第0089号
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36.ちび猫が見付けた『宗教・信仰』の自由議論(1)参照。
65.ちび猫が見付けた『宗教・信仰』の自由議論(2)からの続きです。
134.ちび猫が見付けた『理念・宗教世界のつぶやき』の再現(2)へ続きます。
令和1年度版
*次のお知らせ。【10月13日・日】
これからは、当ブログ第0092号の【『ちび猫のつぶやき』の(主張)のこれから先の概要】をメイン用例とさせてもらいます。
*自分の悲観的未来観と、地球の危機という恐怖感。【9月1日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。みんなが見た目には{『倫理道徳』に従って発展し、『科学技術』を追って進歩し、自分の存在意義の為に盲目的に命を切り売りしていて}順調に、それぞれの特定の『土台』の上への積み上げ(前後が反転した時間認識での{破綻した未来へと必然的に至る}努力)を、様々に連なって{ビル群が乱立して出来ていくように、色々な集団が様々な構成で形成されて}していたが。それによって、{ビル群の乱立に伴う諸問題(団体の内部や組織の間で起こる諸事態)のような}様々な問題(『悪の自然誌』での必然的事態や、『パラダイム変換』が必要になる必然的破綻)にそれぞれが追い詰められ、それぞれに{必然的に憂さ晴らしをするように}対処していて、{人々が色々な集団で命を切り売りする歪んだ人世界(切り売りする自分の命が尽きてしまい、死に急ぐ必要に迫られてしまう、誰もが陥る悲観的な未来観)に引きずられて}この世界(地球)が{自然の腐敗や腐食や耐性獲得や環境破壊が人間の発展や進歩を上回ってしまいかねない}危機(人間の恐怖感・幻想)に陥っていたのです。
1000年“後ろ”の時代からは。{ビル群の乱立を様々に転移・拡散させてしまうような}新しい土台の上への積み上げに誰も協力してくれないし、自分も{ビル群の乱立を様々に転移・拡散させてしまうような事をする}誰かに新たに協力する事をしたくなくて、この{人世界を含むこの世界である}地球の危機(人間の恐怖感)が{自分の存在意義など誰も求めようがなくて}放置されるに至る(負け組の人世界で人々が絶望感や無力感に陥ってしまって、人間が『連なり』による効率や効果を断念し、集団での色々な追求を止めてしまい、『土台』の上への積み上げが無くなってしまう)のです。
1000年“前(先)”の今では。【KY:空気読まない:【営業スマイル】の使い道】な人たち(アリ的お一人様)によりバラバラな発信や活動が行われる集団(アリ的集まり)が作られるのだが、そんな行いが制限される事はなく、それらがトータルで論じられる事もなく、そしてそういった【KY】な人たちの{少ない}共通点が{複数の整数から公約数が求められるように}採り上げられて、それだけがその集団における集団行為(集団としての可能性)として{考えられ}認識されているのです。
*集団の構成員の{カスな}条件は【KY】。【8月25日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。指導者はカスばかりであったが、一般市民の側に高い集団意識があり、{知性が低いまま}集団が強く形成されていた為に、各集団に分別が無くて、集団どうしでの争いが絶えなかった。
1000年“後ろ”の時代からは。「こんなカスな指導者の為に、俺ら一般市民が、{命の切り崩しのような}努力をするなんて{もったいない}事が出来るか!」という考え方が広まり、集団が形骸化していった。
1000年“前(先)”の今では。【アリ的お一人様】なカスばかりが、平等な立場で集まって、【アリ的集まり】で集団が形成されているのであった。
そんな今であるからか。集団の構成員の{カスな}条件は【KY:空気読まない:【営業スマイル】の使い道】であり、指導者になる(知性の低い)カスは無く、カスの指示に従う(集団意識が高い)だけの一般市民という存在さえ無いのである。
*【KY】な信者が【アリ的】に信仰をする【アリ的集り】の宗教。【8月24日・土】
1000年“後ろ”の時代までは。自分勝手がしたい{グウタラな}神職者(クソ野郎ども)の下に{教団などの構成員である為に命を切り売りする}一般の信徒(大馬鹿者たち)が集まる構成の宗教が、争いを続け、{淘汰される中で}宗教としての効率化が進んだ{野心を持った信徒が神職者を『祭りの神輿』にしてしまう}教団が形成されていたが
1000年“後ろ”の時代からは。グウタラなクソ野郎どもを『祭りの神輿』として担ぎ上げるのに馬鹿々々しくなってしまって、宗教が分裂し、{名前だけの}機能不全な教団が増えていった。
1000年“前(先)”の今では。【アリ的お一人様】なクソ野郎どもが、クソ野郎なまま集まる{【営業スマイル】でゴリ押しする者たちばかりの}構成で、【アリ的集り】な教団を形成していた。
そんな今であるからか。宗教を信仰する者の条件は【KY:空気読まない:【営業スマイル】の使い道】となっていて、{しかも}宗教に指導者は不要で、{当たり前だが}宗教に於いて一般信徒という階層が不用となっている。
・平成31年度版
*お知らせ。【3月23日・土】
これからは、当ブログ第A0014号の【道路をゆっくり走るのに、・・・】と【道路をゆっくり走るのに、・・・(2)】をメイン用例としていくつもりなので、参照していただけたら幸いです。
*お詫び。【3月4日・月】
【ニーチェ】の『神は死んだ』の発言に於けるこれまでの{人類への賛歌としていた}解釈を反転させる自己修正をする事に致しました。修正内容については当ブログ第A0014号の【『神は死んだ』などと言われない為に】を参照していただけたら幸いです。
・平成30年度版
*恩恵をもたらす実力者となる人類。【12月31日・月】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪権威体制下での墓穴となったノーベル賞≫
1000年“後ろ”の時代までは。世界中の{広範囲の地域で同様に作られていた}宗教や国家により、その{ジプシーやアメリカインディアンなどには見られない}特定の権威体制下での社会の繁栄と安定が図られていて。
そして、{それらの統治下に住んでいた大半の人類である}人々を{各個に個々が個別な地力を身に付けた}実力者(権威を脅かす存在)に成長させないようにと、{人々に【発達機能】の休止をさせるべく}『みにくいヒトの子:周囲は{みにくいヒトの子を破綻に追い込もうとする}敵ばかりであり、守られるに値する大人(本当は未熟なヒトの子)である為に{『神』や『権威』に捧げられる(その典型がノーベル賞)}『成功の積み上げ』が出来なくてはならない』というスリ込みが行われていたのですが。
それにより、{ノーベル賞で受賞されてしまった}【トーマス・クーン】が{反面教師的に}警鐘を鳴らした『科学革命の構造』の通りの発展や進歩が{数千年間も}続き、{ノーベル賞で受賞されてしまった}【コンラート・ローレンツ】が{反面教師的に}悪い見本とした『攻撃』の内容の様な実験や発見が{近代化以降も}行われてしまって。
そしてそういった、悪い意味での『お手本通り』の{ノーベル賞で受賞される為に研究者たち率先した}ノーベル賞的研究(発展や進歩や、実験や発見)が、{破綻を繰り返しながら}長年続いてしまっていたのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。{誰よりも【成功の積み上げ:未熟である事による周囲の攻撃から守られる為に、{自立した個である為には必要であったハズの}修正を{無自覚に}しないまま、{他力本願な客観視(本質的な成長を無視した見た目の成果)に固執して出来たコト(教会や王国で許された『お利口さ』や『甘え』に応じる形で飛躍(ヒヤク)した《社会や経済の発展》や《科学技術の進歩》など)による}成功だけを積み上げる】による恩恵(教会と王国の庇護下だからこその成功)を受けて来た}ノーベルが提唱し{教会と王国の影響を受けた}ノーベル財団が立ち上げたノーベル賞ではあったが、
{宗教や国家などの権威体制下での『みにくいヒトの子:周りは『他のモノ』などの敵だらけであり、守られる事を受け入れられるというのは{敵の怖さを知って成熟した}大人として成長した証しであって、自分で何とかしようと意地を張るのはまだ{怖さを知らない未成熟な}ガキだからである』という{人々を地力が付いて実力者になるコトに{守られる事を拒む行為(愚行・蛮勇)だとして}シリゴミさせて素人(積み上げられていく【成功】に違和感を抱かず【修正】もしない軽率な未熟者)のままにしてしまうような}『スリ込み』により【発達機能】が休止して、自立心を失った{守られる事への違和感を失って、守られる為のコト(社会や経済の発展や、科学技術の進歩)の為の『お利口さ』や『甘え』を暴走させてしまう}未熟者たちによる}
人の営みの{昔から必然とされていた}破綻を説明したのが『パダイム論:【トーマス・クーン】の『科学革命の構造』参考』でありその末期症状(破綻を回避させる為の【修正】が{みんなして}手遅れとなって{一斉に}右往左往する人々の{土壇場の}有り様)を言い表したのが『パラダイム変換:ノーベル賞の受賞によって進歩の理想形と思い違いさせられていた末期的な破綻による最終的な情況』であり、
人の営みの破綻を具体的に説明したのが『悪の自然誌:【コンラート・ローレンツ】の『攻撃』参考』であり人の営みが破綻を誘引した具体例が《縄張り意識の強い魚を一つの水槽へ複数ひき投入する:人為的実験》や《ネズミの特定集団への別の集団のネズミを投入する:非自然行為》であったのを、
ノーベル賞で{宗教や国家の権威体制によって隠蔽を目的に「【トーマス・クーン】の『科学革命の構造』は、画期的な新しい発想だ」とか「【コンラート・ローレンツ】の『攻撃』は、実験に裏打ちされた新発見だ」とか言われて}表彰されてしまって{その露骨であからさまな仕組み故に、じきに誰もが『反面教師』という大前提が隠蔽されていた事に気付いてしまい}墓穴を掘る事となり、
人々は【発達機能】を休止させた{『お利口さ』や『甘え』に抵抗感を抱かない}未熟者である事による
{《社会や経済の発展》や《科学技術の進歩》に違和感を抱かずに完全に依存してしまい、奴隷根性丸出しで「ノーベル賞は人類の希望を照らす灯台」だと『ゴマ擦り』を言ってしまって、守られるに値する者である為の【成功の積み上げ】にみんなで一斉に
{破綻に至った失敗例から自分に合った【修正】を個別に導き出す自立した個々の大人(『アリ的お一人様:神秘主義的に独立独歩な成功者』が実践できる実力者)の事をろくに知りもしないで}
興じてしまう}
辱めはもう御免だし、
積み上げの為の【成功】を演出(守られたいという意思表示:『お利口さ』や『甘え』の実践)しないといけない無駄な借りを{人々が{《社会や経済の発展》や《科学技術の進歩》に依存する}未熟なままであってこその権威体制(宗教や国家など)に}作りたくなくて、
{発達機能を成熟させた}実力者となるべくノーベル賞を{破綻へと至った}失敗例として【修正】を各個に重ねるコトを始めたのです。
そして、1000年“前(先)”の今では。{ジプシーやアメリカインディアンたちだけではない}全ての人類が、
{宗教や国家の思惑から自立した人々の《発達機能の活性化》と共に}各個に個々が個別の地力を発達させた実力者となり。
『他のモノ』たちとの協力関係を、
{『進化論の図:本当は生物の協力関係の図』や『神は死んだ:本当は神から解放された喜びの言葉』などの誤用(人類は生物界での団体戦勝利の為に一致団結しなくてはならない・神(権威)を見失った人間は狂気の末路をたどる)による独善や正義感から解放され先の、『生きた水』を使う時の安全性や、『幸せな想い』をする時の安心感や、『口や水着の部分を守る』というコトを受け入れた時の納得感などに基づいて}円満に築けていて。
【大全体】の中核をなす存在として、
人類が『他のモノ』たちに、
{ノーベル賞の受賞研究を『反面教師』にして}恩恵をもたらしているのです。
*『アリ的お一人様』による多様性が生み出す更新の必要性。【8月18日・土】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪『共通性』と『責任意識』と『ブロック積みの世界観』の人間制御による歪みと停滞≫
