曹達記

ゲーム、特撮、ポケスペ等について比較的長めの文章を書く場所。

グリッドマンユニバース感想

2023-04-15 16:35:00 | 特撮
自分はアニメという媒体が割と苦手である。

その仔細については語らないが、思春期の時期から根付いてしまったこの感覚は外しようもなく、特撮に強く愛着をもつ気質と共に、創作物の見方に重大なバイアスをもたらしている。
だが、そんな自分でも珍しく1クールを完走したアニメがあった。
それが2018年に放送された「SSSS.GRIDMAN」(以下Sグリ)であった。

原作のグリッドマンについてはリアルタイムで見たことがなく、自分にとってのヒーローはウルトラマンティガが最初だったのだが、円谷プロが出したウルトラマン以外のヒーローとして記憶はされていた。
その続編をアニメで作るという試みに当初は懐疑的だったが、Twitterでの評判が非常によかったことから後追いで視聴していった。
すると、自分の先入観を一気にひっくり返されてしまった。「特撮をアニメでやる」というやり口に忠実なアプローチ、それでいて実写では不可能な「ゴテゴテした合体とキレのあるアクションの両立」に魅せられた。
さらにストーリーを通しての謎とどんでん返しに最後まで驚かされ、大いに楽しんだのであった。

しかしそれ以降はまたアニメを見たくない思いが強くなってしまい、2021年に放送された続編である「SSSS.DYNAZENON」(以下ダイナゼノン)については見送ってしまった。
こちらもTwitterでの評判がよかったにも関わらず、どうも食指が動かなかったのである。

そんな中、またグリッドマン関係のアニメをやるという。
更にダイナゼノンとのクロスオーバー映画らしい。
昔見た作品だし見に行ってみるのも悪くないな、でもダイナゼノン見てないし大丈夫なのかなと迷いつつも、やはりここでもTwitterでの評判を見て良さそうと判断し見に行くことにしたのであった。


結果、オールタイムベストにカウントするレベルの映画を目の当たりにしたのである。
「シン・ゴジラ」以来となる、同じ映画を複数回見に行った程度には、だ。4回は過去最多である。

以下、3作品のネタバレを全開で書いていきますのでご注意ください。






本作はどこを切り取っても語るべきポイントが大量にあるのだが、今回は3点で記述していきたい。
更に2回目を見る前にダイナゼノンをアマプラで全話視聴したので、それを踏まえた感想の部分も4点目として記載しておく。


映像面でのカッコよさ

まず本作は怪獣と巨大ヒーローが戦う作品である。
なので、街を破壊し爆発する描写がふんだんに盛り込まれている。
TVシリーズでは音響を意識することはなかったのだが、それが映画レベルの音響になることで一つ一つの爆発と車の吹っ飛びが強烈に耳に響く。

それだけではなく、TVシリーズ以上に巨大感とスピードを強調する構図がふんだんに取り入れられている。
例えばがっぷり4つに組み合うところで下から見上げる構図であるとか、ビルにジャンプで飛び乗って光線をかわすシーンであるとかである。
これにより実写では難しい巨大感とスピードの両立がされており、更に全合体であるローグカイゼルグリッドマンも高速で動きまくる。
ハイレベルな「特撮」映像をスクリーンで見ることは、率直に言って鳥肌が立つぐらい全身が沸き立った。

しかもこのハイレベルな戦闘は都合3回楽しめるし、戦い方は3回とも違うので飽きがこない。
この点は本当に映画館でないと体感できないところなので、これだけでも本作を映画館で見る意義はあると言いきれる。
更にラストの戦闘シーンは、主題歌の使い方が完璧と評せざるを得ない。
ピンチにダイナゼノンが現れる瞬間、静かな歌い出しが盛り上がるダイナゼノン主題歌の「インパーフェクト」が流れ、グリッドマンと合体するタイミングでSグリ主題歌の「UNION」に切り替わり、最後のとどめのタイミングで「uni-verse」がかかる、この一連の流れと合体変形が組み合わさるのである。
しつこいようだがこれは完璧な演出で、映画館で見ることの意義を大いに感じるものである。


