号をト尺と改め江戸談林に参加、次いで芭蕉の門人として延宝八年(一六八〇)「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加し人で、当然古くより素堂とは面識が有った。梨一が一説として本船町の長序令が江戸行きを誘ったとも記すが、この説は未詳であるが序令も素堂とは長い付き合いで、正徳三年に素堂が稲津祇空を訪れた時の随行者の中に見える。
〔芭〕
再出府した芭蕉の落ち着き先は本船町(船町)の小沢孤吟方とも、杉山杉風方(杉風秘記)とも云う。延宝五年の立机の事からすると、孤吟方とするのが穏当であろう。
〔素〕
素堂は季吟との会吟のあと難波に西山宗因を訪ねた。勿論、数年前から内藤風虎のサロンに出入りしていたと推察できる。宗因訪問の目的は風虎公の依頼による、宗因の江戸招致であろう。宗因は寛文五年(一六五五)大阪天満宮連歌所宗匠から俳壇の点者に進出し、貞門俳諧の法則を古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて談林俳諧を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。
風虎と宗因との結び付きは寛文二年の磐城訪問から寛文四年江戸訪問と続き、門人の松山玖也を代理として「夜の錦「桜川」の各集の編集に関わらせた。風虎と季吟・宗因・重頼との取次役は、家臣の礒江吉衛門勝盛であったが、寛文十年に没してからは手不足を感じ、上方に明るく風虎サロンに出入りしていた素堂に、その連絡を依頼したと考えられる。
因に重頼(維舟)の選集に芭蕉は寛文四年以来取られているが、素堂は一向に取られずに延宝八年の「名取川集」に、読み人知らずとして、延宝五年内藤風虎主催の「六百番発句会」の判者となり、その中から素堂の句を異体化として載せているのが初めてである。
大分それてしまったが宗因に戻して、延宝二年は宗因の「蚊柱百韻」をめぐって、貞門と談林派新風との対立抗争が表面化して、貞門俳諧に飽き足らない人達の注目を集めていたのである。芭蕉も談林に興味を示し、卜尺も同様であったと思われる。
 延宝三年五月、風虎の招致を受けて宗因は江戸に来て、「談林百韻」(宗因歓迎百韻)が興行され、十一韻百韻に素堂は信章として、芭蕉は初めて桃青号を名乗って参加した。
前年に季吟より風虎公に「俳諧礼法」が献じられたが、勿論素堂の口添えで芭蕉のサロン入りがなされたと見られ、続いて風虎の息の露沾の「五十番句合」に出句と、以後内藤家のサロンに登場する事になった。素堂も宮仕えの傍ら出来るだけ芭蕉と行動を共にし、芭蕉の引き立て役を務め、友人の松倉嵐蘭や榎本其角を芭蕉に紹介したのである。
〔素〕
素堂は寛文の初めに林門を離れたらしく、後々まで親友として交流した、先輩の人見竹洞(寛永十四年生れ)は『(林)春斎の門人の中で随一』と称賛しているから、私塾を辞めてからも常にその周辺に在ったようである。
【註】春斎の門人名簿に素堂(信章・子晋)の名は見えないが、林家の私塾の推移に関係が有るらしい。この私塾は寛文三年(一六六三)十二月に、幕府から弘文院号が与えられて準官学化した。後の昌平校に成るのだが、元禄三年には官学として森島に移されても、入塾にはそれはどの差異は無かったようである。
 私塾を辞めてからほどなく(数年後か)某家に仕官したらしい。この後京都との関係が太くなり、その縁で歌学の清水谷家、書の持明院家で習ったと推察できる。師の春斎は詩歌・古典に明るく、寛文元年に江戸のト祐が「土佐日記」(注釈書か)を版行するのに序を寄せた事を聞いた季吟が、日記の十月十一日の条に「春勝(春斎)に何がわかるか」と批判を書いているが、素堂はその門人である。しかし歌学では季吟とは同門であり、その面での接触は否定出来ない。後に芭蕉の知らない季吟の話を語って(後文紹介)おり、結構緊密であった事が判明する。また漢句による聯俳は林門周辺で盛んであったから素望も得意であろう。
〔素・芭〕
素堂も芭蕉も貞門凝を学び、延宝初年には宗因の新風に触れて興味をしめし、延宝三年の「宗因歓迎百韻」に一座して傾倒して行くようになり、同四年の季吟撰の「続連珠」には芭蕉は門人であるから入集しているが、素堂は門人では無いから人集は無く、息の潮春が「信章興行に」と附旬を載せているだけで、従って素堂は季吟門ではなかった事が判る。
〔芭〕
延宝五年には芭蕉は宗匠と立机したようである。それと共にト尺に紹介された水方の官吏にも着いた。
〔素〕
素堂は同六年の夏頃より公用で西国に下った。職務については不明であるが、翌年の初夏までには復命したらしく、五月刊行の池西言水編「江戸蛇之酢」や未得門の岸本調和編「富士石」に、旅行中の吟が人集している。その秋突然、素堂は致任して上野不忍跡地のほとりに退隠したのである。西国下りの途中大敵に立ち寄り井原西鶴に会ったり、道中では発句をしたりしており、宮仕えに辞める覚悟をしていたものか、はたまた心境の変化がもたらしたものか、その理由は判らない。 
不忍の池のほとりに退いた素堂は生計を立てるためか、諸藩に儒学を講じたり、詩歌を教えたりしていたとされる。従って芭蕉ですら訪れるには手紙をして伺いを立ててからでなくては出来なかった位である。
〔芭〕
芭蕉は延宝五年〔ト尺語りによれば六年〕俳諧宗匠の傍ら水吏の事務方を勤めていたが、同八年冬の初め頃か、職を辞めて深川に隠れてしまった。後に門人の森川許六等の説では
「修武小石川之水道 四年成 達捨功而深川芭蕉庵出家」(本朝文選・作者列伝〕
などとある。幕末の馬場錦江が云う通り、当時の水道工事は町奉行所の管轄で、町方は資材・人夫等の分担調達が義務付けられ、その事務方に芭蕉は就いていた訳で、閑職に近い仕事だが調達した物を現場に行って員数を調べ記帳するのが役目で、工事が追い込みになると大変な忙しさであったようである。延宝度の改修工事は小石川掘上を樋を渡す物も(神田上水へ)加わっていたようで、完成年度の記録は未見だが翌年まで続いたらしい。梨一の「ト尺語り」では
「縁を求めて水方の官吏とせしに、風人のならひ、俗事にうとく、其の任
に勝へざる故に、やがて職をすてゝ深川といふ所に隠れ、云々」
とあり、初代卜尺(元禄八年投)が息子の二代目卜尺に物語った話は、ほぼ真相を伝えていると考えられる。
〔素〕
さて、素堂は何を目的に退隠したのか、甥の黒露が『摩軒十五夜』(素堂五十回忌集)で「ある御家より、高禄をもて召されけれど不出して、処子の操をとして終りぬ」と書している。二君に見えずと云う事であるらしい、元禄初めの事のようである。
〔芭・素〕
 芭蕉は素堂と共に宗囲の談林風をうけてドップリと浸り、漢詩文調の句を作り、門人たちと荘子の学習会を開いたりとし、蘇東坡や杜甫の詩にひかれ、深川の庵にも杜甫の詩よりとった「泊船堂」を号するが、延宝六年には「坐興庵桃青」の外に「素宣」の印を用いていた。勿論素堂の素仙堂から二字を取って「素宣」としたようで、素堂はこの年の春から信章名を「来雪」と改めている。芭蕉が「素宣」の印を用いたのは判らないが、退隠した素堂は延宝八年当初から、来雪号を改めて「素堂」を名乗っているから、この辺りであろうか。芭蕉は漢学者である素堂に、改めて漢詩などの解説を求めていたと考えられる。随分と長い枕になってしまったが、二人のスタートはこの位に止め、貞門俳諧に触れて置く。
 