1000年“後ろ”の時代までは。『ユダヤ教』や『イスラム教』や『キリスト教』などの唯一神教の教義による、『共通性(一つの人類としての共有の認識、大切なもの)』と『責任意識(組み体操をしている認識、免罪符的精神安定剤)』と『ブロック積みの世界観(時間認識に於ける前後の反転を生じさせた閉鎖的未来認識、土台に依存した他力本願)』の{神に人を捧げる『バベルの塔作り』の為の}人間制御の、世界中への広まりにより、人は歪み(精神疾患の増加)、人の営みは停滞し(大全体を無視した部分解禁に拘った進歩による、人の営みの破綻の必然)、人の世は自然世界から取り残されていて(『唯一神教』の一律な指導による一様な人間の努力により、人間の居場所である地球そのものが自然世界の更新から取り残されてしまい、地球の環境破壊が止まらない)。その阻止を目的に、{人間を鼓舞するべく}ノーベル財団によって、{最高の権威となる}ノーベル賞が作られていたのですが。ノーベル財団そのものが『キリスト教(唯一神教)』の影響下にあった為に、{権威との対立から、暗号のように解読を必要とした}反面教師として発表されたモノが{最高権威のお墨付きで}そのまま肯定されてしまい、{ノーベル賞の権威の高さと相反して}その目的は果たされなかったのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。{更新する無限に多様な大全体の}大全体の概念を踏まえた、ノーベル賞の反面教師としての利用から、『幸せな想い』の自由により解放された人(アリ的お一人様)や、『生きた水』を必要な所に必要なだけ無償で配布するような人の営み(個々別な科学技術、無償支援の配分経済)や、人類が地球環境の多様性の構成員となって一緒に更新を形成させていく人の世(地球環境や人類を分析・評価するのではなく、地球環境と人類を自由解放させる)が始まり。
そして、1000年“前(先)”の今では。『倫理道徳の試練』や『免罪符的精神安定剤として利用していた責任意識(組み体操の意識)』の憂さ晴らしとしての暴力(イジメや各種ハラスメントやテロや差別や迫害)や、産業化の為に一様化された科学技術や、お金による一律な労働力の要求や、そのモノがそのモノとして個々別に在る事の必要性を見失って物事を分析、区分け、批評するだけで満足してしまう事を、人類の病気として学んでいるのです。
*ノーベル財団の思惑の利用価値。【7月8日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪【部分解禁】な人の営みを反面教師とさせない為の楔となっていたノーベル賞≫
1000年“後ろ”の時代までは。『唯一神教の組織』であるノーベル財団は、【部分解禁】(『組み体操の意識によるバベルの塔作り』としての『指示命令系統による産業化』の為の、物の存在や人間の精神を神秘主義(アリ的お一人様)から遠ざける『ブロック積みの世界観』の実践)の構造を{人の営みが破綻に至る道筋だと知れると教会などから迫害される可能性があるので}極秘裏に解明していた『パラダイム論』への対策として、【トーマス・クーン】に『ノーベル賞』を{反面教師として利用させない楔(クサビ)を打ち込むように}授与し、『パラダイム論』を権威の保護下に置いて、『パラダイム論』を人々の手から取り上げてしまったのですが。他にも、水槽の中(自然ではない環境作りである『特定の土台固め』の上)での魚(生き物)の攻撃性(不自然な条件下で利用される【部分解禁】の実態)を{こっそり含みを持たせて}解説した『攻撃』の著作者である【コンラート・ローレンツ】に『ノーベル賞』を授与する事によって、『攻撃』を権威の保護下に置いてしまい、自然ではない環境作りである『特定の土台固め』の上(不自然な条件下での人の営み:水槽の中のような人の世の在り様)での破綻を当然のモノと周知させてしまって、『攻撃』を反面教師にするコトを出来なくさせてしまう{などの}事をしていて。毎年、重要な分野の{何らかの含みがありそうな}特別な功績に対して『ノーベル賞』を授与しては、それらに{反面教師として自由に利用するコトが出来ないように人々から取り上げてしまうような}楔を打ち込み、『唯一神教の世界観』の周知徹底(悪魔の誘惑である神秘主義(アリ的お一人様)を許さない:教会が守って来た唯一絶対の正義を穢(カガ)させない)を{過剰なまでに}図っていたのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。人の営みが巨大化し、破綻に至るコトを繰り返す『唯一神教の世界観』の問題が人類存続の危機を招くようになり、{破綻から救済が始まるとする『世紀末思想』ではとても安心できなくなって}特定の土台の上にみんなが乗ってそれを組み体操の意識で支え合って我慢する事(人の世を『ノアの箱舟』にする)への疑問が膨らみ、『ノーベル賞』の意義の洗い直しが始まって。
そして、1000年“先”の今では。1000年“後ろ”の時代の『ノーベル賞』が反面教師として利用され、神秘主義(アリ的お一人様)を原則とする人の営みが大勢を占めていて、ノーベル財団の思惑とは正反対の『ノーベル賞』の恩恵を受けているのです。
*『バベルの塔作り』を世界で続けた『唯一神教』。【5月28日・月】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪捧げ物としての『バベルの塔作り』の為の『指示命令系統』の不自然さ≫
1000年“後ろ”までの時代では。『人の営み』そのモノが、地球を舞台にしての{それによって人間の生が許される}神への捧げ物(『バベルの塔作り』と同義の、『倫理道徳の試練』に沿った善行であるべきモノ)だと{無自覚にスリ込まれて}信じられていて。その為に、神の下に続く『指示命令系統』が、人間(社会)の自然な姿だと{信仰の枠を超えて、正義の名の下に徹底して}思い込まされてしまい。それによって、人間は『アリ的お一人様』という『大全体』の構成員の資格を{『幸せな想い』を自制して}失い、{食い荒らすハズの}砂糖を『捧げ物としての行為』によって守って{残して}しまうコトによる『残るハズのなかった砂糖の破綻』を招き、『人の営み』の積み上げ(不自然な人の行為の産物)の破綻が、何時までも{人の営みの必然と言われて}繰り返されてしまっていて。
さらには、「変な思い込みのし合いによる感情論での対立に{お互いが}陥っている」と安易に陥り、「和解が難しく力づくでしか解決に至れない」と安易に至ってしまい。そして、「過去は変えられないが、未来は{『捧げ物:人間の行い』しだいで}変えられる」という考え方から、{自分たちにとっての}良い未来に変えていく為に、『捧げ物:人間の行い』の主導権争いでは負けられないとして、何時までも争いが{人間の本能の結果と言われて}続く事になってしまっていたのです。
しかし、1000年“後ろ”からの時代では。『捧げ物:人間の行い』をより大規模にしようとして不自然に{人間(個々人)を{多様性を失って『大全体』の構成員ではいられない程に}虚弱化させてしまう『檻の中:独自性が削がれる状況に人々を閉じ込めてしまう人間社会』が{神という大樹に人間が縛られる様に}形成されて}正当化されたのが『指示命令系統』であり、窮屈な『捧げ物:人間の行い』での憂さ晴らしに{意に反する者を粛清する為の}大義名分を持ち出していたのが『市民運動』であり、『捧げ物:人間の行い』の主導権争いに装飾性(個々人は科学的な知識や技能を持たない、科学技術産業の産物)を持ち込んでいたのが近代科学なのだという事が周知され始め。
そして、1000年“前(先)”である今では。科学的な知識や技能を{科学技術産業の産物への依存に支えられて}拒絶したまま粛清(意に反する者の排除)の為の大義名分を振りかざす『反核運動』のようなモノは無くなり、個々人が{砂糖を食い荒らす}『アリ的お一人様』である自然さを失った『人の営み』を装飾していた『ノーベル賞』のようなモノも無くなっていて。
さらには、『大全体』を多次元多重構造にした『アスキーアートの世界観』に基づいて{無意味で愚かなモノとされていた}過去の『日常:自然な人間』が掘り起こされ、様々に{意味が有る様に}縒(ヨ)り合わせられて整理され、未来の可能性として紡(ツム)がれているのです。
・平成29年度版
*オカシイものがオカシイと責任追及されてきた時代~8~(草案)。【9月10日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪可笑しいモノを可笑しいと笑える時代へ=理念(振れの繰り返し)編=≫
1000年“後ろ”の時代の日本国に於いては、江戸時代には概ね『庶民を扇動する知識人の側』にあり、明治の時代には概ね『権力者を支える科学者の側』にあって、大正の時代には概ね『庶民を扇動する知識人の側』にあったようなのですが、大戦より“後ろ”の昭和初期に『権力者を支える科学者の側』へと大きく振れ、大戦より“先”の昭和中期以降には『庶民を扇動する知識人の側』へとゆっくり振れていて、そして大戦の記憶が薄れた平成以降になるとまた『権力者を支える科学者の側』へと徐々に振れてしまったのです。
また、20世紀後半の{超大国アメリカが先導する}世界に於いては、{歴代のアメリカ大統領(政党)によって左右されていて}ジミー・カーター大統領(民主党)の時代には『権力者を支える科学者の側』にあり、ロナルド・レーガン大統領(共和党)やジョージ・ブッシュ大統領(共和党)の時代には『庶民を扇動する知識人の側』にあって、ビル・クリントン大統領(民主党)の時代には『権力者を支える科学者の側』あったのですが、ジョージ・W・ブッシュ大統領(共和党)の時代には『庶民を扇動する知識人の側』に振れ、バラク・オバマ大統領(民主党)の時代には『権力者を支える科学者の側』に振れて、そしてドナルド・トランプ大統領(共和党)の時代には『庶民を扇動する知識人の側』へと振れたのです。
そして、{日本に於ける大戦の記憶が薄れた平成以降や、世界に於けるバラク・オバマ大統領(民主党)の時代の}『権力者を支える科学者の側』の時代には、
{『少し大きいだけの全体』を舞台にした、『尊厳死(土台からのやり直し:物事の初期化)』を重視した虚無(キョム)の思想による{自分たち『全体』の為の努力を無にする}堕落(ダラク)を、人類の存在を汚(ケガ)す正義の放棄でしかないと拒絶して}人々は『延命処置(まだやれる事:やり残し)』を信奉し、
ルール(『古典的な倫理』や『近代的な道徳』)の強迫観念に取り憑かれ、{『幸せの想い』が抱けないまま}試練に精神が押し潰されてしまって、
社会に{正義の執行としての}イジメやパワハラなどを{『必然の悪』に対抗する『人類の進歩(延命処置)』を起こす為に『悪のリセット』が繰り返されるように}蔓延(マンエン)させてしまったのです。
さらには、{日本に行ける大戦より“先”の昭和中期以降や、アメリカのドナルド・トランプ大統領(共和党)の時代の}『庶民を扇動する知識人の側』の時代には、
{『より小さな全体』を舞台にした、『延命処置(まだやれる事:やり残し)』の向上を大義名分にした『リセットされる悪』の繰り返し(繁栄を目指しながら繰り返される戦争や、倫理・道徳を唱えながら繰り返される暴力事件)を、人類の存在を脅(オビヤ)かす正義の崩壊でしかないと嫌悪して}人々は『尊厳死(土台からのやり直し:物事の初期化)』を信奉し、
『ブロック積みの世界観』に縛られずに『その“続き”』を起こす為に『悪』とされる破綻(終焉)に挑む事と『延命処置』とを区別するコトをせず、{誰もが、有効性を受動的に追求して『後手に回る』という事態(ブロック積みの閉塞)の中で、右へ倣えをしていて苦しむ中で}『後出しジャンケン(情報の先見的活用を牽制する用語)』だと呼ばれる精神的な冤罪を着せられようとも{“先”を見て}時間や労力やお金を“有用”な事(その“続き”)の為に能動的に{無理解な人々の中で僻(ヒガ)まれ、足を引っ張られながらも}分配する(削(ケズ)る・割(サ)く)という事の意義が理解できなくて、
「その場(小さな全体)を優先させた問題の先送りはしない(悪化させるだけだから)」とういう事が重要であり、「問題への直接的な対応をする事(『延命処置(まだやれる事;やり残し)』を停止させて、『尊厳死(土台からのやり直し:物事の初期化)』を断行する)」というのが“有効”であると言ってしまって、世界中でテロリストを生み出してしまったのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。『全体の為』を盾にした平穏への一律な協力を一様に求め合い、自分がまねいた強迫観念によって自分の精神に異常をきたしてしまう、『権力者を支える科学者の側』の可笑しさを、可笑しいと笑い。
『ブロック積みの世界観』の閉塞問題を理解しながら、『延命処置(まだやれる事:やり残し)』への嫌悪に始まり、『尊厳死(土台からのやり直し:物事の初期化)』に至ってしまう、『庶民を扇動する知識人の側』の可笑しさを、可笑しいと笑えるようになるのです。
そして、1000年“先”の今では。【更新する無限に多様な“大”全体】の概念が周知され、『幸せの想い』に至る精神の自由が確立されていて、《個人の能動的な行為》による“有用”な『生きたお金』の使い方(『その“続き”』の為の配分)に異を唱える者も無いのです。