キャラの「その後」の感動

ここからはストーリー面でのネタバレを書いていく。
キャラ面から見てみると、本作はSグリの世界にダイナゼノンの登場人物が絡んでくる形のクロスオーバーである。

ここでポイントになるのは、主人公である響裕太はSグリにおける戦いを全く覚えていないということ。
そのため、Sグリ視聴者としても未知の領域であった「響裕太本人の人格がいかなるものであるのか」を本作で知ることとなり、話が見えやすくなる。
話の主軸も彼の告白をめぐる動きが中心となり、観客は彼に感情移入しながら見ていくこととなる。
そして、彼自身の感受性豊かで女性に対してウブな部分と、対照的に危機とあらば自身を捨てることも厭わないまっすぐなヒーロー気質が明らかになっていく。
それこそが作品全体を貫く清涼感として機能し、日常パートでは学園祭に向けた準備に右往左往する様やダイナゼノン組との絡み、本題である告白を巡っててんやわんやする様が微笑ましく見える。
更に危機が迫れば我が身を省みず真っ先に駆け出す様は率直にカッコいいし、応援したくなるものだ。

一方の六花と内海はというと、こちらは当然ながらTVシリーズの延長線上でキャラが構築される。どちらも違和感なく好感を覚える描き方だ。
六花はSグリの冒頭「何か」があって記憶喪失の裕太と一緒にいたこと、そして裕太が彼女に想いを寄せていたのが解決の発端であったと最終話で知ったことから、彼に対して憎からず思っているはずなのだが、今一つ踏み切れない裕太に対してどう考えているのか序盤は読めない。
しかし学園祭の準備を一緒に進めていくのと並行して、再び戦いに巻き込まれた裕太のことを気にかける描写が増えていくと、本心ではもうとっくに答えは出ていて、彼の行動待ちであることが読み取れるようになる。
極め付きは、グリッドマンと一体化すれば世界を救える代わりに確実に自我が喪失すると宣告された裕太が、迷わず一体化を選んだ下りでの「少しは迷ったりしろよ…」である。
アニメでは初めての名前呼びに続いてのこの一言で、戦いに行くのを止めたくはないけど少しは側にいる自分のことを考えてほしい、という複雑な乙女心が如実に出ている。
ここまでお似合いの台詞を言ってしまっては、後輩二人にまだ付き合ってないことを弄られるのもやむなしだと個人的には感じた。
最後のシーンはそんな二人のいじらしさが前面に出ていて、壮大な話の締め括りとしてミクロで幸せな〆に入る作りをキャラの力で最大限に活かしている。

内海については、Sグリにおいてのウルトラシリーズヲタ要素だけではなく、何かしらの人生経験を積んだかのように見える。
明言はされてないが、同級生の女子と二人きりでバッティングセンターに行くのは、もはやそういうことなのだと思う。
自分が役に立ってないことを悩んでいた頃と比べると、ノリの良さは変わらずに裕太と友達でいることが自分の役割だと割り切ったことで、非常に頼りになる雰囲気が出ている。

更に本作最大のサプライズと言える、新条アカネとアレクシス・ケリヴの復活。
Sグリの出来事を経て、アカネが自分のためではなく友のために超越した力を使う展開は、こちらも成長を実感できて非常に良かった。
敢えて六花と話さずにただ触れて元の世界に帰るのも、Sグリ最終回を損なわない出し方で良い。
アレクシス・ケリヴは相変わらず退屈をもて余して楽しんでただけだったのかもしれないが、大ピンチでアカネを分離して自分はマッドオリジンもろとも死を迎えるという行動は、Sグリ本編での悪辣さからしたら心境の変化があったのかもしれない。
おそらく自分が創造力を利用して力にするのは良くても、自分と関係ないマッドオリジンに食われるのは忍びないと考えたのかもしれないが、シンプルに熱い展開なので些末な問題か。

ダイナゼノン組については初見時は未視聴だったため、後の項目に譲ることとする。
しかし彼らの言動の裏側に何があるのか分からなくても、話を止めるような方向性で関わるものではないし、主軸を書き消すような存在ではない。
個人的にはダイナゼノンを見なくても、十分楽しめる領域にあると思う。ただ見た方がより強烈に楽しめるとも考えている。


メタフィクションと創造力

原点である「電光超人グリッドマン」は、グリッドマンという名と姿を与えた善のクリエイターである主人公組と、怪獣をコンピューターワールドに送り込む悪のクリエイターである武史の戦いであった。
どちらもモノをコンピューター上で作るクリエイターが、お互いの創造力で戦力を拡充し戦いを繰り広げる構図である。
特に武史については、日常の些細な不満が怪獣を産み出す情動になっていることが強く描かれ、情動と創造力の関連性が話のきっかけとなっている。