貞門俳諧と連歌
 
 俳諧は連歌の派生体で、滑稽あるいは戯れなどと称されている。室町時代の歌学者頓阿は歌学書「井蛙抄」で「俊成卿の和歌肝要に俳諧歌は狂歌なり云々」と述べ、同中期の歌人で連歌師の心敬は歌道と仏道を一体化する歌論を展開し、同末期の連歌師飯尾宗舐は心敬に学んで連歌を大成させ、その高弟宗長は一休禅師に参禅し、師の旅に随伴して各地を遍歴。同後期の連歌師山崎宗鑑は宮仕えから隠棲して、機知滑稽を主とする俳諧の連歌を作り初め、年齢的には後輩の伊勢宮の神官・荒木田守武(和歌・連歌を良くして滑稽の中にも上品さを湛え、俳諧の連歌を唱える)と共に俳諧の祖と称され、宗紙の門下・牡丹花肖拍(連歌論書「肖相口伝」注釈書「伊勢物語肖聞抄」など)の末に、里村紹巴(連歌論書「連歌至宝抄」など、子孫は江戸幕府の御用連歌師となる)の門の松永貞徳(勝熊)が江戸期の初め俳諧の方式を定めて、近世俳諧の祖となった。 
貞徳は京都功人で和歌を細川幽斎に連歌を紹巴に学び、古い連歌の仕来り(法則)を簡単なものに改め、俳諧(連句)の方向付けをした。
 もう少し連歌について解説をしておくと、連歌は和歌の上下両句を二人で詠むもので、応答歌二百の遊戯で、奈良朝以降平安期に盛行する。これを短連歌と云い、素堂はこの応答を好んで用いた。平安院政期以後この応答一首が遊戯的なものに移行し、短連歌を三十六句続ける「歌仙」や五十句の「五十韻」と呼び、百句・千句などの長連歌が流行し、室町斯に最盛期を迎えて連歌師も登場し、初期の遊戯的なものから、文学の一様式にと完成したものである。連句は俳諧の連句とも云い江戸期に盛行し、発句に付句をして長く続けるもので、連歌の作法を引き継ぎ色々と制約があり、後で触れるが例えば「恋の句」は三句まで五句以上統けることは禁など。種類には百韻・千句・歌仙(三十六句)のほか表・裏八句、三つ物など。聯句は漢詩の一つの体で、詩一句ずつ作って一編にまとめるもので、鎌倉・室町期に流行して詩連句とも云うが、江戸期の林門周辺で盛んで有ったのは俳連で、林羅山・春斎親子も貞徳に指導を受けていた。
 さて、諸書に解説される俳諧についての語句は、その趣味は通俗の滑稽に有り、貞徳については、故事や古歌を多用して言語上の縁や掛けを主とし、俳論書「後傘」(慶安四年刊、御傘とも)で規則として挙げているのは、
 
言を用いること
一句にその理あること
用附・同意の禁止の三点が主な処である。
俳書は、和歌・連歌には用いない言葉の、漢語や俗語など一切を網羅すること。
理は、俳諧が謎のような難解なものより、有意義の物として文学的な物とする。
用付・同意の禁は、俳諧を変化に富むものにするためである。
 
に要約される。通俗を旨とする貞門は、文章も平易なものにすることに努めた。これも後には堅苦しい(古い)と感じる者も出た。西山宗因の提起した談林俳諧である。
宗因は連歌を里村肖巴に、俳諧を貞門の松江維丹に学び、難波天満宮連歌所宗匠(正保四年)承応頃から俳諧を始め、北村季吟が俳諧宗匠として立机した明暦二年、宗因は俳諧活動を開始したのである。恐らく宗因は季吟が貞徳の後継者として、当時の停滞した貞門の俳諧に新風を起こすものと期待していたらしい。季吟は立机の前年に俳論書「埋木」を著述して、新風を吹き込もうとしていたことは知っていたのであろう。処が宗因の期待に反していたのであろう、寛文五年に宗因は点者として立ち、同十年には連歌所宗匠の地位を子息に譲り俳諧に専念すると、翌年には談林新風を唱導し始めたのである。
 宗囲の新風は、事象の面白いものを材料とし、俳世の法式を度外に置き、貞徳の法則を全て守らず、奇抜な着想と破格の表現をするもので、俳諧は滑稽の遊びであるから絶対に自由であるとした。宗因の晩年には談林を標榜する者たちが、唯新奇を尊び、常識では解せないものが生じた。つまり、宗因の意に反して通俗性の修辞上の正当な注意を欠いた、杜撰なものも多くなり、天和二年宗因の死によって次第に衰亡に傾いていったのである。一方季吟は俳諧宗匠の傍ら寛文初年頃から古典文学に傾斜し、同元年「古典注釈書」をかわきりに、延宝二年の「枕草紙春曙抄」「源氏物語潮月抄」等と発表し、俳諧の宗匠は子息の潮春(寛文七年後継)に任せ、歌学と古典研究に勤しんだようである。
 