*石橋とブロックとで解き明かされる宗教世界(概要)。【2月12日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪解りやすくする為に“盤ゲーム”を“ブロック積み”と置き換えました≫
慎重な人を揶揄する「石橋を叩いて渡る」という言葉があり、さらに慎重すぎる人を揶揄して「石橋を叩いて壊す」という言葉があるのですが。
石橋(ブロックの土台)を渡ろうとする(ブロックを積み上げる)時に、人は{壊れないかと不安になると}神経質なまでに慎重になりすぎて(ブロックの土台が確(シッカ)りしていないと不安になって)叩き過ぎて{石橋も渡らずに}砕いてしまう(ブロックの土台をバラして外(ハズ)してしまう)ものなので、多くの{有用な}石橋を神々として祀(マツ)り、大事な石橋が砕かれるのを{畏敬の念で不安を解消させて}防ごうとした(ブロックの土台がこれ以上バラされないように守ろうとした)のが、『古い神々』を信仰する『多神教』であり。
石橋(ブロックの土台)を渡ろうとする(ブロックを積み上げる)時に、人は誰でも{慎重になればなるほど}叩き過ぎて砕いてしまう(ブロックの土台をバラして外(ハズ)してしまう)ものなのですが、その砕かれた岩(バラされたブロック)を石橋(神々)の作り変えの為に{人の手によって}利用しても(土台の上に人が勝手にブロックを積み上げても)いいのだと、人々に{契約と引き換えに}許諾(キョダク)を与(アタ)えてくれたのが、『創造主』の存在を信じる『唯一神教』であったのです。
そして、唯一神教(イスラム世界やキリスト教世界やユダヤ人たち)の影響下にあった、1000年“後ろ”までの時代に於いては。
≪石橋(ブロックの土台)が{ブロックの形状はそのままに}砕かれ、その岩(バラされたブロック)を集めてきて{分別だけして}利用する(ならしただけのブロックの土台の上に既存のブロックを積んでいく)だけの『パラダイム』での進歩までが、人間に許された自由である≫と認識し、そして≪偶然ではなく、ことさらに『パラダイム変換』を(意図してブロックの形状を開発し、新たに土台の形状まで作り変えるコトを)追求して、{信仰と引き換えに手にした}許諾が持つ戒めを無視するのは、『神』を蔑(ナイガシ)ろにする{人間の分を越えた}愚行であって。それが文明だと言うのならば、それは間違いなく『パンドラの箱』が開いた、『神は死んだ』と言えるような怖しい世界であるのです≫というように考える『完全理論的思考の世界観』であったのが、知識人(自称一般庶民の側)であり。
≪石橋(ブロックの土台)を{新たな形状へと}砕き、岩(ブロック)を{新たな形状に}加工して、{土台とブロックの}利用の幅を広げる『パラダイム変換』の進歩も、人間に許された自由である≫と認識し、そして≪石橋(ブロックの土台)と砕かれた岩(ブロック)の利用(土台の上でのブロックの積み上げ)によって人類が進歩して、文明が築かれて来たのに、石橋(ブロックの土台)を{意図的に}新たな形状へと砕くコトや、岩(ブロック)を{工夫して}新たな形状に加工するコトに対して{『パンドラの箱』を持ち出してきて来て}ことさらに倫理に反する(人間の分を越えた)と言うのは、{過去の人間の努力の上に自分が存在している事から目を背(ソム)けた}自己否定であり、{過去の人間の進歩の上に自分たちが生きてこられた事を顧(カエリ)みない}自己矛盾でありまして。それこそが、{いまだに『古い神々』に縛られたまま}創造主である『神』の存在と、契約による人間への許諾を疑う愚行であるのです≫というように考える『特殊理論的思考の世界観』であったのが、エリート(客観的に見て権力者の側)でありまして。
その『完全理論的思考の世界観』である知識人と、『特殊理論的思考の世界観』であるエリートとの争いの中で、その両方から≪『古い神々』と共謀して、『創造主』の存在を攻撃し、『神』との契約を踏(フ)みにじってしまう、{人類として}無責任な行為である≫というレッテルを{明らかな認識不足から}貼られてしまったのが、石橋(ブロックの土台)を{これ以上は岩(ブロック)へとバラされないように}神々として祀る訳でもなければ石橋(ブロックの土台)と岩(バラされたブロック)の安全な利用や、手間を掛けた利用を目指す訳でもない、≪《より多様な岩はより良い石橋の構成員である》という【更新する無限に多様な“大”全体】の“想い”によって、{一律に積み上げ易(ヤス)いブロック状へとしてしまうコトなく}多様な岩が集められた時に有用な大岩(本来の石橋)となるコトが出来るように、多様な岩での『多様性のベース拡大』が行われ、《様々な石橋は【“大”全体】の構成員となる》という『“ロール紙”の世界観』の“想い”によって、{積み易いように一様なブロックの土台へとしてしまうコトなく}様々な大岩(本来の石橋)が次々と有効活用されて行くように、様々な大岩での『多様性のステップアップ』が行われる≫という考え方の『一般理論的思考の世界観』であったのです。
しかし、1000年“後ろ”からの時代になれば、≪岩がブロックとして土台の上に積まれていく【部分解禁】の進歩には、石橋がブロックの土台としてバラされる破綻が必然的に伴(トモナ)うモノであり、{その破綻は}どれ程のリスク(犠牲)があっても{相応の進歩の為には}必要不可欠なコトである≫という{『唯一神教』が陥(オチイ)りがちな}認識も薄れていき。
1000年“先”の{多様な岩からなる様々な石橋の【“大”全体】がブロック状に砕かれるコトなく、色々な分野で“ロール紙”から生み出されるように次々と有効利用されている}現代では、「誰もが平穏と繁栄を求めながら、『神』の名の下に破壊と殺戮が繰り返されていた」というのは、遠い昔の可笑しな『御伽噺』となっているのです。
*情勢不安であった遠い昔の歴史の一コマ(概要)。【1月22日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪権力者の側の『甘え』と一般庶民の側の『執着』≫
1000年“後ろ”の、《【更新する無限に多様な“大”全体】の概念》が隠蔽されたままであった時代には、権力者の側が、《【部分解禁】による[進歩]と[破綻]の繰り返し》を単なる『ハイリスク・ハイリターン』としてしか見ずに、その[進歩]を『必要な作用』として認識し、自分達の手による《進歩を遂(ト)げる手柄》の優越感に目が暗んでしまい。{[進歩]にともなって}繰り返しやって来る[破綻]による受難を一般庶民の側に押し付けておきながら、その行為を次の[進歩]の為の{自然で当然な}『土台の改良』だと正当化し、{さらには}その事によって生じてくる{[進歩]の有効性が薄れる}問題までも「一般庶民の側の《後ろ向きの姿勢(怠惰や反発)》によって社会が停滞してしまう、《閉塞感の蔓延(マンエン)》という出来事を{不安で硬(コワバ)っていた一般庶民の側に押し付けて}でっち上げるコト」によって一般庶民の側へと責任転嫁してしまっていて。{[進歩]に付随して起こる}その[破綻]に対して、一般庶民の側が《権力者の側の手による『悪魔の作用』》として{妄想的な}認識をし、「権力者の側が悪魔に誘惑されて、破綻を拡散させている」と一般庶民の側が{過剰な}危機感を抱いてしまい、情勢不安に{悪魔と化した権力者の側を一般庶民の側が浄化するという形で}拍車が掛かってしまっているという現実(連鎖)を、権力者の側がまったく理解できていなかったのです。
それが『特殊理論的思考の世界観』であり、その正当性の為にあった論理が{“想い”を歪めてしまう強迫観念を生み出す}『パラダイム論』や『“盤ゲーム”の世界観』でありまして。物事を{大所高所から見ていて}客観的に判断しているのだと権力者の側がどれだけ主張しようともそれは『甘え』であり、所詮は≪『パラダイム変換』を理想の進歩と思うばかりで、{人間の歴史が破壊の繰り返しであり、その《繰返される歴史》から何も学べないでいると嘆(ナゲ)きつつ}その【反面教師】としての意義に{誰も}気付けず、『パラダイム』という枷(カセ)に縛られた『全体の状態(人によっては自分の思考)』の繰り返しから抜け出せないまま、結局は『枠組みの破壊』を名目にした破壊行為の正当化(自己正当化)」を行い。時間の前後認識の反転に熱心で、{権威に媚(コ)び諂(ヘツラ)うコトに目が暗み、その紛(マギ)らわしい状況に何の疑問も抱かなくて}『“盤ゲーム”の世界観』とは違う『“ロール紙”の世界観』という“想い”にまったく気付けず、《立体構造の『進化の図』》から始まって『一般理論的思考の世界観』や《反面教師としての『パラダイム変換』》を経て、《自分にとっての『幸せな“想い”』を“想う”コト》や《『お金』の共有意識》へと至る《【更新する無限に多様な“大”全体】の概念》を隠蔽したまま、結局は『再構築の為のリセット』を名目にした《[人間(他者)]や[人の営み(他人の行い)]の抹消行為(人によっては自分の各種ハラスメント)》の正当化(自己正当化)を行う≫という{強迫観念から生じる}歪んだ“想い”でしかなく。一般庶民の側の『完全理論的思考の世界観』に対して「[破綻]を恐れて[進歩]の邪魔をして、〔特殊理論の世界〕を[破綻]した機能不全に陥らせるモノ」だと{「[破綻]の責任を転嫁して}決めつけて、一般庶民の側を{[破綻]の責任を取らせる形で}非難し、一般庶民の側を一方的に{[破綻]の回避の為として}排除の対象にしてしまっていて。一般庶民の側を{悪魔の如き理屈を積み上げて}危機に追い込み、権力者の側は悪魔に加担していると一般庶民の側に{過度な}不信感を抱かせてしまい、権力者の側そのモノが政情不安の{悪魔的な}原因なのだと一般庶民の側に錯覚させていたのです。
しかしその一方で、一般庶民の側の方も、『完全理論的思考の世界観』への過剰な『執着』によって、「権力者の側による《【部分解禁】による[進歩]と[破綻]の繰り返し》は、『パンドラの箱』の{希望を食い潰しながらの}解放の進行であり、〔完全理論の世界〕を{取り返しがつかないまでに}危うくする《悪魔の復活への過程》である」と{妄想を膨らませて}危機感を暴走させてしまい。{【ニーチェ】が《精神の開放》を表現したハズの}『神は死んだ』というメッセージを、「最大級の危機感が言葉となった{人類への}警告であり、権力者の側による『悪魔的企み』を{端的に}暴(アバ)くコトによる一般庶民の側への叱咤激励である」と認識して、権力者の側による《【部分解禁】による[進歩]と[破綻]の繰り返し》を{必ず}止めるのが一般庶民の側の使命であると{過激に}思い込んでしまって。権力者の側との対話を{悪魔に感化されない為に}絶ち、「どんな犠牲も厭(イト)わない」と覚悟を決めて、《一般庶民の側の総意の代行者》としてのテロリストに志願する{英雄気取りの}者が、{それこそが[進歩]に付随して繰返される[破綻]の一つでありながら}後を絶たず、『イスラム原理主義』や『イスラム国』の台頭が続いたのです。
しかし、そんな《【更新する無限に多様な“大”全体】の概念》の隠蔽に始まる諸問題の一つも、それから“先”の《【更新する無限に多様な“大”全体】の概念》の解禁による諸問題の解決の連鎖によって解消されていて。今では、遠い昔の歴史の一コマとなり、『御伽噺(オトギバナシ)』のように伝えられているだけなのです。
・平成28年度版
*宗教が問題なのではないのです(概要)。【12月10日・土】
1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪唯一神教への配慮が問題の始まりなのです≫
人間にとっての《本来の“居場所”》というのは、≪【“大”全体】の概念の周知から、『幸せの想い(想い合い)』の解禁を実現して、『お金の共有意識』の認識へと至る、『多様性のベース拡大』と『多様性のステップアップ』が連鎖する状況≫の事であるというのに。人間に宗教が必要となってしまったのは、人間がその《本来の“居場所”》を{【部分解禁】による進歩の追求や、強迫観念による安定の追求や、『共有認識が排除されたお金』による繁栄の追求などをする中で}一時的に見失って{様々な事で困って}しまい、そこからの回復の手助けとして《“仮の居所”としての宗教》を{困った内容の種類に対応した神々に}求めたからであり。唯一神教に抜きん出た数の信者の獲得が出来てしまったのは、人間が《本来の“居場所”》について「人間は『神』とは違って不完全であり、《本来の“居場所”》から遥(ハル)か遠くの{退行の難しい}過酷な所に進出して来て居て、『神』の手助けを得る努力を{迷い、躊躇(チュウチョ)して}怠っていては何も立ち行かない」と自覚(覚悟)してしまうように{【“大”全体】の概念を否定した『創造主』の概念によって、『多様性のベース拡大』や『多様性のステップアップ』への連鎖を悪魔との取引と思い込ませて、〔この世界〕への人間の認識を不自由で硬直したモノに歪めてしまって}仕向けた上に、人間が求めてしまう《“仮の居所”としての宗教》を{『唯一神』の慈悲の下に形成して}恒久的に提供するという{厄介なまでに}至れり尽くせりなモノであったからであります。
