曹達記

ゲーム、特撮、ポケスペ等について比較的長めの文章を書く場所。

グリッドマンユニバース感想

2023-04-15 16:35:00 | 特撮
自分はアニメという媒体が割と苦手である。

その仔細については語らないが、思春期の時期から根付いてしまったこの感覚は外しようもなく、特撮に強く愛着をもつ気質と共に、創作物の見方に重大なバイアスをもたらしている。
だが、そんな自分でも珍しく1クールを完走したアニメがあった。
それが2018年に放送された「SSSS.GRIDMAN」(以下Sグリ)であった。

原作のグリッドマンについてはリアルタイムで見たことがなく、自分にとってのヒーローはウルトラマンティガが最初だったのだが、円谷プロが出したウルトラマン以外のヒーローとして記憶はされていた。
その続編をアニメで作るという試みに当初は懐疑的だったが、Twitterでの評判が非常によかったことから後追いで視聴していった。
すると、自分の先入観を一気にひっくり返されてしまった。「特撮をアニメでやる」というやり口に忠実なアプローチ、それでいて実写では不可能な「ゴテゴテした合体とキレのあるアクションの両立」に魅せられた。
さらにストーリーを通しての謎とどんでん返しに最後まで驚かされ、大いに楽しんだのであった。

しかしそれ以降はまたアニメを見たくない思いが強くなってしまい、2021年に放送された続編である「SSSS.DYNAZENON」(以下ダイナゼノン)については見送ってしまった。
こちらもTwitterでの評判がよかったにも関わらず、どうも食指が動かなかったのである。

そんな中、またグリッドマン関係のアニメをやるという。
更にダイナゼノンとのクロスオーバー映画らしい。
昔見た作品だし見に行ってみるのも悪くないな、でもダイナゼノン見てないし大丈夫なのかなと迷いつつも、やはりここでもTwitterでの評判を見て良さそうと判断し見に行くことにしたのであった。


結果、オールタイムベストにカウントするレベルの映画を目の当たりにしたのである。
「シン・ゴジラ」以来となる、同じ映画を複数回見に行った程度には、だ。4回は過去最多である。

以下、3作品のネタバレを全開で書いていきますのでご注意ください。






本作はどこを切り取っても語るべきポイントが大量にあるのだが、今回は3点で記述していきたい。
更に2回目を見る前にダイナゼノンをアマプラで全話視聴したので、それを踏まえた感想の部分も4点目として記載しておく。


映像面でのカッコよさ

まず本作は怪獣と巨大ヒーローが戦う作品である。
なので、街を破壊し爆発する描写がふんだんに盛り込まれている。
TVシリーズでは音響を意識することはなかったのだが、それが映画レベルの音響になることで一つ一つの爆発と車の吹っ飛びが強烈に耳に響く。

それだけではなく、TVシリーズ以上に巨大感とスピードを強調する構図がふんだんに取り入れられている。
例えばがっぷり4つに組み合うところで下から見上げる構図であるとか、ビルにジャンプで飛び乗って光線をかわすシーンであるとかである。
これにより実写では難しい巨大感とスピードの両立がされており、更に全合体であるローグカイゼルグリッドマンも高速で動きまくる。
ハイレベルな「特撮」映像をスクリーンで見ることは、率直に言って鳥肌が立つぐらい全身が沸き立った。

しかもこのハイレベルな戦闘は都合3回楽しめるし、戦い方は3回とも違うので飽きがこない。
この点は本当に映画館でないと体感できないところなので、これだけでも本作を映画館で見る意義はあると言いきれる。
更にラストの戦闘シーンは、主題歌の使い方が完璧と評せざるを得ない。
ピンチにダイナゼノンが現れる瞬間、静かな歌い出しが盛り上がるダイナゼノン主題歌の「インパーフェクト」が流れ、グリッドマンと合体するタイミングでSグリ主題歌の「UNION」に切り替わり、最後のとどめのタイミングで「uni-verse」がかかる、この一連の流れと合体変形が組み合わさるのである。
しつこいようだがこれは完璧な演出で、映画館で見ることの意義を大いに感じるものである。