創造と情動が話の主軸になっている点はSグリにも受け継がれ、創造力をアレクシス・ケリヴにつけこまれた新条アカネは情動の赴くままに怪獣での殺戮を繰り返しつつも、度重なる敗北と罪を突きつけられたことで心が折れ創ることができなくなる。
もはや創造力がなくなったアカネは自らの情動を養分とした怪獣にされてしまうが、被造物である六花たちに救われることで決着する。
ダイナゼノンでも、人々の情動が怪獣の種と結び付いて怪獣を形成するという舞台設定があるため、ここでも情動と創造力が関係している。

そして本作では、日常パートのサブの軸として「かつての戦いを覚えている六花と内海がグリッドマンのことを演劇として伝えようとする」という、メタフィクション的な要素がある。
これはまさしく創造力に絡む話であり、最初の台本はSグリの物語をそのままなぞったものであった。
しかし、この台本は「新条アカネの存在が今一つ受け入れがたい」という理由でクラスメイトから否定されてしまう。
メタ的なSグリへの評価という面もあるのかもしれないが、作中の人間からしたら枠外の存在であるテーマを描くには六花と内海の理解が足りてないということなのかもしれない。

その後世界が入り交じるカオスの結果、ダイナゼノン組の要素が取り入れられて娯楽性が増したことで台本は評価を得るが、今度はキャラが増えた弊害でアカネ周りはオミットされてしまう。
六花が本当に描きたいことから離れている気がする、と感じる裕太の懸念はそのまま世界の混乱へと直結し、生と死の境目すら曖昧になる。
「カオスで因果関係がよく分からないけど、キャラがわちゃわちゃしてなんとなく楽しいから良いのか?」と視聴者が思い始めたタイミングで、この時間も生死も曖昧なカオス空間が形成されるため、裕太の「まだ告白できてない!」という焦りが改めて突きつけられるのだ。

ここで作品全体のどんでん返しとして、空想から世界を創造する力が人だけではなくグリッドマンにもあり、それがダイナゼノン世界を作ったことが示される。
更に裕太の六花に告白したいという情動が、世界のカオスに気づかせる大きなファクターであったとも分かるのである。
日常パートの軸が一気に本筋の戦いに加わる構成として、非常に巧みだ。
そして創造力を搾取する黒幕であるマッドオリジンにより、グリッドマンは宇宙そのものとして拡充され、作中に起きたカオスの要因となってしまう。
これを救い出すのが、グリッドマンユニバースの被造物であった蓬と、グリッドマンによって救われたアカネと、裕太だった。
裕太はグリッドマンの被造物ではないが、グリッドマンに「2ヶ月の時間を奪った負い目」という情動を抱かせた張本人だ。情動と創造力は密接に絡むので、それを解決することで問題も解決されていくのである。
Sグリで描かれた「被造物による造物主の救済」と「情動と創造力」の話が合わさり、ここで更に話のテンションを上げて進めていく作りは圧巻だ。

最終決戦では、改めてグリッドマンの創造力から再定義されたダイナゼノンやあらゆる味方が復活し、総力戦の末マッドオリジンを撃破する。
グリッドマンの負の情動によって産み出されたカオスに対し、皆のイメージから新たな姿が構築され、敵を撃ち破るのは原点回帰の側面もあって非常に文脈が強い。
皆の描いたグリッドマンは玉石混淆のクオリティであったが、全てが合わさることによって、単にグリッドマンから怪獣を作るだけのマッドオリジンを倒す力になる。
弱いグリッドマンも、皆の創造力があれば強大な敵を倒せる。
創造力で作られた怪獣を倒すのもまた、創造力であると再び高らかに謳われているのである。

最後、文化祭の演劇がどういうテーマで描かれたのかは不明だが、観客が笑って帰ったことは示されている。
娯楽性を強めるかテーマ性を重視するかの二項対立はあれど、楽しむことができればそれが作品にとって最上のことである、そのようなメッセージであろう。


ダイナゼノンを見たあとでの理解

先述した通り、1回目の視聴ではダイナゼノンを全く知らずに見たので、ダイナゼノン組のドラマはある程度は飲み込めたものの、やはり重みが若干減じていた面は否めない。
なので、2回目を見るまでの間にアマプラで一気に視聴しておいた。

