須玉町 面積 一七四・二六平方キロ
北巨摩の歴史 角川地名辞典 19 山梨
郡北東部に位置し、北西から北東にかけて長野県南佐久郡南牧村・川上村、南東は甲府市、南は中巨摩郡敷島町、明野村、韮崎市、西は釜城川を隔てて武川村、さらに長坂町・高根町に接する。
町の東部には金峰山・瑞牆出・小川山など標高二〇〇〇メートル級の山がそびえ、これらを源とする塩川が町域の中央部を深い渓谷をつくりながら南西流して、大豆生田の南で須玉川と合流して南下する。途中、塩川地区に有効貯水量八九〇万トンの多目的ダムが平成九年(一九九七)未完成予定で建設が進め
られている。
一方、八ヶ岳に源を発する大門川・川俣川は、高根町長沢で合流して須玉川となり、高根町との境を南下して穴平で町内に入り、町の西部を西川・甲川・
鳩川を合せながら吉見生田の南で塩川に合流する。
塩川には八巻発電所が、須玉川には津金発電所があって水力発電に利用さ
開発に大きく貢献した。
当町東部の山岳地帯は秩父多摩国立公園に指定されている。山頂まで続く原生林と山岳美・渓谷美を誇り、増富温泉はラジウムエマナチオンの含有量一万二〇〇〇マッヘで世界一といわれ、観光客が多い。町名は昭和三〇年(1955)四村合併に際して選ばれたもので、町を南北に貫流する須玉川にちなんでつけられた。なお平成二年までスダマであったが、同年スタマに改称。
八ケ岳南東麓に位置し、縄文時代の遺跡が多いことで知られる。近年圃場整備やゴルフ場・ダム建設などに伴う事前調査が多く実施され、平坦地だけでなく山間地域の遺跡の状況も明らかになりつつある。
当町の縄文時代遺跡
周辺町村と同様に中期の集落が多い。下津金の御所前遺跡は中葉から後葉の集落であるが、出土した井戸尻三式期の顔面把手付深鉢の胴部には人面がつけられ、出産文土器として知られる。
このような土器は全国的に右側がなく注目を浴びている。後葉の集落である飯米遺跡からは土鈴が出土した。土鈴自体は格別取上げるほどのものではないが、内部にマメ類が入っていたことで注目を浴びた。
土鈴という密閉された空間内に入っていたマメ類は確実に縄文時代中期に位置付けることができ、誤聞のマメ類の利用を裏付けるきわめて貴重な資料である。
上ノ原遺跡は山間居の尾根上に立地するが、後期前半の堀之内苑期を中心とする集落は、住居敷約100軒(多くは敷石住居跡と考えられる)、堀之内式期の集落としては全国でも最大級である。
このような山間地域に大規模な集落が確認されたことからすると、今後さらに同様な地形(尾根)にも遺跡の存在が予想される。
弥生時代-古墳時代の遺跡は規模も小さく、散見される程度である。
また奈良時代の遺跡は周辺町村同様ここでも確認されていない。
平安時代には遺跡が急増する。
前述の上ノ原遺跡で住居跡七〇軒以上が調査され、山間地という立地状況から、生業の分野一つをとってみても興味深い。
大小久保遺跡は高根町湯沢遺跡に近接する遺跡で、土師器焼成遺構が確認され注目されたが瓦片も確認されており、当時このような瓦を使用する建物が存在したことがうかがわれる。
さらに大豆生田遺跡からも瓦片は出土しており、この一帯が甲斐国の古代三御紋を掌握できる地域であることと関連付けられよう。
律令時代の当町域は巨麻郡速見郷(和名抄)に属した。
平安時代後期に甲斐守になった清和源氏の源義光が居館を構えたのは若神子であったというが、伝承の域を出ない (移館)。
大治五年(1130)常陸国で事件を起こした義光の子義清およびその子消光が甲斐国へ流罪となるが、清光はのちに逸見を拠点として逸見冠者を称し(尊卑分脈)、また治承四年二(1180)九月には挙兵した甲斐源氏武田信義らが信濃国伊那郡大田切郷城(現長野県駒ケ根市)の菅冠者を討って帰国途中に逸見山に立寄っているが(「吾妻鏡」同年九月一五日条)、逸見山は若神子の館をさすとされるなど(甲斐国志)、若神子は初期の甲斐源氏の拠点の一つであったと考えられ、同地の正覚寺は義光の菩提を弔うため義清が建立したと伝える。