キャラの「その後」の感動

ここからはストーリー面でのネタバレを書いていく。
キャラ面から見てみると、本作はSグリの世界にダイナゼノンの登場人物が絡んでくる形のクロスオーバーである。

ここでポイントになるのは、主人公である響裕太はSグリにおける戦いを全く覚えていないということ。
そのため、Sグリ視聴者としても未知の領域であった「響裕太本人の人格がいかなるものであるのか」を本作で知ることとなり、話が見えやすくなる。
話の主軸も彼の告白をめぐる動きが中心となり、観客は彼に感情移入しながら見ていくこととなる。
そして、彼自身の感受性豊かで女性に対してウブな部分と、対照的に危機とあらば自身を捨てることも厭わないまっすぐなヒーロー気質が明らかになっていく。
それこそが作品全体を貫く清涼感として機能し、日常パートでは学園祭に向けた準備に右往左往する様やダイナゼノン組との絡み、本題である告白を巡っててんやわんやする様が微笑ましく見える。
更に危機が迫れば我が身を省みず真っ先に駆け出す様は率直にカッコいいし、応援したくなるものだ。

一方の六花と内海はというと、こちらは当然ながらTVシリーズの延長線上でキャラが構築される。どちらも違和感なく好感を覚える描き方だ。
六花はSグリの冒頭「何か」があって記憶喪失の裕太と一緒にいたこと、そして裕太が彼女に想いを寄せていたのが解決の発端であったと最終話で知ったことから、彼に対して憎からず思っているはずなのだが、今一つ踏み切れない裕太に対してどう考えているのか序盤は読めない。
しかし学園祭の準備を一緒に進めていくのと並行して、再び戦いに巻き込まれた裕太のことを気にかける描写が増えていくと、本心ではもうとっくに答えは出ていて、彼の行動待ちであることが読み取れるようになる。
極め付きは、グリッドマンと一体化すれば世界を救える代わりに確実に自我が喪失すると宣告された裕太が、迷わず一体化を選んだ下りでの「少しは迷ったりしろよ…」である。
アニメでは初めての名前呼びに続いてのこの一言で、戦いに行くのを止めたくはないけど少しは側にいる自分のことを考えてほしい、という複雑な乙女心が如実に出ている。
ここまでお似合いの台詞を言ってしまっては、後輩二人にまだ付き合ってないことを弄られるのもやむなしだと個人的には感じた。
最後のシーンはそんな二人のいじらしさが前面に出ていて、壮大な話の締め括りとしてミクロで幸せな〆に入る作りをキャラの力で最大限に活かしている。

内海については、Sグリにおいてのウルトラシリーズヲタ要素だけではなく、何かしらの人生経験を積んだかのように見える。
明言はされてないが、同級生の女子と二人きりでバッティングセンターに行くのは、もはやそういうことなのだと思う。
自分が役に立ってないことを悩んでいた頃と比べると、ノリの良さは変わらずに裕太と友達でいることが自分の役割だと割り切ったことで、非常に頼りになる雰囲気が出ている。

更に本作最大のサプライズと言える、新条アカネとアレクシス・ケリヴの復活。
Sグリの出来事を経て、アカネが自分のためではなく友のために超越した力を使う展開は、こちらも成長を実感できて非常に良かった。
敢えて六花と話さずにただ触れて元の世界に帰るのも、Sグリ最終回を損なわない出し方で良い。
アレクシス・ケリヴは相変わらず退屈をもて余して楽しんでただけだったのかもしれないが、大ピンチでアカネを分離して自分はマッドオリジンもろとも死を迎えるという行動は、Sグリ本編での悪辣さからしたら心境の変化があったのかもしれない。
おそらく自分が創造力を利用して力にするのは良くても、自分と関係ないマッドオリジンに食われるのは忍びないと考えたのかもしれないが、シンプルに熱い展開なので些末な問題か。

ダイナゼノン組については初見時は未視聴だったため、後の項目に譲ることとする。
しかし彼らの言動の裏側に何があるのか分からなくても、話を止めるような方向性で関わるものではないし、主軸を書き消すような存在ではない。
個人的にはダイナゼノンを見なくても、十分楽しめる領域にあると思う。ただ見た方がより強烈に楽しめるとも考えている。