 【参考資料】『俳枕』高野幽山編。素堂39才 延宝八年(1680)
 
 能因が枕をかつてたはぶれの号とす。つたへ聞、其代の司馬辻は史記といふものゝあらましに、みたび吾岳にわけいりしとなり。杜氏、季白のたぐひも、とをく盧山の遊び洞庭にさまよふ。
 その外こゝにも圓位法師のいにしへ、宗祇、肖柏の中ごろ、あさがほの庵、牡丹の園にとゞまらずして野山に暮し、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。此皆此道の情けなるや。
 そもそも此撰、幽山のこしかたを聞けば、西は棒(坊)の津にひら包みをかけ、東はつがるのはて迄をおもしとせず、寺といふてら、社といふやしろ、何間ばりどちらむき、飛騨のたくみが心をも正に見たりし翁也。
 あるは実方がつかの薄をまげ、十符のすかごもを尋ね、緒たえの橋の木の切をふくろにをさめ、金沢のへなたり、いりの濱小貝迄、都のつとにもたれたり。
 されば一見の所どころにてうけしるしたること葉のたね、さらぬをもとりかさねて、寛文の頃櫻木にあらはすべきを、さはりおほきあしまの蟹の横道のまつはれ、延る宝の八ツの年漸こと成りぬ。さるによつて今やうの耳には、とませの杉のふるきを共おほかり。しかれども名取河の埋木花さかぬもゝすつべきにあらず。
  これが為に素堂書す
 
素堂の俳論
 芭蕉も素堂も共に貞門俳諧を学んで出発した。つまり従来の俳諧は、すべて修辞上の滑稽によっていた。素堂が後年に「続の原季合」の抜文に「狂句久しくいはず」「若かりし頃狂句をこのみて」(続虚栗序)と云う如く、貞門・談林の風調時代を回顧して述べている如く、俳諧は滑稽・遊びと捉えていたと見られる。従って自分の知識である古典文学、故事来歴・古典和歌・漢詩・漢籍などを駆使して作句した。いつ頃から自分の作句法を模索し始めたかは判らないが、季吟と会吟し、宗因との会吟の後、談林風に吹かれて傾斜したが、信章時代の素堂と桃青時代の芭蕉との会吟では、談林風にひかれた芭蕉に合わせたものの、延宝玉年頃から談林調に飽足らずと思い始めていたようである。素堂が「継承すべき伝統の発見と自覚」に目覚め始めたのは、俳号を信章から来雪に改めた頃、延宝六年辺りと考えられる。この年は三月に高野幽山が立机し、それを信章が後援したことに依るのであろう。延宝六・七年の九州長崎への旅行後に致任して退隠し、翌八年来雪より素堂と改号、高野幽山の編「誹枕集」の序文に、自分の俳諧感を述べて、冒頭に誹枕とは「能因が枕をかつてたはぶれの号とす」として、中国唐代の司馬遷の故事、李白・杜甫の旅、円位法師(西行)や宗舐・肖拍の「あさがほの庵・牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。是普此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅の遍歴を良しとして「されば二見の処々にて、うけしるしたることばのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌・連歌・俳諧等の一貫した文芸性を指摘し「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の理木花さかぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。つまり、後の影情の融合と情(こころ) の重要性を説いている。
 
 この後芭蕉(桃青)は前述の如く水吏の職を辞め、杉山杉風の計らいで深川に退隠してしまった。素堂の「漢詩も和歌も、すべての情は景情一致である」との主張に接し、心が動いたのであろう。素堂は「一派に属さず」をモットーに、世の風潮に合わせて談林調や天和調と云う漢詩文調の句も盛んに作った。勿論漢学者であり詩人であるから得意でもある。素堂が天和調に火を付けたとか、指導的役割を果たしたと云う事はなかろう。寧ろ求めに応じて作ったと考えられる。
 此の談林調や派生した漢詩文調の句を紹介すると
 
○延宝四年 発句 梅の風俳諧国に盛なり     信章・桃青「江戸両吟」
○延宝五年 発句 鉾ありけり大日本の筆はじめ  信章「六百番発句合」
       発句 茶の花や利休が目にはよしの山   信章「六百番発句合」
○延宝六年 発句 目には青葉山郭公初鰹     信章「江戸新道」
       発句 遠目鑑我をおらせけり八重桜   信章「江戸広小路」
○延宝七年 発句 鮭の時宿は豆腐の両夜哉   素堂(来雪)「知足伝来書留」
       発句 塔高し棺の秋の嵐より     素堂(来雪)「知足伝来書留」
○延宝八年 発句 宿の春何もなきこそなにもあれ   素堂 「江戸弁慶」
       発句 髭の雪連歌と討死なされしか    素堂 「誹枕」
       発句 武蔵野や月宮殿の大広間      素堂 「誹枕」
       発句 蓮の実有功経て古き亀もあり    素堂 「俳諧向之岡」
○延宝九年 発句 王子啼て三十日の明ぬらん     素堂 「東日記」
       発句 宮殿炉女御更衣も猫の声      素堂 「東日記」
       発句 秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠   素堂 
○天和二年 発句 舟あり川の隈ユタ涼む少年歌うたふ 素堂 「武蔵曲」
       発句 行ずして見五湖煎蠣の音を聞    素堂 「武蔵曲」
○天和三年 発句 山彦と啼ク子規夢ヲ切ル斧     素堂 「虚栗」
       発句 浮葉巻妻此蓮風情過ぎたらむ    素堂 「虚栗」
○貞享二年 発句 みのむしやおもひし程の庇より   素堂
                 発句 余花ありとも楠死して太平記    素堂 「一楼賦」
                    発句 蠹とならじ先木の下の蝉ならん   素堂 「俳諧白根嶽」
○貞享三年    発句 市に入てしばし心を師走哉     素堂 「其角歳旦帖」
                    発句 長明が章に梅を上荷かな      素堂 「誰袖」
       発句 雨の蛙声高になるも哀哉      素堂 「芭蕉庵蛙合」
 
