ハイナンNETの日常

メンバーが気になってること、メンバーの日常、そして「イアンフ」問題関連情報を書いていきます☆

テレメンタリ―2012 1月24日放映分を見て byK.K

2012-02-06 23:51:21 | メンバーのつれづれ
先月見たテレビ番組の感想です。

兵庫県たつの市に住む森崎里美さん(37歳)は、2人の娘を育てるシングルマザー。先天性の脳性麻痺により、両手両足etcに重い障がいを抱えている。
2006年、彼女は、JR東日本姫路鉄道部に、障がい者雇用枠で1年更新の契約社員として入社した。入社2年目、仕事にも慣れ、将来への希望が見え始めていた彼女は、上司からレイプされ、会社と上司を訴えた。
2007年秋、会社が主催する慰安旅行の帰りに、上司から「話がある」と誘われ、2人で飲みに行った。タクシーでの帰り道、気が付くとラブホテルの前で降ろされていた。
浴室に体を縛られ、剃刀で全身の体毛を剃られた後、レイプされた。回数は覚えていない。彼女は、その時の上司の様子が「狂気」であったと語る。一方、自分は「恥ずかしい」「情けない」という感情を抱く。剃刀で脅された時点で、「抵抗」を断念し、「終わった」と感じる。被害者に、恰も自分に落ち度があったかのような感情を抱かせるこの種の犯罪の重さを、視聴者に突き付ける。今の私には、これを過不足なく表現する言葉が見つからない。
翌朝、上司は謝罪するどころか、会社に告発したら来年の契約更新はない、と告げて彼女を口止めしようとする。その後も、上司は性的関係を迫ってくる。彼女自身も、会社に告発したら解雇される、と思い込んでいた。
被害を受けてから4か月後、契約が更新され、1年間は解雇されないと安心した彼女は、初めて会社のセクハラ相談室(彼女が受けた被害は「セクハラ」という次元ではないのだが……)に被害の事実を告発する。しかし、敵意とも呼ぶべき無関心、冷淡さに直面する。「逃げなければいけないところで逃げていない」etc。彼女は飲酒をしており、アルコールのため走ることも儘ならなかった。加えて、頸椎に持病を抱える彼女は、首に強い衝撃を受けると下半身が麻痺する危険が常にあったため、抵抗しようにもそうすることができなかった。「どうして逃げなかったのか」。自分の身は自分で守れという「自己責任論」がまたぞろ出てきたと感じるのは私だけだろうか。ここからは、一見尤もらしい「自己責任論」が、如何に現実離れしたものであるかが浮き彫りになる。
被害を受けた後に、加害者から強引に食事に誘われたことも槍玉に挙げられる。「串カツとあなたの体、どちらが高い?奢ってもらって嬉しかった?」という、調査というより凌辱の言葉に対し、「私の体」「口止めと思った」と答えた彼女は何を思ったのだろうか。しかも、ここにはご丁寧にも、彼女の話を聞いて「分かることも山程ある」という前置きが付いている。本来謙虚に受け止めるべき相手方の未知の体験を、自己に都合が良いように暴力的に回収していこうとするプロセスを目の当たりにして、背筋が凍る思いがした。
会社がレイプの事実を否認したことを受け、警察も捜査を保留した。4年に及ぶ裁判を経て、昨年11月4日の控訴審判決においても、社内調査において人格を軽視する不適切な発言があったとしながら、会社の責任は認められなかった。レイプ被害も一部しか認められず、係長に対する損害賠償請求の一部しか認められなかった。裁判所は、彼女の「証言」の信憑性をどの程度真摯に検討したのだろうか。被害直後に警察や病院に行かなかったため、「物証」がないことが問題とされたが、自ら「物証」を確保することが極めて困難な被害者に対し、「物証」なるものの提出を執拗に求めることの非現実性に、何処まで思いを馳せたのだろうか。「被害を示す証拠がない」と請求を退け、自殺を考えさせるまでに彼女を追い詰めた第一審の裁判官は、自己の判断の重さを自覚していたのだろうか。