しかし、それ故に。多神教などに於いては、人間が《本来の“居場所”》を{一時的に見失って}喪失してしまっている事に対して、《“仮の居所”としての宗教》が受動的に提供されていた訳ですが。唯一神教に於いては、人間を《本来の“居場所”》から遠のいていると幻覚を抱かせた上で人間に《“仮の居所”としての宗教》を{セットで}提供するという能動的な働きかけがされていて、唯一神教の信徒が《本来の“居場所”》の喪失状態から{見失っていた《本来の“居場所”》を再発見して}回復する事が非常に困難となっていて。そして、{その当時の地球上で}信者が最も多くなってしまっていた唯一神教の信徒と、その影響を受けた人たちによる{地球上の}大多数の人間が、その《本来の“居場所”》からドンドン遠くへと{無自覚のまま}向かわされていて、しかもそれが「全ての人類が目指すべき理想の在り方」だと信じ込まされてしまい、誰もそれに異論をはさめない状況にあって、{その当時の}唯一神教が主導する〔人間世界〕は破綻と争いの無くならない閉塞状態に陥ってしまったのです。
1000年後の今だからこそ、人間にとっての《本来の“居場所”》である≪【“大”全体】の概念の周知から、『幸せの想い(想い合い)』の解禁を実現して、『お金の共有意識』の認識へと至る、『多様性のベース拡大』と『多様性のステップアップ』が連鎖する状況≫は回復し。唯一神教への配慮によって生じた【“大”全体】の概念の隠蔽による《【部分解禁】による自然の破綻》や、強迫観念によって人心の掌握が目指された『古典的倫理』による《『試練の想い(想い合い)』による自己の破綻》や、『ロマ・ジプシー』や『アメリカインディアン』などを拒絶する『近代的道徳』による《『共有認識が排除されたお金』による〔人間世界〕の破綻》などの{閉塞状態に人間を追い込んでいた}諸現象への理解が解禁されているのですが。1000年前の人々は、{情報が極端に偏った}閉塞状態の中で、どれほど苦労し、苦悩した事でしょうか。
*『神』の名を用いて仕掛けられた思惑の顛末(概要)。【10月29日・土】
1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪『神』の名を用いた茶番劇の転末≫
この〔世界〕の平和と繁栄の為に{唯一神教の}『神』が存在していて、『神』に仕える者や『神』を信仰する者たちが、その平和と繁栄の実現を目指していたという訳ではなくて。『神』とはこの〔世界〕を浄化している存在であり、教会や信者とはその浄化の実行者でありまして、それ故に【“大”全体】の概念が隠蔽され、『パラダイム論』が歪められていて、その{暴走行為の}権威付けの為に『ノーベル賞』が在ったのですが。さらに言えば、『神』の名の下に非道が行われていると思え、その『神』の側と敵対すべきだと主張して、この〔世界〕に破滅をもたらしてしまうのは、その『神』が目指しているこの〔世界〕の浄化の為の策略に上手く乗せられていただけなのであります。
そして、その事に気付いた人々が今に至るまでに、『神』の呪縛を断ち切って【“大”全体】の概念を確立して、{『古典的倫理』や『近代的道徳』に基づいた『試練の想い・想い合い』による強迫観念からの解放である}『幸せの想い・想い合い』の自由や、『ジプシー・ロマ』の経済観念である{『お金』を共有化する共産主義とは別モノの}《『お金』を共有物と認識する事》を手に入れたのですが。しかし、1000年前の〔人間世界〕にはその気配すら無く、『神』の名を用いて仕掛けられた思惑の茶番劇に人々は熱狂していて、〔人間世界〕は{見た目の}破綻へ向かって突き進んでいたのです。
*キリスト教団体の巧妙な罠(概要)。【10月6日・木】
1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪人間を縛っていた『ノーベル賞』という鎖≫
ノーベル賞による{真面目なだけであった}研究者や活動家たちへの{特殊性の意味を含んだ}表彰によって、〔人間世界〕の現在に至った進歩や、現状の繁栄や、今後の平和というモノに正当性が付与されて、誰の足元にでも在る【更新する無限に多様な“大”全体】に人々(一般市民)が背を向けてしまっていたのですが。
特定の研究や特定の人の活動によって〔人間世界〕が良くなるという『特殊理論的世界観』を人々(一般市民)に植えつけてしまい、『一般理論的世界観』を拒否させて、結果的に『完全理論的世界観』にどっぷり浸かった〔人間世界〕を存続させていたのが{キリスト教団体の}ノーベル財団であり。一部の【更新機能】を特出させて問題を解決させていき、自分たちが【“大”全体】で問題解決に取り組む事の必要性を失わせてしまって、何も変われない人間世界の存続がゴリ押しされていたのでありまして。
すなわち、問題への取り組みを誰かに任せてしまい、何もしなくていい傍観者の人々(一般市民)を増やしていって、何時までも何も変わらない〔人間社会〕の強化が図られていただけなのであります。
*1000年前の《唯一神教の内紛》の正体。【7月12日・火】
これは 1000年前としてのお話しです。
『唯一神教』の三本柱である『ユダヤ教』と『キリスト教』と『イスラム教』の全てが出揃(デソロ)ってから1400年もの年月が経過し、世界中の富と権力と信者の大半を獲得してからは1000年の年月が経過し、《唯一神教の内紛》が《人間世界の分裂》として人類の問題になってしまうようになってからでも数百年の年月が経過していたのですが。《唯一神教の内紛》の激しさは増すばかりで、まったく収まる気配がありませんでした。
世紀末思想や、悪魔や地獄への恐怖が布教に利用されたせいもあって、未来に対して{可笑しなSF作品が生み出されるような}悲観的となり。{気持ちばかりが焦って}強迫観念の『試練の想い・想い合い』に埋没し、{個別な}自由による『幸せの想い・想い合い』に至れず、それにより{被害妄想などから解放される}精神的安定から見放(ミハナ)され。『唯一神』への信仰による『完全理論的思考の世界観』か、無神論による『特殊理論的思考の世界観』のどちらかに捉われてしまい。神の有無を議論する事さえしない【更新する無限に多様な“大”全体】の真理と、その真理を導き出す『一般理論的思考の世界観』の真実を隠蔽し。『進化論』に『進化の図』という枷(カセ)を掛け、『E=mc²』には『パンドラの箱』や『波動エネルギー』という枷を掛けた揚げ句に、「古いパラダイムの排除」を言い訳にした責任転嫁でしかない《排除の論理》を進歩に不可欠だと主張して、テロ行為までも正当化していたからです。
{『唯一神教』が率先(ソッセン)して}宗教が【“大”全体】の概念を取り入れ、『パラダイム変換』を反面教師として活用して、物事や人間の個別な自由による【多様性】が守られていて、【“大”全体な更新】からの恩恵が人類にもたらされている1000年後の今では、想像も出来ない惨状でありますね。
*神が導く『理性の働き』による暗黒の現代。【2月11日・木】
知識人の側が、エリートの側がしてきた{恣意的な}学問の、破綻を招いた責任を追及するばかりで、ストレスに対しての『“個”の反発作用』が【無限に多様】な“個々”で集合するコトによる【“大”全体での更新】に基づいた『生きた水』のようには至れていなくて。エリートの側も、知識人の側を、{直接的な}破綻行為で責任追及していて、【更新する無限に多様な“大”全体】についてまでの思索には至れていないというのに。その双方の両立(尊重)をバランス(調和)の名目で目指す『理性の働き』により、『臭い物にフタ』がされて、破綻が放置されてしまい、現代社会の諸問題がドンドン深刻化しているのです。
そして、そういった{『臭い物にフタ』をするだけの}人間の『理性の働き』が、神の導きによる『絶対正義』と位置付けられているものだから、【ダーウィン】の『進化論』からは【“大”全体による更新】が抜け落ち、【アインシュタイン】の『E=mc²』からは『一般理論的思考(世界観)』が抜け落ち、【ニーチェ】の『神は死んだ』からは『世界の解放』が抜け落ち、【トーマス・クーン】の『パラダイム論』からは『反面教師』が抜け落ちているのに、{魔女裁判が恐ろしくて}誰も口に出せないでいて、暗黒の現代を迎えているのです。
平成27年度版
*『唯一神教』の汎用性故に経済繁栄とテロは必然、なんですってヨ。【11月23日・月】
昔からある宗教的行な行為には、物事を行う時の判断がランダムになるようになるモノが多く、それらはたいてい戦いの時に使われ、相手に此方(コチラ)のパターンを読ませない効果があり、相当な効果が望めたので、戦場で指揮をする権力者にとっては重要なモノであったハズです。しかしそういうモノは、戦いの場でどんなに有効であったとしても、平和に繁栄を続ける時には必要なくて、安定した時代には一様な模範や価値や規則が一律に守られる一貫性が求められるのです。
そして人間の世とは、戦争と平和の繰り返しで在る為、今の人間世界の覇権を掴んで話さない『唯一神教』には、その両面が内在していて。それが状況に応じて適切に使い分けられれば、戦場での戦功の決め手となり、安定した時代の効果的な享受(キョウジュ)にもなって、状況ごとに人間にとっての大きな助けになるモノであります。
今のキリスト教世界では、経済発展を活かした繁栄を享受する術を、『唯一神教』から上手に読み解き、イスラム過激派の人たちは、戦場で有用となる部分を、『唯一神教』から厳格に読み解いていて。今の世界の{経済繁栄とテロの}混迷は、『唯一神教』の解釈の違いによる内部紛争であり、『唯一神教』の汎用性の高さ故(ユエ)の、避け難い事象(必然)だと言えるでしょう。
しかし、そういう言い分というのは、『唯一神教』を後生大事にする狭い了見の話しでしかなく、『完全理論的思考(世界観)』と『特殊理論的思考(世界観)』とでの勝手な覇権争いを正当化しているだけの事でしかなくて。そんなだから【更新する無限に多様な“大”全体】の道理に背を向け、『一般理論的思考(世界観)』が敵視され、利得になる【部分解禁】ばかりが行われて、『生きた水』と【薬品耐性水】の事が平気で隠蔽されていて。そんな禁断の理(コトワリ)に近づいた【小保方 晴子】さんの『STAP』細胞が、権力で握(ニギ)り潰され、マスコミから一斉に非難され、今でも裁判などでの糾弾(キュウダン)がニュースで報道され続けるような、中世ヨーロッパの『魔女裁判』を彷彿(ホウフツ)させる事が堂々と起っているのです。
そして、誰一人疑問を口にするコトが許されない『恐怖政治』のような状況が出来上がっているというのに、みんな“だんまり”を決め込んでいるのですから、まったく気持ち悪くてしょうがありません。
しかしまあ、『危機の時』だとか『革命の時』だとか言って騒いでは、混迷を食い物にしての《利得の追求》や《売名行為》と同じであります。【更新する無限に多様な“大”全体】の道理は気長ですし、『一般理論的思考(世界観)』が消滅して無くなってしまう事もありませんから。ここは皆さん、≪「危機感が無い」とか「不謹慎だ」とか、「団結が足りないからだ」とか「ヤル気が無いからだ」とか、「黙っているせいだ」とか「行動を起こさないせいだ」とか言う人たちの、特定の意図の下での人間の掌握を目指す『恐怖政治』の手法≫の結末の、見物と洒落込みませんか。
*共産主義者についての記憶が薄れるまでは・・・。【10月27日・火】
欧米社会やイスラム世界は『唯一神教』が支配していて、誰も疑わないまま『完結理論的思考(世界観)』で構成されているので、誰もが首座にあると思って加わって【“小”集合体】を形成していて。そして、【“小”集合体】同士での首座をめぐる争いは、想像以上に熾烈をきわめてしまうのですが。
「神は死んだ」と言われて100年が経つというのに、『唯一神教』に基づく『完結理論的思考(世界観)』に縛られて、『神』の預言が伝えられた人間の首座(正統な預言者・宗教と教義・教団)は一つでなくてはならないのだと妄信してしまって。『唯一神教』の内部抗争を延々と繰り返し続けている事の不毛さに、世界中の多くの人々がまったく気が付かないのです。
日本社会は、欧米社会に対して次の首座を窺う対抗勢力(知識人)になろうとしていて、その為の『特殊理論的思考(世界観)』で構成されているのですが。なかなかのし上がれない事への焦燥感が異常に強く、{中国の台頭や韓国の妨害にも危機感を抱いてしまって}多少の犠牲が伴っても「そうじゃないと対抗できないのだ」と言って、権力者が庶民にゴリ押しをしてしまうのですが。