メタフィクションと創造力

原点である「電光超人グリッドマン」は、グリッドマンという名と姿を与えた善のクリエイターである主人公組と、怪獣をコンピューターワールドに送り込む悪のクリエイターである武史の戦いであった。
どちらもモノをコンピューター上で作るクリエイターが、お互いの創造力で戦力を拡充し戦いを繰り広げる構図である。
特に武史については、日常の些細な不満が怪獣を産み出す情動になっていることが強く描かれ、情動と創造力の関連性が話のきっかけとなっている。

創造と情動が話の主軸になっている点はSグリにも受け継がれ、創造力をアレクシス・ケリヴにつけこまれた新条アカネは情動の赴くままに怪獣での殺戮を繰り返しつつも、度重なる敗北と罪を突きつけられたことで心が折れ創ることができなくなる。
もはや創造力がなくなったアカネは自らの情動を養分とした怪獣にされてしまうが、被造物である六花たちに救われることで決着する。
ダイナゼノンでも、人々の情動が怪獣の種と結び付いて怪獣を形成するという舞台設定があるため、ここでも情動と創造力が関係している。

そして本作では、日常パートのサブの軸として「かつての戦いを覚えている六花と内海がグリッドマンのことを演劇として伝えようとする」という、メタフィクション的な要素がある。
これはまさしく創造力に絡む話であり、最初の台本はSグリの物語をそのままなぞったものであった。
しかし、この台本は「新条アカネの存在が今一つ受け入れがたい」という理由でクラスメイトから否定されてしまう。
メタ的なSグリへの評価という面もあるのかもしれないが、作中の人間からしたら枠外の存在であるテーマを描くには六花と内海の理解が足りてないということなのかもしれない。

その後世界が入り交じるカオスの結果、ダイナゼノン組の要素が取り入れられて娯楽性が増したことで台本は評価を得るが、今度はキャラが増えた弊害でアカネ周りはオミットされてしまう。
六花が本当に描きたいことから離れている気がする、と感じる裕太の懸念はそのまま世界の混乱へと直結し、生と死の境目すら曖昧になる。
「カオスで因果関係がよく分からないけど、キャラがわちゃわちゃしてなんとなく楽しいから良いのか?」と視聴者が思い始めたタイミングで、この時間も生死も曖昧なカオス空間が形成されるため、裕太の「まだ告白できてない!」という焦りが改めて突きつけられるのだ。

ここで作品全体のどんでん返しとして、空想から世界を創造する力が人だけではなくグリッドマンにもあり、それがダイナゼノン世界を作ったことが示される。
更に裕太の六花に告白したいという情動が、世界のカオスに気づかせる大きなファクターであったとも分かるのである。
日常パートの軸が一気に本筋の戦いに加わる構成として、非常に巧みだ。
そして創造力を搾取する黒幕であるマッドオリジンにより、グリッドマンは宇宙そのものとして拡充され、作中に起きたカオスの要因となってしまう。
これを救い出すのが、グリッドマンユニバースの被造物であった蓬と、グリッドマンによって救われたアカネと、裕太だった。
裕太はグリッドマンの被造物ではないが、グリッドマンに「2ヶ月の時間を奪った負い目」という情動を抱かせた張本人だ。情動と創造力は密接に絡むので、それを解決することで問題も解決されていくのである。
Sグリで描かれた「被造物による造物主の救済」と「情動と創造力」の話が合わさり、ここで更に話のテンションを上げて進めていく作りは圧巻だ。

最終決戦では、改めてグリッドマンの創造力から再定義されたダイナゼノンやあらゆる味方が復活し、総力戦の末マッドオリジンを撃破する。
グリッドマンの負の情動によって産み出されたカオスに対し、皆のイメージから新たな姿が構築され、敵を撃ち破るのは原点回帰の側面もあって非常に文脈が強い。
皆の描いたグリッドマンは玉石混淆のクオリティであったが、全てが合わさることによって、単にグリッドマンから怪獣を作るだけのマッドオリジンを倒す力になる。
弱いグリッドマンも、皆の創造力があれば強大な敵を倒せる。
創造力で作られた怪獣を倒すのもまた、創造力であると再び高らかに謳われているのである。

最後、文化祭の演劇がどういうテーマで描かれたのかは不明だが、観客が笑って帰ったことは示されている。
娯楽性を強めるかテーマ性を重視するかの二項対立はあれど、楽しむことができればそれが作品にとって最上のことである、そのようなメッセージであろう。