 以上、知られている句を全て掲出することは出来ないが、素堂は時に応じて詠んでいるが、相変わらず字余りも多い。これも余す事で詩情や余韻を良くするなど、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂的高踏らしさの感動を顕しているのである。恐らく素堂は自分一代の俳諧と達観していたと考えられる。
〔芭〕
一方芭蕉は深川に退隠してから、京都の伊藤信徳らの「七百五十韻」を受けて、「俳諧次韻(二百五十韻」を出したり、句の考案したりと、素堂の「誹枕序」に触発されて新風を興す模索を続けていた。
 天和二年暮れの江戸大火で類焼した芭蕉は、誘われて甲斐谷村に流寓し、江戸に帰ってから其角の「虚栗」に跋を書し、貞享元年には帰郷の目的で「のざらし」の旅に出た。その途中の名古屋で「冬の日」の五歌仙を巻いて、漢詩文詞を脱する新風興起の手応えを感じて、翌年江戸に帰った。
〔素〕 貞享四年十月、素堂は不卜(岡村氏)に請われて「続の原」句合の判を芭蕉等とすることになった。この「春部跋」で生涯で一貫した俳論の底に流れる規範を吐露して、
  
古き世の友不卜子、
十余里ふたつかひの句合を袖にし来りて判をもとむ、
狂句久しくいはず、他のこ~ろ猶わきがたし。
左輩右触あらそふことはかなしや、これ風雅のあらそひなればいかがはせ
ん。世に是非を解人、猶是非の内を出ず、我判にかわらじとすれど、人ま
たいはん。無判の判もならずやと。
丁卯之冬 素堂書
 
この論は晩年の「とくとくの合」自跋ある『汝は汝をせよ、我はといひてやみぬ』の態度と同じである。
 芭蕉が「卯辰紀行(「笈の小文」)」に出発した直後、榎本其角が「続虚栗」を編んで、その序文を素堂に頼んで来た。この「続虚栗序」は幽山の「誹枕序」に続く素堂の俳諧感(俳論)で、芭蕉にとっては俳風の転機になって行く序文でもある。
 
榎本其角編『続虚栗』山口素堂序
 
風月の吟たえずして、
しかももとの趣向にあらず。
たれかいふ、
風とるべく影ひろふべくは道に入べしと。
此詞いたり過て心わきがたし。
ある人来りて今やうの狂句をかたり出しに、
風雲の物のかたちあるがごとく、
水月の又のかげをなすに似たり。
あるは上代めきてやすくすなほなるもあれど、
たゞけしきをのみいひなして情なきをや。
 
 ②
古人いへることあり。景のうちにて情をふくむと、
から歌にていはゞ
「穿花蛺蝶深深見 点水蜻蛉蜒蟲款款飛」
これこてふとかげろふは処を得たれども、
老杜は他の回にありてやすからぬ心と也。
まことに景の中に情をふくむものかな、やまとうたかくぞあるべき。
  またきゝしことあり、詩や歌や心の綾なりと。
「野渡触什入船自横月」
おちかゝるあはぢ島山などのたぐひなるべし。
楢、心をゑがくものはもろこしの地を縮め、
吉野をこしのしらねにうつして、方寸を千々にくだくものなり。
あるはかたちなき美女を笑はしめ、
  色なき花をにほはしむ。
 
 ③
花に時の花あり、つひの花あり。
時の花は二枚妻にたはぶるゝにおなじ。
終の花は我宿の妻となさんの心ならし。
人みな時の花にうつりやすく、
終の花にはなほざりになりやすし。
人の師たるものも此心わきまへながら、
他のこのむ所にしたがひて色をよくし、
  ことをよくするならん。
 
 ④
来る人いへるは、我も又さる翁のかたりけることあり。
鳩の浮巣の時にうき時にしづみて、
風波にもまれざる如く内にこゝろざしをたつべしとなり。
余笑ひて之をうけかふ。
 
ひつゞくればものさだめに似たれど
「屈原楚国をわすれず」とかや。
これ若かりし頃狂句をこのみて、
いまなほ折にふれてわすれぬものゆゑ、
そぞろに弁をついやす。
君 みずや漆園の書いふものはしらずと、
我しらざるによりいふならく。
 
 ⑥
こゝに其角みなし葉の続をゑらびて、序あらんことをもとむ。
そもみなし栗とはいかに、
ひろひのこせる「秋やへぬらん」のこゝろばへありとや。
おふのうらなしならば、なりもならずもいひもこそせめといひつれど、
こま切爪のとなりかくなりとなほいひやまず。
よつて右のそゞろごとを、序なりとも何なりともなづくべしと、
  あたへければうなづきて盲りぬ。          
 
江上隠士 素堂書
 
便宜上①から⑥までの段落を付け、比論に富んだ素堂のこの文章を、理解し易くするためである。
は導入部で、風流の吟が跡絶えずに、しかも以前のような趣個でない、誰かが物の様子・はずみやぐあいをとったり、物の形や色・おもかげを拾えば、その道に入れるとの詞は、行き届き過ぎて心がわきがたい。今様の俳諧には、ただ詠ずる対象を写すだけで、感情の込められていないものが多くて、情けない事である。
昔の人の云う如く、景の中に情を含むこと、その一致融合こそが望ましい。杜甫の詩の五・六句の二句を引用し、杜詩の秀でるところは景情の融合に在ると説き、やまとうた(和歌も俳階も)でもこう在りたい、詩歌は心の絵だ、心を措くものは凍土との距離を縮め、吉野を越の白根にうつすことにもなり、趣を増すことにもなり、詩として共通の本葉があるのだ。例えれば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色づかせられるのだ。
 