鎌倉時代の在地の動向は明らかではないが、東向の信光寺は承久三年(1221)武田信光創建といい、建長五年(1252)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)にみえる逸見庄には当町南部が含まれており、鎌倉末~南北朝期の同庄地頭は二階堂氏であった。
また比志は現明野村方面から延びる山小笠原庄に含まれ、玉川流域には玉(多麻)庄があったという。永仁三年(1295)頃甲斐を遊行した二世真教により時宗となった若神子の長泉寺は逸見道場とよばれ、文和三年(1354)には八代遊行上人渡船が、永正一七年(1520)には二四代不外が立寄るなど同宗の甲斐における活動拠点の一つとなった。
上津金の海岸寺は入元僧である石室善玖によって元中年間(1384~93)に臨済宗に改宗したと伝える。
江草の見性(けんしょう)寺の開基信奉は武田信満の子で獅子吼城主となり江草氏を名乗るが、嗣子なく今井氏が跡を継ぎ、逸見氏・浦氏とも称した。
享禄五年(1532)九月武田信虎に反した浦信元(信本)は、攻められて降伏している(勝山記)。
戦国期の若神子
武田氏の信州攻略の拠点であり、「高白斎記」天文一一年(1542)九月十九日の条に若神子御陣所とみえるなど、諏訪口(逸見路)・川上口(穂坂路)・平沢口(佐久往還)の基点として軍事・交通上重要な役割を担った。
このうち平沢口沿いの諸村に分拠して武田氏に仕えた武士団が、佐竹氏の分れといわれる津金衆で、津余郷を頷した津金氏をはじめ、小尾・比志・小池・箕輪・海口・村山・八巻・清水・井出・鷹見沢・河上らの諸氏が国境地域の警衛にあたり、古宮(ふるみや)屋敷(上津金)源太ケ城(下津金)は彼らが拠った所という。
また川上口を警衛した氏族を小尾党といい、小尾・小池・比志氏らがあげられるが(甲斐国志)、同族として津会衆と一括されることが多い。
武田氏滅亡後
天正壬午の乱の際には、若神子に陣を構えた北条氏直に対し、津会衆は徳川家康に属して北条軍の籠もった獅子吼(ししくの)城を攻撃、また大豆生田砦に拠った北条方の藤巻市右衛門尉と対峙するなど活躍し、小尾監物祐光は三四四貫七〇〇文(天正一〇年九月七日「徳川家印判状写」寛永諸家系図伝)、
津会修理亮胤久は五二七貫一〇〇文(同年九月九日「徳出家印判状写」譜牒余録)を宛行われたが、
津金郷で祐光五八貫文・胤久二〇貫文の本給、
比志郷で祐光三〇貫文・胤久一三貫文の新知行であった。
天正壬午起請文に載る津会衆
二人のほか小池筑前守信胤・跡部叉十郎久次・小尾彦五郎正秀だが、三人への宛行状は残されていない。祐光は天正一七年(1589)の伊奈熊蔵検地の結果、一一月一九日に小倉西田郷で六一三俵余、津会郷で三八八俵余の知行を認められたが(「伊奈忠次知行書立写」記録御用所本古文書)、翌年七月の徳川家康の関東移封に従い、ほかの津余衆とともに武蔵国に移っている。
須玉町の近世
近世は巨摩逸見筋に所属。慶長古高帳では三枝上佐知行の江草村・比志村・東陶村、穴平村、屋代越中知行の若神子村・若神子新田村(元禄郷帳で若神子新町村)・大豆生田(まみょうだ)村・藤田村、真田隠岐知行の小倉村・大蔵村、旗本小尾氏知行の小尾村、旗本小尾氏・跡部氏の相給の上津金村・下津金村の一三村があった。
甲府家領を経て宝永元年(1740)甲府藩領、事保九年(1724)幕府領となり甲府代官支配。
延享三年(1746)一橋家領が置かれ、大豆生田村・藤田村・大蔵村・穴平村の穴平村が寛政六年(1794)までご一橋家領とされた。また宝暦十二年(1762)清本家領が置かれ、岩神子村・若神子新町村が寛政七年まで同家領であった。
以上の六村以外はいずれも幕府領として幕末に至り、文久二年(1862)頃も甲府代官支配。
境之沢村は初め若神子村の枝郷であったが、元文元年(1736)から高分けとなり年貢は別納となった。
若神子村には脇街道佐久往還の伝馬宿が置かれ、馬二足・人足二人を常備し、上り中条宿(現韮崎市)まで一里二〇町、下り長沢弓(現高根町まで二里半を継いだ。このため村高の半分か役引きとなった。
そのほか巡見使・遊行上人通行のときは近村(逸見筋・武川筋二八ケ村)に助郷を求めた。
