曹達記

ゲーム、特撮、ポケスペ等について比較的長めの文章を書く場所。

ポケスペの情報公開体制への諸々の怒りについて

2023-12-30 23:17:00 | ポケスペ
2023年ももうすぐ終わろうとしているが、今年のポケモン関係の出来事で一番心を揺さぶられたのがポケスペ剣盾編からSV編への移行である。
この件について、自分が改めて不満を抱いているのが情報公開体制の拙さだ。


まずTwitter(余談だが、株を持っているだけの独裁者の言うことを聞くつもりはないので悪しからず)の企画で、「ポケモン年末レポート」を執筆した際に書き表した内容を一部修正して再掲する。


ポケスペはこれまで、ゲームが世代交代した場合はコロイチ連載章を問答無用で打ちきり、強引にでも新しい世代の章に移行するのが常であった。
しかし、15章(剣盾編)は2022年12月になっても物語に終わりを見せず、その動向は自分に動揺を与えていた。普通に考えればSV編が次にあると推測できるのだが、2019年以降のポケスペをめぐる状況が全く良くなかったことが動揺に拍車をかけていた。
まず2019年に剣盾編がスタートした後、2020年初めには11章(BW2編)が波乱の連載を終えたものの、サンデーうぇぶりの連載枠は維持されずにそのまま終わってしまった。
そして例年であれば、リメイク作品が発売されればその作品を題材にした章が出されることが通例なのに、BDSPやレジェンズアルセウスを題材にした章は発表されず、そもそもやるかどうかすら関係者は口を閉ざしたまま。
それに加え、公式サイトの更新が凍結状態に陥り、covid-19の流行でリアルイベントがなくなったため、ファンは新しい情報に触れる機会を完全に失ってしまった。
頼りになるのは山本先生のTwitterアカウントのみで、作品公式アカウントが設立されたものの更新頻度が完全に周回遅れの代物で、どうしようもない。欲しい情報に飢えている状況下で通例がさらになくなり、先行きが見えないのに明らかに話が終わりに向かう連載が続いていた、2023年4~6月は実に辛い時期であった。
結局、連載は2023年6月まで継続することになり、3年の世代交代の枠を越えて剣盾編は完結した。そしてその号でSV編の開始も告知され、8月から連載が開始されている。
ポケモンのゲーム自体は全体的に情報の供給ペースが早い印象なのだが、ポケスペに限って言うと情報公開があまりになってないので、今後も新作発売の度にひたすらに辛い時期を迎えることになるのかなと覚悟はしている。
個人的な感想としては、商売なんだから情報の出し入れもちゃんとやってくださいというのと、株ポケはアニポケばかり宣伝するのではなく漫画作品全般もちゃんと宣伝してくださいという二つに尽きる。

正直、上記で書いたことで自分の言いたいことの7割ぐらいは吐き出しているのだが、後になってもう少し書いておきたいことがあるように思えたので、追記をしておきたい。
この問題はSV編開始だけではなく、通巻版単行本発売でも続いているからである。

そもそもポケスペのネット広報は完全に時代遅れの代物だ。
公式サイトを2001年という早い時期に用意していたのは特筆すべきことではあるが、その時代からホームページの構造をあまり弄っていないように思われる。
これでは更新のやり方が属人的にならざるを得ず、SNS時代に適応しているとは言えない。
一応更新自体が全く絶えたというわけではないのだが、今日時点でサイトを開くと↓のような惨状である。

まず今連載してるのは剣盾編ではないし、ポケスペが連載25周年だったのは2022年の話だ。
更にURLがhttp://のため、SSL(暗号化通信)による保護がかけられていない。スマホ対応もしておらず、現代の企業による宣伝ページとしては周回遅れの代物だ。
極め付きは各ページで、「今月のニュース」は2022年3月の話だし、「最新号チラ見せ!」に至っては2019年7月の内容だ。「ポケSP美術館」「ポケSPの楽しみ方」も14章までの内容にとどまっているし、他のページは工事中という有り様。

ポケスペ公式Twitterアカウントも存在するが、そちらも論外である。
毎月出ているコロイチについては発売後に一つツイートをするだけだし、単行本も書影がサイトに載るまで宣伝しない。単行本の発売日はAmazonで1ヶ月以上前に分かるというのに、だ。
更に作品についての宣伝もやっておらず、ポケスペが一体どういう物語で各章がどのゲームに対応しているかも発言しないし、ここ2年はキャラの誕生日すら祝わなくなった。
そして単行本が複数種類あるという事実すら山本先生任せにして、公式アカウントでは解説しない姿勢は、個人的には商売として失格だと思っている。

こんな状態で、一体何を宣伝していると言えるのだろうか?自分が担当者なら、恥ずかしくてとてもそうとは言えない。


そして時代遅れな広報体制のまま、何の説明もなく重大な決定をし続けてきたのが2019年以降である。
なぜBDSPとレジェアルを題材にした章はないのか?なぜ単行本の発売が当初予定から遅れることが多いのか?なぜ剣盾編は半年の延長がなされたのか?
これらの事象について、誰も何も理由を説明してくれていない。
無論、日下・山本両先生の高齢化が原因にある可能性は高いが、それもファンが勝手に憶測しているだけである。

一応、山本先生は下記の通り釈明している。
だが、出す情報をコントロールするのは漫画家の仕事ではなく、担当編集者の仕事であろう。
そして担当編集者が広報もやっていると考えられるポケスペにおいて、かような広報体制を長年放置しながら、説明が必要な事象を複数起こしているのは、個人的に怒りを強く覚えている。

ファンは何が起ころうと見守るしかないという意見は分かるし、先生方に負担をかけたくないというのは自分も同じだ。
しかし、物わかりが良いファンしか耐えられないような情報公開体制が、果たして長期連載されている作品にとって良いことなのだろうか?
新規ファンを獲得しなければ漫画は継続できないし、長期連載作品で新規ファンを獲得するのは至難の技だ。
それなのに、ファンになろうとすると必用な情報は殆どファンサイト頼みで、新しい情報は殆どもらえないという状況は、健全だとは自分には思えない。

この状況の責任は小学館だけでなく、株式会社ポケモン(株ポケ)にもある。
ゲーム原作漫画の利点は、原作をプレイした人が流入して一定の需要を獲得できるところにあるはずなのだが、ゲームの宣伝をする株ポケはポケスペに限らず漫画作品の宣伝を一切しない。
それが小学館の姿勢だからだとは自分は思っていない。例えば、同じグループの集英社のジャンプに連載されているファイヤーエムブレムの漫画は、FEシリーズ公式アカウントでちゃんと宣伝されている。


ポケモン公式アカウントではアニメの宣伝は毎週きっちりやるのに、ポケモン漫画だけこのような不義理を受けなくてはならないのか?


自分は全く理解できない。
アニメだろうと漫画だろうと、メディアミックスという立場は対等なはずだ。
無論知名度は段違いでアニメの方が上である。しかしそれでも、名目は同じであるべきだろう。
かような扱いをする合理的な理由があるのなら開示して欲しい。


2023年に起きたポケスペSV編移行を巡るゴタゴタは、広報体制の脆さを改めて露呈し、今後も情報はもらえないことを前提にファンを続けるしかないという嫌な踏み絵を強いられた。
自分がファンとして欲しい情報は裏設定とかそういう次元の話ではなく、単純にいつ新しい単行本が出て、延期するならなぜ延期したか、このゲームの章はこういう理由でやる(やらない)といった、当たり前の部分だと思うのだが、それは高望みなのか?
高望みではないと自分は思いたい。


記事をお読みいただきありがとうございました。
感想等ございましたらコメントいただけると幸いです。
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ポケスペ剣盾編総括感想3(最終回)-バトルの諸問題と今後の展望

2023-09-18 19:42:00 | ポケスペ
前回の記事はこちら↓

本記事では、バトル面でのポケスペ剣盾編の総括と、全体の結論を記す。

特に今回は、これまでのポケスペのバトルとの比較分析を多用していくので、手厳しい指摘が多くなる。あらかじめご了承いただきたい。


ポケスペにおけるバトルの魅力

ここで自分のスタンスを書いておくと、ポケスペのバトルについては13章以降あまり面白くない状態が続いていると思っている。
無論個別に抜き出せば面白いバトルがないわけでもない。しかしそもそもバトルの件数自体が大幅に減っていて、その少なくなったバトルも今一つなものが多いと自分は思っているのだ。

そもそも「面白いバトル」とは何なのであろうか?
人によって定義が異なることは明白なので、自分の考えるところを示しておくと、ポケスペのバトルにおける面白さは、「図鑑で示される習性・技の組み合わせや独自解釈・展開のどんでん返し」で構築されている。
先に結論から書いておくと、13章以降のバトルにはこれらが欠けがちになっていて、殊に剣盾編ではその欠落が顕著になってしまったと思う。


まず、この3要素について説明したい。
「図鑑で示される習性」については、読者であればほぼ説明不要であろう。
ゲームのタイプや特性では説明しきれない、ポケモンの生物としての習性。例えば「ノズパスは常に北を向いていて振り向くことができない」とか、「ビッパは歯が伸び続けるので定期的に削る必要がある」といった要素である。
これがバトルの要素として組み込まれ、切っ掛けから決着に至るまで様々にちりばめられる。


「技の組み合わせや独自解釈」の代表例は、1章ラストバトルにおけるピカ・ニョロ・フッシーの連携攻撃である。
ニョロの水分とピカの電気エネルギーを組み合わせて雷雲を作り、スタジアム内にもかかわらず雷をフッシーの蔓に落としてリザードンを倒すというのは、説明するまでもないがゲームでは絶対に不可能な連携だ。
しかし、それが成立するだけの説得力は絵から得ることができるし、究極的には「ポケモンだから現実の物理法則も崩せる」という理屈も立つので、作者の想像力次第でいくらでも可能性があるのだ。


「展開のどんでん返し」の代表例は、4章のエントツ山ロープウェイにおけるサファイア対ウシオだ。
アスナを人質に取ったウシオの策略にまんまと嵌まり、ロープウェイという密室の中で水攻めにあうサファイア。
サメハダーの攻撃を必死で交わしたもの、決死の攻撃で歯を折ってもすぐ再生するという絶望的な流れを読者に印象付ける。
そこから折れた歯をサファイアが目で追ってるという前振りを経て、勝ち誇るウシオの台詞を遮る形で折れた歯を活用しての逆転劇が繰り広げられるのである。
「敵の攻撃で絶体絶命→反撃しても効果がない→隙をついて逆転」という、逆転の前に必要な「タメ」がこの戦闘ではきっちり表現されており、読者も「密室の中でどうやって勝つ?→密室そのものを壊せば良いのか!」と気付くし、卑劣なウシオへの怒りを一気に昇華できるカタルシスも得られる。