「弱者を助けるレスキュー隊がレスキュー隊であるためには、その内に弱者は不用なので、排除するのは当然の理である」というのと同じ類(タグイ)の道理が神格化されて、国際的な地位の向上が急務であった日本の明治維新や戦後の復興に於いて、国民生活よりも国体を良くするコトが優先されて来たのですが。それが、今に至っても{「戦後はまだ終っていない」と政治家が発言し、『維新』が党名に入る政党が話題になっていて}まだ継続中でありまして。国の政治家・役人や企業の経営者・管理職者が、「【日本国(日本人・日本企業)】は欧米などとはまったく違う“特殊”なモノとして存在しているのだ」とする『特殊理論的思考(世界観)』を持ち出して来て、「国体や体裁を良くするコトが、【日本国(日本人・日本企業)】が世界の中で生き残って行く為にはまだまだ必要な事なのだ」と強調するものだから。経済発展をして平和な時代を迎えていながら、《日本の国体》や《企業の体裁》を良くするコトが{国民や社員の事より}優先されている事の不自然さに、日本人の殆(ホト)んどがまったく気が付かないのです。
しかもそれらが、{世界中で・日本で}無自覚な危機感に押されて起こっているものだから始末が悪く、とてつもなく恐ろしい結果が招かれてしまうのですが。それは昔も、今も同じであり、これからも同じになりつつあるのです。
しかしそうは言っても、【更新する無限に多様な“大”全体】という真理は、気長に人間の参加(人類としての復帰)を待ってくれているモノですし。あせって力尽(チカラズ)くになってしまっては、【一般理論的思考(世界観)】が共産主義を彷彿(ホウフツ)させて、{共産主義が台頭するような}危機感を煽ってしまい、かえって人々を余計頑(カタク)なにしてしまうだけなので。{共産主義者や共産主義国の非道さが人々の記憶から薄れるまで}ゆっくりと待ちながら、ブログへの書き込みでもして、【ちび猫】は潜んでいようと思います。
(注1)ここでいう『完結理論的思考(世界観)』というのは、従来の『完全世界的思考(世界観)』の言い替えに過ぎません。今後はこの表現を使用していきます。
(注2)ここでの『特殊理論的思考(世界観)』の使われ方が、どうしても強引なコジツケにしか見えないのですが、『完結理論的思考(世界観)』の欧米に対しての“抵抗勢力”としての日本の存在が“必然”なのだと日本の主導者が日本国民に信じ込ませようとして用いられている、《【日本国(日本人)】の“特殊性”》というのが強調された政府やマスコミからの情報発信が、典型的な『特殊理論的思考(世界観)』の発想によるモノであったからでありまして、表現が曖昧(アイマイ)で申し訳ありませんでした。あと、【一般理論的思考(世界観)】によれば、日本の“特殊性”は〔世界〕の中での必要な“特殊性”であって、《“抵抗勢力”としての{“特殊”な}日本の存在の“必然性”》というのは{『特殊理論的思考(世界観)』による}詐欺(サギ)の常套句(ジョウトウク)みたいなモノだという事を言い忘れていたので、ここで追記しておきます。
*宗教が引き金となっている《イヤな三角関係》。【10月8日・木】
人間の思考(世界観)に於ける《イヤな三角関係》というのは。『唯一神教』に由来し、近代科学の『リセットの大原則』を形成していて、『パラダイム論』に於いての『通常進歩』に相当し、隠し扉が開く《【“小”更新】の発動》が基になって構成されている【完全世界的思考(世界観)】と。対立の為の対立の中で求められ、【完全世界的思考(世界観)】に対しての対立軸を{次々と}形成していて、『パラダイム論』に於いての『革進的進歩』に{枷(カセ)の交換という悪い意味で}相当し、開いた扉を閉め《意志の発動》が基になって構成されている【特殊理論的思考(世界観)】と。その対立の中で悪魔的として拒絶されているが、本当の意味での『“大”進化論』や『“大”E=mc²』を{隠されてはいるが}形成していて、反面教師としての『パラダイム論』に相当し、【更新する無限に多様な“大”全体】が【“大”更新】する《【“大”更新】の発動》が基になって構成されている【一般理論的思考(世界観)】からなり。
その《イヤな三角関係》の在り様というのは。『ノアの箱舟』に乗れる選ばれたモノの選別を{この〔世界〕は完成した完全なモノなので、大義名文や道理や理屈こそが、事の善悪や、成否を左右すると思っていて}建設的なモノだと認識してしまう【完全世界的思考(世界観)】と、その選別で足切りされたモノの反抗を{この〔世界〕は特定の法則が個別に成り立って組み合わされる特殊理論によって構成されているモノなので、核という『パンドラの箱』はすぐに閉めるベキだと言う反核運動や、改憲という『パンドラの箱』に手を出してはいけないと言う護憲運動などの様に、何かを止めたり何もしなかったりするダケで事が済むと思っていて}後ろ向きに実施してしまう【特殊理論的思考(世界観)】とが、不毛な勢力争いを繰り広げている為に、【“小”部分】で【“小”更新】をしていたモノとは【“大”部分】で【“大”更新】にも関われるのだと考えられて{この〔世界〕は一つの法則が隅々まで行き渡る一般理論で成り立っているモノなので、料理も当然、個別に在るレピシを上手に利用するだけの受動的なモノではなく、自分の味覚を頼りに味の組み立てをイチから総合的に構築していく主体的なモノだと思っていて}物事に対しては主体的にイチから関わろうとする【一般理論的思考(世界観)】が、悪魔的妄想というレッテルを貼られて拒絶されるモノなのです。
しかし、よくよく考えてみれば。【特殊理論的思考(世界観)】の人間は、{『パンドラの箱』を持ち出しては}何時も世界の破綻の責任を背負って悲嘆に暮れていて、さらにはその責任追及を【完全世界的思考(世界観)】の{『近代科学』に従順な}人間に向けるものだから、【完全世界的思考(世界観)】の{『唯一神教』の教えに従順な}人間との醜くい非難のし合いに陥っているものなのですが。それでも結局【更新する無限に多様な“大”全体】は、人間という【“小”部分】で【“小”更新】を行うモノの参加を快(ココロヨ)く待ち続けてくれていて、【一般理論的思考(世界観)】を持ってさえいれば、人間は誰でも【“大”部分】となれて、何時でも【“大”更新】に関る事が出来るのです。
【更新する無限に多様な“大”全体】とはそういうモノであり、人間とはそういう生き物であり、宗教とはそのように在り、《イヤな三角関係》とはその程度のモノであったのです。
*予告【9月24日・木】
〔この世界〕の基本構造である【更新する無限に多様な“大”全体】を扱う【一般理論】を聴き取って、〔物理学世界〕のつぶやきを紹介したいと思います
*****テーマの変更*****
*『神は死んだ』の哲学的真実。【8月28日・金】
哲学者【ニーチェ】がその当時に於いて、“発狂”したと思われていたのは、【更新する無限大に多様な全体】の{権力者や宗教家が畏怖されようとして人々に教示していた『限定的な全体』や、『利得者』の座の安定の為に小出しにしていた【全体】の【部分解禁】に対しての}絶対的な優位性を知り、近代科学と唯一神教の{背任行為な}癒着を見抜いていて、科学も宗教も敵にした孤独な実践をしていた為であり。
現代に於いても『神は死んだ』の言葉が、信仰の薄れた時代と心を病んだ自分とをリンクさせてしまった事によって発せられた“妄言”のようなモノではないかと言われているのは、無神論な共産主義を振りかざして資本主義と宗教の追い落としに{一時代でも}成功した『知識人』の台頭をもう二度と許さない為であり。そして、現在の権力者と宗教家が『利得者』として安定して居られるように、終焉した経済の永続を一般庶民が承諾するしか仕方がないように仕向けている為であります。
*『神は死んだ』という人の為の開放宣言。【6月29日・月】
150年前に、【ダーウィン】が『進化論』で、《神の存在が否定される可能性》を示唆(シサ)していて。100年前には、【ニーチェ】の『神は死んだ』と、【アインシュタイン】の『E=mc²』によって、《神が創造した世界からの“開放宣言”》がなされていて。50年前にも、【トーマス・クーン】の『パラダイム論』により、《神の存在による人間への縛り》が{反面教師という形で}注意喚起されていたにも関わらず。
人間は現代に至ってもなお、≪『生きた水』から作られる【薬品耐性水】≫や、≪《自分の求めに答えてもらう為に、異性に対して“適切”に提供するモノ》という『性的行動』≫や、≪《ゲームに於ける[駒]や[カード]など》ように様々な場面で何度でも平等に再分配されるものとしての『お金』の在り様と活用≫について、その大多数が理解できずにいて。
人とは、求めているモノだけを理解しようとするモノであり、それ以外の事の認識が受け付けられない生き物なので。《求めるコト》と《その求めに対する答え》を用意する宗教にハマリ込んでしまうと、人はその“自己完結”した世界観の中で閉じこもってしまい。【更新】を忘れ、【更新する全体の部分】としての役割を忘れてしまって。その為に、人は、様々な破綻を招き寄せる役割を担う『人間』になってしまうのでありまして。
【更新する無限大に多様な全体】の【部分】としての存在であろうとする『人類としての志』を、安易に切り崩してしまう【部分解禁】である『理念』や『標語』を用いた、『ユダヤ教』や『キリスト教』や『イスラム教』などの『唯一神教』によって、数百年の時間が費(ツイ)やされて近代社会が構築されて来た事もあって。現代人は、その宗教的な{自己完結した世界観の}縛りから脱け出せないモノですから、その破滅的な事態の詳細を理解する事など{権力者側も知識人側も}とうてい出来ないのであります。
参照
*【ニーチェ】の後継者の裾野。【6月12日・金】
その昔、哲学者【フリードリヒ・ニーチェ(1844年~1900年)】が、『神は死んだ』と言ったという。そして世界中の{人間の}誰もが、キリスト教文化(信仰)の[退廃]と[消滅]の危機を言い表したニヒリズムな言葉だと信じて疑わない。
しかし、はたしてソウなのであろうか。人間が人類である事を取り戻すコトの始まりを知らせる【号砲】であり、【ニーチェ】がその死後の後継者に託(タク)した、人類の復興の為の『キーワード』なのかも知れないというのに。
『神は死んだ』のであるから、≪人間の住む〔世界〕というのは、神が創造したモノであり、何時までも同じである事によって、そこに住む人間が繁栄していられるのである。人間がその〔世界〕を忠実に形成し、それが守られるコトにより安定が維持され、そして混沌とした〔外世界〕からの悪しき干渉から、その身が守られるのである≫などといった“縛り”から、人間は解放されるハズであったのですが。
『神は死んだ』という言葉に{拒否反応を示して}反発する大多数の人間たちによって、『神は死んだ』という事の真意が隠蔽(インペイ)され、今現在も『神は死んだ』という言葉はニヒリズムなモノだとする事が{常識として}周知されていて。【ニーチェ】の後継者の裾野が、今に至るまでまったく広がっていないのです。
【ちび猫】の言っている【更新する無限大に多様な全体】が、たとえ【ニーチェ】の後継者の裾野の野末(ノズエ)であったとしても、それが数年や数十年で認知される事はマズあり得ないでしょう。
『有限で一律な全体』が全体についての既存の概念である事によって、[善悪]や[処罰]などの基準が明確に周知され、個人々々が警察官気取りでその取締りに{勇んで}励み、周到に無自覚な監視網が形成され、人の営みが破滅的危機に向かっている今に於いても、自分(自分たち)の事を《信仰心が厚い》とか《良識的である》とか言って自己満足していられるのが、現代人の客観的な実態なのでありますから。
ただ、【ニーチェ】の後継者の裾野がどれほど狭くとも、そこに真実がある限りは、それが消えてしまうコトは決して無いのですから。その野末でのバトンリレーは、まだまだ当分は続く事に、なるのです。
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*****(制作終了)*****
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36.ちび猫が見付けた『宗教・信仰』の自由議論(1)参照。
65.ちび猫が見付けた『宗教・信仰』の自由議論(2)からの続きです。
134.ちび猫が見付けた『理念・宗教世界のつぶやき』の再現(2)へ続きます。
令和1年度版
*次のお知らせ。【10月13日・日】
これからは、当ブログ第0092号の【『ちび猫のつぶやき』の(主張)のこれから先の概要】をメイン用例とさせてもらいます。
