『道』白洲正子氏著 新潮社版
一部加筆 山梨県歴史文学館
私は小田急沿線の鴨川に住んでいるが、家の前の田圃道を、「鎌倉街道」といった。
いった、と書くのは、現在は家が建てこんで、昔の面影を失っているからである。
その道は、東の丘を尾根伝いに来て、谷戸へ下り、家の前をはすかいに横ぎって、再び山へ入って行った。わずか一間足らずの山道であるが、よく踏みかためられた歩きよい道で、尾根の上の雑木林からは、富士山が望めた。今はびっしり家が並んでいるが、ところどころに古い道が残っていて、私はよく犬を連れて散歩に行く。そこから先はどこへつづくのか、また、なぜ「鎌倉街道」と呼ばれるのか、長い間考えてみたこともなかった。
だが、鎌倉街道は、そこだけとは限らなかった。鶴川村は、十数年前に、町田市に合併されたが、かつての村の北のはしに「小野路」と称する宿場かおり、平安時代には小野氏の荘園で、小野篁を祀った神社が建っている。その社の前も、鎌倉街道と間いていたし、小野路の南にそびえる「七岡山」にも、同じ名前の峠道があった。峠の頂上からは、たたなわる丘のかなたに、富士、秩父、筑波の山山が見渡され、「七岡」の名にそむかぬ雄大な眺めである。’
そればかりではない、思いもかけぬ遠くの国、たとえば上州や信州などでも、鎌倉街道の名を耳にすることがあった。その度に私は、なつかしい心地、がしたものだが、それらの古道が、どこでどういう風に結びつくのか、想像することもできなかった。そのまま何年か、いや何十年もすぎてしまい、鎌倉街道の名は、次第に記憶からりすれて行った。
この夏、新聞に「鶴川日記」というのを連載していた時、私は再びその古道と出会うことになった。鶴川の周辺は、どこを歩いても鎌倉街道につき当る。そういうことがわかったが、それらは点として存在するだけで、線にはつながらない。ついに書くことができずに終ったが、ある偶然の機会に、大体の道筋を知ることができた。
それは八月はじめの暑い日であった。町田市史を編纂している方たちが、遠くの村で温泉があるの
を、見に行かないかと誘って下さった。ちょうど新聞に連載をしている最中ではあり、そうでなくても好奇心は強い方だから、二つ返事でついて行くことにした。先に記した小野路の宿から、西へ行くと、「小山田」という村に至るが、市役所の方たちは、私のためにわざわざ旧道を通って下さった。小山田の集落は、町田にもまだこんなところが残っていたのかと思われるほどのどかな山村で、田圃の両側に、緑したたる多摩の横山がつづいて行く。その聞に点々と建つ農家や、神社のたたずまいには、どっしりとした風格があり、私どもの住んでいる部落とは感じがちかう。モれもその筈、ここは平安末期から室町時代へかけて、豪族小山田氏の館があった場所で、町田のほぼ全域が彼等の領地であったらしい。「あれが城跡です」と指さされた方角には、大木の繁る丘陵が望めたが、今日はよって行くひまはない。下小山田から、上小山田へぬけて、私たちは間もなく町田街道へ出た。
この街道は、武蔵と相模の間を流れる「境川」にそっており、国道十六号を渡って、国鉄横浜線の踏切を越えると、相原という駅がある。明治村へでも移したいようなひなびた駅で、。改札口のかたわらの傘たてに、こうもり傘がたくさんさしてある。村の奇特な老人(たしか中村さんといった)が、こわれた傘を丹念に修繕し、急雨の時に用立てるために置いてあるのだが、一本もなくなったことはないと聞く。その一事だけでも、土地の気風が知れるというものだが、田園をへだてて、なだらかな丘陵がつづき、その向うの丹沢山の彼方に、富士山を望む風景は、自然と人間の心の間に、たしかに共通するものがあるように思われる。
「大賀さんの蓮を見て行きませんか」
市役所の方に、突然そういわれた時はびっくりした。大賀博士が、縄文時代の蓮の実を発見し、みごとに開花させたことは、新聞で読んでいた。特に多摩川版では、毎年夏になると、美しい蓮の花の写真がのらぬことはない。いつか見に行きたいと思いつつ、場所がわからないので、ついそのままになっていた。ぜひ行って見たいというと、車をとめて下さったが、そこから五分とかからぬところ にある街道筋のお寺であった。
蓮の寺 大賀の蓮
それは円林寺という天台宗の寺で、山門をくぐったとたん、目ざめるような蓮の花園が現れる。その蓮は、今まで見たことがない大きく、美しい花であった。頑丈な茎は三メートルほどもあるだろうか、勢よくのびた葉の問に、紅の花が無数に咲き、真夏の目先をあびて光り輝いている。蓮の花が、なぜ仏様を象徴するのか、私にははじめて合点、が行くような心地がした。特に花の落ちたあとの緑の萼(かく)は美しく、蓮のうてなとは、正にこのことだと思った。
昭和二十六年四月、千葉市旭ヶ丘の検見川遺跡で、縄文時代の丸木舟岸土器のかけらとともに、蓮のカラがたくさん出土した。大谷一節博士は、カラがあれば、実も必ず出て来るにちがいないと思い、多くの反対や困難を押し切って、更に深く掘りさげて行った。そして、ついに二十六日目に、地下四メートルの寺沢の中から、三粒の蓮の実を発見した。それは千五百年~二千五百年前のものと鑑定され、
「蓮の実は、摂氏一〇度でコンスタントなら、二五〇〇年の生命を存続するから、きっと発
芽するど思う」
と、博士は当時の千葉新聞に語っている。
それから約三ヵ月役に、三粒の実のうち、一粒だけが発芽した(そのうち一つは失敗し、あとの一つは天然記念物として保存されている)。新聞で、世界最古の亘の花が開いたのを知ったのは、数年経った役のことであるが、千の生命力の強さと、大谷博士の信念に、感動したことを覚えている。
円柱寺の住職にうかがうと、そこには人知れぬ苦労があったようである。贋物だという学者もいたし、発芽などする筈がなしときめっける人もいた。大賀博士はそういう非難の中で、黙々と蓮の生長を見守り、美しい花を咲かせて行った。博士は府中に住んでいられたが、夏の来明に、はじめて花が開いた時には、嬉しさのあまり、近所の人々を叩き起して知らせた。が、見に来るものは一人もなかったし、気違い扱いにされるの、が落ちだった。唯一の話相手は、円柱寺の和尚さまだけで、それから役は、しばしば寺へ遊びに来られるようになった。博士はクリスチャンであったが、ここの風景が気に入って、「死ぬときは、こういう所で終りたい」と、しじゅう口にされていたという。晩年には、
「自分が死ねば、蓮の面倒をみてくれる人はいないから、ぜひ後をついで貰いたい」と、住職に托した後、間もなく亡くなられたそうである。
それは今から十四、五年前のことで、二千年の眠りからさめた蓮の花は、年々子孫をふやし、北は北海道から、南は九州の果てまで普及している。それらはすべて円林寺から根分けしたもので、大和の唐招提寺や、京都の苔寺にも分けたといい、「縄文の蓮」、「大賀の蓮」といえば、今では知らぬ人とてない。大賀博士の苦心は、死後にはじめて報いられたといえよう。博士のみたまは、円林寺に祀ってあり、蓮にかこまれて安らかに眠っていられる。
そういう話を聞きながら、私はしきりに、「一粒の麦もし死なずば……」という聖書の言葉を思い出していた。
蓮の花はひらく時、音を立てるというのが通説になっているが、住職にたずねると、そんなことはないそうで、一枚、一枚、花びらが、はらはらとこぼれるように咲くという。たしかに仏の草は、そうあってほしいし、そうあらねばならないと思う。拈華微笑の故事は、伝説かも知れないが、それは音もなく咲く花の笑みから生れた思想ではあるまいか。
今年はもう枯れてしまったが、来年は花がひらく時、ぜひうかがいたいというと、その時は寺へお泊りなさいと、住職はいって下さった。
甲斐源氏検証
北杜市歴史講座 甲斐源氏検証
鎌倉時代に源頼朝をして恐れられた力を誇示した甲斐源氏、しかし現在の山梨県に於ける甲斐源氏に対する認識は必ずしも確かではない。これは無理もない話で、武田信玄に繋がる甲斐源氏は山梨県にとっては汚れなき武将であり、地域の英雄でもあるからである。
しかし山梨県内で発刊されている武田関係の諸書には大きな誤差が見られる。今回、甲斐の国司について調べる機会があり、甲斐源氏についても調べてみた。甲斐源氏についてもやはり『甲斐国志』の調査が群を抜いている。しかし甲斐国内の寺社や神社の由緒などの不確かな部分を正面から捉えすぎているきらいもある。
歴史は有効な史料の積み重ねから導き出されるもので、後世の伝説に近い話を拡大解釈して正当な歴史とすることは許されない。私はこれまで私的に「山口素堂の研究」・「甲斐の御牧」・「甲斐の古道」・「甲斐の古墳」などを資料を基に研究してきた。私の歴史調査は、史料がすべてである。それも山梨県周辺の図書館や博物館にある研究史料である。県内でも私論を挟まない古文書や先人の研究書は参考にしている。
山梨県の歴史書は私論と推論から組み立てられている書が多く見られ、真実の歴史を伝えているとは思えない。
最近武田発祥の地といわれる現在の茨城県勝田市に訪れてみた。図書館廻りが主であったが、開発の進む中では当時の面影は見られない。しかし武田の発祥は間違いなく茨城県勝田市武田である。しかしこれは近年まで山梨県では一部の人たちしか知らなかったことである。以前から茨城県の歴史書には「源義清、甲斐配流」とあるのに、山梨では「武田発祥の地」とか「甲斐源氏発祥の地」など確かな史料に基づかない、真実を逆なでする伝説が観光の目玉になっている。