ダイナゼノンを見たあとでの理解

先述した通り、1回目の視聴ではダイナゼノンを全く知らずに見たので、ダイナゼノン組のドラマはある程度は飲み込めたものの、やはり重みが若干減じていた面は否めない。
なので、2回目を見るまでの間にアマプラで一気に視聴しておいた。

ダイナゼノンは、巨大ヒーローものであったSグリと異なり、合体ロボットと怪獣の対決を主軸にしたヒューマンドラマである。
前作と比較するとSグリは全体を通した謎であるとか、世界観自体が一つの物語を引っ張る縦軸として機能していたのに対し、ダイナゼノンはヒューマンドラマとしての側面が縦軸として機能している。

これがとても重要で、Sグリが描いていなかった「合体時のドラマ」というものを主軸にしているのだ。
実際Sグリ初見時はあまり気にしてなかったのだが、グリッドマンが新世紀中学生が変身するアシストウェポンと合体する際、彼らとのドラマ性が全くない。
折角人格を持っているキャラと合体するのにである。
これは新世紀中学生がグリッドマンの一部で、そこに深掘りすべき要素がないことによるものだと後から分かるので、意味なくオミットしたわけではないのだが。

これに対し、日常生活で躓いている4人がガウマと共に戦って少しずつ協調性を得ていく、その過程として気持ちを合わせて合体するという筋書きはドラマを補強するものである。
戦いの結果としてガウマは再び死を迎えてしまうのだが、4人は何かしらの変化を得るという落としどころは、Sグリと逆にミクロなドラマとして一定の意義を得ていると言える。

さて、ダイナゼノン組の本作における動向は、TVシリーズで得たものを元にSグリ世界へと絡んでいく形になっている。
やはり大きなトピックは「TVシリーズで死んでしまったガウマとの再会」であろう。
特に蓬はガウマに色々と後押しされて様々な問題を乗り越えていった面があるので、死に際の会話すらできなかったことに大きな思い入れがあるのはダイナゼノンを見てよく分かった。
また、インスタンス・ドミネーションを蓬が行使する下りも、本編最終回で「不自由を守るために怪獣使いにならない」と選択した彼が友のために力を使うと決めたことの重み、選んだ不自由である夢芽への謝罪を込めつつ使った意義を深く理解することができた。

夢芽は先に映画でのテンション高い状態を見たので、ダイナゼノン1話でのキャラに戸惑ってしまった。
しかし1クールかけて彼女の内面の問題が解決されていく過程は丁寧で、その帰結として映画での言動に至ったことが分かった2回目は納得と微笑ましさを感じた。
ボイスドラマでは更に暴走が進行していたが、まあそれもあれだけ苦しんだことの反動として考えればおかしくはない、かもしれない。

暦とちせについては、ガウマを除いたダイナゼノン組で最初に映画に出てくる面子なので、初見時はよくキャラが掴めていなかった。
彼らは映画では少し脇役気味だったが、何が二人の後ろにあるのかを描き出したTV版を見ると、暦がまた無職に戻ったことが何とも言えない味になってきたり、ちせが完全に暦の保護者として振る舞っていることに成長を感じたりもした。

そして、カオスの結果としてもたらされたガウマと姫の再会。こちらも初見時では意味をよく飲み込めてなかった。
ガウマがなぜダイナゼノンを駆って戦うのか、という理由の根幹にあったのが姫その人である。
しかしTV版終盤で姫が後を追ったことを知り、もう会えないと悟りながらもガウマは皆の未来を守るために戦って力尽きた。
目的を失っても4人の未来を守るために戦った姿は結果を知っていても悲壮なものであり、だから再会させたのが監督としては野暮に思えたのも分からなくもない。
だが、それはそれとして必死に戦った彼に、カオスの結果としてではあるがこのような救いがあったのは良いことに思える。
単なるファンサービスではなく、既に生と死が曖昧な状態までカオスが進んでいると観客に示す、重要なシーンとして絡めてくるのがまた巧妙なところだ。
この時二人が語る「人として守るべき三つのこと」は、TV版では最後の一つが言えずじまいだったと後から知った。
それが「賞味期限」というのは少しフレーズとして変な感じを覚えたのだが、「賞味期限とはすなわち未来である」という考察を見たとき、とても合点がいった。
ガウマ隊とグリッドナイト同盟は怪獣から未来を守るために戦ったのだから。