ダイナゼノンは、巨大ヒーローものであったSグリと異なり、合体ロボットと怪獣の対決を主軸にしたヒューマンドラマである。
前作と比較するとSグリは全体を通した謎であるとか、世界観自体が一つの物語を引っ張る縦軸として機能していたのに対し、ダイナゼノンはヒューマンドラマとしての側面が縦軸として機能している。

これがとても重要で、Sグリが描いていなかった「合体時のドラマ」というものを主軸にしているのだ。
実際Sグリ初見時はあまり気にしてなかったのだが、グリッドマンが新世紀中学生が変身するアシストウェポンと合体する際、彼らとのドラマ性が全くない。
折角人格を持っているキャラと合体するのにである。
これは新世紀中学生がグリッドマンの一部で、そこに深掘りすべき要素がないことによるものだと後から分かるので、意味なくオミットしたわけではないのだが。

これに対し、日常生活で躓いている4人がガウマと共に戦って少しずつ協調性を得ていく、その過程として気持ちを合わせて合体するという筋書きはドラマを補強するものである。
戦いの結果としてガウマは再び死を迎えてしまうのだが、4人は何かしらの変化を得るという落としどころは、Sグリと逆にミクロなドラマとして一定の意義を得ていると言える。

さて、ダイナゼノン組の本作における動向は、TVシリーズで得たものを元にSグリ世界へと絡んでいく形になっている。
やはり大きなトピックは「TVシリーズで死んでしまったガウマとの再会」であろう。
特に蓬はガウマに色々と後押しされて様々な問題を乗り越えていった面があるので、死に際の会話すらできなかったことに大きな思い入れがあるのはダイナゼノンを見てよく分かった。
また、インスタンス・ドミネーションを蓬が行使する下りも、本編最終回で「不自由を守るために怪獣使いにならない」と選択した彼が友のために力を使うと決めたことの重み、選んだ不自由である夢芽への謝罪を込めつつ使った意義を深く理解することができた。

夢芽は先に映画でのテンション高い状態を見たので、ダイナゼノン1話でのキャラに戸惑ってしまった。
しかし1クールかけて彼女の内面の問題が解決されていく過程は丁寧で、その帰結として映画での言動に至ったことが分かった2回目は納得と微笑ましさを感じた。
ボイスドラマでは更に暴走が進行していたが、まあそれもあれだけ苦しんだことの反動として考えればおかしくはない、かもしれない。

暦とちせについては、ガウマを除いたダイナゼノン組で最初に映画に出てくる面子なので、初見時はよくキャラが掴めていなかった。
彼らは映画では少し脇役気味だったが、何が二人の後ろにあるのかを描き出したTV版を見ると、暦がまた無職に戻ったことが何とも言えない味になってきたり、ちせが完全に暦の保護者として振る舞っていることに成長を感じたりもした。

そして、カオスの結果としてもたらされたガウマと姫の再会。こちらも初見時では意味をよく飲み込めてなかった。
ガウマがなぜダイナゼノンを駆って戦うのか、という理由の根幹にあったのが姫その人である。
しかしTV版終盤で姫が後を追ったことを知り、もう会えないと悟りながらもガウマは皆の未来を守るために戦って力尽きた。
目的を失っても4人の未来を守るために戦った姿は結果を知っていても悲壮なものであり、だから再会させたのが監督としては野暮に思えたのも分からなくもない。
だが、それはそれとして必死に戦った彼に、カオスの結果としてではあるがこのような救いがあったのは良いことに思える。
単なるファンサービスではなく、既に生と死が曖昧な状態までカオスが進んでいると観客に示す、重要なシーンとして絡めてくるのがまた巧妙なところだ。
この時二人が語る「人として守るべき三つのこと」は、TV版では最後の一つが言えずじまいだったと後から知った。
それが「賞味期限」というのは少しフレーズとして変な感じを覚えたのだが、「賞味期限とはすなわち未来である」という考察を見たとき、とても合点がいった。
ガウマ隊とグリッドナイト同盟は怪獣から未来を守るために戦ったのだから。