最近の武田関係のイベントは歴史感覚を疑いたくなるものが多い。歴史関係のイベントはともすれば、一般の人々に誤った歴史認識を与えることにもなる事を主催者は留意しなくてはならない。
古代の遺跡についても一考を要する問題である。大開発による遺跡破壊は深刻で、遺跡調査は開発の速度にはついて行けない状況であり、工事完成の期日を迫られる関係者とっては遺跡調査ほど迷惑な存在はないのである。市町村の中には古代の遺跡発掘を広報に掲載したり、子供たちと土器作りや発掘までも実施している所もあり、好ましい限りである。それは如何なる情報時代であっても、自らの住む地域を知らせ、教える事は大切な情報であると思われる。現在開発の進む中山間地こそ古代遺跡の場であることを関係者は理解して欲しい。調査報告されないで破壊されていく遺跡の中には甲斐源氏や古代解明に欠かせない遺跡・遺構は多くあるのに違いない。
今回の『甲斐の御牧』と『異聞甲斐源氏』も、源義光の悪行や武田一族の裏切行為など正面から見ている書物を参考史料とした。
県内の著書は意識せずに書したつもりである。将来山梨県を支える子供たちには地域や歴史を真っ直ぐに見てもらいたい、そんな気持ちである。小説的や感情的で、さらに史料を持たない説を市町村や山梨県の歴史として伝える事は歴史関係者の為すことではない。又、不確かな部分は後世の解明に委ねる勇気が必要であり。伝記的な甲斐源氏像からの脱却こそ峡北の古代及び中世の真実に近づく事となるのである。
ここで奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』を中心に甲斐源氏関係の事蹟を抽出して見る事とする。それは、これまでの甲斐源氏のイメ-ジを一新し、再確認の機会を示唆する内容である。
奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』
一. 天皇家多田源氏
二. 奥羽戦乱と東国源氏
三. 東国源氏の京都進出
四. 源平合戦と鎌倉三代
五. 南北朝争乱と足利一族
六. 新田諸侯と戦国争乱
の六巻から構成されている。特に二巻と三巻が甲斐源氏について書されている。
詳細は先生の著本を参照していただきたい。
一、清和源氏の家系
清和源氏は、清和天皇の六男貞純親王の子孫だということになっている。一書には親王が生まれる十二年以前に親王になったとまで記されている。また、父清和天皇がまだ二歳だった時に生まれたとする系図もある。
生年・没年・生涯の経歴などあまりにも謎が多すぎる。
明治十三年(一九〇〇)に発表した星野恒の論文では、清和源氏の祖は清和天皇ではない、貞純親王も清和源氏には関係ないという論文であった。この根拠は永承元年(1046)付けの源頼信の告文で、それは、
《石清水八幡宮の納めた願文で頼信自身が「自分は陽成天皇の末裔である」》
と明瞭に断定していたのである。
『清和源氏の全家系』
清和天皇―陽成天皇―元平親王―経基―満仲―頼信―頼義―義光―
『定本甲斐源氏系図』
清和天皇―貞純天皇―源経基―満中―頼信―頼義―義光―
山梨ではこの『定本甲斐源氏系図』が多く用いられている。陽成天皇を祖とすることを嫌う理由は以下述べる理由があるからである。
二、清和源氏の祖陽成天皇
陽成天皇は清和天皇の第一子である。元慶元年(877)正月三日、九歳で即位。藤原基経が摂政に就任した。陽成天皇が十六才の時、宮中で嵯峨源氏の源益が殴り殺されるという殺人事件が起きた。史料を検証してみると犯人は自ずと浮かび上がってくる。摂政基経はその責任を取ることを天皇に強要して退位に追い込む。当時の史料では陽成天皇が「乱国の主」、「悪君の極み」などと呼ばれていることがわかる。これが陽成天皇ではなく一代繰り上げて清和源氏と呼ぶことなる。
三、清和源氏の家系 元平親王《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
陽成天皇が不名誉なかたちで退位したので、その系統から皇位を嗣ぐことはなかった。しかし経済的には裕福で生涯弾正尹・式部卿などを歴任(親王任官)位階も三品を与えられた。元平親王の子経基も王号をあたられた。
四、清和源氏の家系 清和源氏の初代《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
事実は陽成源氏であったにもかかわらず、これを清和天皇と偽称したため、いくつかの疑問が生じた。清和天皇の第六皇子貞純震央がこの系統の中に含まれたため、生没年があわなくなったのはその一例である。
そして事実に於いて基平親王の子であった経基王を貞純親王の子であると系図を偽造したため、経基王の没年も不明確になり、ひいてはその生涯もまた矛盾に満ちたものとなった。承平八年(938)経基王は武蔵介に任じられた。武蔵国の国司の次官である。遙任ではなく赴任した。経基王は多くの財産を築き上げるために激しいばかりの徴税・収奪を実施した。その結果安達郡司武蔵武芝らの徴税される側から痛烈に反抗されたのである。
この時、下総国豊田荘の豪族平将門が調停にたった。やがて和解が成立。小心ものの経基王は自分が襲われると思い、京都に逃げ帰り「将門、謀叛の企、必定なり」と報告してしまった。取り調べの結果将門の謀叛は無実と知れた。経基王の臆病ぶりは一度に世間にひろがった。直後本当に将門が叛乱した。《天慶の乱》である。とたんに、経基王の評価が逆転した。やがて将門追討軍が編成されたとき、副将の地位を与えられたが、直接戦うことはなく、すでに田原藤太と平貞盛との連合軍が将門を討ち取っていた。それでも経基王の武勇は世上に喧伝され《天性、弓馬に達し、武略に長ず》ということになった。
こうして清和源氏は部門の家柄ということになった。この時期には清和源氏は存在しない。基経王が皇族を去り、晩年臣籍の降下し、源姓を賜る。清和源氏の成立である。
五、清和源氏の家系 源満仲《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
摂関政治を布いて財務の人権を掌握していた藤原氏北家は本来武力を持たない公卿であった。政権維持のために一定の武力を必要としていた。この役を引き受けたのは、清和源氏であり、経基王の跡を嗣いだ満仲であった。
満仲は数多くの受領を歴任して巨富を得た。満仲は《摂津国河辺郡大神郷多田を本拠として、《多田源氏》となった。五弟満快の系統は、多く信濃国に繁栄した。
六、清和源氏の家系 源頼光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
三代の天皇の外戚として権勢をふるった藤原道長に仕え、道長の新築祝いのときに、家具調度の一切を献上して世人を驚かせた。
七、清和源氏の家系 源頼信《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
多田満仲の三男で頼信が清和源氏の系統を継承した。宮廷武家で早くから東国に目を向けていた。長元元年(1028)に起こった平忠常の乱を平定した。
八、清和源氏の家系 源頼義《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
すでにして頼義は東国の棟梁であった。さらに東国の覇権を奥羽両国に及ぼそうと図った。かくして《前九年の役》が始まった。苦戦でようやく勝利を収めたものの、奥羽に於ける覇権は得られず、野望は宿題として子孫に残された。頼義の弟頼清は信濃源氏になった。
九、清和源氏の家系 源義光(残忍酷薄の心なきもの)《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
頼信の三男義光は、長兄義家の八幡太郎、次兄の加茂次郎という例に従って新羅三郎と名乗った。けだし、大津園城寺の新羅大明神の社壇で元服したからである。母は二人の兄と同じ上野介平直方の娘であった。
永保三年(1083)頃、ようやく左兵衛尉になっていた。時に三十九歳である。この時後三年役が起こった。長兄義家が陸奥国で苦戦清原一族と戦い苦戦を重ねていた。このことを京都にいて知った義光は、すぐ上奉して身暇を乞うた。しかしこの戦いは義家の私闘であると見做されていたので、義光は暇を与えられなかったが、義光は身暇は与えられず、出京の許可なく義家の軍陣に馳せ参じた。兄義家は感涙して喜んだ。また、義光は豊原時元に師事して笙曲を学んだ。『奥州後三年記』には前述の他に、この時元の子時秋に義光が足柄山で秘曲の伝授をしたという挿話がある。(この寛治元年には時秋は生まれていない…『源氏と平氏』渡辺保氏著)
後三年役終了後、義光は京都に戻った。身暇の件については不問に付された。その後義光は、まず左衛門尉に返り咲き、続いて右馬允、さらに兵庫助と歴任してやがて刑部丞に昇進した。
その時一つの事件が起こった。六条修理大夫藤原顕季との間に訴論が持ち上がった。顕季の修理大夫は従四位下で義光の刑部丞は六位である。藤原顕季は院政を敷いた白河法皇の近臣であった。義光はこの訴訟で勝訴した。