もう一つ、アンチ改めナイトがダイナゼノンで何をしてきたかを知ってから見ると、最後の戦いとアカネとの会話にグッと来るものがある。
それはSグリ本編での言動から見ると、本当に長い長い間積み重ねられてきた「赦し」といえる。
造物主として街の破壊と殺戮を繰り返してきたアカネは、自らが憎んだ被造物であるアンチに助けられたにも関わらず、礼を言って別れられなかった。
そんなアンチはナイトとしてダイナゼノン世界を救ってきたが、アカネにご飯を食べさせてもらったことが心残りになっていたとガルニクス回で分かるのである。
そして映画の最後で再会した時、ナイトはアカネの罪を詰るよりも、産み出してくれたことの感謝を語る。アカネはそれに対して髪を触ることで礼を伝えるのだ。
Sグリ本編ではアカネから六花への感謝は伝えられたものの、アンチに対しては何か言う時間がなかったので仕方なかったのだが、このやり取りでアカネの罪の一端がようやく赦されたと感じた。
アカネがアンチにしたことはかなり酷いのだが、同時にアンチが生まれなければナイトとしてダイナゼノン世界を救うこともなかった。
彼女が犯した罪が消えてはいないのだが、彼女が作ったものは世界を越えて救済をもたらしたのである。
ナイトは決して、アカネの贖罪のために働いていたわけではない。
それでも造物主に否定された自らの存在意義を彼なりに考えて、ようやくアカネと向き合って感謝を言えたのだから、アカネにとっての赦しの一つとなったことには違いないだろう。


さて、ここまで長々と各方面からの語りを書いてきたが、正直書ききれないほどの多面的なファンサービスとメタフィクションへの言及と熱量で本作は構成されているので、見る度に新たな発見がなされる映画であると自分は思う。
公開規模が小さいのは唯一の難点だが、劇場で何度も見るだけの意義はあると繰り返し強調して、本稿の筆を置かせていただく。


記事をお読みいただきありがとうございました。
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年末のご挨拶

2022-12-31 20:23:38 | 日記
下期は丸々記事更新がストップしてすみませんでした。

原因としてはリアル事情がとても忙しくなったことで、これは来年まで続く予定です。
仕事が変わるわけではないですが、とかく人生の一大事が起きる予定なので、中々先が見通せない状態です。
ポケスペ剣盾編については毎月本誌購入を続けてますので、単行本が出た際にそれと比較しながら感想を書きたいと考えています。

ヨロイ島編突入後のポケスペについては、割と話の流れが安定するようになったと思いましたし、バトルもダイマックスを廃したことでスムーズに展開できています。
反面、カンムリ雪原側の描写がダイジェストになっているので、そこが通巻版で補足されるならより良くなるのかなと思います。

今年は初の映画感想もチャレンジしましたが、見返しができない映画の感想はかなり苦労しました。
あまり見る映画は多くないですが、今後も感想を書いていきたいです。

最後になりましたが、今年も弊ブログをお読みいただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

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2022年4~6月ポケスペ剣盾編簡易感想

2022-07-21 01:10:00 | ポケスペ
リアル事情の多忙により、またしても更新が長く空いてしまった。
読んだ直後の感想自体はちょくちょく書いてはいるのだが、まとめて書くことができていない。
単行本の発売も近いので、この3回分については短めの感想で済ませることにしたい。


4月掲載

↓当時の感想ツイート

ムゲンダイナが覚醒し、本気の姿を現した回。
もはやタイプ相性もないムゲンダイビーム連射により、次々とポケモンが倒され大ピンチに陥る一同だが、ザシアンとザマゼンタの介入で窮地を脱する。
ここで朽ちた剣と盾が事態打開の切り札となりうることが推察されるも、まさかのそーちゃんの離反で失敗。

この行動について、当時の感想では「闇堕ち」と評したのだが、後にムゲンダイナの毒の影響だったことが示唆されている。
とはいえ、「ジムチャレンジをやりたくなかった」という部分は本心だと思うし、それゆえに彼の内心がしばらく明かされてなかったのだろう。
しかし、そのためにジム戦の描写が等閑になったことはあまり良くなかったと思う。長期的な布石を置いておくことは重要だが、その場その場での盛り上がりもやらなければならない。
目的のためなら手段を選ばない主人公像は効いていただけに、心情の欠落を補って盛り上がりを出せる何かが欲しいところだった。


