![]() | 三四郎 |
夏目漱石 | |
[Kindle版] |
夏目漱石 『三四郎』(青空文庫)
夏目漱石はあまりに有名すぎるから、なんとなく読んだ気になっていて、実際何冊かは高校あたりから読んでいるわけだが、自分の十代の頃の読書など、「読書」と呼べるしろものでなく、まず活字の字面をながめていただけであって、先日、松戸伊勢丹のジュンク堂をぶらついていて、なんとなしに買った『三四郎』(1908)―――「池」とか「ミステリアスなみねこさん」とか「亡びるね」とか断片的知識はあっても、今回きちんと読んでみて、「なんという甘酸っぱいラブコメ‥‥‥きゃわわ!」と大いに感心し、『風立ちぬ』の隠蔽されたもうひとつの「原作」といってよいくらいの勢いではないか!と吃驚もしたのだった。
たしかに宮崎さんが好きであろう、児童文学の体裁もあり、それは「近代」のもつ明るさと楽天性、「近世」の因習も、「現代」の懊悩もない、まさに坂の上の「開放」が小説のルート音になっておるからであろう。
大体、里見という姓の引用から、池の再会、外国語での謎かけのような交感、堀越兄妹は野々宮兄妹と相似形だし、本庄の「矛盾だ」‥‥‥震災後の帝大構内を絵コンテに描く宮崎さんの昂奮は想像に難くない。
『ナウシカ』や『もののけ姫』を語るのに『ゲド戦記・I~III』の知識が不可欠であるように、『風立ちぬ』の批評には、漱石の初期作品を知悉することは必修ということか‥‥‥
『三四郎』には教養小説(ビルドゥングスロマン)の側面も当然あって、広田先生はカプローニに投影されている。
冒頭、広田先生が日露戦争勝利直後で近代の絶頂にあった日本を「亡びるね」とわけなく評するのに、三四郎が衝撃を受けるシーンは、やはりその乾いた筆致に漱石の天才が際立つ。
価値観とは多様なわけである。
当時はエリートにしか許されなかった、広田先生や野々宮兄の「浮世離れ」は、21世紀の今日、機械文明の暴力的進歩によって自分のような偽漫画家にも末席を許されておるわけで、正直2人への感情移入が半端ではなかった。
第二の世界のうちには、苔のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢あかで、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。
‥‥‥このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅をのがれるから幸いである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。
まったくその通りとしかいいようがない(苦笑)。
最後の方で広田先生が三四郎に自分の見た夢の話をするシーンが、もの凄く素晴らしい。
「‥‥‥突然その女に会った。行き会ったのではない。向こうはじっと立っていた。見ると、昔のとおりの顔をしている。昔のとおりの服装をしている。髪も昔の髪である。黒子もむろんあった。つまり二十年まえ見た時と少しも変らない十二、三の女である。ぼくがその女に、あなたは少しも変らないというと、その女はぼくにたいへん年をお取りなすったという。次にぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。それはいつの事かと聞くと、二十年まえ、あなたにお目にかかった時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時ぼくが女に、あなたは絵だと言うと、女がぼくに、あなたは詩だと言った」
震える!
‥‥‥
![]() | 黒澤 明-夢のあしあと ([MOOK21]シリーズ) |
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ちなみに↑の書物に、昭和56年放送のNHK教育テレビ「若い広場」の「マイ・ブック」というコーナーに、黒澤が出演した際の採録が載っていて、『戦争と平和』『白痴』『平家物語』と並んで、『三四郎』を取り上げている。
おしまいに教会の前で美禰子と別れるでしょ、その時手帛(ハンカチ)を三四郎の鼻のところへもってくるヘリオトロープ、ヘリオトロープ、三丁目の夕暮れあそこいらを何と言うの、映画でいうとフラッシュ・バックみたいな手法を使っているけれども、夏目漱石という人はなんと新鮮なものを残してくれたと思います。
すなわち↓
女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香がぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎。四丁目の夕暮。迷羊(ストレイ・シープ)。迷羊(ストレイ・シープ)。空には高い日が明らかにかかる。
「結婚なさるそうですね」
美禰子は白いハンケチを袂へ落とした。
「御存じなの」と言いながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎へひっついてしまった。
女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。
「我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり」
あうあう!