古道の穂坂路は国府と穂坂牧(現韮崎市)を結んだが、茅作岳山麓からさらに延びて塩川をさかのぼり信州峠を越えて川上口ともよばれた。小尾村の黒森、汪草村の根古屋・馬場・岩下には口留番所が置かれ、これらの村は番役を勤めたので諸役は免除された。
小尾村に八ヵ所、比志村に七カ所の御巣鷹山があり、いずれも村から二、三里の奥山で百姓が山守をした。
沖積平野や河岸段丘上に立地する若神子村を中心とする低地の村では米・麦を主体とした農業が営まれた。
延享元年の若神子村明細帳(若神子区有文書)によれば、田植時には村内のみでは手不足で、信州境から男女の日傭取を雇った。田一度につき五、六人、一人大麦三升宛を支払い、四〇〇余人を要した。
薪・薪炭の採取は茅ケ岳・合作岳や鳳凰山麓の入会地に依存したが、その利用権をめぐってしばしば紛争が生じた。またこれらの村では川除普請の負担が大きかった。これに対して東方の山間の村では稲作は湧水または天水で早稲を栽培、ほかは麦の一毛作で、田畑とも数年で切替えを行った。薪炭・漆など林産物への依存度が大きかった。当地方の特産物に逸見の檀紙があった。大豆生田村・大蔵村・小倉村・東向村・穴平村などがその中心で、楮(こうぞ)皮を原料とし障子紙などに利用された。
明治七年(1784)新沢村・穂足村・津金村、
同八年、豊田村・増富村が成立。同年若神子村は新沢村を合併。
同一一年北巨摩郡に所属。
同二十二年町村制施行により、若神子村と豊田村のうち穴平が合併して若神子村、東向村と豊田村のうち小倉村が合併して多麻村が成立した。
また穂足村と多麻村は組合村となる。
昭和三〇年若神子村・多麻村・穂足村・津金村が合併して須玉町が成立、
同三一年汪草村を編入、岡三四年増富村を編入した。
米・麦を中心に雑穀・蕪菜などの栽培と養蚕をとり入れた農業経営が行われた。米・麦の生産量は県下屈指であった。
東部の江草・増富地域は豊富な山林資源に恵まれ、木材・薪炭などの産出が盛んであった。またこの地域は古代の牧に近接する地域で、子馬の生産が盛んで牧場が開かれ、増富では毎年子馬の市が開かれて一回に数百頭の子馬が売買された。
とくに明治三〇年代から馬匹の改良が叫ばれ馬種の改良が行われたが、明治四〇年・同四三年には若神子村で山梨県産馬共進会が開催され馬匹の改良に資した(北巨摩郡誌)。
明治六年津金村では上津金・下津金、浅川・樫山(現高根町)の四村を所属とし、下津金東泉院本堂を仮校舎として公立小学校津金学校を開設。岡八年校舎新築落成。新校舎は和洋折衷のいわゆる藤村式建築で、現存する最古のもので県指定文化財。
須玉町の成立の頃を境に急速に進んだ経済界の発展は農村に大きな変革を求めた。昭和五一年には中央自動車道が開通、須玉インターチェンジが開設された。翌五二年には須玉バイパスが開通し、町と首都圏・中京・京阪神が直結し、
産業の振興に貢献するところ大である。
近代化を迫られた農業は、水田の基盤整備事業が進捗し、養蚕の不振に伴った畑作転換では、生食トマトを中心に高原野菜の栽培や矮化(わいか)リンゴ加生産されている。恵まれた自然と甲斐源氏ゆかりの地としての歴史を資源として、農業と観光の町として発展を続けている。
そして里山林は今
『森と人間の文化史』只木良也氏著
一部加筆 山梨県歴史文化館 山口素堂資料室
里山林の収奪は、つい先ごろ昭和三〇年代はじめまで繰り返されてきた。そのおかけで里山は、マツ林に代表される植生的に貧しい景観から逃れることができなかったのであった。ところが昭和三〇年ごろから、化学肥料が出回り、石油やプロパンガスが普及して、落ち葉堆肥は下火となり、薪や柴も農村から締め出されることとなった。お爺さんは山へ柴刈りに行く必要がなくなったのである。
いま、里山の落ち葉掻きや柴刈りはほとんど姿を消した。現在の状態から、かつて農村の生命線であった落ち葉探りの利権を巡って、血で血を洗うような争いさえあったことなど誰が想像しうるだろうか。山仕事に出た人々の帰途の背にはいつも、休憩時間を惜しんで束ねた柴がずっしりと背負われていたものであった。いまもなお時おり、校庭に見かける二宮金次郎の像が背負うものは何か、子供たちへの説明に困る。すでに青年たちの中には、桃太郎のお爺さんは、芝生を刈りにいったと思っている者もいる現状である。