花を妻に例えて、時の花は遊女のような一夜妻、終の花は我家つまり、己の妻にしようとする心だ、人の心はうつり気で、終りの花はなおざりに成り易い。
人の師たるものは、この心をわきまえながら、好む所にしたがって、色や物事を良くしなければならない。
では其角が芭蕉の語った「鳩の浮巣の・・云々」は、素堂は笑ってその事は承知してい
ると答え、
「云い続ければ物定めに似ているが」として、楚辞の「屈原楚国を忘れずと」であるか、若い頃に狂句を好み、いまでも折節思い出すから関係なしに、弁を費やさせる。君は見た事があるかな荘子(漆園)の書、いうものは知らない、私は知らないから云うのである。漆園とは、荘子を指す語。
 
其角が序文を求めた事に対して「虚棄」とは何かと問い掛け、拾い残した「秋も早や時が過るの心のおもむき」とでも云うのだろうか、相応に腹蔵なく成っても成らなくても言ってくれと云うが、駒下駄の隣を掻くものだ。それでも云い止まないから、右のとりとめのない事を、序とも何なりとも名付けよ与えれば、うなずいて帰った。
 
 つまり素堂は其角の前の師であったが芭蕉に就かせた。従って、もはやお前さんは私の弟子では無いのだよ、だからそうしつこく云っても無理なんだよと云う事で、根負けして書いたのだが、義堂は早くから芭蕉の素質と性格を見抜いていた様で、素贅を生かすためには、性格については多少目をつぶっていた様である。その一つに独占欲が強いことが上げられ、門弟が他の人と接触するのを嫌った。後に嵐雪が素堂の後援で「句集」を出版したおりに、他の門弟が「集は余り出来が良くない…」などと、素堂の名を出しながら御機嫌伺いをしている。芭蕉は人が良い反面狭敵な面も持ち合わせており、素望もかなり気を使っていたようである。しかし、この年は芭蕉に対して相当に厳しく物を云っているが、彼は素堂の云う意味が中々伝わらなかった。それがこの「続虚票序」の文になったと見て良いと思う。序文は漢詩や和歌・俳辞も同じ文芸性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して、情(心) の重要性を説いたものである。
 少々くどくなるが、素堂は延宝八年の「誹枕序」で古人をあげて生き方の共通性を「是皆此道の情(こころ)」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳階は共通の文芸性は、此の道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。
 
延宝八年の冬、深川に隠棲した芭蕉は翌年の延宝九年七月、京都の伊藤信徳らの行った「七百五十韻」を次いで「俳諧次韻」を版行した。芭蕉研究者に依れば、新風の萌芽が僅かならず見られると云う。この頃は紋林風から変化し始めていた漢詩文調が俳壇に流行する気配を見せ、素堂と共に吟じていたのであるが、素堂の「誹枕序」を読んだのであろう芭蕉は、新風興起を模索していたらしい。(高山氏への手紙など後文〕
 天和三年五月頃、江戸大火の後に甲斐に流寓していた芭蕉は、江戸に戻ると其角が編んだ撰集「虚棄」に穀舞書として賢を書いた。その四年後に其角にねだられて、素堂が序文を書いたわけでこの間四年、芭蕉の方は所謂「野ざらし紀行」・「鹿島詣」などをはさみ「続虚栗」の時は「笈の小文」の旅に出発した直後であった。
 

俳諧 加谷白雄 綱島三千代 著

2024年06月15日 17時20分26秒 | 山口素堂・松尾芭蕉

白 雄 綱島三千代 著

 

 姓は加谷(かや)、名は吉春、通称、五郎。信州上田の人、

寛政三年(1791)江戸にて歿、年五十七。品川海晏寺に葬る。゜

 白雄の極く大ざっぱな輪廓である。だがこれだけで問題がないわけではない。一説には信州松代の人と称し、また享年五十三ともいふ。

「深く姓氏をかくして偶尋ね問ふ人ありといへどもただ微笑して答ふることのなかりしとぞ」といふ「続作家奇人談」の文章をそのまゝには信を置き難いとしてもその生涯は曖昧模糊として確實な資料に乏しい。といふのは今まで自宗が天明期の最もすぐれた俳人の一人に数へられながらも真剣にとり上げられ検討されなかったことにもよるのであらう。

霧の香や松明捨つる山かつら

あかつきや氷をふくむ水白し

大寺や素湯のにへたつ秋の暮

 白維の句には冷たいまでな清澄さがある。そしてそれは他の天明俳人達にも元禄俳人達にもないものだった。

 賓暦末年頃、松露庵三世鳥明にしたがって俳諧に志した自雄は昨鴉と號してゐたが、明和二年()大磯鴫立庵に烏明の師烏酔を訪ねその門下となった。その頃號を「しら尾」また「白雄」と改めたが師烏明との仲が面白くなく、安永の頃終に義絶するに至った。それは「かつて人に和するの玄徳なし」と評せられる原

因ともなったが、伊勢風系統の烏明の安易な句風を考へる時妥協嫌ひな白雄の潔癖を見ることが出きよう。彼はよく旅をした。

 「春秋庵紀行」によればその範囲は近畿から奥羽まで時には熊野に詣で吉野に花を賞し、また富嶽にも登ったりしてゐる。それらは明和七年から安永元年(1772)までの十餘年間が多かったやうだが、その間京に住んでゐたことはありながら他門との交流はなかった。

尤も明和八年(1771)京元條の客舎で筆を執った 「加佐利那止(かざりなし)」で蘭更、麥水等の古風唱導を迂愚だと喘ったりしてゐるのだから関心がなかったわけでもあるまい。寥太・蘭更・暁臺から蕪村・太祗まで天明期(1781~87)の諸俳人は互に交流があった。但し白雄だけは自身の系統の撰集に他門俳人の名を見ることは極めて稀であるし、また他門俳人の撰集に白雄宗の名を見ることは出来ない。安永九年(1780)春久々に江戸に帰った白雄は馬喰町に春秋庵を開きその俳風を示す重要な撰集「春秋稿」の初編を出版した。これは白雄在世中に四編、死後門人の手によって八編まで刊行されたが、その作者連中は江戸を中心とする

関東一円が主だったやうであり、彼の代表的な俳論「俳諧寂栞」もその俳諧観を「他言憚るべし」と門人に書き與へたもので、後年出版され廣く人々に読まれのは拙堂の手によってほしいまゝに刪除増補されたものであった。しかし彼は相宿な活動家だった。作品ゐ数もかなりあるし「白雄句集」の中にはこんな句もある。