*自分の悲観的未来観と、地球の危機という恐怖感。【9月1日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。みんなが見た目には{『倫理道徳』に従って発展し、『科学技術』を追って進歩し、自分の存在意義の為に盲目的に命を切り売りしていて}順調に、それぞれの特定の『土台』の上への積み上げ(前後が反転した時間認識での{破綻した未来へと必然的に至る}努力)を、様々に連なって{ビル群が乱立して出来ていくように、色々な集団が様々な構成で形成されて}していたが。それによって、{ビル群の乱立に伴う諸問題(団体の内部や組織の間で起こる諸事態)のような}様々な問題(『悪の自然誌』での必然的事態や、『パラダイム変換』が必要になる必然的破綻)にそれぞれが追い詰められ、それぞれに{必然的に憂さ晴らしをするように}対処していて、{人々が色々な集団で命を切り売りする歪んだ人世界(切り売りする自分の命が尽きてしまい、死に急ぐ必要に迫られてしまう、誰もが陥る悲観的な未来観)に引きずられて}この世界(地球)が{自然の腐敗や腐食や耐性獲得や環境破壊が人間の発展や進歩を上回ってしまいかねない}危機(人間の恐怖感・幻想)に陥っていたのです。
1000年“後ろ”の時代からは。{ビル群の乱立を様々に転移・拡散させてしまうような}新しい土台の上への積み上げに誰も協力してくれないし、自分も{ビル群の乱立を様々に転移・拡散させてしまうような事をする}誰かに新たに協力する事をしたくなくて、この{人世界を含むこの世界である}地球の危機(人間の恐怖感)が{自分の存在意義など誰も求めようがなくて}放置されるに至る(負け組の人世界で人々が絶望感や無力感に陥ってしまって、人間が『連なり』による効率や効果を断念し、集団での色々な追求を止めてしまい、『土台』の上への積み上げが無くなってしまう)のです。
1000年“前(先)”の今では。【KY:空気読まない:【営業スマイル】の使い道】な人たち(アリ的お一人様)によりバラバラな発信や活動が行われる集団(アリ的集まり)が作られるのだが、そんな行いが制限される事はなく、それらがトータルで論じられる事もなく、そしてそういった【KY】な人たちの{少ない}共通点が{複数の整数から公約数が求められるように}採り上げられて、それだけがその集団における集団行為(集団としての可能性)として{考えられ}認識されているのです。
*集団の構成員の{カスな}条件は【KY】。【8月25日・日】
1000年“後ろ”の時代までは。指導者はカスばかりであったが、一般市民の側に高い集団意識があり、{知性が低いまま}集団が強く形成されていた為に、各集団に分別が無くて、集団どうしでの争いが絶えなかった。
1000年“後ろ”の時代からは。「こんなカスな指導者の為に、俺ら一般市民が、{命の切り崩しのような}努力をするなんて{もったいない}事が出来るか!」という考え方が広まり、集団が形骸化していった。
1000年“前(先)”の今では。【アリ的お一人様】なカスばかりが、平等な立場で集まって、【アリ的集まり】で集団が形成されているのであった。
そんな今であるからか。集団の構成員の{カスな}条件は【KY:空気読まない:【営業スマイル】の使い道】であり、指導者になる(知性の低い)カスは無く、カスの指示に従う(集団意識が高い)だけの一般市民という存在さえ無いのである。
*【KY】な信者が【アリ的】に信仰をする【アリ的集り】の宗教。【8月24日・土】
1000年“後ろ”の時代までは。自分勝手がしたい{グウタラな}神職者(クソ野郎ども)の下に{教団などの構成員である為に命を切り売りする}一般の信徒(大馬鹿者たち)が集まる構成の宗教が、争いを続け、{淘汰される中で}宗教としての効率化が進んだ{野心を持った信徒が神職者を『祭りの神輿』にしてしまう}教団が形成されていたが
1000年“後ろ”の時代からは。グウタラなクソ野郎どもを『祭りの神輿』として担ぎ上げるのに馬鹿々々しくなってしまって、宗教が分裂し、{名前だけの}機能不全な教団が増えていった。
1000年“前(先)”の今では。【アリ的お一人様】なクソ野郎どもが、クソ野郎なまま集まる{【営業スマイル】でゴリ押しする者たちばかりの}構成で、【アリ的集り】な教団を形成していた。
そんな今であるからか。宗教を信仰する者の条件は【KY:空気読まない:【営業スマイル】の使い道】となっていて、{しかも}宗教に指導者は不要で、{当たり前だが}宗教に於いて一般信徒という階層が不用となっている。
・平成31年度版
*お知らせ。【3月23日・土】
これからは、当ブログ第A0014号の【道路をゆっくり走るのに、・・・】と【道路をゆっくり走るのに、・・・(2)】をメイン用例としていくつもりなので、参照していただけたら幸いです。
*お詫び。【3月4日・月】
【ニーチェ】の『神は死んだ』の発言に於けるこれまでの{人類への賛歌としていた}解釈を反転させる自己修正をする事に致しました。修正内容については当ブログ第A0014号の【『神は死んだ』などと言われない為に】を参照していただけたら幸いです。
・平成30年度版
*恩恵をもたらす実力者となる人類。【12月31日・月】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪権威体制下での墓穴となったノーベル賞≫
1000年“後ろ”の時代までは。世界中の{広範囲の地域で同様に作られていた}宗教や国家により、その{ジプシーやアメリカインディアンなどには見られない}特定の権威体制下での社会の繁栄と安定が図られていて。
そして、{それらの統治下に住んでいた大半の人類である}人々を{各個に個々が個別な地力を身に付けた}実力者(権威を脅かす存在)に成長させないようにと、{人々に【発達機能】の休止をさせるべく}『みにくいヒトの子:周囲は{みにくいヒトの子を破綻に追い込もうとする}敵ばかりであり、守られるに値する大人(本当は未熟なヒトの子)である為に{『神』や『権威』に捧げられる(その典型がノーベル賞)}『成功の積み上げ』が出来なくてはならない』というスリ込みが行われていたのですが。
それにより、{ノーベル賞で受賞されてしまった}【トーマス・クーン】が{反面教師的に}警鐘を鳴らした『科学革命の構造』の通りの発展や進歩が{数千年間も}続き、{ノーベル賞で受賞されてしまった}【コンラート・ローレンツ】が{反面教師的に}悪い見本とした『攻撃』の内容の様な実験や発見が{近代化以降も}行われてしまって。
そしてそういった、悪い意味での『お手本通り』の{ノーベル賞で受賞される為に研究者たち率先した}ノーベル賞的研究(発展や進歩や、実験や発見)が、{破綻を繰り返しながら}長年続いてしまっていたのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。{誰よりも【成功の積み上げ:未熟である事による周囲の攻撃から守られる為に、{自立した個である為には必要であったハズの}修正を{無自覚に}しないまま、{他力本願な客観視(本質的な成長を無視した見た目の成果)に固執して出来たコト(教会や王国で許された『お利口さ』や『甘え』に応じる形で飛躍(ヒヤク)した《社会や経済の発展》や《科学技術の進歩》など)による}成功だけを積み上げる】による恩恵(教会と王国の庇護下だからこその成功)を受けて来た}ノーベルが提唱し{教会と王国の影響を受けた}ノーベル財団が立ち上げたノーベル賞ではあったが、
{宗教や国家などの権威体制下での『みにくいヒトの子:周りは『他のモノ』などの敵だらけであり、守られる事を受け入れられるというのは{敵の怖さを知って成熟した}大人として成長した証しであって、自分で何とかしようと意地を張るのはまだ{怖さを知らない未成熟な}ガキだからである』という{人々を地力が付いて実力者になるコトに{守られる事を拒む行為(愚行・蛮勇)だとして}シリゴミさせて素人(積み上げられていく【成功】に違和感を抱かず【修正】もしない軽率な未熟者)のままにしてしまうような}『スリ込み』により【発達機能】が休止して、自立心を失った{守られる事への違和感を失って、守られる為のコト(社会や経済の発展や、科学技術の進歩)の為の『お利口さ』や『甘え』を暴走させてしまう}未熟者たちによる}
人の営みの{昔から必然とされていた}破綻を説明したのが『パダイム論:【トーマス・クーン】の『科学革命の構造』参考』でありその末期症状(破綻を回避させる為の【修正】が{みんなして}手遅れとなって{一斉に}右往左往する人々の{土壇場の}有り様)を言い表したのが『パラダイム変換:ノーベル賞の受賞によって進歩の理想形と思い違いさせられていた末期的な破綻による最終的な情況』であり、
人の営みの破綻を具体的に説明したのが『悪の自然誌:【コンラート・ローレンツ】の『攻撃』参考』であり人の営みが破綻を誘引した具体例が《縄張り意識の強い魚を一つの水槽へ複数ひき投入する:人為的実験》や《ネズミの特定集団への別の集団のネズミを投入する:非自然行為》であったのを、
ノーベル賞で{宗教や国家の権威体制によって隠蔽を目的に「【トーマス・クーン】の『科学革命の構造』は、画期的な新しい発想だ」とか「【コンラート・ローレンツ】の『攻撃』は、実験に裏打ちされた新発見だ」とか言われて}表彰されてしまって{その露骨であからさまな仕組み故に、じきに誰もが『反面教師』という大前提が隠蔽されていた事に気付いてしまい}墓穴を掘る事となり、
人々は【発達機能】を休止させた{『お利口さ』や『甘え』に抵抗感を抱かない}未熟者である事による
{《社会や経済の発展》や《科学技術の進歩》に違和感を抱かずに完全に依存してしまい、奴隷根性丸出しで「ノーベル賞は人類の希望を照らす灯台」だと『ゴマ擦り』を言ってしまって、守られるに値する者である為の【成功の積み上げ】にみんなで一斉に
{破綻に至った失敗例から自分に合った【修正】を個別に導き出す自立した個々の大人(『アリ的お一人様:神秘主義的に独立独歩な成功者』が実践できる実力者)の事をろくに知りもしないで}
興じてしまう}
辱めはもう御免だし、
積み上げの為の【成功】を演出(守られたいという意思表示:『お利口さ』や『甘え』の実践)しないといけない無駄な借りを{人々が{《社会や経済の発展》や《科学技術の進歩》に依存する}未熟なままであってこその権威体制(宗教や国家など)に}作りたくなくて、
{発達機能を成熟させた}実力者となるべくノーベル賞を{破綻へと至った}失敗例として【修正】を各個に重ねるコトを始めたのです。
そして、1000年“前(先)”の今では。{ジプシーやアメリカインディアンたちだけではない}全ての人類が、
{宗教や国家の思惑から自立した人々の《発達機能の活性化》と共に}各個に個々が個別の地力を発達させた実力者となり。
『他のモノ』たちとの協力関係を、
{『進化論の図:本当は生物の協力関係の図』や『神は死んだ:本当は神から解放された喜びの言葉』などの誤用(人類は生物界での団体戦勝利の為に一致団結しなくてはならない・神(権威)を見失った人間は狂気の末路をたどる)による独善や正義感から解放され先の、『生きた水』を使う時の安全性や、『幸せな想い』をする時の安心感や、『口や水着の部分を守る』というコトを受け入れた時の納得感などに基づいて}円満に築けていて。
【大全体】の中核をなす存在として、
人類が『他のモノ』たちに、
{ノーベル賞の受賞研究を『反面教師』にして}恩恵をもたらしているのです。
*『アリ的お一人様』による多様性が生み出す更新の必要性。【8月18日・土】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪『共通性』と『責任意識』と『ブロック積みの世界観』の人間制御による歪みと停滞≫
1000年“後ろ”の時代までは。『ユダヤ教』や『イスラム教』や『キリスト教』などの唯一神教の教義による、『共通性(一つの人類としての共有の認識、大切なもの)』と『責任意識(組み体操をしている認識、免罪符的精神安定剤)』と『ブロック積みの世界観(時間認識に於ける前後の反転を生じさせた閉鎖的未来認識、土台に依存した他力本願)』の{神に人を捧げる『バベルの塔作り』の為の}人間制御の、世界中への広まりにより、人は歪み(精神疾患の増加)、人の営みは停滞し(大全体を無視した部分解禁に拘った進歩による、人の営みの破綻の必然)、人の世は自然世界から取り残されていて(『唯一神教』の一律な指導による一様な人間の努力により、人間の居場所である地球そのものが自然世界の更新から取り残されてしまい、地球の環境破壊が止まらない)。その阻止を目的に、{人間を鼓舞するべく}ノーベル財団によって、{最高の権威となる}ノーベル賞が作られていたのですが。ノーベル財団そのものが『キリスト教(唯一神教)』の影響下にあった為に、{権威との対立から、暗号のように解読を必要とした}反面教師として発表されたモノが{最高権威のお墨付きで}そのまま肯定されてしまい、{ノーベル賞の権威の高さと相反して}その目的は果たされなかったのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。{更新する無限に多様な大全体の}大全体の概念を踏まえた、ノーベル賞の反面教師としての利用から、『幸せな想い』の自由により解放された人(アリ的お一人様)や、『生きた水』を必要な所に必要なだけ無償で配布するような人の営み(個々別な科学技術、無償支援の配分経済)や、人類が地球環境の多様性の構成員となって一緒に更新を形成させていく人の世(地球環境や人類を分析・評価するのではなく、地球環境と人類を自由解放させる)が始まり。