最近二、三〇年間に石油化社会は、星山と農地農村との文字通りの有機的なつながりを断ち切ってしまった。それで果たして良かったのだろうか。確かに農業生産性は向上したものの、それは化学肥料と農薬の多投のうえに成り立つものである。堆肥などの有機物が施されなくなった畑の土は、土壌特有の柔らかな構造を失い、作物が吸収する養分は化学肥料で十分すぎるほど与えられて、極端にいえば土は作物の根を支える道具と化した。
里山林の土壌にとって収奪がなくなることは有難いことである。実際に里山林が地力を向上させていることは、間違いなさそうである。しかしその一方で、昔のように人手が入らなくなった里山林は藪のようになった。ツルが巻きついて樹木を枯らし、抜き伐りされないために一本一本が細くて雪や風に弱い林となり、薪にも採られない枯木が病気や害虫の発生源になる。枯木、枯枝、枯草
などがそのまま放置されていることは山火事の危険も大きいことになる。常に人が山に入らないことは、例えば崩壊発生危険他の早期発見ができないことにもつながり、手当てされないままに突然の鉄砲水や土石流の災害を得ることになってしまう。
むかし農用林や薪炭林として使われ、今は使われずに放置されている里山林は、全国で五〇〇万ヘクタールともいわれている。全国の森林面積の五分の一に達するこれらの林は、無用の長物視されてすでにかなりの面積が宅地、工場、ゴルフ場などに開発されてきた。今後も開発予備軍としての価値しかないのだろうか。
里山は、都市と本格的な森林地帯の中間にあるところである。都市とその周辺はそれなりに緑化問題の対応があり、奥山はまたいわゆる自然保護で話題になる。それに対して、中間里山地帯は、注目されることの少ない真空地帯である。しかし、その存在を無視していいのだろうか。昔のような農用林としての利用を今の時代に勧めるつもりはない。薪や炭の利用を復活させろともいえまい。うまい利用法を考え、その存在意義が認められるようにすべきであろう。私としては、何の理由をつけなくとも、その存在価値は大きいと思うのであるが。
森林は日本文化の石油であった
人の収奪と森林との関係は、なにも農地と里山林との関係に限ったことではない。同様のことは人間活動のあるところ何処でも見られたのである。
技術が発達すれば、その建築資材としての木材と、大勢の人口を養うための燃料が必要である。一方、奥山でも鉄や銅をはじめ諸々の鉱産物を採って、それを精錬するのに大量の燃料(木炭)が必要であった。木炭生産の技術は鉱産物精錬のために、人里よりも山奥で発達しかとさえいわれているほどである。中国山地には、砂鉄精錬のために伐り荒らされた山々が、今なお広大な面積に跡を留めている。海岸では塩田の最終過程として、天火で濃縮された塩水を大釜で煮詰めるために、大量の薪が消費されていた。陶器を焼くのも薪であった。そして、家、家具、建具、農機具、織機、食器、容器はいうに及ばず、おりとあらゆる特に日本人が使ってきたのは木材であった。日本文化がけ「木の文化」といわれるが、文化が進み、人口が増え、人々の活動が盛んになればなるほど、森林は収奪される一方だったのである。
昭和三〇年代以降のわが国の活動と繁栄が、石油に支えられていることを否定する人はあるまい。だが、石油社会となる前の何千年にも及ぶわが国の活動を支えた物質資源と子不ルギー源は何であったか、それが森林であったことに気付いている人は案外少ない。ほんの三〇年ばかり前まで、日本人のほとんどは本の家に住み、本の道具を使い、街中でも風呂は薪で沸かされ、部屋の暖房は火鉢の炭火であったことを思い出せば、それは容易にうなずけることなのであるが。
日本文化の今日に至る長い道程の中で、いまの日本の石油に当たる役目を受け持ってきたのは、森林であったといえよう。その森林が、収奪を繰り返されながらも、そして荒廃していきながらも、何と加入破綻をきたすまでには至らなかったのは幸いであった。それは豊かな降水量と暑い夏が、森林の再生を促してくれたおかげであった。日本人と日本文化は、雨によって生き延びてきた、といえるのである。