  蕉翁の誹波及すが中猶波及せんのねがひ旦暮といふ友にかって倦ず。

  ゆへに塵埃をまぬかれんとにはあらねど市中のすみかいかんかせん。

ひととせの塵埃今日にいたりてはゝきちだれ

さゝ竹のさゝほもこぼるゝばかり是とか身につむ。

積ともそれがし翁の誹波及せんとの願ひ市中の隠にしあらず。

隠にしなきにしもあらずといふことを薄酒両三杯ひとほこりて

掃からにおどろかれぬる庵の煤

 

ただその範囲が狭かった。また狭いだけに烈しかったのであらう。句の清澄さを生み出したものはその孤高な人柄だったのである。

二股になりて霞める野川哉

長々と肱にかけたりあやめ賣

傘さして吹かれに出でし青田哉

 

 白雄の最初の俳論「加佐刹那止」はその題號示すやうに師鳥酔の説を祖述し飾りなき自然を尊んだ。これは潁原博士が言はれるやうに「洒落風・譬喩體の流弊の極まる所を知り、また麥水等があまり古調に走るのに慊がらなかった為の対應的態度」であったらう。ともかく平明さはよいにも悪いにも白雄俳諧の根本的特色をなしてゐるのである。尤も之には伊勢風の系統をひく鳥酔の影響があるのだが「理窟をはなれて萬象をおもひ無邪の良友とすべし」(寂栞)といふ語もあり「寂栞」にも「白維夜話」(門人花垣漣々編・天保四年()刊)にも俗談平話に闘する白雄の論が見られる。彼は「寂栞」のでただ事の句を嫌ひ余情を重んずる。が「白雄句集」一千餘句のうち

やなぎ風に裏おもてなき時節かな

梅柳うめうつろひて青柳か

柳なをしりぞき見れば緑なる

   夜の梅寝んとすればにほふなり

 

といふやうな句が大半を占めてゐる。江戸期は別として白雄が今日でもあまり問題にされないのはこゝに大きな原因があつたのだ。蕪村の句にはいつも才気が溢れてゐいる。白雄のは余りにも平板で単調である。

白維は所詮才気の人ではなかった。「俳諧寂栗」が後年ひろく行はれたのも数多く残る紀行がどれ一として面白くないのもその平明さの故であった、がその平板さを支へたのは孤高で潔癖な彼の人柄であった。「俗に下らず雅俗に逍ぶべし」〔寂栞〕といふはっきりした意識があったのだ。その意識を生かしたのはまた子規が「繊麗にして柔弱」と評した程の繊細な感覚であった。

時鳥なくや夜明けの海がなる

木鋏の白銀に峰の怒りかな

名月や建さしてある家のむき

めくら子の端居さびしき木槿かな

夕潮や柳がくれに魚わかつ

 

 これらの句は非常に平明であってその合む内容は極めて複雑である。これは白雄のみの達した独特の境地であった。彼は酒が好きである。

鮭くまむあまりはかなき枝の露

      朧月今日身貧にして濃酒佳肴をうらむ

行年やひとり噛しる海苔の味

      食客あり青樽をを携て我を酔はしむ。

      我為には此の世の君子なることを

酔をともに春待つ年をおしむ哉

 

 頑固なまでの孤高は裏がへせば人一倍の淋しがりやに外ならなかった。彼の酒好きもそこから来たのだろし、また次のやうな句もある。

我心聲せで雁の帰れかし

人恋し灯ともし頃を桜ちる

人恋し杉の嬬手に霧しぐれ

 

 終生妻を娶らむかつたといふその生涯の奥にはこんな多感な人間が息づいてゐたのである。

 彼の俳論を代表する「寂栞」は巻頭に、芭蕉の句

    古池や蛙とび込水の昔

    道の邊の木槿は馬に食はれけり

 此の二句は我家の奥義なり。修しつとめてのち其意味のふかきを知るべし」といふ。却って俗俳諧めいて失望もさせるけれどこの二句の持つ禅味が白雄の心を動かしたのではないか。

「天明四年(1784)霜月廿七日(中略)みちのく也蓼禅師遷化ましましけるよしおもひこまごまそこの門人つげこしける(中略)參禅無二の師たりしをや。みちのくの空だよりなや霜の聲」(白雄句集)

とみえ、また傳によると若い頃上州館林で參禅したといふ。そして白雄も何回か引いてゐ

    酒のめばいとど寝られぬ夜の雪

と白維の酒好きを思ふとき、同じく芭蕉に帰れといふ運動を起した天明俳人たちであったが白雄が一番芭蕉に近い人生観を持ってゐたのではあるまいか。すぐれた門人を多く持ってゐたことさへ似てゐるやうに思はれる。

 化政期の俳人のうち最もすぐれてゐたのは白雄門下であった。常世田長翠・鈴木道彦・建部巣兆など。それは世俗面では絶大な勢力をもってゐた寥太や蘭更の遥かに及ばぬところだった。頑囚で偏狭ですらあった白雄門下からこのやうな俊秀を多く出したのは師と義絶し門人に問詰の書を送り厳しい孤高の精神の影響であった。(竹豪高等学校教諭)


素堂と芭蕉 寛文10年

2024年06月09日 14時52分08秒 | 山口素堂・松尾芭蕉

◇寛文10年 庚戌 1670 素堂29才

 

** 俳諧周辺 ** 『俳文学大辞典』 角川書店

 この年、貞室、『五条之百句』で貞門俳家を論評。

 『大和巡礼』刊。大和俳家撰集の嚆矢。

 書『寛伍集』『続境海草』『天水抄(令徳編)』『誹諧詞友集』

『俳諧洗濯物・洗濯砧』『物名誹諧千句』『立圃追悼集』

参七月、下河辺長流『林葉累塵集』刊。

一〇月、林鷲峰『本朝通鑑』成。

 

** 芭蕉発句 ** 27歳

伊賀上野住、岡村正辰編『大和巡礼』

内山や外様知らずの花盛り

五月雨も瀬ぶみ尋ねぬ見馴河


目には青葉山郭公はつ鰹 

2020年12月13日 06時48分53秒 | 山口素堂・松尾芭蕉

目には青葉山郭公はつ鰹 

 山口素堂資料室編

 