自分が思う面白いバトルの三要件は、「気付き」に集中している。
つまり、敵の出してくる攻撃に対してどうやって解を見いだし、撃退するのか。
自分が図鑑所有者達と同じ目線に立ち、この解があるんだ!という気付きを得ることが面白さになる。
パズルを解いたときの快感に近いのだと個人的には思う。


近年のポケスペにおけるバトルの問題点

では、近年なぜこれらの要素が欠けがちになってしまったのか。
主な原因は三つ考えられる。


一つは全体の尺不足である。
連載体制が磐石であった時期である4章を比較の基準点として置くと、単純なページ数だけで言っても1400近くあったものが、14章では920程度しかない。
連載期間が短いのと、1ヶ月で書けるページ数が25程度に圧縮されたのが原因だ。
更に原作における登場人間キャラ数も増加の一途をたどっており、出さなければ話が回らない。
こうなると、キャラを生かした展開重視の作劇にならざるを得なくなるし、終盤になればなるほど増えたキャラのドラマ展開に引きずられてバトルを描く余裕がなくなる。
この二重苦の状況では、満足したバトルを描けないのも必然である。
これについては連載枠を拡張する、web連載に移行するなどの手を打つ他ない。だが実際どちらの手もやる気があるようには到底思えず、じり貧がずっと続くことを覚悟せざるを得ない。


次に挙げられるのが、ゲームの演出力向上。
かつての携帯ゲーム機の出力では、デフォルメされた動きと簡略的なアニメーションで色々な表現をしており、漫画やアニメで別の演出をしたところで「メディアの違い」として納得できた。
しかし、現代のゲーム機の出力は比べ物にならないほど向上しており、テレビの大画面を生かした演出もできるようになった。
そうなると、メディアの違いだからといって技の演出を全く違うものにしては、違和感が勝ってしまうケースもある。
演出の違いとして代表的なのが「みがわり」で、現在のゲームでの演出は「みがわり人形が出てくる」というもの。
しかし、ポケスペでは違う解釈を取っており、ピカが使用した際は「分身を生成し自分から離して操ることができる。その分身はバリヤーをすり抜けるし、水を弾くので形状変化させればサーフボードにできる」ということになっている。
赤緑の時代であればこれも許容されたが、近年の新技でもこのような独自解釈で技を出すことが可能だろうか?
少なくとも近年の章では新技についてゲームでの演出に合わせている印象が強い。


最後の一つで、深刻な問題なのは人間の悪役の不足だ。
BWから続く人間キャラ人気の上昇、及び原作における悪人の引き出し不足も相まって、ゲームではSM以降明確な悪役というものが出しにくくなっている。
ポケスペに目を向けると、12章までは悪の組織に幹部が複数存在し、何度も図鑑所有者達の前に立ちはだかることでバトル展開を引き出してきた。
だが、13章では敵対側に立つネームドキャラはヒガナ程度。
14章ではスカル団とエーテル財団が出てくるが、スカル団と図鑑所有者組が何度もぶつかる展開にはならない。エーテル財団もザオボーとルザミーネしか敵にならない。
剣盾編では更に悪化し、エール団員とビートとシーソーコンビがそれぞれ一度悪意をもって戦いを挑んだぐらいしかない。
その代わり、14章と剣盾編では野生ポケモンやヌシとの戦いであるとか、ジム戦でバトルを補っているのだが、後半になればなるほど悪役が不足する傾向なのは変わらない。
13章はまだヒガナとの対決だけでもつページ数だったので、この問題はさほど出てこなかったのだが、14章では後半になればなるほど悪役として使えるキャラがザオボーぐらいになり、ラストバトルであるネクロズマとの決戦が大技を出すだけの簡素なものになってしまった。
さらに剣盾編は最初から悪役が不足していたため、この問題が露骨に出てしまっている。
悪の組織がいないなら、悪人に雇われたという形で悪役を増やすという手もあったはずだが、その方法も取っていない。

原作側の原因として考えられるのが、BWのプラズマ団で形而上的な悪の極致である「ポケモンと人の分離」を描き、XYのフレア団で形而下的な悪の極致である「人とポケモンの無差別殺戮」を描いたことだ。
ここまで悪を徹底すると、もはや何を悪として描いてもスケールダウンになってしまうという懸念があり、それ以降の悪の組織がおしなべて脱力感溢れるものになっていったと考えられる。


では、なぜ人間の悪役が必要であると自分は考えているのか。
主な理由は二つあげられる。

まず、ポケスペ特有のバトルが最大限生きるには、人間同士の技の読みあいが必要不可欠だというのが一つ。
というのも、技を組み合わせたりして追い込む展開を作るのに、その作戦を言語化しておかないと読者に伝わらないからだ。
野生ポケモンとの戦闘でもできないことはないのだが、その思考を言語化するのは主人公サイドだけになってしまい、描写のバランスを危うくさせてしまう。
典型的なのが剣盾編のラストバトルで、ムゲンダイナが何を考えて行動し、それに対してどういう戦術を取ったのかが全てしーちゃんの台詞での説明になってしまっている。
その結果、ひたすら技を出し合うシーンが説明までずっと続くことになり、シーンのメリハリがなくなってしまった。
ダイマックスによる絵面の圧迫も相まって、強調ばかりの絵となって漫画のメリットを殺している。

人間の悪役が必要な理由としてもう一つ挙げておきたいのが、漫画としては展開を盛り上げるために、執拗な悪意を持った敵が必要であるということ。
確かに野生ポケモンであっても悪辣な知性を持つ存在は多く描かれてきたし、中には伝説でもない野生ポケモンでありながら、ボールスイッチ破壊というサカキ並みの芸当をしたものもいた。
しかし、野生ポケモンは言葉を発しない存在であり、悪意は言葉として出てこないし、倒したときのカタルシスはさほどでもない。それがゲームで手持ちに入れているポケモンなら尚更である。
だがそれが人であれば、野生ポケモンと違ってその行動理由は言語化しやすいし、何より「悪いやつを倒した」というカタルシスを得やすい。

プレイヤーが能動的にするゲームなら、別に誰でも戦えればカタルシスを得られるのだが、漫画は読者が能動的に動くものではない。
能動的に動かない読者が漫画を読んで面白く感じるには、まず読者が漫画の登場人物のどれかに感情移入する必要があると考える。
その手っ取り早い手段が、悪人に追い詰められて逆転する様を描くことなのではないだろうか。
これを少なくせざるを得ない状況は、あまり良いとは言いがたいと自分は思う。


剣盾編特有の課題

剣盾編では上記に加え、本章特有の問題がある。
それはダイマックスとジムチャレンジだ。


ダイマックスがポケスペにいかなる問題をもたらすか、については以前解説した(2022年1月ポケスペ剣盾編感想 - 曹達記)ので、概要だけ箇条書きにする。
・大きさを表現するためにコマをぶち抜いて描くと、読者が注意すべきページの印象を散漫にしたりページ数を圧迫したりする。
・技をこっそり出すという選択肢がなくなる。
・使用できる技にも制限があるので、戦術が狭まる。

これらの問題点について、ポケスペ剣盾編は終盤ではダイマックスをあまり使わないことで解決した。
しかしラストバトルでは先述の通り、ムゲンダイナとの決戦でダイマックスを使用せざるを得なくなり、それも相まって戦術に捻りのない単調なバトルシーンとなってしまった。


ジムチャレンジもまた、ポケスペとの食い合わせが大変よくないものであった。
なにせ、衆人環視の元で試合をするのである。相手が技を確認できないようにして行動するというやり方は、成立させづらい。
毎回ポケモンリーグ戦をやっているようなものであり、取れる戦術のネタが切れるのも当然だ。

さらにバトルコートは全ジムで統一されているし、ジムリーダーは挑戦を必ず受けなければいけない。
これまでジム戦を主体で扱ってきた4・7・10章では、なるべくジム戦の展開を同一にしないように、ジムの構造をそれぞれ個性化したり、ジムリーダーの性格を変えたりしてきたが、原作の時点でそれが否定されているのだ。
おまけに、ジムリーダーは全員切り札をダイマックスさせるという「お約束」まで決まってしまった。
ゲームの剣盾におけるジム戦は非常に画一化されたものであり、時にそのお約束を逆手に取った展開も用意されたが、これはゲームとして最大限機能させるための仕掛けでもある。
ところが、これが長編ストーリーを意識した漫画になると、効果が真逆になってしまう。判で押したようなバトル展開を連続させられたところで、読者としてはマンネリを感じ次のページを見たくなくなるだけだ。


こういった問題が組み合わさり、剣盾編のバトルは中盤以降苦しい状態に追い込まれていった。
しーちゃんの手持ち探し関係は割と良いバトルが展開できていたと思うのだが、これは最大でも5回しか設定できない都合上、3年の連載期間では間隔を広めに取るしかなかった。
もう一つメインに置く必要のあったジム戦については、先述した通りポケスペ的には手足をもがれたようなもの。
個人的には二重苦というより、できることの方が少ないバトルだったと言える。

中盤からは陰謀が本格的に描かれ、ジム戦よりも他の戦いを描くチャンスこそあったのだが、そこになるとキャラのドラマを消化するのに手一杯でバトルを描く暇がなく、ムゲンダイナとの対決も意思が出てこないため盛り上がりに欠けていた。
そして終盤はダイマックスもジムチャレンジもやらないことで面白いバトルを少し展開できた(個人的にはマスタード戦が割と良かった)が、やはり野生ポケモンとのバトルが中心になり、台詞のコマが挟みにくくなっていたのが目についた。
ラストバトルの問題点は先述の通り。ただ、ラストバトルに戦術的な捻りがないというのは、それこそ4章以降ずっとついて回っていた問題でもある。
それを補ってきたのが積み重ねてきた敵との因縁であるとか、テーマの帰結といったドラマ面なのだが、ムゲンダイナと図鑑所有者には特段因縁がないし言葉を交わさない。テーマも特にバトルには絡んでない。
なので、戦術的な乏しさとダイマックスによる画の圧迫、さらに野生ポケモンであるがゆえの思考描写の難しさも相まって、自分はラストバトルによくない印象がついてしまった。