そして、1000年“前(先)”の今では。『倫理道徳の試練』や『免罪符的精神安定剤として利用していた責任意識(組み体操の意識)』の憂さ晴らしとしての暴力(イジメや各種ハラスメントやテロや差別や迫害)や、産業化の為に一様化された科学技術や、お金による一律な労働力の要求や、そのモノがそのモノとして個々別に在る事の必要性を見失って物事を分析、区分け、批評するだけで満足してしまう事を、人類の病気として学んでいるのです。
*ノーベル財団の思惑の利用価値。【7月8日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪【部分解禁】な人の営みを反面教師とさせない為の楔となっていたノーベル賞≫
1000年“後ろ”の時代までは。『唯一神教の組織』であるノーベル財団は、【部分解禁】(『組み体操の意識によるバベルの塔作り』としての『指示命令系統による産業化』の為の、物の存在や人間の精神を神秘主義(アリ的お一人様)から遠ざける『ブロック積みの世界観』の実践)の構造を{人の営みが破綻に至る道筋だと知れると教会などから迫害される可能性があるので}極秘裏に解明していた『パラダイム論』への対策として、【トーマス・クーン】に『ノーベル賞』を{反面教師として利用させない楔(クサビ)を打ち込むように}授与し、『パラダイム論』を権威の保護下に置いて、『パラダイム論』を人々の手から取り上げてしまったのですが。他にも、水槽の中(自然ではない環境作りである『特定の土台固め』の上)での魚(生き物)の攻撃性(不自然な条件下で利用される【部分解禁】の実態)を{こっそり含みを持たせて}解説した『攻撃』の著作者である【コンラート・ローレンツ】に『ノーベル賞』を授与する事によって、『攻撃』を権威の保護下に置いてしまい、自然ではない環境作りである『特定の土台固め』の上(不自然な条件下での人の営み:水槽の中のような人の世の在り様)での破綻を当然のモノと周知させてしまって、『攻撃』を反面教師にするコトを出来なくさせてしまう{などの}事をしていて。毎年、重要な分野の{何らかの含みがありそうな}特別な功績に対して『ノーベル賞』を授与しては、それらに{反面教師として自由に利用するコトが出来ないように人々から取り上げてしまうような}楔を打ち込み、『唯一神教の世界観』の周知徹底(悪魔の誘惑である神秘主義(アリ的お一人様)を許さない:教会が守って来た唯一絶対の正義を穢(カガ)させない)を{過剰なまでに}図っていたのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。人の営みが巨大化し、破綻に至るコトを繰り返す『唯一神教の世界観』の問題が人類存続の危機を招くようになり、{破綻から救済が始まるとする『世紀末思想』ではとても安心できなくなって}特定の土台の上にみんなが乗ってそれを組み体操の意識で支え合って我慢する事(人の世を『ノアの箱舟』にする)への疑問が膨らみ、『ノーベル賞』の意義の洗い直しが始まって。
そして、1000年“先”の今では。1000年“後ろ”の時代の『ノーベル賞』が反面教師として利用され、神秘主義(アリ的お一人様)を原則とする人の営みが大勢を占めていて、ノーベル財団の思惑とは正反対の『ノーベル賞』の恩恵を受けているのです。
*『バベルの塔作り』を世界で続けた『唯一神教』。【5月28日・月】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪捧げ物としての『バベルの塔作り』の為の『指示命令系統』の不自然さ≫
1000年“後ろ”までの時代では。『人の営み』そのモノが、地球を舞台にしての{それによって人間の生が許される}神への捧げ物(『バベルの塔作り』と同義の、『倫理道徳の試練』に沿った善行であるべきモノ)だと{無自覚にスリ込まれて}信じられていて。その為に、神の下に続く『指示命令系統』が、人間(社会)の自然な姿だと{信仰の枠を超えて、正義の名の下に徹底して}思い込まされてしまい。それによって、人間は『アリ的お一人様』という『大全体』の構成員の資格を{『幸せな想い』を自制して}失い、{食い荒らすハズの}砂糖を『捧げ物としての行為』によって守って{残して}しまうコトによる『残るハズのなかった砂糖の破綻』を招き、『人の営み』の積み上げ(不自然な人の行為の産物)の破綻が、何時までも{人の営みの必然と言われて}繰り返されてしまっていて。
さらには、「変な思い込みのし合いによる感情論での対立に{お互いが}陥っている」と安易に陥り、「和解が難しく力づくでしか解決に至れない」と安易に至ってしまい。そして、「過去は変えられないが、未来は{『捧げ物:人間の行い』しだいで}変えられる」という考え方から、{自分たちにとっての}良い未来に変えていく為に、『捧げ物:人間の行い』の主導権争いでは負けられないとして、何時までも争いが{人間の本能の結果と言われて}続く事になってしまっていたのです。
しかし、1000年“後ろ”からの時代では。『捧げ物:人間の行い』をより大規模にしようとして不自然に{人間(個々人)を{多様性を失って『大全体』の構成員ではいられない程に}虚弱化させてしまう『檻の中:独自性が削がれる状況に人々を閉じ込めてしまう人間社会』が{神という大樹に人間が縛られる様に}形成されて}正当化されたのが『指示命令系統』であり、窮屈な『捧げ物:人間の行い』での憂さ晴らしに{意に反する者を粛清する為の}大義名分を持ち出していたのが『市民運動』であり、『捧げ物:人間の行い』の主導権争いに装飾性(個々人は科学的な知識や技能を持たない、科学技術産業の産物)を持ち込んでいたのが近代科学なのだという事が周知され始め。
そして、1000年“前(先)”である今では。科学的な知識や技能を{科学技術産業の産物への依存に支えられて}拒絶したまま粛清(意に反する者の排除)の為の大義名分を振りかざす『反核運動』のようなモノは無くなり、個々人が{砂糖を食い荒らす}『アリ的お一人様』である自然さを失った『人の営み』を装飾していた『ノーベル賞』のようなモノも無くなっていて。
さらには、『大全体』を多次元多重構造にした『アスキーアートの世界観』に基づいて{無意味で愚かなモノとされていた}過去の『日常:自然な人間』が掘り起こされ、様々に{意味が有る様に}縒(ヨ)り合わせられて整理され、未来の可能性として紡(ツム)がれているのです。
・平成29年度版
*オカシイものがオカシイと責任追及されてきた時代~8~(草案)。【9月10日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪可笑しいモノを可笑しいと笑える時代へ=理念(振れの繰り返し)編=≫
1000年“後ろ”の時代の日本国に於いては、江戸時代には概ね『庶民を扇動する知識人の側』にあり、明治の時代には概ね『権力者を支える科学者の側』にあって、大正の時代には概ね『庶民を扇動する知識人の側』にあったようなのですが、大戦より“後ろ”の昭和初期に『権力者を支える科学者の側』へと大きく振れ、大戦より“先”の昭和中期以降には『庶民を扇動する知識人の側』へとゆっくり振れていて、そして大戦の記憶が薄れた平成以降になるとまた『権力者を支える科学者の側』へと徐々に振れてしまったのです。
また、20世紀後半の{超大国アメリカが先導する}世界に於いては、{歴代のアメリカ大統領(政党)によって左右されていて}ジミー・カーター大統領(民主党)の時代には『権力者を支える科学者の側』にあり、ロナルド・レーガン大統領(共和党)やジョージ・ブッシュ大統領(共和党)の時代には『庶民を扇動する知識人の側』にあって、ビル・クリントン大統領(民主党)の時代には『権力者を支える科学者の側』あったのですが、ジョージ・W・ブッシュ大統領(共和党)の時代には『庶民を扇動する知識人の側』に振れ、バラク・オバマ大統領(民主党)の時代には『権力者を支える科学者の側』に振れて、そしてドナルド・トランプ大統領(共和党)の時代には『庶民を扇動する知識人の側』へと振れたのです。
そして、{日本に於ける大戦の記憶が薄れた平成以降や、世界に於けるバラク・オバマ大統領(民主党)の時代の}『権力者を支える科学者の側』の時代には、
{『少し大きいだけの全体』を舞台にした、『尊厳死(土台からのやり直し:物事の初期化)』を重視した虚無(キョム)の思想による{自分たち『全体』の為の努力を無にする}堕落(ダラク)を、人類の存在を汚(ケガ)す正義の放棄でしかないと拒絶して}人々は『延命処置(まだやれる事:やり残し)』を信奉し、
ルール(『古典的な倫理』や『近代的な道徳』)の強迫観念に取り憑かれ、{『幸せの想い』が抱けないまま}試練に精神が押し潰されてしまって、
社会に{正義の執行としての}イジメやパワハラなどを{『必然の悪』に対抗する『人類の進歩(延命処置)』を起こす為に『悪のリセット』が繰り返されるように}蔓延(マンエン)させてしまったのです。
さらには、{日本に行ける大戦より“先”の昭和中期以降や、アメリカのドナルド・トランプ大統領(共和党)の時代の}『庶民を扇動する知識人の側』の時代には、
{『より小さな全体』を舞台にした、『延命処置(まだやれる事:やり残し)』の向上を大義名分にした『リセットされる悪』の繰り返し(繁栄を目指しながら繰り返される戦争や、倫理・道徳を唱えながら繰り返される暴力事件)を、人類の存在を脅(オビヤ)かす正義の崩壊でしかないと嫌悪して}人々は『尊厳死(土台からのやり直し:物事の初期化)』を信奉し、
『ブロック積みの世界観』に縛られずに『その“続き”』を起こす為に『悪』とされる破綻(終焉)に挑む事と『延命処置』とを区別するコトをせず、{誰もが、有効性を受動的に追求して『後手に回る』という事態(ブロック積みの閉塞)の中で、右へ倣えをしていて苦しむ中で}『後出しジャンケン(情報の先見的活用を牽制する用語)』だと呼ばれる精神的な冤罪を着せられようとも{“先”を見て}時間や労力やお金を“有用”な事(その“続き”)の為に能動的に{無理解な人々の中で僻(ヒガ)まれ、足を引っ張られながらも}分配する(削(ケズ)る・割(サ)く)という事の意義が理解できなくて、
「その場(小さな全体)を優先させた問題の先送りはしない(悪化させるだけだから)」とういう事が重要であり、「問題への直接的な対応をする事(『延命処置(まだやれる事;やり残し)』を停止させて、『尊厳死(土台からのやり直し:物事の初期化)』を断行する)」というのが“有効”であると言ってしまって、世界中でテロリストを生み出してしまったのです。
しかし、1000年“後ろ”の時代からは。『全体の為』を盾にした平穏への一律な協力を一様に求め合い、自分がまねいた強迫観念によって自分の精神に異常をきたしてしまう、『権力者を支える科学者の側』の可笑しさを、可笑しいと笑い。
『ブロック積みの世界観』の閉塞問題を理解しながら、『延命処置(まだやれる事:やり残し)』への嫌悪に始まり、『尊厳死(土台からのやり直し:物事の初期化)』に至ってしまう、『庶民を扇動する知識人の側』の可笑しさを、可笑しいと笑えるようになるのです。
そして、1000年“先”の今では。【更新する無限に多様な“大”全体】の概念が周知され、『幸せの想い』に至る精神の自由が確立されていて、《個人の能動的な行為》による“有用”な『生きたお金』の使い方(『その“続き”』の為の配分)に異を唱える者も無いのです。
*石橋とブロックとで解き明かされる宗教世界(概要)。【2月12日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪解りやすくする為に“盤ゲーム”を“ブロック積み”と置き換えました≫
慎重な人を揶揄する「石橋を叩いて渡る」という言葉があり、さらに慎重すぎる人を揶揄して「石橋を叩いて壊す」という言葉があるのですが。
石橋(ブロックの土台)を渡ろうとする(ブロックを積み上げる)時に、人は{壊れないかと不安になると}神経質なまでに慎重になりすぎて(ブロックの土台が確(シッカ)りしていないと不安になって)叩き過ぎて{石橋も渡らずに}砕いてしまう(ブロックの土台をバラして外(ハズ)してしまう)ものなので、多くの{有用な}石橋を神々として祀(マツ)り、大事な石橋が砕かれるのを{畏敬の念で不安を解消させて}防ごうとした(ブロックの土台がこれ以上バラされないように守ろうとした)のが、『古い神々』を信仰する『多神教』であり。