上記の句は素堂のもっとも有名とされる句である。

その素堂は俳諧者の中でもその足跡を最も誤り伝えられている人物である。その誤りは数多くここでは割愛するが、出生から青年時代までの定説は目を覆うばかりである。また全く関与していない甲府濁川浚渫工事責任者され(『甲斐国志』)、その架空事績が過大解釈されて、以後土木業の神様に祭り上げられてしまった。これが現在でも罷り通っている。

さて「目には青葉」の一句であるが、素堂の発句の中でも最も愛されている句には違いないが、素堂自身が特別にこの句を採り上げてはいない。

この句の解説は、山梨県の俳諧においての第一人者、清水茂夫先生(故人)の解説を紹介するが、私は前書きの「鎌倉にて」に興味があり、鎌倉まで数度訪ねて素堂句の詠まれた場所や背景を探ってみた。その結果、素堂が俳諧を鎌倉材木座光明寺において裏山からみた海岸を詠んだものではないかと推察できる。またその風虎の父は陸奥国岩城平七万石の城主忠興。

 

(『江戸新道』延宝六年)

蕉風俳諧の先駆者 山口素堂 清水茂夫氏著

 

この句には「鎌倉にて」という前書がついている。延宝六年といえば、素堂三十七才あったが、そのころ鎌倉に赴いて吟じたものであろう。一見名詞の羅列に終っているが、實は最初の「目には」で、以下「耳には」「口には」を類推させたことが、手腕のあるとところで、それと警戒なリズムとによって有名な句となった。初鰹を上リあげた点も人気を博する所以であろう。当時俳壇に談林風が勢をふるっていた時代で、素堂もまた親友芭蕉とともに、檀林俳諧に熱中していたのである。

素堂と内藤風虎(ないとうふうこ)陸奥国岩城平七万石の城主

 山口素堂&北村季吟&内藤風虎

 

生年:元和五年(1619) 没年:貞享二年(1685) 年六十七才。

風虎は寛永十三年(1636)に十八才で従五位下、左京亮に叙任。寛文十年(1670)素堂二十九才のおり、風虎(内藤頼長・義概)は父忠興の隠居により、五十二才で陸奥国岩城平七万石の城主になる。

俳諧作品の初出は『御点取俳諧俳諧百類集』。北村季吟・西山宗因・維舟らと深い交流が見られる。又和歌や京文化へのあこがれも強かった。

素堂は通説では致任して市中から不忍池畔の池の端に住居を移し、寛文年間初期から、風の江戸桜田部の「風虎文学サロン」の常連であったと諸研究書に記されてある。風虎の父、忠興は大阪城代を勤めた時期もあるが、文人としての活動は不明である。素堂が風虎の文人交友者を通じて文人の道に入ったことも推察できるが、寛文十年頃素堂は未だ何れかに勤仕していたのである。素堂が生まれてから寛文七年の初出『伊勢踊』までの歩みは不詳部分が多くあり定かには出来ないが、何れにしても内藤風虎と素堂の関係解明が必要である。風虎の文人としての活動は息子露沾に引き継がれるのである。

風虎の別邸は鎌倉にあり、素堂の「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句は鎌倉で詠んだものであり、年代から押しても旦那光明寺の裏庭もしくは風虎の別邸で詠んだ可能性が高い。

又素堂は水間沾徳を内藤家に紹介したと伝える書もある。延宝五年の風虎主催の『六百番俳諧発句合』に素堂も参加してその中の句「茶の花や利休の目には吉野山」は、長年にわたり諸俳書に紹介されている。

 

山口素堂と内藤露沾(ないとうろせん)

  生年:明暦元年(1655) 

 歿年:享保十八年(1733)  

  年七十八才。

本名内藤義英。陸奥国岩城平の城主内藤義概の次男として江戸赤坂溜池の邸生まれる。(素堂十三才の時)家中の内紛により延宝六年(1678)蟄居を命ぜられ天和二年(1682)二十七才の折り退進、麻布六本木に住む。

素堂歿(享保一年)後、二年(1717)の夏素堂追善興行『通天橋』では序文を書して素堂との交友の深さを知る。露沾の門人、沾徳・沾圃・沾涼なども素堂の周りの俳人である。又芭蕉とも交友深く、素堂・芭蕉・露沾の吟もあり、共通した諸俳書にその名が見える。

素堂序文 元禄五年(1692)『俳林一字幽蘭集』(水間沾徳編)

 ここに素堂の数ある序文のうち元禄五年(1692)の『俳林一字幽蘭集』(水間沾徳編)の序文を見てみる。

 素堂 九月、『一字幽蘭集』水間沾徳編。内藤露沾序。

  『俳林一字幽蘭集』素堂序あり。    

 

「岩城之城主風虎公所撰之夜錦・櫻川・信太浮島此三部集」

 

   「俳林一字幽蘭集ノ説」

   素堂著 

沾徳子甞好俳優之句遂業之來撰一字幽蘭集儒余于説幽蘭也應取諸離騒而除艾蘭之意我聞楚客之三十畝不為少焉雖餘芳於千歳未能無遺梅之怨矣斯集也起筆於性之一字而掲情心忠孝仁禮義智始終本末等總百字之題以花木芳草鳴禽吟蟲四序當幽賞風物伴載而不遺焉何有怨乎叉原斯集之所従来前岩城之城主風虎公所撰之夜錦櫻川信太浮島此三部集。愁不行於世也仍抜萃自彼三部集若干之句副之句之古風時世妝之中其花可視而其未實可食者盡拾之纂之其左引證倭歌漢文而為風雅媒是編者之微意也可以愛焉従是夜錦不夜錦浮嶋定所櫻川猶逢春矣雖然人心如面而不一或是自非他謾為説誰知其眞非眞是各不出是非之間耳若世人多費新古之辯是何意耶想夫天地之道變以為常俳之風體亦是然而不可論焉沾徳水子知斯趣之人也