バトル軽視の弊害

さて、ここまで剣盾編におけるバトルの問題を指摘してきた。
しかし、ここに来て長い文章を読むレベルの年齢の方であれば、「バトルはストーリーのおまけだし別になくてもよくない?」と思う方も多いかもしれない。
実際、通巻版で追加される書き下ろしの大半はストーリーの補強であって、バトルを追加したのは12章ラストのマギアナ掌編ぐらいだろう。
さらに言えば、ネットでポケスペを話題にしたときに基本的に話し合われるのは、キャラ描写やストーリーのことだけだ。心揺さぶるシーンはそこに置くのが基本だし、仕方ないことである。


だが、自分はあえて主張したい。
バトルをおざなりにしてしまうと、他の部分にも皺寄せが行って漫画として苦しくなる、と。


バトルが作劇にもたらす効果として、比較的短期的なスパンでの盛り上がりをもたらすことができることと、単話のピークを明確にしやすいということが個人的には考えられる。
そして、漫画はその媒体の特質として、長い縦軸のストーリーを展開させやすい。
しかし、縦軸が長いとカタルシスを得にくくなり、1話だけ読んだ人に面白さが伝わらなくなる。
そこでバトルを挟むことにより、短いスパンでも面白さが伝わるようになるのだ。

バトルがもたらす効果はそれだけではない。
後半になってドラマが激しくなっていくと、それだけで事件を大量に描く必要が出てしまい、受動的に読む側としては展開の渋滞で振り回されてしまう。
そこにバトルを挟むことで、読者としては気づきやカタルシスを得て少し一休みできる。
更に言えば、バトルを描くことによってトレーナーやポケモンの心情を深く描くこともできる。トレーナーごとの戦術の特徴も描けて、キャラ描写の強化にも繋がる。
そこに戦術としての巧みさも乗っかってくれば、「面白いバトル」を描きつつドラマ面の補強もできるという一石二鳥の展開ができるのである。

さらに、バトル描写で描けるシンプルかつ重要なことがある。それは「強さ」だ。
いくら台詞の上でチャンピオンであるとかジムリーダーであるとか説明されていても、具体的な強さが描かれないと拍子抜けしてしまう。
ゲームなら戦えば分かる話だが、漫画は戦う描写がないと分からない。
そしてポケスペはバトル漫画でもあるので、キャラごとの強さが話の説得力にも繋がってくる。
「これだけの力があっても敵を倒しきれない」と描写する際に、それまでにそのキャラの強さを描く描写が一つもなかったらどうだろうか?
説得力が大幅に落ちることになるだろう。
そこを防ぐためにも、バトルは少なくとも中盤まではしっかり描く必要があるのである。


だが、バトルを描くのを放棄して事件やそれに振り回される展開をずっと描き続けるとどうなるのか。
短期的な盛り上がりとしてバトル以外の事件を使うのはおかしくないし、それ自体が悪いわけではない。
しかし、それを一つの回でとかく乱発されると「今回はどこに話のピークがあるの?」と感じてしまう。
終盤なら問題はないが、中盤でそれをやられてしまうと、話の進行が駆け足になったように感じ、先行きに不安が生じる。
更に、消化すべき事件を早くこなさなければならない状況になると、事件への反応も疎らになってしまう。
勿論、作劇の手法として反応を省きつつ事件を大量に一気に起こして、その驚きを鑑賞者に与えるもの(例えば「シン・ゴジラ」等)もあるが、それは映像作品向きの手法だ。漫画は読み物なので、一気に事件を起こされると必要な描写がないことの方が気になる。
ならば、描くべき事件を少し減らしてでも、事件に附随するバトルをしっかりと描くことで、話のバランスが良くなるのではないか?


ポケスペは長らく、バトルと長編ストーリーの二本が話の主軸として機能してきた漫画だ。
しかし尺不足でストーリー重視に舵を切らざるを得なくなり、話が終盤になればなるほどバトルがざっくりしたものになっていき、近年は人間の悪役がいないことで倒すことでのカタルシスや因縁も弱まっていくという、バトル漫画として致命的な弱さを抱えるようになった。
そして片方の主軸がうまく回らなくなると、話の進行力をストーリーに頼らざるを得なくなり、満足するストーリーを展開するには尺が余計に不足してしまう。

これは完全なジレンマに陥っていると言わざるを得ないのだが、残念ながら原作での悪役不足が解消される兆しがない以上、連載時は多少ストーリーで描く事件を減らしてでもバトルをしっかり建て直して描いた方が、話をバランス良く進められると自分は考えている。
また、連載後に書き下ろしをする場合であっても、追加ストーリーを展開するだけでは描写が不足する。
登場キャラが以前より増えているので、バトルでの活躍が少ないと、それだけ強さの印象が弱くなるのだ。

ポケスペは確かにストーリーがとても強い漫画であるが、同時にバトル漫画としての性質もある。
だからこそ、連載時は両者のバランスを取って取捨選択をしてほしいし、書き下ろしでストーリーを増強するなら、それ以上にバトルも知略溢れる描写を付け足していかないと、話の進行バランスが非常に悪くなってしまうと思う。


全体としての総括

剣盾編全体としては、縦軸の一貫性は良くできていて、キャラ描写は一部に手抜かりこそあるが概ね良かった、バトルについては基本的に上手く扱えていなかったという総括になる。

特に問題点の多くは4~5巻収録の回で強く出ていたと個人的に感じる。
月1の連載なので、展開が駆け足になっていると不安感がとても強くなったし、単話のピークが見えにくくて読むのが少し辛かった。
ストーリーの大枠やどんな事件が起きるか、などというのは原作プレイ済みの読者からすれば分かりきったことであるし、独自ストーリーを展開しているポケスペからしたらノルマに過ぎない。
なので、そのノルマに振り回されるぐらいなら、割り切ってある程度は描かないとした方が、まだしっかりしたバトル描写と両立できてバランスが良くなると思っている。

また、なまじ原作からキャラを変えられないという縛りをつけてしまったが為に、後半になると悪役不足で自らを追い込んでしまった。
不足する悪役を補うためなら、いっそ最終盤で出てきた王族を単話での悪役で使っても良かったとすら思う。
メディアミックスは原作からの要素も重要だが、それ以前に作品単体として成立するようにしないと意味がない。
縦軸こそ機能していたものの、キャラ描写という面では一部手抜かりが生じた上に、バトルの問題も重なっている。
そのため確かに縦軸は通っているのだが、後半になればなるほどそれ以外の面白さが減じていくというのが本章のキツいところである。

一方の評価点は縦軸の部分と一部キャラ描写で、テーマに基づいた一貫した描写が図鑑所有者達にされていたし、そーちゃんの巧みな設定やビート・ネズ・キバナの話を動かすキャラ付けは一見の価値があると思う。
作家性と原作要素をうまく交えつつ、高いレベルで表現してみせたのはいつもながら感嘆するものだし、そこは読む価値があると言えるものだ。


個人的な思いを言うなら、原作の補完としての役割は、「薄明の翼」等のweb展開されるオリジナルアニメや、ソーシャルゲームのポケモンマスターズEX(以下ポケマス)に任せてしまって、逆にそれらより圧倒的に勝る部分を磨くしかないと考えている。

それがバトルなのだ。

ポケマスをプレイした人なら分かるだろうが、ストーリーは原作で描かれたことの補完や後付けが良くできているものの、バトル描写はソシャゲである都合上本当にあっさりしている。
対して、ポケスペはストーリーを出すスピードでは負けていても、バトル描写に関しては比べ物にならないぐらい上だ。
また、原作から大きく外れたキャラ付けもポケマスにはできないが、ポケスペならできる。

原作ストーリーをそのままコミカライズするとは一言も言ってないのだから、原作からの本歌取りを必要な分だけしつつ先生方独自の味付けをして、バトル描写をしっかりやっていけば、少なくとも現行メディアミックス群の中で埋没せずに生き残れると思うのだが、どうだろうか。


最後になるが、この総括感想は連載対象年齢から外れた大人の視点によるものである。
なので、本来の読者層はどう考えているのかは全く分からないし、実際に読んだ感想は貴方だけのものである。
自分はあくまで大人気ない感想を書いているだけであり、無価値であることを付け加えて、総括感想の筆を置かせていただく。
SV編も引き続き楽しみにしたい。


記事をお読みいただきありがとうございました。
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ポケスペ剣盾編総括感想2-キャラクター各論

2023-09-10 23:16:00 | ポケスペ
前回の記事はこちら↓

本記事では、キャラクター面からポケスペ剣盾編を総括していく。
ただ、山本先生はサイドストーリーを相当切り落として連載したことを述べている。
なので、キャラ描写については相当な手落ちがある状態での批評となるため、あらかじめご了承いただきたい。



図鑑所有者たちとマナブ

ポケスペという作品は、初期からキャラクターについて独自の味付けをしてきた。
しかし時代が下るにつれて、ゲームとメディアミックスでキャラに違いがあることを許さない風潮が強まっていく。

こと剣盾については、ネット上でのキャラ人気が最高レベルのものであった。SMは割と特定キャラへの人気が高かった印象があるが、剣盾は登場する殆どのキャラに満遍なく固定ファンがいて、ゲスな悪役がいないゲームシナリオも相まって「ポケスペでの悪役化が心配」という些か奇妙な意見もあったほどだ。

そのような事情に配慮したのか、剣盾編はキャラの改変が少ない。
無論ゼロではないし、ある改変について許せないと怒っていた人もいたが、個人的な見解としては、
「原作はゲームであり、ゲームとして最適なキャラと漫画として最適なキャラは異なる。漫画としてのストーリーに合わせるためなら改変はあって良いことだし、そもそもキャラクターはストーリーの中で機能しなければ意味はない」
と思うので、改変の是非については議論しない。
ポケスペはポケスペであって、原作の続きや補完では決してないのである。

前置きはこの程度にして、まず語るべきは図鑑所有者とマナブからだ。
図鑑所有者のキャラは14章と対になっており、男子が落ち着いた性格(パッシブ)で女子が活発な性格(アクティブ)である。
しかし図鑑所有者の多分に漏れず、表面的な性格の奥には複雑な内面がある。