もう一つ、アンチ改めナイトがダイナゼノンで何をしてきたかを知ってから見ると、最後の戦いとアカネとの会話にグッと来るものがある。
それはSグリ本編での言動から見ると、本当に長い長い間積み重ねられてきた「赦し」といえる。
造物主として街の破壊と殺戮を繰り返してきたアカネは、自らが憎んだ被造物であるアンチに助けられたにも関わらず、礼を言って別れられなかった。
そんなアンチはナイトとしてダイナゼノン世界を救ってきたが、アカネにご飯を食べさせてもらったことが心残りになっていたとガルニクス回で分かるのである。
そして映画の最後で再会した時、ナイトはアカネの罪を詰るよりも、産み出してくれたことの感謝を語る。アカネはそれに対して髪を触ることで礼を伝えるのだ。
Sグリ本編ではアカネから六花への感謝は伝えられたものの、アンチに対しては何か言う時間がなかったので仕方なかったのだが、このやり取りでアカネの罪の一端がようやく赦されたと感じた。
アカネがアンチにしたことはかなり酷いのだが、同時にアンチが生まれなければナイトとしてダイナゼノン世界を救うこともなかった。
彼女が犯した罪が消えてはいないのだが、彼女が作ったものは世界を越えて救済をもたらしたのである。
ナイトは決して、アカネの贖罪のために働いていたわけではない。
それでも造物主に否定された自らの存在意義を彼なりに考えて、ようやくアカネと向き合って感謝を言えたのだから、アカネにとっての赦しの一つとなったことには違いないだろう。


さて、ここまで長々と各方面からの語りを書いてきたが、正直書ききれないほどの多面的なファンサービスとメタフィクションへの言及と熱量で本作は構成されているので、見る度に新たな発見がなされる映画であると自分は思う。
公開規模が小さいのは唯一の難点だが、劇場で何度も見るだけの意義はあると繰り返し強調して、本稿の筆を置かせていただく。


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シン・ウルトラマンの取り急ぎの感想(ネタバレあり)

2022-05-14 18:32:00 | 特撮
とりあえずまとまった感想を書こうとすると新鮮味が薄れるので、印象的なところだけさっさと書き出しておく。ネタバレ全開なので注意。











まず、今回のウルトラマンの容姿。
カラータイマーと背鰭を廃したスタイルは着ぐるみの制約から解かれた部分だが、まさかAタイプ~Cタイプの顔の変遷をやるとは思わなかった。そこにまず意表を突かれた。
もしかしたら「シルバーヨード」(Aタイプの口を開けて可燃性の液体を吐く技。没になった)をやるのかとすら思った。
更に、カラータイマーの代わりに設けられた「体力を消耗すると赤いラインが薄れていく」という設定。
こちらもCGならではのアレンジで面白く、かつ音がないので「気がついたらヤバい」という状況が作れていて緊張感がある。

次に、登場キャラ。
人間キャラについてはシン・ゴジラほど深みのある人物造形というわけではなかったかな、というのが率直な印象。
ちょっとドラマ面のテンポが滅茶苦茶速かったので、言動がコロッと変わりがちなのは致し方ないかな…。悪いキャラ作りではないし、特に滝の苦悩は「小さな英雄」をそのまま発展させたようで面白かったのも事実。
敵キャラについてはCGならではの造形がかなり光った。半分しかないザラブ星人には唸らされたし、超巨大レールガンと化したゼットンも良い捻りだった。
狡猾な方法で破壊も織り混ぜて取り入るザラブ星人→破壊は使わず言葉巧みに上位存在に位置付けようとするメフィラス星人→危険と判断して地球そのものを消し去るゾーフィと、敵キャラのランクアップも十分なのだが、できればザラブ星人の前にバルタン星人をいれて欲しかった。構想通り三部作の映画ならそれをできたのになあ…。
怪獣についてはのっけからゴジラ→ゴメスの改造ネタに始まり、バラゴン改造組を出すことで「こいつらには関連性がある」と前フリをするのは見事だった。
余談だが、パゴスを倒したときに死体処理でめっちゃ大変な目に遭ったことを台詞だけで示しているのは面白く、「あとしまつ」への当てこすりかなにかとあらぬ考えを抱いて笑ってしまった。