その内容は陸奥国菊田荘が義光の領地であるとの主張であった。押領を図ったのである。白河法皇の裁決内容は「このたびの訴訟のこと、汝(顕季)に理あることは明白なり、汝の申すところ、まことにいわれあり。されど我思うに、その荘を去りて義光に取らせよかし」というものである。法皇は「義光は夷のゆな心なき者なり」として義光に顕季の土地を与えることを諭した。顕季は法皇の言に従い、義光に譲状を与えた。義光は「義光」と書いて差し出した。これで主従関係は成立したが、義光は主顕季に従うことはなかった。その後、顕季の身辺を義光の随兵が確認された。この時、義光は「館の刑部卿殿」あるいは「館の三郎」と呼ばれていた。
五十台の後半になったころ、受領の職にありつき、常陸介(国司次官)に任じられた。遙任ずに現地に赴任した義光は、その地の大豪族大掾家と手を結んだ。大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に館を構えた。この間義光は勢力を伸ばし、常陸北東部一帯に定着する。佐竹郷、大田郷、岡田郷、武田郷(勝田市武田)などがそれである。常陸介の任期が終わると嫡男義業を残した。これが常陸源氏として繁栄する。
嘉承元年(1106)六月頃、常陸国内で合戦があり、相手は義家の三男、義国だった。義光は息子義業の嫁の実家である常陸大掾家と結んで、義国に立ち向かった。合戦 の内容は不詳である。
常陸を去った義光は、京都に立ち戻り除目を待つ間、近江円城寺に住む。
やがて義光が補任されたのは甲斐守であった。当時多くの貴族が補任されても任地に赴任することなく、遙任と称して目代を差遣していたのがこの甲斐国である。義光は遙任することなく甲斐国司としての職務を果たしたであろう。果然甲斐国内にいくつもの義光の私領が成立し、一条郷、上条郷、下条郷、板垣郷、吉田郷、青木郷、岩崎郷、加々美郷、長坂郷、大蔵郷、田中郷、泉郷、等等がそれである。それらの諸郷のうちのあるものは立荘されて荘園になっていった。。加々美荘、逸見荘、甘利荘、塩部荘、石和御厨、原小笠原荘、一宮荘、八代荘、奈胡荘等がそれである。
十、清和源氏の家系 武田義清 (二宮系図…甲斐国の目代、青島下司)《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
甲斐国における義光系の所領を伝領したのは義光の三男武田冠者義清だった。かれは市河荘を根拠とした。町内平塩の岡は彼の館址だと伝えられている。
義光の子は常陸に嫡男義業、近江国に次男義定を配置する。甲斐に対する三男義清の配置は結果的そうなっただけで、義光がたてた計画ではなかった。もともとは義清は常陸武田郷を配分されて武田冠者と名乗っていた。
ところが大治五年(1130)、その武田郷付近で濫行事件をおこし、甲斐市河荘に配流されたのである。まさに偶然的であった。このとき義清は武田郷にちなむ武田姓をひっさげて、甲斐に移り住んだのである。
なお、義清が甲斐国で有名になった《武田》の名を常陸から持っていったように、後に信濃国で有名になる《小笠原》の名を甲斐国から持ち去ったのは、義清の子清光の三男遠光である。《小笠原》のちいう名は、本来甲斐原小笠原荘(櫛形町小笠原)に由来していたのである。
甲斐国の任期を終えて再び近江円城寺に帰り住んだ頃、義光はすでに六十歳を越えていた。朝廷では義光に刑部少輔の破格の職を与えられた。しかし義光はとんでもない野望を抱いていたのである。それは源家の惣領の地位を競望したのである。すでに嘉承元年(1106)八幡太郎義家はこの世を去っていた。その嫡男義宗は死去、次男義親は西国で暴れ回って泰和の乱を起こし、朝廷の追討を受ける身になっていた。こうして源家の惣領になったのは義家の四男義忠である。
『尊卑分脈』には義光が「甥判官義忠の嫡家相承、天下栄名を猾んだ」としており、『系図纂要』は「叔父義光、欝憤を含み」としている。そして後代に成立した『続本町通鑑』は「叔父、義光(義忠)の声価を忌む」と解釈している。 天仁二年(1109)二月三日の夜、義忠が郎党の刃傷に遭った、義忠は二日の後の五日に絶命している。ところが『尊卑分脈』には(義光が)「郎党鹿島冠者を相語らい、義忠を討たしめおわんぬ」とあり、『続本町鑑』には(義光が)「密かに力士鹿島三郎をして、義忠を刺殺せしむ」としている。自分の郎党を義忠の朗從とし、油断を見すまして暗殺させたのである。そして義忠を暗殺させた鹿島冠者を義光は極めて残忍な方法で殺したのである。
義忠暗殺の任を果たした鹿島冠者は、その夜のうちに三井寺に馳せ帰り、ことの由を義光に報告した。義光は一通の書状を冠者に書き与えて、弟の僧西蓮房阿闍梨快誉のもとに行かせた。快誉に送った症状には、冠者を殺すように書かれていたらしい。兄からの書状を読んで、快誉はこれに従い宿坊の裏手に深い穴を掘っておき、冠者を捕えて、これに入れ、上から土を被せて埋殺したのである。(『尊卑分脈』)
奸謀を尽くしたものの、ついに源氏の惣領にはなれなかった義光は大治二年(1127)十月二十日に死んだ。時に八十二歳。大往生の人だったと伝えられる。つまりは悪い奴ほどよく眠るということであろうか。
11、清和源氏の家系 源清光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
『長秋記』(権中納言源師時の日記)大治五年(1130)十二月三十日条に、この日朝廷で裁決された案件の一つとして 常陸国司申す。住人清光濫行のこと
(【濫行】らんこう。…妄りな行ない。不都合な行ない。)
大治二年、新羅三郎義光はついに死んだ。この前後の頃、常陸武田郷に本拠を構えていた孫黒玄太清光は、叔父佐竹義業らの援助もあって周辺に勢力を張り、吉田神社・鹿島神社などの社領まで掠領するようになり、周辺の豪族にも恐れられ存在になっていた。『尊卑分脈』の清光の項にはたしかに、甲斐国市河荘の配流とある。やがて義清・清光父子は、やがて甲斐国岳田の地に居を卜した。甲斐に移り住んだ義清は相変わらず常陸武田郷に縁由する武田冠者の名乗りを続けたらしい。
《【配流】はいりゅう、はいる。…流罪に処すこと。罰せられて、遠い土地に追いやられること。》
伝説によると清光は光長・信義の二児を伴っていたという。家督を嗣いだのは信義で、本拠武田の地を領して武田太郎信義と名乗った。光長は逸見荘の領主となり、逸見太郎光長と称した。
信義の長男有義は家督を嗣ぐべきものと期待されたらしく、武田太郎と名乗って甲斐武田の地にあった。次男忠頼は一条郷(甲府市蓬沢?)を分給されて、一条次郎と称した。三男兼信は板垣三郎と名乗り板垣郷(甲府市善光寺町)の領主、そして末子の石和五郎信光は石禾(石和)を領した。信光は北条時政から側面援助を受け、安田を凌いで甲斐武田党の棟梁になる。平家全盛の二十年間武田党では信義の嫡男有義や信義の弟加賀美遠光の子秋山光朝などは平家に臣従して厚い信頼を得ていた者もいた。
治承四年(1180)に武田党は以仁王の令旨を受けた。以後四カ月間武田党は沈黙を守る。伊豆では源頼朝が挙兵した。緒戦の山木攻めでは勝利したが、続く石橋山の合戦では散々な敗北を喫する。
甲斐武田党の安田義定が与党の甲斐工藤氏や市河氏などと富士北麓を移動中に平家方の大庭景親の弟俣野五郎景久らの軍勢と衝突した。これは『吾妻鏡』にあるような頼朝救出を目的にしていたとは思われない。
九月十日甲斐武田党は挙兵した。頼朝の救出を目的としたが、すでに頼朝は逃れていた。武田党は最初駿河国進撃を変更して信濃平氏の討伐に方向を転換して、伊那谷の大田切城に殺到、城主菅冠者は自刃して果てる。その後も進撃は続き信濃半国を勢力下に置き、甲斐逸見山の谷戸城に帰り着いたのは同十五日であった。谷戸城にすでに北条時政・義時父子が参着していた。頼朝の本軍に合流させるためである。同二十四日には土屋宗達が第二の使者として石和信光の本領石和御厨に来着した。この時点では頼朝軍より武田党の勢力の方が上だった推察できる。
筆註
《【御厨】……みくりや。古代・中世の神領。主として供膳・供祭の魚介などを献納する非農業民を支配する過程で、成立した。元来、供物を調進する屋舎をさしたが、のちその神領を意味するようになった。内容的には荘園と等しく、史料的には伊勢神宮と賀茂社に限られているが、特に前者は伊勢を中心に全国的に分布し、その数は数百ケ所に及んだ。…『角川日本史辞典
…… 神饌を調進する屋舎。御供所。
…… 古代・中世、皇室の供御(くご)や神社の神饌の料を献納した、皇室・神領所属の領地。古代末には荘園の一種となる。》…『広辞苑』
十月十三日、武田党は行動を開始、同十八日武田党は頼朝軍と合流した。富士西麓や黄瀬河の戦いでの源氏は大勝利する、これは武田党の力によるところが大きい。その翌日の論功行賞で、武田太郎信義は駿河守護に、弟の安田三郎義定は遠江守護に任じられる。頼朝の勢力圏の最先端の地である。富士河合戦の総大将は頼朝ではなく武田党であった。(『玉葉』武田党四万余)