そーちゃんは落ち着き払った所作に社会的信用のある職人と、一見した印象は良い。だが内面では周囲に対して関心がなく、身具のことに集中すると他のことはなにも考えられない。
しかし外面だけは良いので、深く関わらなければその異常性に気づかれることなく過ごすことになる。
このことが、彼に自身の問題点を気づかせることなく過ごさせてきた要因でもあった。さらに父を早くに亡くしたことで、周囲にそれを指摘できる大人がいるわけでもない。
彼は徹底して内心の描写を削られており、そのことが終盤でのムゲンダイナの毒を受けた暴走の意外性を強く引き立てる結果となる。
最初から長く置かれてきた伏線を巧妙に機能させたポケスペらしい描き方で、最初に読んだときは衝撃的だったものの、これまでの描写と突き合わせると合点が行くという巧さには舌を巻いた。

しかも、その欠如した倫理観は指摘こそされるものの、より社会に適合した形に矯正されるということもなく、事態が収拾したあとも「またこのような危機が起きてほしい」とすら言ってしまう。
社会のあぶれ者として存在を否定する方向に行くのではなく、それすらも存在して良いと肯定する方向になったことに、制作側の考えの変化を感じた。

手持ちのポケモン達は、彼自身の信念が終盤まで明かされなかったために、あくまで身具を鍛えて強さを求めるという一点で協力しているように感じられた。
ただ、アーマンについてはヨロイ島での修行で心通わせる様子がじっくり描かれたため、身具がないポケモンを手持ちにすることでそーちゃんの度量が少し広まったことを表現したのは巧かった。


しーちゃんは逆に、落ち着かない挙動に周囲を閉口させる大声で喋る癖もあって、一見した印象があまりいいとは言えない。
しかし、彼女はコンピューター技師としての確かな腕前があるし、物事の観察眼も備わっているし、他者と内面から対話する優しさもある。
他者を疑うことを知らない純真さが図鑑所有者としては希少で、ゆえにバトルで相手の裏をかくことがあまり得意ではない。
そのため、彼女が本領を発揮するのは人とのバトルではなく対話になってくる。
しかし序盤では彼女の内面がそーちゃん共々隠されていて、手持ちとの再会を通じて内面が明かされていく流れにより、人物像が浮き彫りになっていくのは丁寧だった。

彼女については、一つ指摘しておかなくてはならない作劇上の問題がある。それはジムチャレンジャーという属性を、そーちゃんと被らせてしまったことである。
このことは作劇に大きな制約を与え、しーちゃん自身のジム戦のほぼ全てがカットされるという憂き目に遭った。
無論、漫画だから同じ展開の繰り返しは面白くないし、カットすること自体は仕方ないと思う。
ただ良く考えなくとも、この設定にすればそうせざるを得ないと最初からわかりきっていたであろう。
どこかで敗退することを決めていたにしても、もう少し早くても良かった。
無論布石として、最初のヤロー戦からバトルのセンスが致命的に欠けていることは描かれていて、何れ負けることを予感させてはいた。
しかし、やはり負けた回の演出が本当にあっさりしすぎで、もっと大きな挫折としてのし掛かるような重さがあってよかったはずだ。

これは全くの素人考えだが、ジムチャレンジャーにしたところでジム戦を描けないなら、その設定は不要だったと感じてしまう。
彼女の根幹である手持ちが行方不明という設定自体は、ムーンが手持ちを揃えられなかった反省から来ていると考えられ、割と上手い改善ではないかと思った。
それだけにジムチャレンジャーという一点だけが本当に惜しい。これさえなければダイマックスを描く必要性が一つ減り、視点も増やせたと思うのである。


マナブについては以前考察記事を書いたのでそちらも参照していただきたい(ポケスペ剣盾編におけるマナブの立ち位置について - 曹達記)が、結局「第三の御三家をもつ枠」としての存在以上になることはなかった。
終わった感想としては、結局彼をどう機能させたかったのかな、と思ってしまったのが正直なところである。
そーちゃんとしーちゃんの内面を見せないようにする、という点からマナブが狂言回しとして機能していた部分もあったのだが、中盤以降彼の視点が描かれなくなっていったので、狂言回しとしてもトロバには遠く及ばなかった。
重要な要素である不登校という部分も、結局ストーリー展開で機能することがなかったため、彼単体では本当に「いるだけ」である。

さらに、最終盤でホップに一時的にナミダくん(インテレオン)を貸すという見せ場があったものの、ホップとのドラマは特にない状態であった。
これについては尺のカットがあったから仕方ない、と考えることもできるが、現時点で読めるもので判断すると「片手落ち」と言わざるを得なくなってしまう。

そーちゃんの別の面の対比としてマナブが設定されたことは明白なのだが、しーちゃんは対比としての役割をよく果たしたのに対し、マナブは対比としての要素が生きていない。
本来は三人が巴になるように設定するのが妥当だと思うのだが、厳しい尺の関係上焦点を男主人公に絞らざるを得なくなる。
そうなると更に歪になってしまうので、一人の対比で二人を作ったのだろうが、結局生きていないのでは、どうにも評価に困る。
異例の抜擢に読者の戸惑いが強かったことは想像されるが、それでも図鑑所有者に並ぶ存在として置いたのであれば、きっちり描いてほしかった。


ジムチャレンジャー達とダンデとソニア

主人公サイドに近い味方キャラとしてまず語るべきは、ビート・マリィ・ホップのジムチャレンジャー組であると考える。

ビートはストーリーの考察でも書いた通り、テーマに則したキャラとして随一の存在感を見せた。
そーちゃんとの因縁と和解、ローズからの切り捨てと対話、ポプラによる指導等々、図鑑所有者組を除けばサイドストーリーで描かれた要素がしっかり繋がっており、裏の主人公と言っても良いぐらいの活躍である。
彼がそーちゃんに当初一方的な言いがかりをつけていたのは、ローズに目を掛けられていたことへの嫉妬があったのだが、そーちゃんの本質がローズに近いことを感知していたこともあるだろう。
最終回でもローズの真意を問う重要な役回りを演じており、「大局的な善意でしか動けないローズ」という存在の影として、同様の本質を持つそーちゃんの影ともなりつつ本筋を回す重要な役割を演じたのだと思う。


逆に、図鑑所有者達との絡みが少なかったのがマリィ。原作でも実はストーリーへの絡みが薄く、彼女のキャラ描写と良いところで応援してくれる点でプレーヤーの印象に残っているにすぎない。
ローズの動きを中心にした縦軸を強めにしたポケスペにおいて、彼女の存在感が薄くなったのは仕方ないことであろう。
ただ、折角図鑑所有者に準ずる存在を用意してまで御三家を分散させたのだから、マナブとの関係性構築ぐらいはしてほしかった。
マナブはネズの楽曲のファンであるという、絡むには十分な設定があったのだから、そこで何かフックでも用意しておけばよかったのだが…。
キャラ単体としては悪くないし、カンムリ雪原においてはビート・ホップとの会話が良い味を出していただけに、もう少し有効に機能させられる手はあったのではないかと思ってしまう。


ホップは、個人的意見として別のベクトルで存在を出せていると思う。
チャンピオンの弟という重圧のかかるアイデンティティを切り離して、あくまで1トレーナーとして競技に挑む側面と、ガラルの危機に何をするべきか悩む不安定な側面が良い対比になっている。

またホップはしーちゃんと絡む機会が多いのだが、それはどことなくソニアを探し求めるダンデの姿が被ったからなのかもしれない。
二人を繋ぐものとしては他に直情的で裏表のないところぐらいしかないのだが、強引に考えるとしたら「ダンデを利用するものと利用しないもの」だろうか。
かなり悪意のある言い方ではあるが、しーちゃんはダンデの威光を利用している側面があるし、真剣にジムチャレンジには挑んでいない。一方でホップは真剣にジムチャレンジをしているし、だからこそダンデの推薦を蹴った。
ここだけ書き出せば対立の線を引いてもうまく転んだかもしれない。

ただ、だからと言って二人は対立をしているわけでもないし、むしろしーちゃんの直情的なコミュニケーションにホップが絆されているのが作中の流れなので、ビートとそーちゃんが対立→和解なのに対して、ホップとしーちゃんは打ち解け→一歩引き、という対比構造を狙ったのかもしれない。
ここについては正直描写が不足しているので、現時点では確証をもって対比であるとまでは言いきれないのだが。


ダンデは原作より無理をして振る舞っている面が強調されていて、影が深いキャラ造形は個人的に好み。
ムゲンダイナの登場という「スポーツ選手としての戦いから外れた危機」に対しても、あくまでポケモンバトルで解決するためにどうすべきかをホップに教えるのは良い描写であった。
またソニアにはダンデとの関係が拗れているという重要なファクターがあり、それゆえに自信のなさや弱さが強調されている印象だ。

ダンデとソニアの関係に密接に絡むのが、過去の挫折。
ジムチャレンジという制度の暗黒面に深く踏み込んだドラマであり、14章と別のベクトルで地方そのものの問題を炙り出している。
しかしこれ自体は割と好みであるものの、図鑑所有者たちにあまり絡まない点がどうにも惜しい。
無論全くの無関係ではないし、ダンデがホップを差し置いて彼らを推薦した理由にも繋がっているのだが、ではそれが図鑑所有者たちのドラマにどう絡んだのかと言われれば、現時点ではない。
ソニアも過去の英雄についての知識をもたらす役割を果たしているものの、図鑑所有者たちのドラマに置いては脇役である。
特にジムチャレンジを途中でリタイアしてしまったという共通点があるしーちゃんとは、もっと密接に絡む必要があっただろう。
例えに出すのが適切かは分からないが、4章ではミクリとナギの過去の別れがルビーとサファイアの関係に対比されるように置かれていたように、ダンデとソニアの関係も図鑑所有者たちの関係と対比すべきだったと思う。


その他味方キャラ群

マグノリアは図鑑所有者組の保護者として振る舞い、舞台がヨロイ島とカンムリ雪原に移るまで彼らの拠点を提供する立場で活躍した。
これまでのポケモン博士と比べて、そのアクティブさはオーキド以上と言える。
日下先生が高齢フェチなのかは不明だが、ポケスペの老人キャラは大体がアクティブで屈強なイメージがあり、マグノリアもそれに準じたキャラ付けだ。
ただ、彼女自身のスタンスとしては図鑑所有者達の振る舞いを見守ることに徹しており、問題点を指摘して教え導くところまではしていない。
ソニアに厳しく接しているのとは異なり、身内ではない協力者に対してはあくまで自主性に任せる方向で育てたい方針なのだろう。 