最後に、ストーリー。
基本的には初代ウルトラマンの話を下敷きにして、現代SF的なエッセンスを注入した作りなので安定感がある。
その中で、縦割り行政や国家間の駆け引きといった内容は割と少なめで、外星人と日本の戦いがかなり強く描かれている。ここは個人的に思いきってて良かった。
メフィラス星人の「侵略に対抗するために人類も巨大化する術を身に付けるべき」という甘言は、「大国によって侵略を受けている国がある現代」だからこそ響いた。ここは期せずして情勢とリンクしてしまったのだろうか。
そしてアレンジの中では、やはり「光の国と地球では根本的に考えが異なる」という強烈な一手が光る。
実は平成セブンでは、同じように光の国と地球の正義がぶつかり板挟みになるという展開をやってるのだが、続編ではない完全なリブート世界として作っている本作の使い方は個人的に上手く感じた。
「ゼットンを操ったのは謎の宇宙人ゾーフィ」「1兆度の火球」という児童誌ネタを取り上げつつ、なぜウルトラマンは地球を守るのかという根本的問題をうまく突いたように感じた。
最初は社会という概念が理解できず、個々の存在すら曖昧だったウルトラマンが、最終的に命を捨てつつ生きたいという意思で神永を助けるという収まり。
命を二つ持ってきてゾフィーが解決するのもハッピーエンドで嫌いじゃないけど、結局最後は希望が宇宙的意思に勝つのも良い終り方だと思う。


まあただ、特撮ヲタク的フェチズムというべき部分は割と強く出ていたように感じたし、「この展開ウルトラマンの文脈読めるから好きだけど、何も知らん人はこれ見てどう思うのかな…」と心配ではある。
そんな問題を払拭するヒット作になってほしいが、どうなるかはまだ分からない。

完全な余談として、「あとしまつ」に出ていた嶋田久作と岩松了がいずれも政治家役として出ていたのには苦笑してしまった。勿論あの映画の悪夢を払拭する演技と役回りだったので安心はしたが。
「あとしまつ」のあとしまつが自分の中でようやくできたのかな…。


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「大怪獣のあとしまつ」感想

2022-02-05 16:57:00 | 特撮
Twitterを見られている方はご存じかもしれないが、自分は特撮好きである。
そのため見る映画は基本特撮映画で、東映の映画の比率が高い。
本作の予告編はこの関係でよく見ており、松竹と東映がタッグを組むという意外性、更に怪獣を扱うという話題ゆえに気にかけていた存在だった。
もちろん、「倒したあとの話」ということは事前に分かっていたので、劇的なドンパチは端から期待していなかったし、死体処理をめぐって右往左往する様を描くならギャグ方面に流れることも予想はできた。
またウルトラシリーズには同様のネタを扱った「怪獣の出てきた日」や「見えない絆」という佳作があるので、そこから映画スケールにどうネタを広げるのかという期待はしていた。

だが、公開当日のTwitterにて多数観測されたのは特撮ファンによる酷評であった。
多少気になっていたとはいえ、ここまでの酷評は中々に見ることができないものであったため、ならば逆に見てみようという気になってしまった。

結果、自分はあまりにも低級なギャグと、クオリティの低い特撮と、グダグダ極まるシナリオに苦しめられる2時間を体感することになった。

ならば、どこが苦痛だったのかを表現するのが文字書きとしての最大限の報復といえよう。
先述した三点に絞って話を進めていくことにする。


以下、ネタバレになります。






低級なギャグ

まず、怪獣という存在は現実にはいない。それを出すからにはどこまでがリアルで、どこからが嘘なのかをしっかり線引きしなければならない。
その点について、本作では自衛隊は登場せず、「国防軍」と「特務隊」が怪獣との戦いに従事したことになっている。
ここは設定でのリアリティラインをかなり下げる設定ではあるが、そこに出てくるメンツが揃いも揃ってコメディ寄りで共感に欠ける上に、作中の視点がぶれまくっているため、映画に必要な没入感が一切感じられない。
没入できない状態でギャグを繰り返されても、基礎を固めずに建物を作るようなものであり、上滑りという感覚がとても強くなってしまった。

そして、本作のギャグの大半は下ネタである。
下ネタでも笑えるものはあるだろうが、本作の大半が直接的なネタばかりなものだから、「よくこんなことを記者の前で言って政治家が務まるな」という気分にならざるを得ない。
特に環境大臣が転落して突き刺さるシーンと、モザイクのシーンは直視に耐えなかった。あまりにも辛い。
風刺ギャグもあるにはあるのだが、それすらも笑えるラインには達していない。
没入できない展開に合わないギャグを連発されたものだから、あまりにも低級なコメディとしか個人的には言いようがないのである。

あとこれは本質に関係しておらず、かつデリケートな話題なので直接書くことは避けるが、シン・ゴジラが匂わせる程度で済ませていたものをガッツリ描いているシーンがある。
個人的には、ギャグとしても許されないラインに一歩踏み込んでいるのではないかと思わざるを得ない。
そもそも、リアリティのラインを引き下げているなら無理に出さなくてよかったのではないか。しかも三度も。