「事実しか語っていないのに、どうして信じてもらえないのか」彼女の言葉は切実である。しかし、この言葉が如実に物語っているのは、「事実」を受け止める、いや少なくとも受け止めようとすることは、我々が普段何気なく思っている以上に厳しく、困難であるということである。それは、様々な理屈をつけて、性暴力加害者への責任追及の手を弱めようとする動きとして顕在化する。このような動きがあること自体が、パラドキシカルにも性暴力の深刻さを物語っている。
会社を休職し、駅前で被害を訴える彼女やその母、支援者の前を、何事もなかったかのように通り過ぎる人々。「事実は人によって異なる」という一見尤もらしい抽象論を振り回すことによって「事実」を直視することを巧妙に回避し、他者のみならず自己への認識をも摩耗させつつあるこの社会を象徴する光景であるように思えた。同時に、一見「平和」に見えるこの社会の「狂気」を見据える眼を涵養することの重要性を再認識した。
巷には、「……の真実」と銘打つ本が溢れている。「現実主義」の名目で、「もう少し現実を見ろ」という罵声が日々様々な者に対し浴びせられている。かくいう私もその1人である。しかし、少しでも「事実」の重さを認識していれば、このような言葉を軽々に発することはできない筈である。我田引水的な自己認識の符牒としてこれらの言葉を流(盗)用することによって、「現実」から目を背けさせようという圧力が日々強まっているように思われる。
最近、言葉は他者への関心を示すためにあるという発言に接した。よく、言葉は他者とのコミュニケーションの道具であると言われる。しかし、「まったき他者」との間で、コミュニケーションが容易に成り立つと考えるのは、楽観的に過ぎよう。記者が「被害を受けた後、どうして直ぐ警察や病院に駆け込まなかったのか」と聞くと、彼女は「そういう問題ではない」と答える。表面的には会話が成り立っているように見えるが、実はそうではない。記者の素朴な質問。いや、この素朴さこそが、話者間の断絶をクローズアップする。
彼女は、長女に対し、被害の事実を明らかにした上で、提訴に踏み切った理由は、「誰の身にも起こってほしくない」からであると語る。元「慰安婦」の多くも、若い世代に向けて同様のメッセージを発している。時代も環境も異なる両者が。つまりこれらは、決して過去の問題ではなく、今後、性暴力被害をどう低減していくかという、極めて現実的な、万人に共通の課題であるということを再認識した。
また、裁判後首を痛め入院した彼女は(彼女にとって長期にわたる裁判は大きな負担であっただろう)、実名を出して事実を告発することは賭けであったが、それでも「ちゃんと伝える道を選んでよかった」と語る。実際、少しずつではあるが彼女の声に耳を傾ける人も増えていった。この言葉からは、「ちゃんと彼女たちの言葉に耳を傾けるべき」という命題が導かれるように思う。
この文章は、彼女をはじめ、全ての(この番組にも登場した、未だ被害の事実を語ることができないでいる多くの者を含め)性暴力被害者の闘いの次元に見合う応答になっているだろうか。「時が解決する」という言説が流布し、思い出すという作業が等閑にされている我が国において、時間の経過と共に緩和されるどころか寧ろ増幅されていくだろう性暴力の痛みに向き合うことは、生半可な覚悟では務まらない筈である。それでも、自己満足のためのみならず、現実から逃げない真の「強さ」をもつ言葉を探す作業を、今後とも継続していきたいと考えている。「いつも堂々として」という彼女の言葉を頭の片隅に置きつつ。

長文をお読みいただきありがとうございました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« おすすめ本☆『性暴力』読売新... | トップ | ◇山田プロジェクト◆◇写真を撮... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

メンバーのつれづれ」カテゴリの最新記事