ジムリーダーの中で筆頭といえる活躍をしているのはネズ。
テーマの一つが「居場所」である以上、その居場所が肩身の狭いスパイクタウンしかない、という設定は話に絡むのに使いやすかったのもあるだろう。
弱い者の居場所に気を払う彼のスタンスは、大義名分を理由に強引な行動を取るローズと真っ向から対立するものであり、中盤での話を主導するにふさわしいキャラであったといえる。

更に、彼は本章でも数少ない他地方の悪を知っているキャラでもあるので、シーソーコンビを出し抜いて正体を暴いたり、ローズの行動の裏を読もうとしたりと、他のキャラと比べて切れ者としての描写が目立った。
本質は小者のシーソーコンビとは異なり、いざとなれば相手に止めを刺すことも厭わないダーティーっぷりは、本当のワルとやりあってきた経験値を感じさせる。


ネズ以外のジムリーダー達の中でも、活躍しているのがキバナ。
個人的には、原作でのエネルギープラント事故にあたる話で、しっかり活躍してみせたのが印象的である。
これは原作だと主人公が何も関わらず終わってしまうイベントなのだが、ポケスペではキバナの視点を用意することで、きっちりストーリー上の意義を強調してみせた。
彼のキャラも「情報収集に余念がなく、ルールを破る行為に立場上躊躇いが少ない」というもので、ストーリーに積極的に関わるのに説得力があった。
図鑑所有者との関わりという点では弱かったものの、ストーリーを引っ掻き回す役回りとしてはネズ共々活躍の場が多くなったと思う。


6巻以降のDLC編においては、マスタードの存在感が大きい。
そーちゃんの欠点を指摘し導ける、今までになかった大人として設定されたことで、終盤に向けた話の総括に多いに貢献していた。
マスタードは数多くのトレーナーを指導してきた経験から、ともすれば道を踏み外しかねない危険性を有するそーちゃんに対して、しーちゃんとの対話を促したりダクマとの修行をさせたりして、彼の関心にゆとりをもたせることに成功した。


ローズとオリーヴとシーソーコンビ

一応本章における敵対側といえる組。
しかし悪役のない物語を目指した、と山本先生が書いている通り、悪役としては微妙な立ち位置である。
その試みはさておき、ローズについては縦軸の記事でも書いた通り「権力者の失敗」としての側面が強調されており、他者と相容れない思考で行動する悪役とは少し異なる印象を受ける。


ローズはそーちゃんと似たところがあるという点については、作中で繰り返し示されていた。
というより、原作のローズからそーちゃんのキャラクターが逆算して作られたと考えられる。
図鑑所有者と悪のボスというものは何かしら対比となる点を用意してあるものだが、本章においては「本質がほぼ同じ」というもので対比を狙っていた。
原作をプレイした自分としては、序盤からそーちゃんの行動に独善的なものを感じ、そこがローズと似ているのではないかという予測を立てており、実際にその通り類似していると示されたのはうまく嵌まっていたと思う。
何が二人を分けたのかについては縦軸の記事で説明したので、ここではローズ本人のキャラ描写について詳しく見ていく。

まず、チャンピオン推薦という立場にあるそーちゃんとの会食が最初に描かれた。だが、もう一人の推薦者であるしーちゃんには全く関心がないようで、全編通して会話すらない。
ローズは他人に関心がないと後で示されているが、ではそーちゃんと会食をなぜしたのだろうか?彼に自分と同じものを感じた、にしては接触が少なすぎるし、本当にその時居合わせたからという意味しかないのかもしれない。
これをローズに気に入られてるからだと勝手に解釈したのはビートだけであるし。
むしろこの時はソニアの状態を心配した台詞の方が多い。ローズにとってもソニアの挫折の件が心残りであると示されると共に、ガラル全体のことを考えるローズらしく挫折に対する眼差しもあると示しているシーンだろう。
結局この後も、ローズは直接図鑑所有者達と対峙して言葉を交わすシーンが殆どない。
やはり他者に関心がない気質からして、これまでの悪役と違って図鑑所有者との因縁を作る方向性になり得なかったのだろう。

次にエネルギープラントの事件でキバナと相対したとき、ガラル粒子の枯渇を1000年先であると嘯いてみせる。
ムゲンダイナの不完全な覚醒は事故だったと思われるが、キバナの乱入すら読んでみせ、彼を通す形で「ローズは何かを隠している」とジムリーダー達に共有させる一方、肝心の「ガラル粒子の枯渇は近い」という部分を覆い隠してみせるローズの狡猾さが際立った下りであった。

さらにブラックナイトの実行について、自分が本当はどこにいるのかを隠して誘導し、ジムリーダー達をエネルギープラントの地下に閉じ込め、映像をみせてムゲンダイナとの戦闘に備えさせるという鮮やかな策略もこなしてみせた。
改めて振り返ると、ダンデとジムリーダー達は所詮スポーツ選手であって、謀略で相手を出し抜くというやり口については、政治も知り尽くしたローズに二手も三手も及んでなかった。
結局彼の思惑を超えていたのは、ビートがローズへの忠義を失わずにいたことと、ザシアン・ザマゼンタの登場という二点ぐらいであろう。

彼自身は悪人ではないとされつつも、情報の出し入れで他者を巧妙にコントロールし、見事ガラル粒子の補充を達成してみせたのは、これまでのどの悪役も達成してこなかったこと。
自己犠牲精神の強さゆえに悪人にはならなかったものの、用意周到さや戦略の巧さについては前の章のどの悪役よりも上だったと自分は思う。


オリーヴは悪役というより味方側に近いキャラとして描かれている。
ローズの右腕として彼の真意を理解し忠実に実行している面が強いのだが、彼女自身はそこまで強引な手法をとることに賛同していない。
そのため、ローズが不在となった終盤では、ムゲンダイナからガラルを守るために図鑑所有者達と共闘する方向へと進んだ。
終始クールでありながら、身勝手な王族の末裔に対しては一喝してみせるなど、彼女なりの矜持を持って事態に対応している描写は好感を持てる。


シーソーコンビはまず見た目がギャグキャラなのでシリアスを担当しえないため、結局小者としての役回りしかなかったのが大変残念だった。
最初こそ無表情で話が通じないという恐怖感があったものの、あっという間にメッキが剥がれて小者になり、最後は誰も見舞いに来てもらえないというギャグで終わった。
再び英雄の物語の主役となることを望んでいた彼らとして皮肉な終わり方ではあるのだが、では手持ちを奪った件は一体どう落とし前をつけるのかと疑問に思ってしまった。
話のきっかけを作った因縁ある敵であるのに、図鑑所有者達にバトルでやられるでもなく、罪を認めて謝罪する(それか図鑑所有者達が許すか)でもなく終わっているのが、本当にスッキリしない。
前章のザオボーもそうだが、シビアな場面でシリアスを維持できないなら、悪役足り得ないとしか言いようがない。
悪役は悪役らしく、締めるところはしっかり締めて振る舞ってほしい。


キャラクターの総論

剣盾編全体としては、キャラの味付け自体は基本的に好みである。そこはポケスペ読者としてのこれまでの信頼も否定できないが。
だが、尺不足でキャラ描写が足りないのは仕方ないにしても、一部設定面での練り込みが不足しているのではないかと感じた。

図鑑所有者達については主役として重要な役回りをこなしてきたし、彼らの内面も話の筋として機能しているのでそこまで不満はないのだが、やはりしーちゃんが不憫に感じられる。
マナブに至っては必要な描写が足りなさすぎるし、不登校という側面については事実上投げ捨てられてしまった。
そーちゃんというキャラの組み上げはかなりよくできていただけに、そのカウンターとなるしーちゃんとマナブの動かし方で一部失策があったのは今一つだと思う。

他のキャラについては、ビート・ホップ・ダンデ・ポプラ・ネズ・キバナ・ローズ・マスタードの描き方は割と好みであった。
ソニアについては挫折のドラマが良かったものの、それ以降の絡みの少なさで相対的には普通という感覚。

それ以外のキャラについても、良くないとダメ出ししたいキャラはほぼいない。
ただ、シーソーコンビだけは例外である。悪役のいないストーリーを目指したと言っても、彼らの行為はいくらなんでも「悪」だ。
そこは貫徹して描いて欲しかったのが本音である。
尤も、キャラデザインの時点で悪役足り得ないことは明白だったので、そこは割り切ってオリジナルの悪役を出しても良かった気もする。

キャラクター全体の総括としては、良くないところもあるものの全体としては良いキャラ付けができている、という結論になる。


さて、最後の一つはバトルについての総括である。 
先に予告しておくと、こちらはきつめの論評となっているので、気分を害される方が多いかもしれない。

次の記事はこちら↓

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ポケスペ剣盾編総括感想1-テーマと全体的なストーリーの総論

2023-08-21 08:22:00 | ポケスペ
「ポケットモンスターSPECIAL ソード・シールド」(以下ポケスペ剣盾編)は、2023年7月28日発売の単行本7巻で一旦完結した。

本作に携わった全ての方に、まず感謝とお礼を申し上げたい。
特に一度体調不良で休載された日下先生においては、十分な休養を取っていただきたい。通巻版の作業は少なくとも4年以上かかると推測できるので、SV編の連載と並行になるが、是非とも成し遂げてほしい。そのためには体力が必要になるであろう。作家業は不健康な生活が普通になってしまうが、健康が第一の資本であってほしい。

さて、山本先生がTwitterで明かしたように、本章はあくまで一旦連載が終わっただけで、載せられなかったエピソードが多数存在している。
そういう意味では完結したわけではない。
なので、いわば未完成の作品について総括として論評を加えるのは、いささか性急にすぎると思う方もいると推察する。
しかし現段階で自分がどう考えているかをまとめる作業も、また必要なものであろう。
本稿はその必要性に基づいて記すものである。

ポケスペ剣盾編の総括をするにあたり、自分は「ストーリー」「キャラクター」「バトル」の3点から解析をしていくことにした。
特にバトルの項は、これまでのポケスペのバトルとの比較分析を多用していくので、非常に長く、かつ手厳しい指摘が多くなる。あらかじめご了承いただきたい。

