菊月夜君はライトを守りけり 摂津幸彦『與野情話』
摂津幸彦の俳句は難解だと言う人がいる。
もちろんその指摘がまったく的をはずれているわけではないのだけれど、摂津幸彦の難解さというのは、いわゆる他の前衛と目されている人々の難解さとはすこし違うような気がする。
たとえば、摂津(摂津幸彦の場合、ユキヒコというよりもセッツと言う方が呼びやすい)は、俳句の中で「似た音の言葉を重ねる」ということをする。
大学や雀はするめを這ひのぼる
言の葉に琴の端ありぬうめもどき
ほとけおどけよる十一月のホットケエキ
といった作品。
1句目の「するめ」と「雀」。2句目の「言の葉」と「琴の端」。3句目では「ほとけ」と「ホットケーキ」。3句目については「け」で韻を踏んでもいる。
夜の海机の下はも夜の梅
宵闇の緋鯉にはかに非を明かす
この2句については「海」と「梅」、「緋」と「非」という文字の類似を利用している。
家うるはしく野蛮国クリトリス西瓜
これは「ヤバンコク/クリトリス/スイカ」という、尻取り。
尻取りの姫よりクリスマスまで過ごす
という句も『與野情話』集中にあるが、これは「姫」から始まって「クリスマス」で終わる尻取りのことを意味しているのかもしれない。
と、ここまで書いてきたが、摂津俳句を読む楽しみは決してこれらの読み解きの楽しさのみに尽きるものではない。
むしろ、どのような経緯であれ、攝津によって「書かれてしまった」作品が「われわれに理解可能な情景を結び得る」ということが重要なのだ。
雀がするめを這いのぼるという情景、それは確かに想像し得る。
(あとはそれに「大学」という漠としたイメージをぶつけたときに、どのような効果を生むかが問題だ)
「言の葉」の中にはもちろん「琴の端」も含まれる。
宵闇の緋鯉が非を明かすということ、これも情景を想像することは可能だ。
つまり、始まりは単なる言葉遊びに過ぎなかったものを、情景描写が可能な表現にまで昇華させている。そこが重要なのだ。
さらに言えば、そこまで慎重な処理を施した後にも残ってしまう微妙な「違和感」が読者にとっては面白く、それが攝津俳句の本領と言えるかも知れない。
さて、掲出句。
ある「菊月夜」の頃に、作者は野球(他のスポーツの可能性もあるが、ここではひとまず野球としておこう)を観戦している(作者が選手の可能性もあるものの)。
作者が注目している「君」という人物は、ポジションで言うとライトのポジションを守っている。
と、まあそれだけの句である。
しかしここで、この句についてのもうひとつの解釈を提起したい。
菊とは皇室の紋章である。
よって、「君」という言葉は、即ち「天皇」を意味している。
すると、「ライト」というのは「右翼」ということになる。
いや、それは読みすぎだという声もあるかもしれない。
しかし、この読みは決して無理な読みではないのだ。
というよりも、攝津自身がこの読まれ方をされるように「書いている」。
さらにもう一歩踏み込んでみよう。
菊は「アナル」のメタファーである。
すると「菊月夜」は「菊突き夜」、あるいは「菊突きよ」と読める。
すると「君」というのは私の愛の対象たる「君」である。
あるいは、「ライト」という言葉が"right"ではなくて"light"だとしたら?
さらには、"right"という言葉に「右」という意味だけでなく「権利」という意味もあることを勘案すると?
貞操とかそういうことか。
ん?どうだろう。
というように、読みはどこまでも深くなる。
しかし、どこまで深く読めるかどうかは、ここではさほど重要ではない。
より重要なのは、攝津幸彦という俳句作家が、「菊月夜」の作品を一見何も深みがないものであるかのように書き上げている、ということだ。
少なくとも僕はこのような書き方をする俳人を他に知らない。
末筆ながら、攝津幸彦は文章にも見るべきところが多い。
というか、僕の感じでは、文章の方により心引かれるものがある。
俳句文集『俳句幻景』も刊行されているので、よかったら目を通してみてください。
以下、『與野情話』の中から僕の愛する作品群を抜く。
物干しに美しき知事垂れてをり
抛らばすぐに器(うつは)となる猫大切に
宇宙是れ洗濯板にヒヤシンス
永遠に中止となりぬ鴎かな
美しきもの煮ゆるなり夜の河
曙や屋上の駅永遠に
沈黙や夕べはひどく犀である
ぼんなうの猿買ひにゆく元気かな
高田馬場純喫茶白鳥にてくさる
月の出の舟より福神漬け溢る
あたし赤穂に流れていますの鰯雲
泣き濡れてをり球場の意味のバレリーナ
吊し柿女陰女陰と哭きにけり
友情の二階の壺は置かれけり
軍艦に遅れて着きぬ赤き靴
絵日傘のうしろ奪はれやすきかな
わが昼を離れてありぬ梨の花
腋にも闇ぎやうさんあつめてほとけら
ひだりなま温かく右にぎやかなる解剖図
白飯より胴出ておどろく愛と希望の街
摂津幸彦の俳句は難解だと言う人がいる。
もちろんその指摘がまったく的をはずれているわけではないのだけれど、摂津幸彦の難解さというのは、いわゆる他の前衛と目されている人々の難解さとはすこし違うような気がする。