5月掲載

↓当時の感想ツイート

ザシアンとザマゼンタの攻撃でムゲンダイナが鎮静化したものの、戦っていてたジムリーダーはムゲンダイナの毒でリタイア、更にそーちゃんが行方不明になるという展開。

この回から、ようやくしーちゃんが主人公としての働きを見せるようになって良かったと思う反面、DLCの話をあと半年で済ませられるのか?という不安が出てしまった。
とりあえず話をダウンサイジングするよりも、広げる決断をしたことは尊重したい。
そのためには連載枠の拡張がなんとしてもなされなければならないのだが、編集部に仕事ができているイメージが全くないので、いい加減どうにかしてほしい。なんとも言いがたいが。

場面に注目すると、しーちゃんによるそーちゃんへの評価を語るシーン。
彼の極度な合理主義は確かに際立ってはいたが、やはり最初の印象が彼女には強かったのだろう。
ただ、それは彼女から見た一面であって、彼が本心でどう考えていたかでもう一波乱起きると予想している。
そこでどのような衝突が起き、どう解決するかが残り半年の課題になりそうだ。


6月掲載

ヨロイ島での話が中心の今回。

まずは状況整理で、腕利きのトレーナーが多いヨロイ島にはしーちゃんとマナブが行く事になった。
やはり実力で見ると、最後まで残れたホップ・マリィとしーちゃんの間には格差があるということだろう。
前回で登場人物の過半数を退場させたので、改めて話の方向性が分かりやすくなったと思う。
こうなると、剣盾は敵キャラに対して味方キャラが多すぎるので、ポケスペの話作りの上で支障が大きかったのだと改めて痛感した。
そして残りはカンムリ雪原に向かうこととなり、まあこちらはこちらで協調性に欠ける面子が一人いるので波乱が起きそうではある。

さて、クララとセイボリーは両方出てきて、互いにライバル視する関係としてきた。
更にクララはムーンと連絡先を交換した仲で、そーちゃんの解毒に関わることとなる。
正直、クララとムーンに関係性を出すのは予想外で、こういう地方間を繋ぐ関わりがポケスペ独自の強みに思える。
流石にここを深掘りする時間はないと思うが、今後通巻版で話を繋げられると良いかもしれない。

最後にしーちゃんとクララのバトルだが、久しぶりのダイマックスのないバトルだ。
もっとも、時間がないので全て一撃で終わってしまうのは仕方ない。
あとようやくラビフットにニックネームをつけたのだが、その葛藤ももう少し早く描けていればなあ…。
ただ、女子図鑑所有者の手持ちが6体揃ってバトルする画が曲がりなりにも描けたこと自体は、本当に喜ばしいことだと思う。


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シン・ウルトラマンの取り急ぎの感想(ネタバレあり)

2022-05-14 18:32:00 | 特撮
とりあえずまとまった感想を書こうとすると新鮮味が薄れるので、印象的なところだけさっさと書き出しておく。ネタバレ全開なので注意。











まず、今回のウルトラマンの容姿。
カラータイマーと背鰭を廃したスタイルは着ぐるみの制約から解かれた部分だが、まさかAタイプ~Cタイプの顔の変遷をやるとは思わなかった。そこにまず意表を突かれた。
もしかしたら「シルバーヨード」(Aタイプの口を開けて可燃性の液体を吐く技。没になった)をやるのかとすら思った。
更に、カラータイマーの代わりに設けられた「体力を消耗すると赤いラインが薄れていく」という設定。
こちらもCGならではのアレンジで面白く、かつ音がないので「気がついたらヤバい」という状況が作れていて緊張感がある。