また今回は個別の解析が長くなることを考慮し、記事を三分割してお届けする。
本記事では「ストーリー」についての論考を進めていきたい。


全体的なテーマによる演繹的解釈

剣盾編のテーマが「居場所」であるということは、連載終了後山本先生のTwitterにて明かされた。
まずはこのテーマにより、ストーリーに散りばめられたものを見ていきたい。

剣盾編全体のストーリーとしては、図鑑所有者二人のジムチャレンジをめぐる思惑に、ムゲンダイナの復活による危機が絡んでいくというもの。
これだけ見ると、あまり居場所というテーマがあるようには思えないのだが、一旦テーマに沿って各要素を見ていきたい。

まず主要キャラに目を向けると、図鑑所有者達とマナブにはそれぞれ、居場所がないという共通点がある。
そーちゃんには父親がおらず、しーちゃんも家族から周囲の同年代から(指摘があったので修正)疎まれていて、マナブは学校に居場所がない。
そんな彼らの居場所は根無し草のキャンピングトレーラーであり、こうして見ると要素として大きなものであることが最初から示されていた。
さらに、身具の鍛練にのみ興味があり周囲の人間の気持ちはお構い無しというそーちゃんの気質は、社会にあまり適合しているとはいえない。しーちゃんも、いかなるときでも声がやたらでかくなってしまう部分があり、これも社会から疎まれかねない要素だ。二人を繋ぐ共通項は、「社会に居場所が少ない」という部分であろう。

そこに、ガラル粒子を無尽蔵に産み出すがゆえにダイマックスをところ構わず起こしてしまうムゲンダイナが、社会を破壊する存在として立ち塞がる。
社会不適合な要素を強く持つ二人vs社会の破壊者という構図は、11章のラクツ・ファイツvsアクロマ・ゲーチスの構図に近い。
戦って逮捕することによって勝利した11章と異なり、剣盾編では確かにムゲンダイナを倒すことで解決はしたものの、ムゲンダイナが生きていける社会を作るべきではないか?という救いの手をさしのべることもしている。
これを製作陣の思想の変化ととれるかは微妙だが、しーちゃんが自分と同じようなあぶれ者への同情からそのような結論に達した、というだけでもなかろう。
ムゲンダイナのガラル粒子が社会のインフラとなっているから、という人にとって都合の良い部分も間違いなくあるといえる。
いずれにせよ、答えは11章からすこし違う方向に着地した。

この構図を描く上で少し惜しいなと思うのが、図鑑所有者たちに社会を疎ましく思う気持ちが少しはあっても良かったのではないかという点。
無論子供が主要読者なので、社会への疎ましさを覚える主人公はやや踏み込みすぎな面もあるかもしれないが、以前には引きこもりで交流の一切を疎ましく思うエックスという例もあったのである。
一応、そーちゃんは「本当はやりたくないジムチャレンジをやっていた」という蟠り、しーちゃんは「発言すると大概の人が耳を塞いでしまう」という周囲への迷惑があったので、社会とのずれはさりげなく描かれてはいた。
ただ、「ジムチャレンジによってしか立身出世が望めない息苦しさ」がもう少し明確に描かれていれば、対立の構図がより鮮明になったのかなと思う。

ここでどこからそのテーマを見いだしたのかと考えてみると、原作のソニアに由来すると思われる。
原作のソニアは、登場当初は学者として中途半端な業績しか挙げられず、かといってトレーナーとしては一流の域に到底なっていない。
そんな事情から、祖母であるマグノリアからも師匠として厳しく言われており、家庭でも仕事でも居場所がない状態であった。
原作はそんなソニアが学者として一人立ちし居場所を見いだす話でもあったので、ポケスペはそちらを重視して居場所をテーマにしたのではなかろうか?

必然的に、ソニアの存在はポケスペにおいて原作よりもウェイトが重くなる。
その反映として、彼女の過去の挫折が序盤~中盤での重要な謎として機能してきた。
ダンデが弟を推薦しなかったことや、ソニアがダンデと会うことを殊更に避ける理由がそこにあったため、その解明が話の転換を告げるタイミングとなった。
確かにこれは話のフックとして機能してきたので、目を引くものではあったが、ではテーマにどこまで響いているのかというと微妙な面がある。
ソニアが過去の挫折を告白した後、どこに居場所を見いだしたかについては言及が大きく減ってしまうからだ。

どちらかというと、居場所というテーマに則したサブキャラクターはビートだろう。
親なき子であるビートはローズによって居場所を与えられ、剥奪される。
しかしポプラの手助けでジムリーダーとなり、そーちゃんとの蟠りも解消し、ローズとの対話で彼の真意を知り和解する。自分の居場所を自分で確保する形でラストを迎えた。
原作ゲームからの要素とオリジナル展開のカンムリ雪原編をうまく交え、ビートについてはテーマに則した話をうまく展開できていたのではなかろうか。
というより、居場所というテーマで見るとビートの方が徹底的に描かれているように感じられる。
先述した通り、図鑑所有者とムゲンダイナの対立軸は少し分かりにくい。その点ビートは、居場所を剥奪されて新たに得た者であり、社会からは一度排除された者でありながら、社会秩序を破壊するムゲンダイナに抵抗することになる。
居場所を明確に見つけられたわけではないそーちゃんと比べても、自身の居場所を確立したビートの方が話としては一貫しているのである。


権力と居場所

さて、テーマに基づいた分析は主要キャラだけではなく、悪役にも向けられるべき目線である。
シーソーコンビはしーちゃんの手持ちからしーちゃんという居場所を奪った悪であるが、テーマという部分で見るには小者が過ぎる。
やはりテーマを以て見るべきはローズであろう。

ローズはガラルの実質的支配者として絶大な権力をもち、それだけに各人の居場所について万能の力を有する。
ガラルが住人にとって居場所であることは当然のことだが、ローズにはそれを守る責任もついて回る。
その責任と、ガラル粒子の枯渇が目の前に迫っているという事実が、かような強引な手段に走らせたと作中で示されており、居場所を守るための手法が居場所を破壊する悪事に繋がったという皮肉となる。
居場所を守り与える存在と破壊する存在が同一であるというのは、「権力」の二面性に他ならない。
そして権力の暴走に対し人々が立ち上がり阻止する、こう書くと革命のような文脈に見えてくる。
ただ、ポケスペは過激な方向でその文脈を進めてはおらず、あくまでローズは悪役ではなく権力者の失敗として描かれていて、逮捕されるだけで済んでいる。

権力の暴走という面で見てみると、12章との比較もまたできる。
12章はフレア団がカロスの支配層に食い込み、人口の間引きを行おうとするのを阻止する物語であり、二面性のある権力を「人の生活を破壊するものはフレア団という悪」として表層化している。
だからこそ、「カロスの権力=フレア団」という構図となり、フレア団を壊滅させることはできないというビターエンドとなる。
権力が人々の居場所を保障することのみで成立するのであれば、フレア団を切り離して倒せば終わりになるのであるが、権力の本質は暴力の独占(マックス・ウェーバー流に言うなれば、だが)であり、破壊する機能を持っていないと権力足りえない。そして権力がないと統治は機能しない。
この面をより分かりやすい形で示したのがポケスペにおけるローズであると自分は考える。

また、ローズは「ピカピカなガラルに耐えられないものの巣窟」であるスパイクタウンを滅ぼすつもりはなく、その点でもフラダリとは異なる存在であると強調されている。
だからこそ、フラダリと違って徹底的に破滅することはなく生き延びられたのだと思うし、完全な悪役とまでは行かなかったのであろう。


帰納的な分析

上の項では語られたテーマに従ってストーリーを見ていくという、演繹法の解釈を取った。
しかし、複数の人間が製作に絡む創作作品においてテーマが単一足り得るかといえば、そんなことはないと考える。
然らば、テーマを炙り出すには演繹法とは逆の方法ー帰納法により行うほかない。

もう一度剣盾編全体の縦軸を見返してみると、ローズはガラル粒子の枯渇を憂いてムゲンダイナを目覚めさせたが、シーソーコンビとの共謀は失敗に終わり、人々の協力によって事態は収拾される。
その中での記者対応で「誰か一人が英雄として解決をしたわけではない」と強調される。誤った理解をされないように。
失敗の本質はローズが「ガラル粒子の枯渇が近いことを公表せずに、人々との対話を行わずに善行をなせば良いと考えたから」であり、その気質はそーちゃんにもあると示されている。
更に、図鑑所有者二人の関係も、当初はそーちゃんがしーちゃんの意思を無視して強引なサポートをしていたが、それを終盤では否定しお互いにやりたいことを尊重するという方向へと変わった。お互いに話し合うことで関係が拗れることなく、円満な交遊関係を築いた。
前半の中核であったソニアとダンデの関係の拗れも、互いに話し合うことを放棄したこと、更にダンデの一挙手一投足がマスコミの注目にあることが原因で、対話をしづらい状況にあったからだ。
マスタードとそーちゃんの師弟関係は、ダクマとの交流を通じて何をダクマが望んでいるのかによって進展していく。変則的なコミュニケーションである。
バドレックスが信仰を失ったのも、村人との相互交流が不足していたことにあった。

こうして要素を拾ってみると、自分が剣盾編全体から受けた印象としては、「コミュニケーション」あるいは「対話」に重きが置かれているように思える。
特権階級との謀議に走り人々とのコミュニケーションに失敗したのがローズであり、内面を開いた対話に成功したのが図鑑所有者たちである。

そーちゃんの内面はともすれば悪人のそれ、過去の章で類似する人物を挙げればプルートに近い。すなわち、自分の興味ある事象に至るなら周囲の被害は考慮しないというところである。
ただ、それでも彼を悪へと踏み切らせないのは、周囲への外面だけは良くしようとする理性があるからでしかなかった。
外のコミュニケーションだけはうまくやれても、内面は他人に見せず、何となく好感触だけ与えるが真に心を開くことはない。
他人に関心がないため、一応善いことをするものの、本当に内面に立ち入ることはなく、なあなあな関係で終わらせてしまう。

対して、しーちゃんは他者に耳を塞がせる大声でしか喋ることができず、外のコミュニケーションに大きな問題がある。
しかし、内面は裏表なく率直な感情を出すため、落ち着いて話すことができさえすれば良好な関係を築くことができるのである。