これより先、『玉葉』の十月八日の条には、高倉宮(以仁王)必定現存、去んぬる七月に伊豆国に下着す。当時(今)甲斐国に御座という風評を記している。宇治河で死んだはずの以仁王は生きていて今は甲斐国武田党のもとにいるというのである。
指揮権を確立したい頼朝は上総介広常を寿永二年(1183)十二月に誅殺する。
武田党の勢力削減を目的にした頼朝の陰謀が開始される。治承五年(1181)京都の下級貴族三善康信が《世情のうわさ》として、先月七日、武田信義が頼朝の追討使に任じられることになったと、頼朝に伝える。頼朝は直ちに信義を召還して、厳しい取り調べを行なった。信義は起請文を書いて事なきを得たが、頼朝の疑念と策謀は静かに進行していた。
清和源氏の家系 一条忠頼謀殺《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
元暦元年(1184)六月十六日、信義の後嗣ぎの一条次郎忠頼が、幕府営中の頼朝の面前に於いて誅殺する。直後、忠頼の家人であった甲斐小四郎大中臣秋家は、歌舞音曲の才を愛でられ、頼朝の側近に取り立てられた。
忠頼の長男、飯室禅師をすでに僧籍にいたため縁座を免れたが、次男、甘利行忠は鎌倉で召し籠められ、僧籍に入って甘利禅師と称したけれども、常陸国に配流され、翌年配所において誅殺される。
元暦元年五月一日、頼朝が下知を下す。「故清水冠者議高の残党、甲斐・信濃において、反幕の陰謀あり、ただちに討滅すべし』。甲斐には小笠原長時、足利義兼の両将に、多数の御家人が付けられた。武田党への残党討滅軍の下知はなかった。そして六月前述の一条忠頼の謀殺である。この事件から二カ月後の八月八日、三河守範頼を将とした平氏追討軍が鎌倉を出発、主だった諸将のうちには忠頼の弟武田兵衛尉有義らの姿があった。元暦二年(1185)正月六日の頼朝の下文、
清和源氏の家系 石和信光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》元暦二年(1185)正月六日の頼朝の下文、
甲斐の殿原のうちは、いさわ殿(石和信光)、かがみ殿(加賀美遠光)、ことにいとをしく申させたまふべく候。かかみ太郎(秋山光朝)は二郎殿(小笠原長清)の兄にて御座候へども、平家に付き、また木曾に付きて、心ふぜん(不善)につかひたりし人にて候へば、所知など奉るべきには及ばぬ人にて候。ただ二郎殿いとをしくて、これをはぐくみて候ふべきなり。
武田信義没。
この間武田信義は哀れであった。文治二年(1186)三月九日、信義は死んだ。年五十九。
清和源氏の家系 板垣兼信《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
武田党の棟梁は三男、板垣三郎兼信のはずであったが、頼朝は兼信を好まず、「お前なんか死んでしまってもよい」とまで言い放っている。兼信は頼朝の真意には気づかず、頼朝により所職没収された。建久元年(1190)八月、後白河法皇の願所だった円勝寺領遠江国質侶荘において不当を働き、つきに「遺勅以下の積悪」ということで、所職没収の上に隠岐島に配流されることとなった。兼信はこれまで質侶荘(金谷町志登り呂)の地頭であった。兼信は武田党と頼朝軍は同盟関係にあるとの認識があり、頼朝は武田党は配下であると考えていた。
清和源氏の家系 武田太郎有義《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
彼の場合は、平氏全盛の頃、平清盛の嫡男重盛の御剣役を勤めた前科があった。頼朝は残酷にもその任を満座において頼朝に対して勤めるように強要したのである。文治四年(1188)三月十五日、すでに平氏は滅亡していた。この日鶴岡八幡宮において、梶原景時宿願の大般若経の供養の儀式が挙行された。頼朝は武田有義を面前に呼んで御剣役を命じた。有義はすこぶる渋った。すると頼朝は御剣役を頼朝の側近結城朝光に命じた。居たたまれなくなった有義は遂電したと伝えられる。その後有義は一般御家人の処遇となる。武田党の棟梁は有義の叔父安田義定が台頭していた。
清和源氏の家系 安田義定、安田義資《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
建久四年(1193)十一月二十三日、鎌倉永福寺の薬師堂供養の儀式に参列した義資は、女官に艶書を投げ与えた。これを伝え聞いた景時が頼朝に告げた、武田党の衰退を推し進める頼朝は、この日の夕方、義資は頼朝の下知により加藤次景廉の手により首を切られ、獄門台にさらされた。直後義資の父義定も頼朝の叱責を受けた。
建久四年の十二月五日、頼朝は義定の所領をことごとく没収、遠江国の浅羽荘の地頭職は加藤次景廉に与えられた。建久五年(1194)八月十九日安田義定は梟首された。年六十一歳。
清和源氏の家系 武田有義《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
頼朝の厚い信任を受けていたと思われていた梶原一族の全滅される。すでに正治元年(1199)頼朝は死んだ。二代将軍は頼家となる。武田党の棟梁有義の名が最後に現れるのは正治二年正月二十八日である。甲斐に末弟石和信光が鎌倉に馳せ参じて、兄武田兵衛有義、梶原景時が約諾を請け、密かに上洛せんと欲するの由、その告げを聞くによって、子細を尋ねんが為に、かの館発向するのところ、先立って中言あるかの間、かねてもって逃亡し、行方知らず。室屋においては、あえて人なし。ただ一封の書あり。披見するの所、景時が状なり。同意の条もちろんと云々。
書状は景時が武田党の棟梁武田有義を次代の将軍に擁立するというものであった。有義は行方不明とされているが、『系図纂要』では正治二年(1200)八月二十五日に有義は死んだという。
清和源氏の家系 石和信光《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
石和信光は、この頃から武田五郎と称するようになった。信光は源平合戦の真っ最中の寿永二年(1183)初頭のころ、東国を制覇した頼朝と北陸の覇者木曾義仲とが、いかなる関係を結ぼうとするかという時に、信光が木曾義仲の宿館に使者を送り我に最愛の娘あり、木曾殿が嫡子清水冠者義高殿を迎えんと欲す。政略結婚による同盟締結の申し入れであった。しかし木曾義仲は一言にして申し入れをはねつけた。信光は遺憾に感じ、直ちに鎌倉に向かい、木曾義仲の讒言した。特に「平氏と一つになって頼朝を滅ぼす梟悪の企てなり」の言が頼朝を動かして、軍を碓氷峠に進めた。この時は義仲は嫡男義高を人質に出して事なきを得たという。
寿永三年(1184)頼朝は いさわ殿、ことにいとおしく申させ給うべく候。 と書状にしたためた。この時信光は三十九歳だった。信光の行動派北条氏代々の諸陰謀と微妙に交錯し、数多くの謎の渦となっている。建久三年(1230)の阿野全成事件、健保三年(1213)の和田氏の乱、承久元年(1219)の三代将軍実朝の暗殺事件などに信光は謎の行動をとっていたのである。三代実朝が甥の公暁に暗殺された直後に、真っ先に駆けつけた信光は、逃げる公暁を見失ってしまった。
信光の墓は北条時政の創建した伊豆願成就院の裏手には信光ゆかりの信光寺がある。
その後、これから三百年の間、石和御厨が武田党全体の本拠地となる。
今回、奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』から甲斐源氏の動向を見てみた。甲斐源氏の祖と仰がれている、新羅三郎義光の濫行については、今まで甲斐ではタブ-視されていた。市町村誌などにも、何故か避けて書されている場合が多い。如何に群雄割拠の時代とは云え、甲斐源氏の祖とするには酷い所業である。新羅三郎義光が確かな史料に基づいての甲斐の居住地及び去住年は不詳である。
その息子で甲斐に配流された義清にしても、常陸を追い出されて来た人物である。最初に居住したのは現在の市川である。その後逸見に居住したというのは「逸見」と地名がもたらしたもので、清光さえも寺院や神社の由緒書はあっても、居住地は史料からは見えない。志町村誌も著者の主観が先行している場合が多く、歴史の史実では無い。濫行、兄弟や親子でも裏切りや謀殺など、血塗られた甲斐源氏の歴史を今後は正しく伝えて行くことが歴史に携わる人々の責任である。こうした事は武田三代の信虎・信玄・勝頼にしても同然である。いくら神聖化して見ても、山梨県は兎も角も、長野県や信玄が侵略、殺戮を繰り返した地方に於いては、「憎くつき信玄」である。人を石垣にして、人々を城に見立て、侵略するほどに死体の山を築いた戦国武将たちは、子供の眼にどんな風に映っているのであろうか。
山梨県歴史講座 武田発祥の重要文献 甲斐源氏の発祥は常陸
山梨県の歴史は、独自の地域性があり、これまで『甲斐国志』を偏重するあまり、大きな間違いが訂正されることなく史実のように現在まで伝えられている。私の研究課題であった『山口素堂』などはその最たる犠牲者である(別記)。山梨県における御牧の展開やその生産地の地域比定など、大きな誤差の中で定説の紛い物が大手を振って歴史書や紹介書物に歩いている。