次に、登場キャラ。
人間キャラについてはシン・ゴジラほど深みのある人物造形というわけではなかったかな、というのが率直な印象。
ちょっとドラマ面のテンポが滅茶苦茶速かったので、言動がコロッと変わりがちなのは致し方ないかな…。悪いキャラ作りではないし、特に滝の苦悩は「小さな英雄」をそのまま発展させたようで面白かったのも事実。
敵キャラについてはCGならではの造形がかなり光った。半分しかないザラブ星人には唸らされたし、超巨大レールガンと化したゼットンも良い捻りだった。
狡猾な方法で破壊も織り混ぜて取り入るザラブ星人→破壊は使わず言葉巧みに上位存在に位置付けようとするメフィラス星人→危険と判断して地球そのものを消し去るゾーフィと、敵キャラのランクアップも十分なのだが、できればザラブ星人の前にバルタン星人をいれて欲しかった。構想通り三部作の映画ならそれをできたのになあ…。
怪獣についてはのっけからゴジラ→ゴメスの改造ネタに始まり、バラゴン改造組を出すことで「こいつらには関連性がある」と前フリをするのは見事だった。
余談だが、パゴスを倒したときに死体処理でめっちゃ大変な目に遭ったことを台詞だけで示しているのは面白く、「あとしまつ」への当てこすりかなにかとあらぬ考えを抱いて笑ってしまった。

最後に、ストーリー。
基本的には初代ウルトラマンの話を下敷きにして、現代SF的なエッセンスを注入した作りなので安定感がある。
その中で、縦割り行政や国家間の駆け引きといった内容は割と少なめで、外星人と日本の戦いがかなり強く描かれている。ここは個人的に思いきってて良かった。
メフィラス星人の「侵略に対抗するために人類も巨大化する術を身に付けるべき」という甘言は、「大国によって侵略を受けている国がある現代」だからこそ響いた。ここは期せずして情勢とリンクしてしまったのだろうか。
そしてアレンジの中では、やはり「光の国と地球では根本的に考えが異なる」という強烈な一手が光る。
実は平成セブンでは、同じように光の国と地球の正義がぶつかり板挟みになるという展開をやってるのだが、続編ではない完全なリブート世界として作っている本作の使い方は個人的に上手く感じた。
「ゼットンを操ったのは謎の宇宙人ゾーフィ」「1兆度の火球」という児童誌ネタを取り上げつつ、なぜウルトラマンは地球を守るのかという根本的問題をうまく突いたように感じた。
最初は社会という概念が理解できず、個々の存在すら曖昧だったウルトラマンが、最終的に命を捨てつつ生きたいという意思で神永を助けるという収まり。
命を二つ持ってきてゾフィーが解決するのもハッピーエンドで嫌いじゃないけど、結局最後は希望が宇宙的意思に勝つのも良い終り方だと思う。


まあただ、特撮ヲタク的フェチズムというべき部分は割と強く出ていたように感じたし、「この展開ウルトラマンの文脈読めるから好きだけど、何も知らん人はこれ見てどう思うのかな…」と心配ではある。
そんな問題を払拭するヒット作になってほしいが、どうなるかはまだ分からない。

完全な余談として、「あとしまつ」に出ていた嶋田久作と岩松了がいずれも政治家役として出ていたのには苦笑してしまった。勿論あの映画の悪夢を払拭する演技と役回りだったので安心はしたが。
「あとしまつ」のあとしまつが自分の中でようやくできたのかな…。


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2022年3月ポケスペ剣盾編感想

2022-04-19 01:46:00 | ポケスペ
仕事が多忙で感想を書くのに時間がかかってしまった。
頭を落ち着けて書くためには、やはり体力が必要である。

前回、登場人物間の対立構図が今一つ描けていないという指摘をしたが、もはや剣盾編は緩い対立関係のままやっていくことを前提として読むしかないと覚悟を決めた。
個人的には著しく面白さをスポイルする部分なのだが、ここまで緩い対立で来た以上、今さら緊張させるのも無理である。
これはそういうものだと受け入れて今後の感想を書くので、あらかじめご了承いただきたい。


パターナリズムの行く末

オリーヴが再び地下に降りたところから。
ローズの思惑をガラルの保護と再度説明した上で、彼の気質は即断即決で誤解を生みやすいとフォローする。
そこで考えを受け入れるのが、以前にマクワとの凝りを残していたメロンというのはこれまでの文脈を踏まえていて良い。
ただ、マクワとメロンの話がカットされたのは休載という事故である以上仕方ないが、ここでの話に説得力が乗っただけにちょっと残念なことになってしまった。