このコミュニケーションの対称性を改めて問い直したのが、ヨロイ島における二人の真の対話である。さらにカンムリ雪原へそーちゃんが移動した後も、シャクヤによって彼の内面がきっちり言語化され、ローズと近いことが強調される。
しかしそんな彼であっても、目の前の状況に真摯に取り組みさえすれば善行を為すことができる。
しーちゃんとの対話を通して、自分の行為に対する赦しを得たことで、ようやく周囲に取り繕うことなく自分のしたいことができ、結果として事態の収拾につながる。

結局、人にとって善いことを為すためにはしっかりと内面を通した対話をして、その上で自分のやりたいことと折り合いをつけるのが重要であるということなのだろう。


剣盾編の縦軸に対する評価

居場所というテーマは確かに主要人物に一貫したものであるが、その観点で評価すると図鑑所有者が一歩下がった立場となり、ビートの方が主役に見える状態へと変わってしまう。
それはそれで話が見えやすくなって良いのだが、やはり図鑑所有者が話の主軸として存在できるものが、テーマとしてあるべきではないかと自分は考える。
なれば、図鑑所有者を軸として見たテーマは「コミュニケーション」であり、その観点からして「コミュニケーションはできても内面が危ういそーちゃん」「コミュニケーションが難しくても内面は善良なしーちゃん」と、「コミュニケーションを放棄し社会を危機に至らしめたローズ」「コミュニケーション不能なムゲンダイナ」という対立構図になる。

この対立構図が明確になるのは中盤以降だが、注意して読むと序盤からソニアとダンデの関係を通じて「なぜ対話しないのか?」という問いかけを投げ掛けているので、そこから発想もしやすいようになっている。
そしてコミュニケーションというテーマでフィルターをかけることにより、各キャラクターの導線や善悪の基準も見えてくると自分は考えている。
無論、ポケモンとの交流はどの章でも主軸にあたるものだし、自分が読み違えている可能性は十分にあるが。

さて、「居場所」「コミュニケーション」のどちらも縦軸としては最初から一貫して描かれている上に、あぶれ者への救済も示しているため、縦軸としての機能はしっかりしていたと総括しておきたい。

次は「キャラクターの個別分析」に入る。↓


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グリッドマンユニバース感想

2023-04-15 16:35:00 | 特撮
自分はアニメという媒体が割と苦手である。

その仔細については語らないが、思春期の時期から根付いてしまったこの感覚は外しようもなく、特撮に強く愛着をもつ気質と共に、創作物の見方に重大なバイアスをもたらしている。
だが、そんな自分でも珍しく1クールを完走したアニメがあった。
それが2018年に放送された「SSSS.GRIDMAN」(以下Sグリ)であった。

原作のグリッドマンについてはリアルタイムで見たことがなく、自分にとってのヒーローはウルトラマンティガが最初だったのだが、円谷プロが出したウルトラマン以外のヒーローとして記憶はされていた。
その続編をアニメで作るという試みに当初は懐疑的だったが、Twitterでの評判が非常によかったことから後追いで視聴していった。
すると、自分の先入観を一気にひっくり返されてしまった。「特撮をアニメでやる」というやり口に忠実なアプローチ、それでいて実写では不可能な「ゴテゴテした合体とキレのあるアクションの両立」に魅せられた。
さらにストーリーを通しての謎とどんでん返しに最後まで驚かされ、大いに楽しんだのであった。

しかしそれ以降はまたアニメを見たくない思いが強くなってしまい、2021年に放送された続編である「SSSS.DYNAZENON」(以下ダイナゼノン)については見送ってしまった。
こちらもTwitterでの評判がよかったにも関わらず、どうも食指が動かなかったのである。

そんな中、またグリッドマン関係のアニメをやるという。
更にダイナゼノンとのクロスオーバー映画らしい。
昔見た作品だし見に行ってみるのも悪くないな、でもダイナゼノン見てないし大丈夫なのかなと迷いつつも、やはりここでもTwitterでの評判を見て良さそうと判断し見に行くことにしたのであった。


結果、オールタイムベストにカウントするレベルの映画を目の当たりにしたのである。
「シン・ゴジラ」以来となる、同じ映画を複数回見に行った程度には、だ。4回は過去最多である。

以下、3作品のネタバレを全開で書いていきますのでご注意ください。






本作はどこを切り取っても語るべきポイントが大量にあるのだが、今回は3点で記述していきたい。
更に2回目を見る前にダイナゼノンをアマプラで全話視聴したので、それを踏まえた感想の部分も4点目として記載しておく。


映像面でのカッコよさ

まず本作は怪獣と巨大ヒーローが戦う作品である。
なので、街を破壊し爆発する描写がふんだんに盛り込まれている。
TVシリーズでは音響を意識することはなかったのだが、それが映画レベルの音響になることで一つ一つの爆発と車の吹っ飛びが強烈に耳に響く。

それだけではなく、TVシリーズ以上に巨大感とスピードを強調する構図がふんだんに取り入れられている。
例えばがっぷり4つに組み合うところで下から見上げる構図であるとか、ビルにジャンプで飛び乗って光線をかわすシーンであるとかである。
これにより実写では難しい巨大感とスピードの両立がされており、更に全合体であるローグカイゼルグリッドマンも高速で動きまくる。
ハイレベルな「特撮」映像をスクリーンで見ることは、率直に言って鳥肌が立つぐらい全身が沸き立った。

しかもこのハイレベルな戦闘は都合3回楽しめるし、戦い方は3回とも違うので飽きがこない。
この点は本当に映画館でないと体感できないところなので、これだけでも本作を映画館で見る意義はあると言いきれる。
更にラストの戦闘シーンは、主題歌の使い方が完璧と評せざるを得ない。
ピンチにダイナゼノンが現れる瞬間、静かな歌い出しが盛り上がるダイナゼノン主題歌の「インパーフェクト」が流れ、グリッドマンと合体するタイミングでSグリ主題歌の「UNION」に切り替わり、最後のとどめのタイミングで「uni-verse」がかかる、この一連の流れと合体変形が組み合わさるのである。
しつこいようだがこれは完璧な演出で、映画館で見ることの意義を大いに感じるものである。


キャラの「その後」の感動

ここからはストーリー面でのネタバレを書いていく。
キャラ面から見てみると、本作はSグリの世界にダイナゼノンの登場人物が絡んでくる形のクロスオーバーである。

ここでポイントになるのは、主人公である響裕太はSグリにおける戦いを全く覚えていないということ。
そのため、Sグリ視聴者としても未知の領域であった「響裕太本人の人格がいかなるものであるのか」を本作で知ることとなり、話が見えやすくなる。
話の主軸も彼の告白をめぐる動きが中心となり、観客は彼に感情移入しながら見ていくこととなる。
そして、彼自身の感受性豊かで女性に対してウブな部分と、対照的に危機とあらば自身を捨てることも厭わないまっすぐなヒーロー気質が明らかになっていく。
それこそが作品全体を貫く清涼感として機能し、日常パートでは学園祭に向けた準備に右往左往する様やダイナゼノン組との絡み、本題である告白を巡っててんやわんやする様が微笑ましく見える。
更に危機が迫れば我が身を省みず真っ先に駆け出す様は率直にカッコいいし、応援したくなるものだ。

一方の六花と内海はというと、こちらは当然ながらTVシリーズの延長線上でキャラが構築される。どちらも違和感なく好感を覚える描き方だ。
六花はSグリの冒頭「何か」があって記憶喪失の裕太と一緒にいたこと、そして裕太が彼女に想いを寄せていたのが解決の発端であったと最終話で知ったことから、彼に対して憎からず思っているはずなのだが、今一つ踏み切れない裕太に対してどう考えているのか序盤は読めない。
しかし学園祭の準備を一緒に進めていくのと並行して、再び戦いに巻き込まれた裕太のことを気にかける描写が増えていくと、本心ではもうとっくに答えは出ていて、彼の行動待ちであることが読み取れるようになる。
極め付きは、グリッドマンと一体化すれば世界を救える代わりに確実に自我が喪失すると宣告された裕太が、迷わず一体化を選んだ下りでの「少しは迷ったりしろよ…」である。
アニメでは初めての名前呼びに続いてのこの一言で、戦いに行くのを止めたくはないけど少しは側にいる自分のことを考えてほしい、という複雑な乙女心が如実に出ている。
ここまでお似合いの台詞を言ってしまっては、後輩二人にまだ付き合ってないことを弄られるのもやむなしだと個人的には感じた。
最後のシーンはそんな二人のいじらしさが前面に出ていて、壮大な話の締め括りとしてミクロで幸せな〆に入る作りをキャラの力で最大限に活かしている。

内海については、Sグリにおいてのウルトラシリーズヲタ要素だけではなく、何かしらの人生経験を積んだかのように見える。
明言はされてないが、同級生の女子と二人きりでバッティングセンターに行くのは、もはやそういうことなのだと思う。
自分が役に立ってないことを悩んでいた頃と比べると、ノリの良さは変わらずに裕太と友達でいることが自分の役割だと割り切ったことで、非常に頼りになる雰囲気が出ている。

更に本作最大のサプライズと言える、新条アカネとアレクシス・ケリヴの復活。
Sグリの出来事を経て、アカネが自分のためではなく友のために超越した力を使う展開は、こちらも成長を実感できて非常に良かった。
敢えて六花と話さずにただ触れて元の世界に帰るのも、Sグリ最終回を損なわない出し方で良い。
アレクシス・ケリヴは相変わらず退屈をもて余して楽しんでただけだったのかもしれないが、大ピンチでアカネを分離して自分はマッドオリジンもろとも死を迎えるという行動は、Sグリ本編での悪辣さからしたら心境の変化があったのかもしれない。
おそらく自分が創造力を利用して力にするのは良くても、自分と関係ないマッドオリジンに食われるのは忍びないと考えたのかもしれないが、シンプルに熱い展開なので些末な問題か。

ダイナゼノン組については初見時は未視聴だったため、後の項目に譲ることとする。
しかし彼らの言動の裏側に何があるのか分からなくても、話を止めるような方向性で関わるものではないし、主軸を書き消すような存在ではない。
個人的にはダイナゼノンを見なくても、十分楽しめる領域にあると思う。ただ見た方がより強烈に楽しめるとも考えている。