こうした中で安易な定説を創りつづけてきた山梨県の歴史学者および歴史家にとって、その基本認識をぶち破られる大きな出来事があった。それが今回示す講座資料である「武田義清・清光をめぐって」である。その内容は適切であり、その後の山梨県甲斐源氏記述は過去の杜撰な歴史展開から「新設」・「真説」大きな変換がもたらされた。しかし一部では未だに神社仏閣の史実に見えない由緒書の類を多く見る。
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆
これまでの武田定説
甲斐武田氏の出自については、新羅三郎義光の子の義清が甲斐国巨摩郡の武田郷に館を作って住んだので武田と称したとか、あるいは義清が甲斐国市河荘に土着して、甲斐源氏の基盤を作り、子の清光を八ケ岳山麓の逸見荘に配して荘司としたので逸見冠者と称した。清光は子の信義を武河荘武田に配した。この信義が初めて武田氏を名乗った、ともいわれてきたのであります。
これらの説は長い間定説とされてはきたが、従来も甲斐武田氏の出自に関しては釈然としない面があったのです。それは『尊卑分脈』や.「武田系図」に、義光の子義清が「甲斐国市河荘」に配流されたと記されていたからであります。義清の配流が甲斐源氏の土着のきっかけになったわけであります。これは甲斐武田氏の研究にとっては、もっとも重要な史料であり、なによりも間題にしなければならなかったのであります。
だが江戸時代以来の研究者は、このもっとも重要な史料の解釈を一歩から誤ってしまったのであります。義清が甲斐国市河荘に配流されたということは、犯罪により流罪になったことを意味するわけであります。そうすると、甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすることになるのであります。
そこで武田を最初に名乗ったのは、義清ではなく孫の信義が武河荘武田に住んで武田氏を称した、としたのではないでしょうか。
義清配流の事実は、甲斐武田氏にとって不名誉なことと考えていたことが知られるのであります。この事実を正面から取りあげて否定しようとしたのが『甲斐国志」であります。
そこでは、
「義清ガ初メ官ヲ授カリ市川郷ニ入部シタルヲ誤リテ京師ヨリ還サルト憶ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」
と弁解しているのであります。「必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」というのは、義清が流罪者であっては絶対に困るのだ、という強い意志がみられるのであります。
「二宮系図」でも義清が甲斐の目代青島の下司になり、入部した、と記しています。『甲斐国志」の説は広く受けつがれ定説となりました。
奥野高広氏の『武田信玄」にも、「義光の二男義清は市河荘と青島荘の下司として、この地に土着した。新羅三郎義光は義清を嫡子と定めた。つぎに義清・清光父子が経営に着手したのは巨摩郡北部の逸見郷で、逸見その他の荘
園を成立させた。清光の長子光長は逸見荘を守って逸見の始祖となり、次子信義は武河荘の武田に住し、甲斐武田氏の祖とたる家柄をきずいた」と述べております。
《参考資料》山梨県の代表的な認識例
甲斐源氏(かいげんじ〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)
清和天皇(850-880年〕を祖とする清和源氏の一流。新羅三郎源義光から出る。義光が甲斐守に任ぜられ、若神子の館に住んだというが未詳。
義光の子義清は12世紀の初めころ市河(川〕庄(青島庄ともいう)の庄司として甲斐に土着、その子清光は逸見庄を根拠として勢力を拡張した。清光には多くの男子があり、それぞれ国内の地を占拠してその地名によって氏を称し、それらの子孫がさらに多くの分脈を生じ、甲斐源氏は天下の大族となって繁栄した。
後世、特に栄えたのは信義と還光(加賀美〕の子孫である。信義は武河庄武田(韮崎市神山町〕によって武田氏の主となり、子孫は甲斐、安芸、若狭などの守護となったが、特に甲斐武田氏は戦国時代(1467-1568年〕に信玄が出て天下を争った。
また、還光は加賀美(若草町)によって加賀美氏を称したが、その子孫は南部氏、小笠原氏などとなった。南部氏は陸奥の雄族として江戸時代(1603-1867年〕には盛岡藩主となり、小笠原氏は室町時代(1393-1572年)には信濃守護、江戸時代には豊前小倉、肥前唐津、越前勝山などの藩主となった。<磯貝政義氏著>
甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすること
しかし、義清は市川荘や青島荘の下司として甲斐国に派遣されたのではなく、市河荘に配流されたのです。また義清の孫信義が最初に武田氏を名乗ったのではなく、義清は初めから「刑部三郎武田冠者義清」として甲斐国に配流されたのであります。
それでは甲斐武田氏の祖となった義清はどういう人物なのか、なぜ市河荘に配流されたのか、などを考えてみましょう。義清の父である新羅三郎義光が、後三年の役のとき兄義家の苦戦を聞き、左兵衛尉を辞し救援のため奥羽に下向したのは有名な話であります。しかし、藤原為房の日記『為房卿記』、寛治元年(一〇八七)八月二十九日条によると、義光は「身の暇も申さず、陸奥に下向し、召し遣わすといえども参らなかったので、解任した」とあります。『本朝世紀」寛治元年九月二十三日条にも、「左兵衛尉源義光の停任の宣旨を下さる」とみえるので、八月二十九日に義光の左兵衛尉解任が決議され、九月二十三日に天皇の決裁が下されたのであります。
義光のこうした強引な行動は、兄弟愛や源氏発展のためだけとは思われない面があるといわれています。義光の兄である義綱は義家不在の京都で源氏の代表者として摂関家に臣従し、武威を誇っていながら義家の奥羽での戦いに協力した形跡がないのです。義光はこれまでいつも兄の義家・義綱の威勢に押されて、自分の力を発揮することができなかったといわれております。そこで後三年の戦いを利用して奥羽に乗りこみ自分の勢力を拡大しようと考えたのであります。
「新羅三郎義光笛吹の石」の真偽
また義光の奥羽下向に際し、つぎのような物語が伝えられています。義光は音律を好み、笙の師豊原時忠に就いて笙の秘曲の復伝をうけ、名器交丸を授けられた。しかし、奥州下向のとき名器の失われるのを配慮して、逢坂山で時忠に返した。さらにその途中、足柄山で笙の秘曲を時忠の甥時秋に授けたというのであります。現在でも足柄峠には、「新羅三郎義光笛吹の石」というものが残っています。
『今昔物語集』巻第二十四「源博雅朝臣会坂の盲の許に行く語」には、管弦の道に熟達していた源博雅朝臣が会(逢)坂関に庵を造って住んでいた蝉丸という盲人が琵琶が上手であることを聞き、三年間も通い続け流泉・啄木の秘曲を蝉丸から伝授された話がみえております。
また『更級日記」には、菅原孝標の娘が昼なお暗い恐ろしい足柄山を越えたとき、遊女が三人どこからともなく出てきて、庵の前に唐傘を立て十四、五歳の「こはた」という遊女が、空まで響くような凛とした涼しい声で歌ったので、とても感動した様子が記されております。
したがって、逢坂山や足柄山には盲目の琵琶法師や遊女など芸能の徒がたむろしていたのであります。逢坂山や足柄山に芸能の徒がたむろしていたのは、国境などの坂や峠には神霊がこもっており、その神霊が歌舞音曲を好んだという思想が底流にあるのです。『今昔物語集』巻第二十七「近衛舎人常陸国の山中にて歌を詠いて死ぬる語」に、昔、近衛舎人がいた。神楽舎人でもあろうか。歌をすばらしく上手に歌った。この男が相撲の使として東国に下った。陸奥国から常陸国へこえる焼山の関を馬に乗って通ったとき、泥障をたたいて抽子をとり、常陸歌を二、三遍繰り返して歌った。すると、ずっと深い山の奥で、恐ろしげな声で「ああ、おもしろい」といって手を打った者がいる。舎人は馬をとめて、従者にあれは誰がいったのだと尋ねたが、何も聞こえません、と答えたので、頭の毛が太くたるほど恐ろしくなりそこを通りすぎた。その夜宿で寝たまま死んでしまった。だから深い山中で歌を歌ってはいけない。山の神がおもしろがってひきとめたのであろう、といい合ったということである、と記されています。
したがって、義光が逢坂山や足柄山で笙の名器や秘曲を授けた、という話は疑わしいと思うのです。けれども『今鏡」第七には、豊原時忠は交丸という笙の笛と秘曲を「刑部丞義光といひし源氏のむさのこのみ侍りしに」教えて笛も与えた。ところが義光が「あづまの方へまかりけるに」時忠が見送ったとき、笙の笛を時忠に返して別れた、とあるので、義光が笙をよくしたことは事実のようであります。
義光の官歴
『尊卑分脈」には義光の官歴を「常陸介、甲斐守、左兵衛尉、刑部丞、左衛門尉、右馬允」あるいは「常陸介、甲斐守、左衛門尉、右馬允、刑部少輔、左衛門尉、刑部丞」としています。後三年の役が終わると、京都に帰りふたたび朝官に任ぜられたのでしよう。