クオリティの低い映像


次に触れておきたいのが、映像としてのクオリティである。
本作はリアリティの低さが目立つのだが、それを補えるだけの映像の面白さがあればまだ良かったのではないかと思う。
しかし実態は、映像としての面白さすらもない。

まずは怪獣について。
勿論、若狭新一氏による造形は悪くないのだが、死体として映るシーンしかない。
無論仕方ない面もあるのだが、如何せん封鎖地域というだだっ広い野原に死体が転がってるシーンしかないので、怪獣に必要な「日常の破壊」という部分が全く描けていない。
どうせなら東京のど真ん中で死体として転がってた方が絵的に面白かったはずだし、なによりシン・ゴジラのパロディとして良質なものになったはずだ。

そして、輪をかけて問題なのが各種作戦の描写だ。
どれも映像として面白いものを作る!という気概に欠けているような代物で、「え、これで終わり?」という感覚に終始苦しめられた。

最初に描かれた国防軍による冷却作戦は、失敗すること前提のものだったので、描写が簡単でも仕方がない面もある。
ただそれにしても、凍結した死体の絵を出すだけで終わりというのは酷い。
一方向からの視点のみでマルチアングルすらないのだ。個人的にはあまりにも手抜きな画作りとしか思えなかった。

次に描かれた特務隊によるダムバスター作戦。これが本作における主人公サイドメインの作戦といえるのだが、こちらも映像は手抜きとしか言いようがない。
ダムに光でグリッドを引いて爆薬を仕掛ける映像や、濁流が怪獣にかかる映像自体は悪くないのだが、肝心のダムが崩壊する映像がないのである。
策略でダムの構造計算に失敗し、爆薬が足りず水がチョロチョロ出るだけという映像はある。
それなのに、結果としては下流に濁流が行くにもかかわらず「爆破に成功して見事ダムが崩壊!」という映像がないのだ。
たとえその結果が失敗だったとしても、笑いを造るために一時的な話の熱さは必要なはずだと、個人的には思う。

最後の排煙作戦はミサイルを迎撃する、という一捻りが加わっていたので前二つよりはマシだったが、それでも映像としては動きに欠けるものであった。
総じてどれも、作戦をやるというワクワク感がまるで足りない。
個人的な感覚だが、ギャグとして失敗した結果を見せたいなら、そこに至るまでの部分で盛り上げておく必要が十分あるのではないか?
映像面でその辺の盛り上がりを得ることは、自分はできなかった。


グダグダ極まるシナリオ


最後にシナリオだが、男女関係が主軸ではある。
それ自体はさしたる問題ではないが、キツいのはキャラクターがことごとく魅力に欠けることだ。

まず主人公の帯刀アラタは、最後の最後で光の巨人であるという重大な秘密が明かされるためか、彼自身の内面は全く描かれていない。
この問題があるせいで、確かに要所要所では活躍をしてるし面白いことをしているものの、彼に対して感情移入することができなかった。
またコメディの主人公ならボケかツッコミのどちらかはやってもらわないと困るのだが、彼はどちらもしない。そのせいで余計に没入感が得られなかった。
どうしてこの主人公で良いと思ったのか、製作陣を問い詰めたい気分である。

雨音ユキノと雨音正彦は、確かにこの作品の中では数少ないまともなキャラである。
しかし、彼らは異常な行動をする他のキャラに対して何もツッコミを入れない上に、平然と不倫をするものだから、やはり感情移入が難しい。
特に後者は独自の思惑で動いている面もあるせいで、余計に何を考えて行動しているのか分からなくなってしまった。

そして、特務隊関係者(とブルース)以外の大半のキャラは倫理観がおかしいとしか言いようがない。
画面に出る度に下ネタショートコントを繰り返す(上に面白くない)ものだから、単なるストレス要員である。

このような魅力に欠けるキャラクター陣に、シナリオ展開の稚拙さも追い討ちをかける。
複数の視点で二転三転することで情報量を増やすという手法は嫌いではないのだが、如何せん出てくる情報が薄味な上にリアリティに欠けているから、方向性がぶれているようにしか思えない。
特務隊が首相直属で国防省配下の国防軍と権力争いをしており、そこに環境相が個人的思惑で引っ掻き回そうとするという、政治ドラマの筋書き自体はコントとしても良さそうなのに、設定とキャラにリアリティが無さすぎて全てが台無しにされているのだ。
これなら、話の視点を一つに絞った方がまだマシだっただろう。