メタフィクションと創造力

原点である「電光超人グリッドマン」は、グリッドマンという名と姿を与えた善のクリエイターである主人公組と、怪獣をコンピューターワールドに送り込む悪のクリエイターである武史の戦いであった。
どちらもモノをコンピューター上で作るクリエイターが、お互いの創造力で戦力を拡充し戦いを繰り広げる構図である。
特に武史については、日常の些細な不満が怪獣を産み出す情動になっていることが強く描かれ、情動と創造力の関連性が話のきっかけとなっている。

創造と情動が話の主軸になっている点はSグリにも受け継がれ、創造力をアレクシス・ケリヴにつけこまれた新条アカネは情動の赴くままに怪獣での殺戮を繰り返しつつも、度重なる敗北と罪を突きつけられたことで心が折れ創ることができなくなる。
もはや創造力がなくなったアカネは自らの情動を養分とした怪獣にされてしまうが、被造物である六花たちに救われることで決着する。
ダイナゼノンでも、人々の情動が怪獣の種と結び付いて怪獣を形成するという舞台設定があるため、ここでも情動と創造力が関係している。

そして本作では、日常パートのサブの軸として「かつての戦いを覚えている六花と内海がグリッドマンのことを演劇として伝えようとする」という、メタフィクション的な要素がある。
これはまさしく創造力に絡む話であり、最初の台本はSグリの物語をそのままなぞったものであった。
しかし、この台本は「新条アカネの存在が今一つ受け入れがたい」という理由でクラスメイトから否定されてしまう。
メタ的なSグリへの評価という面もあるのかもしれないが、作中の人間からしたら枠外の存在であるテーマを描くには六花と内海の理解が足りてないということなのかもしれない。

その後世界が入り交じるカオスの結果、ダイナゼノン組の要素が取り入れられて娯楽性が増したことで台本は評価を得るが、今度はキャラが増えた弊害でアカネ周りはオミットされてしまう。
六花が本当に描きたいことから離れている気がする、と感じる裕太の懸念はそのまま世界の混乱へと直結し、生と死の境目すら曖昧になる。
「カオスで因果関係がよく分からないけど、キャラがわちゃわちゃしてなんとなく楽しいから良いのか?」と視聴者が思い始めたタイミングで、この時間も生死も曖昧なカオス空間が形成されるため、裕太の「まだ告白できてない!」という焦りが改めて突きつけられるのだ。

ここで作品全体のどんでん返しとして、空想から世界を創造する力が人だけではなくグリッドマンにもあり、それがダイナゼノン世界を作ったことが示される。
更に裕太の六花に告白したいという情動が、世界のカオスに気づかせる大きなファクターであったとも分かるのである。
日常パートの軸が一気に本筋の戦いに加わる構成として、非常に巧みだ。
そして創造力を搾取する黒幕であるマッドオリジンにより、グリッドマンは宇宙そのものとして拡充され、作中に起きたカオスの要因となってしまう。
これを救い出すのが、グリッドマンユニバースの被造物であった蓬と、グリッドマンによって救われたアカネと、裕太だった。
裕太はグリッドマンの被造物ではないが、グリッドマンに「2ヶ月の時間を奪った負い目」という情動を抱かせた張本人だ。情動と創造力は密接に絡むので、それを解決することで問題も解決されていくのである。
Sグリで描かれた「被造物による造物主の救済」と「情動と創造力」の話が合わさり、ここで更に話のテンションを上げて進めていく作りは圧巻だ。

最終決戦では、改めてグリッドマンの創造力から再定義されたダイナゼノンやあらゆる味方が復活し、総力戦の末マッドオリジンを撃破する。
グリッドマンの負の情動によって産み出されたカオスに対し、皆のイメージから新たな姿が構築され、敵を撃ち破るのは原点回帰の側面もあって非常に文脈が強い。
皆の描いたグリッドマンは玉石混淆のクオリティであったが、全てが合わさることによって、単にグリッドマンから怪獣を作るだけのマッドオリジンを倒す力になる。
弱いグリッドマンも、皆の創造力があれば強大な敵を倒せる。
創造力で作られた怪獣を倒すのもまた、創造力であると再び高らかに謳われているのである。

最後、文化祭の演劇がどういうテーマで描かれたのかは不明だが、観客が笑って帰ったことは示されている。
娯楽性を強めるかテーマ性を重視するかの二項対立はあれど、楽しむことができればそれが作品にとって最上のことである、そのようなメッセージであろう。


ダイナゼノンを見たあとでの理解

先述した通り、1回目の視聴ではダイナゼノンを全く知らずに見たので、ダイナゼノン組のドラマはある程度は飲み込めたものの、やはり重みが若干減じていた面は否めない。
なので、2回目を見るまでの間にアマプラで一気に視聴しておいた。

ダイナゼノンは、巨大ヒーローものであったSグリと異なり、合体ロボットと怪獣の対決を主軸にしたヒューマンドラマである。
前作と比較するとSグリは全体を通した謎であるとか、世界観自体が一つの物語を引っ張る縦軸として機能していたのに対し、ダイナゼノンはヒューマンドラマとしての側面が縦軸として機能している。

これがとても重要で、Sグリが描いていなかった「合体時のドラマ」というものを主軸にしているのだ。
実際Sグリ初見時はあまり気にしてなかったのだが、グリッドマンが新世紀中学生が変身するアシストウェポンと合体する際、彼らとのドラマ性が全くない。
折角人格を持っているキャラと合体するのにである。
これは新世紀中学生がグリッドマンの一部で、そこに深掘りすべき要素がないことによるものだと後から分かるので、意味なくオミットしたわけではないのだが。

これに対し、日常生活で躓いている4人がガウマと共に戦って少しずつ協調性を得ていく、その過程として気持ちを合わせて合体するという筋書きはドラマを補強するものである。
戦いの結果としてガウマは再び死を迎えてしまうのだが、4人は何かしらの変化を得るという落としどころは、Sグリと逆にミクロなドラマとして一定の意義を得ていると言える。

さて、ダイナゼノン組の本作における動向は、TVシリーズで得たものを元にSグリ世界へと絡んでいく形になっている。
やはり大きなトピックは「TVシリーズで死んでしまったガウマとの再会」であろう。
特に蓬はガウマに色々と後押しされて様々な問題を乗り越えていった面があるので、死に際の会話すらできなかったことに大きな思い入れがあるのはダイナゼノンを見てよく分かった。
また、インスタンス・ドミネーションを蓬が行使する下りも、本編最終回で「不自由を守るために怪獣使いにならない」と選択した彼が友のために力を使うと決めたことの重み、選んだ不自由である夢芽への謝罪を込めつつ使った意義を深く理解することができた。

夢芽は先に映画でのテンション高い状態を見たので、ダイナゼノン1話でのキャラに戸惑ってしまった。
しかし1クールかけて彼女の内面の問題が解決されていく過程は丁寧で、その帰結として映画での言動に至ったことが分かった2回目は納得と微笑ましさを感じた。
ボイスドラマでは更に暴走が進行していたが、まあそれもあれだけ苦しんだことの反動として考えればおかしくはない、かもしれない。

暦とちせについては、ガウマを除いたダイナゼノン組で最初に映画に出てくる面子なので、初見時はよくキャラが掴めていなかった。
彼らは映画では少し脇役気味だったが、何が二人の後ろにあるのかを描き出したTV版を見ると、暦がまた無職に戻ったことが何とも言えない味になってきたり、ちせが完全に暦の保護者として振る舞っていることに成長を感じたりもした。

そして、カオスの結果としてもたらされたガウマと姫の再会。こちらも初見時では意味をよく飲み込めてなかった。
ガウマがなぜダイナゼノンを駆って戦うのか、という理由の根幹にあったのが姫その人である。
しかしTV版終盤で姫が後を追ったことを知り、もう会えないと悟りながらもガウマは皆の未来を守るために戦って力尽きた。
目的を失っても4人の未来を守るために戦った姿は結果を知っていても悲壮なものであり、だから再会させたのが監督としては野暮に思えたのも分からなくもない。
だが、それはそれとして必死に戦った彼に、カオスの結果としてではあるがこのような救いがあったのは良いことに思える。
単なるファンサービスではなく、既に生と死が曖昧な状態までカオスが進んでいると観客に示す、重要なシーンとして絡めてくるのがまた巧妙なところだ。
この時二人が語る「人として守るべき三つのこと」は、TV版では最後の一つが言えずじまいだったと後から知った。
それが「賞味期限」というのは少しフレーズとして変な感じを覚えたのだが、「賞味期限とはすなわち未来である」という考察を見たとき、とても合点がいった。
ガウマ隊とグリッドナイト同盟は怪獣から未来を守るために戦ったのだから。

もう一つ、アンチ改めナイトがダイナゼノンで何をしてきたかを知ってから見ると、最後の戦いとアカネとの会話にグッと来るものがある。
それはSグリ本編での言動から見ると、本当に長い長い間積み重ねられてきた「赦し」といえる。
造物主として街の破壊と殺戮を繰り返してきたアカネは、自らが憎んだ被造物であるアンチに助けられたにも関わらず、礼を言って別れられなかった。
そんなアンチはナイトとしてダイナゼノン世界を救ってきたが、アカネにご飯を食べさせてもらったことが心残りになっていたとガルニクス回で分かるのである。
そして映画の最後で再会した時、ナイトはアカネの罪を詰るよりも、産み出してくれたことの感謝を語る。アカネはそれに対して髪を触ることで礼を伝えるのだ。
Sグリ本編ではアカネから六花への感謝は伝えられたものの、アンチに対しては何か言う時間がなかったので仕方なかったのだが、このやり取りでアカネの罪の一端がようやく赦されたと感じた。
アカネがアンチにしたことはかなり酷いのだが、同時にアンチが生まれなければナイトとしてダイナゼノン世界を救うこともなかった。
彼女が犯した罪が消えてはいないのだが、彼女が作ったものは世界を越えて救済をもたらしたのである。
ナイトは決して、アカネの贖罪のために働いていたわけではない。
それでも造物主に否定された自らの存在意義を彼なりに考えて、ようやくアカネと向き合って感謝を言えたのだから、アカネにとっての赦しの一つとなったことには違いないだろう。


さて、ここまで長々と各方面からの語りを書いてきたが、正直書ききれないほどの多面的なファンサービスとメタフィクションへの言及と熱量で本作は構成されているので、見る度に新たな発見がなされる映画であると自分は思う。
公開規模が小さいのは唯一の難点だが、劇場で何度も見るだけの意義はあると繰り返し強調して、本稿の筆を置かせていただく。


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