関白藤原忠実の日記『殿暦」長治二年(一一〇五)二月十八日条によると、義光は刑部丞の地位にありながら二年前から常陸に居住し、勅命で上京をうけながら命令を聞かず、支障を申し立てて猶予を請う返事を送っています。そのころ義光は、常陸国で常陸大橡平重幹と結び、義家の第三子で下野国足利荘を本拠としていた義国(新田・足利氏の祖)と対決し合戦をしているのであります。藤原為隆の日記『永昌記」嘉承元年(一一〇六)六月十日条によると、朝廷では東国の国司に命じて義光・重幹らの党を召し進めさせ、義国に対しては父の義家に命じて京都に呼びよせているのであります。
常陸平氏と源氏との結びつき
常陸平氏と源氏との結びつきは、前からみられるのです。平維幹は将門の乱で活躍した平貞盛の子で、長保元年(九九九)十二月、藤原実資に馬や名簿を送って臣従し、栄爵を願っています。
『宇治拾遺物語」には、維幹が京都に訴訟で上ったとき高階成順の娘を見初め妻にして常陸に帰った。二女をもうけたが妻は死んだ。その後、妻の妹が夫の常陸介に従い常陸にやってきた。任期が終わって帰るとき、維幹は二女を遣わしてそれぞれ逸物の馬十疋と皮子を負った馬百疋ずつを送ったので、常陸介は維幹の娘の富裕に驚いた、ります。『今昔物語集」巻第二十五には、常陸守とたった源頼信が下総国の平忠垣を攻めたとき、「左衛門大夫平
惟基」という老が三千騎をひきいて頼信の軍に加わった、とみえます。
維幹の子が為幹です。寛仁四年(一〇二〇)七月、紫式部の弟でもあった常陸介藤原惟通が常陸国府で死んだとき、為幹が惟通の妻子を奪い取り強姦するという事件が起こりました。惟通の母は事の次第を朝廷に訴えたので、朝廷では紀貞光を遣わして為幹を召喚しました。ところが貞光は藤原実資と示し合わせて上京した為幹になにかと便宜を与えているのです。そして翌年、改元にことよせて赦免しようとしたのです。
重幹はこの為幹の子です。したがって重幹は中央の藤原氏とも通じ、また義光とも結んで粗暴の限りを尽くしていたのです。義光は重幹と姻戚関係を結びます。『尊卑分脈』や「常陸大橡系図」によると、嫡男の義業に重幹の子清幹の女をめとらせ、生まれた昌義が佐竹氏の祖となるのです。
また浅羽本「武田系図」によれば、義光自身が清幹の女との間に義清を生ませているのです。義光は姻戚関係で重幹を応援し、甥の義国と戦ったのです。
義光の悪行と評価
義光は刑部丞という中央官職にありながら常陸国に土着をはかり、そのためには朝廷の命令や骨肉の情をもかえりみたかったのであります。
重幹の子である致幹は、後三年の役に参加しています。『奥州後三年記』によると、後三年の役の発端は常陸国の猛者多気権守宗基の娘と源頼義との間に生まれた女子が美女であり、これを清原真衝の養子である海道小太郎成衡に嫁がせとき、その婚礼の儀から起こった争いだ、と伝えています。事の真否はともかく常陸平氏が維幹から致幹に至る時代に、源氏と親密な関係を成立させたことが知られるのです。
致幹らの兄弟は水戸、結城、真壁方面に進出しました。とくに清幹は吉田次郎と称し、その三子は吉田太郎盛幹、行方次郎忠幹、鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田、行方、鹿島氏の祖となったのです。
義光や義清・清光が関係を持ったのが、この清幹の子どもたちであります。
嘉承元年(一一〇六)七月、源義家が世を去ると源氏の棟梁の地位をめぐり内紛がおきるのです。その地位をねらったのは義家の弟の義綱と義光です。『尊卑分脈』には、つぎのような話を記しています。
義光は甥の義忠(義家の第四子)が嫡家を継承して、天下の栄名を得るのをねたみ、郎等の鹿島冠者三郎を語らって義忠を討たせた。三郎が目的を果たしたその夜、三井寺で首尾を待つ義光に報告すると、義光は書状をそえて三郎を弟の僧快誉の宿坊へやった。快誉は前もって深い穴を掘っておき、三郎を捕えて穴に藩とし埋め殺したというのです。
「常陸大橡系図」によると、重幹の孫の成幹が鹿島三郎と称しています。成幹は義光の嫡男義業の妻の兄に当たる人物なのです。
源義忠の殺害は、都の人びとに大きな衝撃を与えました。藤原忠実の日記『殿暦」天仁二年(一一〇九)二月八日条には、「伝え聞く、検非違使源義忠、去る三日夜、殺害され了ぬ」とあり、『百錬抄』にも二月三日夜、源義忠が郎従のために刃傷され、同五日に死去した、とあります。朝廷では義忠殺害の犯人を義綱の三男義明とにらんで、これを追捕し邸内の庭で殺してしまったのです。父の義綱は、これを知って憤激し近江に走ったが、捕えられて佐渡に流されてしまいました。こうして義綱一家は源氏の勢力を抑えようとする朝廷や、それに利用された義光によって悲惨な結末を迎えてしまったのです。
義光は自分の勢力を拡大するためには、兄や甥ばかりでなく、わが子の妻の兄まで殺したり、窮地におとしたりしたのであります。『今昔物語集」と『十訓抄」には、義光が院の近臣として(?)潅勢のあった六条顕季と東国の荘をめぐって争いをしたことが記されています。その荘は常陸国多珂郡の国境に近い菊多荘ともいわれるが、久慈郡佐竹郷とみる説もあります。ここはもともと顕季の領地であったから顕季に理があり、義光に非があることは最初からわかっていたのです。しかし白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそかに法皇をうらめしく思っていたのです。
ある日、顕季が御前に伺候していると、法皇は顕季に対し、この問題の理非はよくわかっているが、義光はあの荘一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、「義光はえびすのようなる心もなきものなり。安からず思わんままに、夜中にもあれ、大路通りつるにてもあれ、いかたるわざわいをせんと思立たばおのれのためにゆゆしき大事にはあらずや」、つまり義光は「えびす」のような無法者だからなにをするかわからたい。だから自分の身を守るためにも、あの荘は義光に譲ってはどうかと仰せられた。顕季は涙を飲んで仰造にしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書いて与えた。義光は大いによろこびただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。
それからしばらくたったある夜のこと、顕季が伏見の鳥羽殿から二、三人の雑色をつれて京に向かったところ、鳥羽の作道あたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車の前後についてきたので、顕季は恐ろしくなって供の雑色に尋ねさせた。すると夜になって供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命令によって警衛している、と答えた。顕季は今さらながら法皇の深いはからいに感謝したというのである。
この説話の信愚性については間題がありますが、義光がいかに常陸国に自分の所領を欲していたかを知ることができるのです。また公家から義光が「えびすのようたる心もなき者」とその無法ぶりを恐れられていたことがわかるのです。
義光には義業、実光、義清、盛義、親義らの子がありました。
嫡男の義業は吉田清幹の女をめとって久慈郡佐竹郷に住んだ。その子昌義は佐竹冠者と号し、常陸国に定住するのです。
義清は那賀郡(吉田郡)武田郷に住んで刑部三郎武田冠者と呼ばれています。「武田」は武田郷の地名であり、この地に定住したことを示しているのです。
刑部三郎は父義光が刑部丞なので、その三男の意味です。義光は常陸国への進出にあたり、常陸大橡平重幹・致幹父子と提携しました。那珂川以南の地が常陸平氏の支配下にあるのを知った義光は、那珂川以北に拠点を作ろうとしたのです。そこで致幹の弟の吉田清幹に近づき、その女を嫡男義業の妻に迎えたのです。こうして義業を久慈川流域の佐竹郷に、義清を那珂川北岸の武田郷に配置することに成功したのです。
佐竹郷と武田郷の地は、ともに水運の拠点でした。佐竹郷は久慈川・山田川の合流点にも近く、古代には河川港があった可能性があります。というのは『旧事本紀』の『国造本紀』によると、久自国造は成務天皇の御代に、物部連祖伊香色雄命の三世の孫船瀬足尼を国造に定めた、とみえます。久自国造の名である「船瀬」は、大輸田船瀬(神戸港)、水児船瀬(加古川市の加古川河口)が示すように河川港と関係のある名であります。また船瀬には船の停泊地、造船所、物資集積地の意味があります。おそらく、久自国造は久慈川・山田川合流地付近にあつた河川港を支配したものと思われます。
那珂川流域の武田郷も水運と関係があります。『和名抄』には那賀郡川辺郷の名がみえます。川辺は川部とも書き、重要河川に置かれ、渡し舟や物資輸送に従事した部民が設けられていたのです。那珂川も古代には重要河川とされていたのです。武田郷の対岸の水戸は三戸とも記され、かって「御津」と呼ばれた可能性があります。『万葉集』巻一の六三にみえる「大伴の御津の浜松」が、巻七の(?)一一五一の歌に「大伴の三津の浜辺」とみえ、伊勢国度会郡の「御津」も『山家集」に「三津」とあり、近江の坂本の津も「御津」(三津)と呼ばれていたのです。御津には難波御津が示すように特別に重要な港の意味があります。御津は中世には御(三)戸とも呼ばれるようになります。『常陸国風土記』那賀郡の条にみえる「平津」は中世には「平戸」となります。岩手県の大船戸もかつては大船津と呼ばれていたのでしょう。水戸もかつては那珂川と千波湖が通ずる大きた入江のようになっており、重要な河川港の役割りを果たしていたのです。