しかも、話が前に進まないまま最後は「デウス・エクス・マキナ」の登場で死体を空にはこんで終わる。
あまりにも予想ができた上に悲惨な落とし方で、ここまでの努力を全て台無しにするものであった。
コメディだからでは許されないと、個人的には思わざるを得ない。


最後に


パンフレットによれば、covid-19による撮影中断の影響があったらしいことはわかる。
しかしそれを差し引いても、あまりに酷い代物であったとしか個人的には思えなかった。
ただ、オリジナルで怪獣映画を撮ったという松竹と東映の気概だけは評価して、本作に対する「あとしまつ」を終えることとする。


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スクリーンで見ること

2021-02-13 14:33:00 | 特撮
今年はガメラ生誕55周年ということで、平成ガメラ3部作を4Kリマスターし、DOLBY CINEMAで再上映するという企画が行われている。

そして自分は「映画はデカイのが爆発してナンボ」という至極単純な脳みそをしているため、怪獣映画が大好きである。
殊に、92年生まれの自分にとって身近な怪獣といえば、ウルトラ怪獣であり、ガメラであった。ゴジラは95年で一旦終わっていたからである。
ただしガメラが身近だったといっても、リアルタイムで見られたのはガメラ3が最初で最後であり、その次に公開された「小さき勇者たち」は見てないのであるが。

だが、平成ガメラ三部作はテレビでの放送で繰り返し触れた。そしてそのリアルな世界観に魅了されてしまい、その後触れた仮面ライダークウガで完全にリアル志向至上主義へと変わっていくのだが、それはまた別の話なので置いておく。

さて、生まれた年の都合上本当にしかたがないことはよくあるが、その一つが「リアルタイムで過去の名作映画を映画館で見られないこと」である。
ガメラ2の公開は96年。その当時自分は4歳である。そもそも存在を今一つわかっていなかったのである。
勿論ウルトラマンティガは見ていたが、当時はまだ自分に映画を見に行く決定権はない。
そして悲しいかな、当時の自分がいたコミュニティに置いてはガメラ2はそこまで話題になってなかった。

子供はテレビの影響を受けるが、コミュニティで回りがどういうものを見ているのかにも影響される。
当時の幼稚園児にはまだ平成ガメラは早すぎたのであろう。
そのため、親に見に行こうと言うこともなく、その後テレビで見て後悔することになった。
そのリアル志向な世界観、ひたすらに上質な特撮、ストーリー、魅力的な怪獣レギオン…。どれをとっても個人的には最高であり、不朽の名作と思うに至ったが、やはり劇場で見られなかったことが凝りとして残る。
後にBlu-rayを買い、仙台で仙台が壊滅する映画を見るというなんとも奇妙なこともしたが、迫力が足りない。

そこで、今回の再上映である。
感染拡大は怖いが、千載一遇のチャンスである。
見なければ。

ということで、有楽町まで行って見てきたのであるが、「映画は映画館で見るのが良い」という、ある意味至極当然の事実を改めて感じた。

まず、スクリーンの大きさである。
当たり前であるが、スクリーンはテレビ画面の10倍以上の大きさがある。
そこに迫力の特撮が映れば、否応なく巨大感を感じる。
更に平成ガメラ特有の「目線に立った特撮」も分かりやすい。
劇中の目線同様、スクリーンを見上げることになるからだ。
やはり「仙台での撤退中車両から見上げるガメラ」のカットは渡良瀬二佐と同じように見上げてしまう。

そして、音響。
DOLBY CINEMAなので音響はテレビと比べ物にならない。
特に地下鉄襲撃のシーンで、足元から物音がして、その後運転士に襲いかかるという一連の流れでの音の動きがリアルに感じられた。
何より、爆発などの音が確実なリアル感をもって目の前に広がる。

更に、映画という環境そのものが生む集中力はテレビでは得られない。
当たり前だが、上映中にスクリーン以外の光はなく、人間の意識はそこに集約される。
そこに没入感が生まれ、何度も見返して流れをよく知ってるシーンですら、「この後どうなるのか」という緊張感が出る。
ショッキングなシーンでは劇中と同じように息をのみ、熱いシーンでは手に汗を握る。
そういった劇場の雰囲気を体感できたこと、それがとても良いものだったと思う。
上映期間は短いので、行けるときに行くのが一番である。