ビートの名前を本当は覚えていたローズ。
自分に不満をぶつけさせるために、ビートには嘘をつき続けてきたようなのだが…どうも正当化はできないと思わざるを得ない。
結局は自己満足のように思えるし、彼はその不満から過激な行動を取っていたわけだ。
理屈付けについては次を待つとして、ここでは剣盾編のパターナリズムについて見てみたい。

剣盾編について序盤から人間関係に「パターナリズム」があると指摘してきたが、ローズはその最たるものだ。
そもそもパターナリズムとは、「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること」(パターナリズム - Wikipediaより)である。
まさしくゲームにおけるローズの行動原理そのものだし、本作においても変わっていない。
さて、パターナリズムの問題点とは、対象者の自己決定権を阻害することにある。
即ち、「自分がどうしたいか」を決定することを許さず、最良であると思われる選択肢を押し付けることが大きな問題になる。
ローズはビートに対し最良と思われる選択肢、つまり「自らに不満をぶつけて決別させる」という方向性を押し付けたが、結局彼はそれを無視した。自己決定権が勝ったのである。

ただし、ビートはローズへの崇敬の念を維持したままだ。
パターナリズムからの脱却となれば、上位者への反発も同時に出そうなものだが、ビートにはなかった。
これと同じ流れを、ガラル市民からローズに繰り返すのかもしれないと思いはするが…生活が破壊された人もいるだろうし、それはないかもしれない。

剣と盾

ブリムオンの攻撃からムゲンダイナのタイプを見破ったダンデ達は、有効なポケモンを出して攻撃する。
野暮な話だが、図鑑を使えばすぐ分かったような気もするが…もしかしたらUBのようにデータは何もないのかもしれない。

ホップは手持ちに有利なポケモンがいないため迷うが、ネズの「負けなければいい」という助言を受けて参戦。
ここ数回、ホップは迷っているシーンが多い。未熟さと彼の立ち位置の難しさの両方が原因のように思える。
前回でも説明したが、彼はジムチャレンジャーとしての意識が強い。
負けたら命をとられかねない荒事には不慣れだし、ましてや伝説という想像を超えた存在である。
タイプ有利をとれるポケモンがいないなら、戦いへと踏み切るのに迷いが出ても仕方ないだろう。

さて、ぶら下がるシーソーコンビに詰め寄るしーちゃんだったが、手持ちの行方には無関心な二人には流されてしまう。
そしてシーソーコンビは、惨めな状況と稚拙な計画をしーちゃんとソニアにカメラの前で詰られる屈辱を受ける。
ただ手持ちを奪った件について微塵も反省がない以上、これでは足りないとは思う。もう少しキツい目に遭うのではないか。

しらばっくれる二人をよそに、自力で帰ってきたギガとメガ。非常に健気だ。
更に彼らは朽ちた剣と盾も持ってきていたが、そーちゃんはそれらを見るなり強引に取ってしまう。
毒がついていたためすぐには鍛えられず、手間取っている間にムゲンダイナは本気モードを発動しつつあった。
だが、ここに来てそーちゃんは剣と盾を鍛えられないと絶望を露にしたところで次回に続いている。

鍛えられない原因は次で明かされるだろうが、文字が浮かび上がっている点も気になる。
以前はこのような文字はなかったはずだ。
にしても、そーちゃんがここまで感情を露にしたのは作中で初めてではなかろうか。
それほどまでに自らの自信があったものを打ち砕かれた絶望は強いのだろう。


まとめ

ここまで順調に進んできたそーちゃんであったが、今回初めてと言って良いほどの挫折を味わうことになった。
ここからどう巻き返すのか、次回でどのような種明かしがされるのかがポイントになるだろう。

また、そーちゃんといえば以前の話でパターナリズムを発揮していた面もある。
以前書いた(2020年7月ポケスペ剣盾編感想 - 曹達記)が、序盤でのルリナ戦で、彼は敢えて先陣を切って戦うことでしーちゃんにとって非常に有利な状況を作り出した。
しかし当のしーちゃんは事態に困惑し、ラビフットに歩み寄れないほどの焦燥を示していた。
彼女の正々堂々戦いたいという意思を、正面から受け止めずに踏みにじったのである。
しかしその後、彼のパターナリズムはあまり発揮されていないように思える。
どちらかというと彼自身の周りを見ていない気質が強く描かれている印象だ。
この辺りの彼自身の問題も、これから掘り下げが進むと期待したい。


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