武田の地も那珂川北岸の物資の積出しが行われたことも考えられます。付近の勝倉には船渡がありました。
こうした水運の拠点に義光は、義業・義清を配置したのです。
義光は『尊卑分脈」には「平日、三井寺に住す」とあるので、近江大津の水運の重要性を熟知していたのであります。義光と吉田清幹は、一時はかたり親密な関係にあったようです。浅羽本「武田系図」によれば、義光は清幹の女をめとって義清をもうけています。義清の名も義光の「義」と清幹の「清」をとって付けたことも考えられます。また『尊卑分脈』には、清幹の二男成幹(鹿島三郎)が「義光の郎等」とみえますので、義光は吉田郡の郡司でもあった清幹父子の力を背景に吉田郡や鹿島郡の地にも勢力を伸ばそうとしたことが考えられます。
『尊卑分脈』によると、義清は清光をもうけています。浅羽本『武田系図」では、清光の母は上野介源兼実の女で、天永元年(一一一〇)六月九日の生まれとなっています。その清光は源師時の日記『長秋記」の大治五年(?二三〇)十二月三十日条に、「常陸国司、住人清光濫行の事等を申すたり。子細目録に見ゆ」と記されています。『尊卑分脈』には、義清は「配流甲斐国市河荘出家四十九才」とあり、清光は「号免見冠者、黒源太」とあります。ということは、清光の濫行の罪により父親の義清もそれに連坐して、甲斐国市河荘に配流されたことが知られるのです。親まで連坐にまきこみ流罪という重罪を犯した清光の濫行とは、いったいどんな行為だったのでしょうか。濫行とは今日の乱行の意に類し、「みだりの所行、でたらめな行い」の意味があります。
源為朝のこと・悪源太のこと
源為朝は『保元物語』上の「新院御所各門カ固めの事」によると、幼年のころから「不敵にして兄にも所をおかず、傍若無人」であったので、十三歳のとき父為義は鎮西に追い下した、とあります。仁平元年(一一五一)のことであります。為朝は尾張権守家遠を守り役として、豊後国に居住し肥後国阿蘇忠景の子、忠国の婿となり、九州の総追捕使と号して三年のうおに九州一円を攻め落してしまったといいます。
左大臣藤原頼長の日記『台記』の久寿元年(一一五四)十一月二十六日条には、「今日、右衛門尉為義五位解官、其子為朝鎮西濫行事依也」とあり、『百錬抄』久寿二年四月三日条にも、
源為朝は豊後国に居し、宰府を騒擾、管内を威脅す。依って与力の輩に彗ん由つ禁遇すべきの由、宣旨を大宰府に賜う、
とあります。
為朝の濫行に連坐して父の為義が解官しているのは、清光の濫行と似ているのであります。為朝は幼年のころから不敵にして、傍若無人であったといいますが、清光にもそうした性格があったように思われます。清光は『尊卑分脈」や「武田系図」によれば十八名の男子をもうけています。これだけからみても清光は精力絶倫で、並はずれた気量の人物であったことが知られます。おそらく、祖父義光の性格をうけついだのでしょう。そうすると、『尊卑分脈』にみえる「黒源太」という称号が間題になるのです。「源太」は源家の太郎の意でありますが、「黒」はなんでしょうか。清光の顔色が赤黒かったという考えもありますが、元来この称号は、この人物の性格をあらわすものと思われるので、その姿、彩の形容ではありません。おそらく、「悪源太清光」と呼ばれて人びとから恐れられていたのではないでしょうか。
悪源太ならば、他にも類例があります。源義朝の嫡子義平は、『尊卑分脈』に「鎌倉悪源太と号す」とあり、『平治物語』『源平盛衰記』によれば、義平は十五歳のとき叔父の春宮帯刀義賢と武蔵大倉に戦い、これを斬ったので、世に鎌倉の悪源太と呼ぱれた、とあります。義平の母は三浦大介義明の女で、鎌倉にいたので、そう呼ばれたのです。悪源太義平は、平治元年(一一五九)、十九歳で六条河原で討たれております。「悪」をつけられた人物は、他にも、悪左府、悪七郎兵衛景清、悪禅師がいます。悪左府とは左大臣藤原頼長のことで、『保元物語』には賞罰をわかち、善悪を正すがあまりの頼長のきびしく行きす
ぎた言行に対し、時の人が「悪左府」と称して恐れた、とあります。
悪七兵衛景清は、『源平盛衰記」『平家物語』によれば、上総七郎兵衛と称し、躯幹長大、勇を以て一時に聞こえ、世呼んで悪七兵衛という。平家減亡後逃走、のち頼朝に降り、八田知家の家に預けられたか、食せずして死すとあります。悪禅師は「清和源氏系図」によれぽ、将軍実朝を謙した公暁を世の人が、悪禅師と呼んだことが知られます。「悪」は中田祝夫『新選古語辞典」によれぼ「正義、道徳、良心などに反すること。またはその行い。性急はげしい、荒々しい、強剛である、などの意を表す語』とあります。そうすると、清光は「黒源太」よりも「悪源太」と呼ばれる方がふさわしい人物であります。「悪」と「黒」は草書では間違いやすいので、「悪源太」とあったのを、「黒源太」と誤記したのか、あるいは悪源太の称号
を嫌って後世の人が「黒源太」としたことも考えられるのです。
仁平元年(一一五一)四月八日の吉田神社文書によると、当時、吉田郡に倉員といわれる別名がありました。郡司吉田氏(幹清か広幹)は別符武田荒野には倉員名の古作田二町があり、新作二町を開発し、今後さらに追年これを加作するとの請文を国守に提出して、別符に対する則頼の執行の停止を求めたのです。国守平頼盛は、国益のため則頼の沙汰を停め、郡司の名田として開発さ喧ることとする国司庁宣の施行を命じた留守所下文が、吉田郡倉員に発せられています。
この文書にみえる「則頼」は、「春日権現験記」にみえる鹿島社の大禰宜中臣則助、保元元年十月の関白家政所下文(香取大彌宜家文書)にみえる鹿島大禰宜則近、永安四年(一一七四)十二月の国司庁宣(鹿島大彌宜家文書)にみえる大彌宜則親など、人名に「則」の字がついているのをみると、鹿島社の大禰宜を世襲した中臣氏一族の者であることは間違いないのであります。したがって、鹿鳥神宮の勢力が武田郷に及んでおり、吉田郡の郡司職を相伝する吉田氏と衝突していたのです。十二世紀初めごろの武田郷周辺の地は、吉田杜や吉田郡の郡司職を相伝する吉田清幹.盛幹父子、荒野開発や買得による名田の獲得に動く鹿島杜の大彌宜中臣氏、それに武田の地に拠点を構えた義清・清光父子らがたがいに勢力を張り合っていたのです。
はじめは吉田清幹と姻戚関係にあった義清であったが、義光が策略を用いて清幹の子の鹿島三郎を殺害してからは、吉田氏との間柄も険悪になっていたと思われます。そうした晴勢の中で若さにあまる清光は、武力をもって吉田郡内の吉田氏や鹿島社大彌宜の領地を侵略する行為にでたものと思われるのです。「濫行」「悪源太」といった言葉からうける感じは、単なる争いごととは思われません。
大治二年(二一二七)、義光が世を去ると、新参者に対する在地勢力の反発が強まり、大治五年十二月、清光の濫行として朝廷に訴えられたのです。
訴えた常陸国司は藤原朝臣盛輔です。盛輔はこの年の五月二十五日に、鹿島社の神殿修造をし、重任の功の宣旨を賜わっており、大禰宜中臣氏とは関係が深いものがあったのです。在庁官人である常陸大橡平致幹か直幹は、義光亡きあとの義清.清光に対しては、一族の吉田氏に対する仕打ちからみて、快く思っていたかったものと思われます。もし常陸大橡が義清・清光に好意をもっていたら、清光を訴える手続きはしなかったのではないでしようか。
しかも清光の濫行にことよせて、父親の義清までも配流にし武田郷から源氏の勢力を一掃してしまった背景には、常陸大橡と藤原氏の周到な計略が感じられるのです。獄令によれば、「几そ流人配すべくは罪の軽重に依りて、各々三流に配せよ」とあり、遠流が伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐、中流が信濃、伊予、近流が越前、安芸となっております。『令義解』には、その遠近を定むるは京よりこれを計る、とあります。甲斐に流された義清・清光は中流に当たるのでしょうか。
義清.清光が甲斐国に配流されたときは、佐竹氏にとっても危機であったに違いありません。しかし、昌義の母が吉田清幹の女であったこと、義業が従位下、相模介、左衛門尉、進士判官、昌義が信濃守と『尊卑分脈』にみえるように、中央との関係も密であったことや、佐竹氏の支配地が常陸大橡一族や鹿島社などと競合したかったことが、佐竹氏の土着を成功させたものと思われます。
◇甲州河浦村薬王寺八宮様御文 甲斐甲府 一話一言(大田南畝)
甲州河浦村薬王寺八宮様御文
ゆうふべは御出これはさてなにと
鳴海潟しだれ柳の葉の露おちて
淵となるまで御身に添はで
名残おしきはふじの山はたちばかりか
そへてもたらずかたるまも
なつの夜山郭公はつねに戀しや みやけ
八兵衛
はつもし様
◇山口素堂 瓢銘 芭蕉庵家蔵 立軸(紙地)臺表具
一話一言(大田南畝) 白字不詳
瓢銘 芭蕉庵家蔵
一瓢重泰山
自笑稱箕山
勿慣首陽山
這中飯顆山
貞享三年秋後二日
素堂山子書 我思古人
◇山口素堂 杉風画 素堂賛 一話一言(大田南畝)