たとえば、摂津(摂津幸彦の場合、ユキヒコというよりもセッツと言う方が呼びやすい)は、俳句の中で「似た音の言葉を重ねる」ということをする。
大学や雀はするめを這ひのぼる
言の葉に琴の端ありぬうめもどき
ほとけおどけよる十一月のホットケエキ
といった作品。
1句目の「するめ」と「雀」。2句目の「言の葉」と「琴の端」。3句目では「ほとけ」と「ホットケーキ」。3句目については「け」で韻を踏んでもいる。
夜の海机の下はも夜の梅
宵闇の緋鯉にはかに非を明かす
この2句については「海」と「梅」、「緋」と「非」という文字の類似を利用している。
家うるはしく野蛮国クリトリス西瓜
これは「ヤバンコク/クリトリス/スイカ」という、尻取り。
尻取りの姫よりクリスマスまで過ごす
という句も『與野情話』集中にあるが、これは「姫」から始まって「クリスマス」で終わる尻取りのことを意味しているのかもしれない。
と、ここまで書いてきたが、摂津俳句を読む楽しみは決してこれらの読み解きの楽しさのみに尽きるものではない。
むしろ、どのような経緯であれ、攝津によって「書かれてしまった」作品が「われわれに理解可能な情景を結び得る」ということが重要なのだ。
雀がするめを這いのぼるという情景、それは確かに想像し得る。
(あとはそれに「大学」という漠としたイメージをぶつけたときに、どのような効果を生むかが問題だ)
「言の葉」の中にはもちろん「琴の端」も含まれる。
宵闇の緋鯉が非を明かすということ、これも情景を想像することは可能だ。
つまり、始まりは単なる言葉遊びに過ぎなかったものを、情景描写が可能な表現にまで昇華させている。そこが重要なのだ。
さらに言えば、そこまで慎重な処理を施した後にも残ってしまう微妙な「違和感」が読者にとっては面白く、それが攝津俳句の本領と言えるかも知れない。
さて、掲出句。
ある「菊月夜」の頃に、作者は野球(他のスポーツの可能性もあるが、ここではひとまず野球としておこう)を観戦している(作者が選手の可能性もあるものの)。
作者が注目している「君」という人物は、ポジションで言うとライトのポジションを守っている。
と、まあそれだけの句である。
しかしここで、この句についてのもうひとつの解釈を提起したい。
菊とは皇室の紋章である。
よって、「君」という言葉は、即ち「天皇」を意味している。
すると、「ライト」というのは「右翼」ということになる。
いや、それは読みすぎだという声もあるかもしれない。
しかし、この読みは決して無理な読みではないのだ。
というよりも、攝津自身がこの読まれ方をされるように「書いている」。
さらにもう一歩踏み込んでみよう。
菊は「アナル」のメタファーである。
すると「菊月夜」は「菊突き夜」、あるいは「菊突きよ」と読める。
すると「君」というのは私の愛の対象たる「君」である。
あるいは、「ライト」という言葉が"right"ではなくて"light"だとしたら?
さらには、"right"という言葉に「右」という意味だけでなく「権利」という意味もあることを勘案すると?
貞操とかそういうことか。
ん?どうだろう。
というように、読みはどこまでも深くなる。
しかし、どこまで深く読めるかどうかは、ここではさほど重要ではない。
より重要なのは、攝津幸彦という俳句作家が、「菊月夜」の作品を一見何も深みがないものであるかのように書き上げている、ということだ。
少なくとも僕はこのような書き方をする俳人を他に知らない。
末筆ながら、攝津幸彦は文章にも見るべきところが多い。
というか、僕の感じでは、文章の方により心引かれるものがある。
俳句文集『俳句幻景』も刊行されているので、よかったら目を通してみてください。
以下、『與野情話』の中から僕の愛する作品群を抜く。
物干しに美しき知事垂れてをり
抛らばすぐに器(うつは)となる猫大切に
宇宙是れ洗濯板にヒヤシンス
永遠に中止となりぬ鴎かな
美しきもの煮ゆるなり夜の河
曙や屋上の駅永遠に
沈黙や夕べはひどく犀である
ぼんなうの猿買ひにゆく元気かな
高田馬場純喫茶白鳥にてくさる
月の出の舟より福神漬け溢る
あたし赤穂に流れていますの鰯雲
泣き濡れてをり球場の意味のバレリーナ
吊し柿女陰女陰と哭きにけり
友情の二階の壺は置かれけり
軍艦に遅れて着きぬ赤き靴
絵日傘のうしろ奪はれやすきかな
わが昼を離れてありぬ梨の花
腋にも闇ぎやうさんあつめてほとけら
ひだりなま温かく右にぎやかなる解剖図
白飯より胴出ておどろく愛と希望の街
前衛絵画とか抽象絵画を見る時って、この雰囲気はこの人にしか出せないなあ と思うと、好き嫌いはともかく凄い! と思います。
たった17文字でも、こうして独特の空気が作れるのは凄いなあ。
ただ言葉を羅列しただけではこうはならないのでしょうね。
そうそう、俳句の言葉の羅列は実に戦略的なのです。
>たった17文字でも、こうして独特の空気が作れるのは凄いなあ。
これはたぶんひっくり返して考えていいのではないかと。つまり、「17文字だからこそ」。最近それをたびたび実感します。