  為 素堂書 佐々木文山冩  

【読み下し】

 沾徳水子は、甞って俳優の句を好みて遂にこれを業とす。ちかごろ一字幽蘭集を撰びて予に説を求む。それ幽蘭なるは、まさにこれを離騒に取りて艾を除き蘭長ずるの意なるべし。我聞く楚客の三十もことに少しとなさず芳せを千歳に余すといえども、未だ梅をわするゝの怨み無きことあたはず。その集や筆を性の一字に起こして、情心・忠孝・仁禮・儀智・始終・本来総て百字の題を揚げ、以て花木・芳草・鳴禽・吟中四序、まさに幽賞すべき風物を伴び載せてこれおわすれず。何ぞ怨有らんや。又その集のよりて来る所をたずぬるに、さきの岩城の城主風虎公撰したまふ所の夜の錦・櫻川・信太之浮嶋この三部の集、世に行なはざれしを愁いてなり。すなはち萃して彼の三部の集より若干の句を抜きてこれに副るに、古風、いまよう姿の中、その花を視るべくして其のミ実食すべきはこれを拾い尽くして、これを纂め、以てその左に倭歌漢文を引證して風雅の媒と為す。是を編める者の微意なり。以てめでつべし。是により夜の錦、夜の錦ならず浮嶋も所を定め、櫻川猶春に逢がごとし。しかれども人の心面の如くにて一ならず。或は自らを是とし他を非なりと謾る説を為す。誰かその真非真是を知らん。各是非の間を出でざるのみ。しかのみならず世人の多く新古の辨を費やす。これは何の意ぞや。想ふに、それ天地の道変を以て常とし、俳の風体もまたこれに然り。寒に附き熱にさかる時の勢ひ、自ら然ることを期せずしてる者なり、強いて論ずべからず。沾徳水子その趣きを知る人なり。これが為に素堂書す

【文山】

佐々木池庵の弟、江戸の書家。享保二十年(1735)歿。年七十七才。

江戸の書家で兄玄龍とともに活躍する。

【沾徳】

寛文二年(1662)生、~享保十一年歿。年六十五才。

はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。江戸の人ではじめ調和門調也に師事し、調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りし、同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正、清水宗川に歌学を学び、同門の原安適と親交を結んだ。貞享二年(1685)頃立机、素堂を介して蕉門に親しむ。

 

『沾徳随筆』に、素堂の逝去に対して、

山素堂子、去る仲秋みまかりぬ。年行指折で驚く事あり、予を入徳門(湯島聖堂)に手を引き染めて四十年、机上の硯たへて三十年、今に持来りて窓に置く。云々。

 

『沾徳随筆』

俳諧随筆。享保三年(1718)稿。素堂追悼句文掲載。

 

 どうであろうか。当時一流の俳諧人の序文を書すことで素堂の地位と名声の高さを窺い伺い知る事ができる。

この幽蘭集を編んだ沾徳を素堂は磐城平城主内藤風虎(義概)に紹介して沾徳は内藤家に仕える事となる。風虎の父忠輿の娘(実は風虎の兄弟の美輿の娘を養女とする) は上諏訪の高島城主内藤忠晴(俳号路葉)に嫁いでいて、諏訪内藤家も代々俳諧を嗜み、頼水―忠恒―忠晴―忠虎と活躍している。頼水は江戸斉藤徳元と交流があり、忠晴は芭蕉の第一の門人とされる其角に師事している。其角は素堂と親しく素堂の紹介で芭蕉の門人となる。忠虎は前記の水間沾徳や風虎の子露沾との交友が深い。露沾や沾徳は素堂に非常に近い存在である。こうした事も素堂の文人としての地位の高さを示している。

 

素堂……『一字幽蘭集』発句四入集。沾徳編。

河骨やつゐに開かぬ花ざかり          素堂

一葉浮て母につけぬるはちす哉         〃

魚避て鼬いさむる落葉哉               〃

茶の花や利休が目にはよしの山         〃

 

【註】… 合歓堂沾徳。『江戸市井人物事典 』北村 一夫氏著。

 帯程に川も流れて汐干かな

 折りてのちもらう声あり垣の梅

などの句でしられる合歓堂沾徳は、京橋五郎兵衛町(現在の八重州口六丁目の内)に住む通称水間治郎左衛門という刀剣の研師である。飛鳥井雅章が和歌のことで問題を起こし、岩城平に左遷された時、沾徳は俳諧の師でもあり城主である内藤露沾に選ばれて御伽衆として雅章に仕えた。雅章は配所に三年ほどいて京都に帰ったが、その時沾徳に「汝必ず和歌に携わるべからず。只俳諧のみ修業すべし」と言い残した、(『俳諧奇人談』)

沾徳は気骨のある人で播州顔赤穂の大高子葉(源吾)、富森春帆(助右衛門)神崎竹平(与五郎)、茅野涓水(三平)などの門人がいる。赤穂浪士の遺文中に俳句が多いのは沾徳の力に大いに預かっている。

 

【註】佐々木文山……佐々木玄龍の弟、江戸の書家。享保二十年(1735)歿。年七十七才。

【註】〔俳諧余話〕……「佐文山の戲書」(『近世奇跡考』巻の二)

 佐々木氏、名は襲、字は淵龍(エンリュウ)文山と號し、墨花堂(ボククワドウ)と稱す。

俗称百助、玄龍の弟なり。西の窪に住す。志風流に厚く、兄玄龍とゝもに、書を以て名高し。ゆゑに都鄙神社仏閣の扁額、皆書を文山にもとむ。性甚だ酒を好み、醉裏筆をふるへば殊に絶妙なり。世に醉龍の後身と云。榎本其角は玄龍に書を学ぶ。ゆえに文山ともしたしく、酒友の交りふかし。一日(アルヒ)文山富豪の主人〔割註〕一説に紀文と云」及び其角と花街に遊び、酒たけなわなる時、揚屋の主人、文山が書名高きを知りて、春山櫻花畫ける屏風を出して賛辞を乞。文山筆をとりて、此所小便無用と書す。主人これを見て頗る不興の色あり。其角筆をとり、これにつぎて花の山と書。つひに俳諧の一句となる。

  此所小便無用花の山

主人喜び、つひに家寶とす。其頃あづま童の口さがなきが、此所小便無用佐文山とたはぶれいひけるとぞ。此事、世に傳へて風流の話柄とする。

文山享保十年乙卯五月七日病て歿す。享年七十七。芝増上寺塔中浄蓮院に葬る。