立軸 紙地 杉風畫素堂賛
寒くとも三日月見よと落葉かな 素堂
横軸
別紙に申達候其以後堅圍之番所に承及候
江戸表變地先々驚候事共に御座候
此度萬句廻状所々へ出申候所別而貴翁
御事御取持奉頼候此筋文艸出来候地
地上□在打つづき御果候而
今は殊更心細き折節何事も先輩
失候てちからなき心地仕候
此度萬句巻頭に深川御連衆にて
出し申し度願望に御座候
尤先師奮住之地と申貴翁先達之よしみ
旁々難默止奉頼度存候此旨
猶萬千公へもなげき遺候此序の事は
此方に御入候間素堂へ頼候へば
書て可給候旨に御座候
返事萬部ひとつ御発句にて頼上候以上
三月十八日 支考
杉風 様
◇山口素堂 随庵諧語抄
一話一言(大田南畝)
随庵諧語(二巻)夏成美輯録
上野館林松倉九皐が家に芭蕉庵再建勧化簿の序
素堂老人の眞跡を蔵す。
所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。
九皐は松倉嵐蘭が姪孫なりとぞ。
はせを庵裂れて芭蕉庵を求む
十□を二三年たのまんや
めぐみを数十生を侍らんや
廣くもとむるは
かつて其おもひやすからんと也
甲をこのまず乙を耻る事なかれ
□各志の有所に任すとしかいふ
これを清貧とせんやはた狂貧也と
貧のまたひん許子之貧
それすら一瓢一軒の
もとめ有雨をさゝへ
風をふせぐ備なくは
鳥にだも及ばず
誰かしのびざるの心なからぬ
是草堂建立のより出る所也
天和三年秋九月□汲願主之旨
濺筆於敗荷之下 山素堂
◇甲斐七不思議 寛政三年、甲斐国に六奇異あり 兎園小説(瀧澤馬琴)
寛政三年、甲斐国に六奇異あり。遠江に一奇異あり。
合わせて七奇異とす。
★当時ある人の消息に云く、甲州善光寺の如来。
當春二三月汗かき、寺僧数人づゝにて日夜拭ひ候事。
★甲州切石村百姓八右衛門家の鼠、
大さ身一尺餘、為猫之聲候事。
★右村より一里許山に入石畑村に而、
馬為人話候事、尤一度切りにて後無其事
★ 八日市場村切石村荊澤村にて、牝鶏各化為牡鶏候事。
★ 東郡一町田中邊三里四方許之間、
五月雹降り深さ三尺餘、鳥獣被打殺候事。
★七面山鳴御池の水濁渾候事。
★遠州豊田郡月村百姓作十郎方の鍬に草生候事、
刃先より三寸、一本枝十六本、如杉形三日にて花を開、
似桜花枝木花共に皆鍬のかねなり。
◇甲斐 根わけの後の母子草 兎園小説(瀧澤馬琴)
文政四年の春二月晦日の黄昏ごろ、
元飯田町の中坂にゆきたふれたるおうな(老女)ありとて、
これを観るもの堵の如し。(中略)
旅寝すること九年に及べり、
今は既に巡り盡して、廻国すべきかたもなけば、
ふたゝび江戸をこゝろざして、岐岨(木曽)路をくだり、
甲斐が峰をうち遶り、よんべは両郷(ふたご)の渡りとかいふ
川邊のあなたなる里に宿とりつ。
かゝりし程に、
あの御坂のほとりにて、俄に足の痛み出でゝ、
一歩も運ばしがたければ、思はず倒れ侍りきといふ。
按ずるに、ふたごの渡りは、
江戸を距ること西のかた四里許りにあり、
この地は甲州街道にあらず。中山道なり。
かゝれば甲斐より相模路を巡りて、江戸へ来つる成るべし
◇甲斐 安田遠江守義定後裔 松屋叢話(小山田與清)
余が實父は武蔵国多摩郡小山田の里人にて、
田中忠右衛門源本孝といふ。
安田遠江守義定の子、田中越後守義資(よしすけ)の後にて、
世々越後国に住めりしが、
永世元年に、大炊介義綱はじめて武蔵国にぞ移り住みける。
義綱より
弾正義昌、和泉義純、宗右衛門某。喜四郎政喜、佐次右衛門政勝まで、
六代歴て本孝にいたれり。
本孝字は笠父。號をば添水園とぞいひける。
この庵に名づくる説は橘千陰が書たり。詞はわすれたり。
歌は、
小山田の山田のそぼかくしつゝ
秋てふ秋にたちさかえなん
本孝和漢の書にわたりて、詩歌俳諧に心ぞふかめたる。云々
◇甲斐国の百姓が名歌よみたる話 松屋叢話(小山田與清)
享保の頃、甲斐国の民がよめれし歌に
おもひかね心の花のしをれつゝ
夢にわけゆくみよしのゝ山
といへるは、こよなうめでたきよし、世にもてはやしとぞ。
◇新羅三郎義光 笙の事 松屋叢話(小山田與清)
清和天皇四代満仲之子 曰頼信 。
其子頼義。于時将軍任す 伊豫守に 。
其子有四人 。一人出家快誉。一人ハ義家。鎮守府ノ将軍號ス 八幡太郎 。
一人義綱。號 加茂次郎 。
一人號義光。是新羅三郎也。
この義光は、かくれなく笙に得たる名人也。
豊原の時元の子時秋といひし、
幼稚にして父をうしなひければ、
秘蔵の事をもえきかで有しに、
時秋道に深くや有けむ。
永保のとし、義光、武衡、家衡を責んとし、
戦場に趣給ひしとき、
江州かゞみの宿まで跡をしたひて馳参じ、
御供仕むといひけるを、義光深く諫給ひけれども、
猶参まゝに足柄山もでこえてけり。
義光仰られしは、
此山は関所もきびしく有べければ、
かなひがたかるべきと懇に申給ふをもきかで、
さらにとゞまるべくもあらねば、
義光かれが思ふ所をしろしめし、
馬よりおり人を退、芝をはらひ、
楯など敷て、大食調の譜を取出して、
時秋につたへ給ひけり。
時秋相うけて帰り、豊原の家を興しけるよし、
橘の季茂が記にみえぬ。
むかしの人の、道のこゝろふかゝりける事、
かくまで殊勝にこそ有けれ。
【註】この伝説は、義光と時秋の年代が合わない。
◇甲州祐成寺の来由 信玄は我弟の時宗なり 新著聞集(著者不詳)
ある旅僧、独一の境界にて、複子を肩にかけ、
相州箱根山をこしけるに、
日景、いまだ午の刻にならんとおぼしまに、
俄に日くれ黒暗となり、目指もしらぬ程にて、
一足もひかれざりしかば、あやしくおもひながら、
是非なくて、とある木陰の石上に坐し、
心こらして佛名を唱ながら、
峠の方をみやるに、究竟の壯夫、
太刀をはき手づからの馬のくつ草鞋をちり、
松明ふり立て、一文字に馳くだる。
跡につゞき若き女おくれまじとまかれり。
あやしく守り居るに、壯夫のいはく、
法師は甲斐国にゆくたまふな。
われ、信玄に傳言すべし。通じたまはれ。
某は曽我祐成にてありし。
これなるは妻の虎、信玄は我弟の時宗なり。
かれは、若年より此山にあって、
佛經をよみ、佛名を唱るの功おぼろげにあらずして、
今名将なり。
あまたの人に崇敬せられ、
又佛道にたよりて、いみじきあり様にておはせし。
某は愛着の纏縛にひかされ、
今に黄泉にたゞよひ、三途のちまた出やらで、
ある時は修羅鬪諍の苦患いふばかりなり。
願くば我為に、精舎一宇造営して、
菩提の手向たまはれよと、
いとけだかく聞えしかば、僧のいはく、
安き御事に侍ひしかど、證據なくては、
承引いかゞあらんとありければ、
是尤の事也とて、目貫片しをはづし、
これを持参したまへと、いひもあへぬに、
晴天に白日かゝり、人馬きへうせてけり。
僧思ひきはめて、甲陽に越て、それぞれの便をえて、
信玄へかくと申入れしかば、件の目貫見たまふて、
不審き事かなとて、秘蔵の腰物をめされ見たまへば、
片方の目貫にて有しかば、
是奇特の事とて、僧に褒美たまはり、
頓て一宇をいとなみ、祐成寺と號したり。
しかしより星霜良古て、破壊におよびしかば、
元禄十一年に、其の住持、しかじかの縁起いひ連ね、
武江へ再興の願たてし事、
松平摂津守殿きこしめされ、
武田越前守殿へ、其事、いかゞやと尋たまひしかば、
その目貫こそ、只今某が腰の物にものせしと、
みせたまふに、金の蟠龍にてありし。
◇小佛峠怪異の事 梅翁随筆(著者不詳)
肥前国島原領堂津村の百姓與右衛門といふもの、
所用ありて江戸へ出かけるが、
甲州巨摩郡龍王村の名主 傳右衛門に相談すべき事出来て、
江戸を旅立て武州小佛峠を越えて、
晝過のころなりしか、
一里あまり行つらんとおもひし時、
俄に日暮て道も見えず。
前後樹木茂りて家なければ、
是非なく夜の道を行に、神さびたる社ありける。
爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。
次第に夜も更、森々として物凄き折から、
年のころ二十四五にも有らんと思ふ女の、
賤しからぬが歩行来り、
與右衛門が側ちかく立廻る事数度なり、
かゝる山中に女の只壹人来るべき處にあらず。
必定化生のものゝ我を取喰んとする成べしと
思ひける故、ちかくよりし時に一打にせんとするに、
五體すくみて動き得ず。
こは口惜き事かなと色々すれども足もとも動かず。
詮かたなく居るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。
又近寄る時は初のごとく動きがたし。
かくする内に猶近々と寄り来る故、
今は我身喰るゝなるべし。
あまり口おしき事に思ひければ、
女の帯を口にて確とくわへれば、
この女忽ちおそろしき顔と成て喰んとする時、
身體自由になりて脇ざしを抜て切はらへば、
彼姿はきえうせていづちへ行けん知れず成にける。
扨おもひけるは、
此神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、
夫より此所を出て夜の道を急ぎぬ。
其後は怪数ものに出会ずして、甲斐へいたりぬとなり。
◇素堂 『俳聯』 本朝世事談綺正誤(山崎美成)
素堂遺稿、享保十二年刻(拙著『山口素堂の全貌』所収)
飽マデ遣江戸風 知幾
萩相顔色麗 同
薜女口紅□ナリ 素堂
遊女薄雲の紋、丸に薜なり、其事歟。