石橋(ブロックの土台)を渡ろうとする(ブロックを積み上げる)時に、人は誰でも{慎重になればなるほど}叩き過ぎて砕いてしまう(ブロックの土台をバラして外(ハズ)してしまう)ものなのですが、その砕かれた岩(バラされたブロック)を石橋(神々)の作り変えの為に{人の手によって}利用しても(土台の上に人が勝手にブロックを積み上げても)いいのだと、人々に{契約と引き換えに}許諾(キョダク)を与(アタ)えてくれたのが、『創造主』の存在を信じる『唯一神教』であったのです。
そして、唯一神教(イスラム世界やキリスト教世界やユダヤ人たち)の影響下にあった、1000年“後ろ”までの時代に於いては。
≪石橋(ブロックの土台)が{ブロックの形状はそのままに}砕かれ、その岩(バラされたブロック)を集めてきて{分別だけして}利用する(ならしただけのブロックの土台の上に既存のブロックを積んでいく)だけの『パラダイム』での進歩までが、人間に許された自由である≫と認識し、そして≪偶然ではなく、ことさらに『パラダイム変換』を(意図してブロックの形状を開発し、新たに土台の形状まで作り変えるコトを)追求して、{信仰と引き換えに手にした}許諾が持つ戒めを無視するのは、『神』を蔑(ナイガシ)ろにする{人間の分を越えた}愚行であって。それが文明だと言うのならば、それは間違いなく『パンドラの箱』が開いた、『神は死んだ』と言えるような怖しい世界であるのです≫というように考える『完全理論的思考の世界観』であったのが、知識人(自称一般庶民の側)であり。
≪石橋(ブロックの土台)を{新たな形状へと}砕き、岩(ブロック)を{新たな形状に}加工して、{土台とブロックの}利用の幅を広げる『パラダイム変換』の進歩も、人間に許された自由である≫と認識し、そして≪石橋(ブロックの土台)と砕かれた岩(ブロック)の利用(土台の上でのブロックの積み上げ)によって人類が進歩して、文明が築かれて来たのに、石橋(ブロックの土台)を{意図的に}新たな形状へと砕くコトや、岩(ブロック)を{工夫して}新たな形状に加工するコトに対して{『パンドラの箱』を持ち出してきて来て}ことさらに倫理に反する(人間の分を越えた)と言うのは、{過去の人間の努力の上に自分が存在している事から目を背(ソム)けた}自己否定であり、{過去の人間の進歩の上に自分たちが生きてこられた事を顧(カエリ)みない}自己矛盾でありまして。それこそが、{いまだに『古い神々』に縛られたまま}創造主である『神』の存在と、契約による人間への許諾を疑う愚行であるのです≫というように考える『特殊理論的思考の世界観』であったのが、エリート(客観的に見て権力者の側)でありまして。
その『完全理論的思考の世界観』である知識人と、『特殊理論的思考の世界観』であるエリートとの争いの中で、その両方から≪『古い神々』と共謀して、『創造主』の存在を攻撃し、『神』との契約を踏(フ)みにじってしまう、{人類として}無責任な行為である≫というレッテルを{明らかな認識不足から}貼られてしまったのが、石橋(ブロックの土台)を{これ以上は岩(ブロック)へとバラされないように}神々として祀る訳でもなければ石橋(ブロックの土台)と岩(バラされたブロック)の安全な利用や、手間を掛けた利用を目指す訳でもない、≪《より多様な岩はより良い石橋の構成員である》という【更新する無限に多様な“大”全体】の“想い”によって、{一律に積み上げ易(ヤス)いブロック状へとしてしまうコトなく}多様な岩が集められた時に有用な大岩(本来の石橋)となるコトが出来るように、多様な岩での『多様性のベース拡大』が行われ、《様々な石橋は【“大”全体】の構成員となる》という『“ロール紙”の世界観』の“想い”によって、{積み易いように一様なブロックの土台へとしてしまうコトなく}様々な大岩(本来の石橋)が次々と有効活用されて行くように、様々な大岩での『多様性のステップアップ』が行われる≫という考え方の『一般理論的思考の世界観』であったのです。
しかし、1000年“後ろ”からの時代になれば、≪岩がブロックとして土台の上に積まれていく【部分解禁】の進歩には、石橋がブロックの土台としてバラされる破綻が必然的に伴(トモナ)うモノであり、{その破綻は}どれ程のリスク(犠牲)があっても{相応の進歩の為には}必要不可欠なコトである≫という{『唯一神教』が陥(オチイ)りがちな}認識も薄れていき。
1000年“先”の{多様な岩からなる様々な石橋の【“大”全体】がブロック状に砕かれるコトなく、色々な分野で“ロール紙”から生み出されるように次々と有効利用されている}現代では、「誰もが平穏と繁栄を求めながら、『神』の名の下に破壊と殺戮が繰り返されていた」というのは、遠い昔の可笑しな『御伽噺』となっているのです。
*情勢不安であった遠い昔の歴史の一コマ(概要)。【1月22日・日】
1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪権力者の側の『甘え』と一般庶民の側の『執着』≫
1000年“後ろ”の、《【更新する無限に多様な“大”全体】の概念》が隠蔽されたままであった時代には、権力者の側が、《【部分解禁】による[進歩]と[破綻]の繰り返し》を単なる『ハイリスク・ハイリターン』としてしか見ずに、その[進歩]を『必要な作用』として認識し、自分達の手による《進歩を遂(ト)げる手柄》の優越感に目が暗んでしまい。{[進歩]にともなって}繰り返しやって来る[破綻]による受難を一般庶民の側に押し付けておきながら、その行為を次の[進歩]の為の{自然で当然な}『土台の改良』だと正当化し、{さらには}その事によって生じてくる{[進歩]の有効性が薄れる}問題までも「一般庶民の側の《後ろ向きの姿勢(怠惰や反発)》によって社会が停滞してしまう、《閉塞感の蔓延(マンエン)》という出来事を{不安で硬(コワバ)っていた一般庶民の側に押し付けて}でっち上げるコト」によって一般庶民の側へと責任転嫁してしまっていて。{[進歩]に付随して起こる}その[破綻]に対して、一般庶民の側が《権力者の側の手による『悪魔の作用』》として{妄想的な}認識をし、「権力者の側が悪魔に誘惑されて、破綻を拡散させている」と一般庶民の側が{過剰な}危機感を抱いてしまい、情勢不安に{悪魔と化した権力者の側を一般庶民の側が浄化するという形で}拍車が掛かってしまっているという現実(連鎖)を、権力者の側がまったく理解できていなかったのです。
それが『特殊理論的思考の世界観』であり、その正当性の為にあった論理が{“想い”を歪めてしまう強迫観念を生み出す}『パラダイム論』や『“盤ゲーム”の世界観』でありまして。物事を{大所高所から見ていて}客観的に判断しているのだと権力者の側がどれだけ主張しようともそれは『甘え』であり、所詮は≪『パラダイム変換』を理想の進歩と思うばかりで、{人間の歴史が破壊の繰り返しであり、その《繰返される歴史》から何も学べないでいると嘆(ナゲ)きつつ}その【反面教師】としての意義に{誰も}気付けず、『パラダイム』という枷(カセ)に縛られた『全体の状態(人によっては自分の思考)』の繰り返しから抜け出せないまま、結局は『枠組みの破壊』を名目にした破壊行為の正当化(自己正当化)」を行い。時間の前後認識の反転に熱心で、{権威に媚(コ)び諂(ヘツラ)うコトに目が暗み、その紛(マギ)らわしい状況に何の疑問も抱かなくて}『“盤ゲーム”の世界観』とは違う『“ロール紙”の世界観』という“想い”にまったく気付けず、《立体構造の『進化の図』》から始まって『一般理論的思考の世界観』や《反面教師としての『パラダイム変換』》を経て、《自分にとっての『幸せな“想い”』を“想う”コト》や《『お金』の共有意識》へと至る《【更新する無限に多様な“大”全体】の概念》を隠蔽したまま、結局は『再構築の為のリセット』を名目にした《[人間(他者)]や[人の営み(他人の行い)]の抹消行為(人によっては自分の各種ハラスメント)》の正当化(自己正当化)を行う≫という{強迫観念から生じる}歪んだ“想い”でしかなく。一般庶民の側の『完全理論的思考の世界観』に対して「[破綻]を恐れて[進歩]の邪魔をして、〔特殊理論の世界〕を[破綻]した機能不全に陥らせるモノ」だと{「[破綻]の責任を転嫁して}決めつけて、一般庶民の側を{[破綻]の責任を取らせる形で}非難し、一般庶民の側を一方的に{[破綻]の回避の為として}排除の対象にしてしまっていて。一般庶民の側を{悪魔の如き理屈を積み上げて}危機に追い込み、権力者の側は悪魔に加担していると一般庶民の側に{過度な}不信感を抱かせてしまい、権力者の側そのモノが政情不安の{悪魔的な}原因なのだと一般庶民の側に錯覚させていたのです。
しかしその一方で、一般庶民の側の方も、『完全理論的思考の世界観』への過剰な『執着』によって、「権力者の側による《【部分解禁】による[進歩]と[破綻]の繰り返し》は、『パンドラの箱』の{希望を食い潰しながらの}解放の進行であり、〔完全理論の世界〕を{取り返しがつかないまでに}危うくする《悪魔の復活への過程》である」と{妄想を膨らませて}危機感を暴走させてしまい。{【ニーチェ】が《精神の開放》を表現したハズの}『神は死んだ』というメッセージを、「最大級の危機感が言葉となった{人類への}警告であり、権力者の側による『悪魔的企み』を{端的に}暴(アバ)くコトによる一般庶民の側への叱咤激励である」と認識して、権力者の側による《【部分解禁】による[進歩]と[破綻]の繰り返し》を{必ず}止めるのが一般庶民の側の使命であると{過激に}思い込んでしまって。権力者の側との対話を{悪魔に感化されない為に}絶ち、「どんな犠牲も厭(イト)わない」と覚悟を決めて、《一般庶民の側の総意の代行者》としてのテロリストに志願する{英雄気取りの}者が、{それこそが[進歩]に付随して繰返される[破綻]の一つでありながら}後を絶たず、『イスラム原理主義』や『イスラム国』の台頭が続いたのです。
しかし、そんな《【更新する無限に多様な“大”全体】の概念》の隠蔽に始まる諸問題の一つも、それから“先”の《【更新する無限に多様な“大”全体】の概念》の解禁による諸問題の解決の連鎖によって解消されていて。今では、遠い昔の歴史の一コマとなり、『御伽噺(オトギバナシ)』のように伝えられているだけなのです。
・平成28年度版
*宗教が問題なのではないのです(概要)。【12月10日・土】
1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪唯一神教への配慮が問題の始まりなのです≫
人間にとっての《本来の“居場所”》というのは、≪【“大”全体】の概念の周知から、『幸せの想い(想い合い)』の解禁を実現して、『お金の共有意識』の認識へと至る、『多様性のベース拡大』と『多様性のステップアップ』が連鎖する状況≫の事であるというのに。人間に宗教が必要となってしまったのは、人間がその《本来の“居場所”》を{【部分解禁】による進歩の追求や、強迫観念による安定の追求や、『共有認識が排除されたお金』による繁栄の追求などをする中で}一時的に見失って{様々な事で困って}しまい、そこからの回復の手助けとして《“仮の居所”としての宗教》を{困った内容の種類に対応した神々に}求めたからであり。唯一神教に抜きん出た数の信者の獲得が出来てしまったのは、人間が《本来の“居場所”》について「人間は『神』とは違って不完全であり、《本来の“居場所”》から遥(ハル)か遠くの{退行の難しい}過酷な所に進出して来て居て、『神』の手助けを得る努力を{迷い、躊躇(チュウチョ)して}怠っていては何も立ち行かない」と自覚(覚悟)してしまうように{【“大”全体】の概念を否定した『創造主』の概念によって、『多様性のベース拡大』や『多様性のステップアップ』への連鎖を悪魔との取引と思い込ませて、〔この世界〕への人間の認識を不自由で硬直したモノに歪めてしまって}仕向けた上に、人間が求めてしまう《“仮の居所”としての宗教》を{『唯一神』の慈悲の下に形成して}恒久的に提供するという{厄介なまでに}至れり尽くせりなモノであったからであります。
しかし、それ故に。多神教などに於いては、人間が《本来の“居場所”》を{一時的に見失って}喪失してしまっている事に対して、《“仮の居所”としての宗教》が受動的に提供されていた訳ですが。唯一神教に於いては、人間を《本来の“居場所”》から遠のいていると幻覚を抱かせた上で人間に《“仮の居所”としての宗教》を{セットで}提供するという能動的な働きかけがされていて、唯一神教の信徒が《本来の“居場所”》の喪失状態から{見失っていた《本来の“居場所”》を再発見して}回復する事が非常に困難となっていて。そして、{その当時の地球上で}信者が最も多くなってしまっていた唯一神教の信徒と、その影響を受けた人たちによる{地球上の}大多数の人間が、その《本来の“居場所”》からドンドン遠くへと{無自覚のまま}向かわされていて、しかもそれが「全ての人類が目指すべき理想の在り方」だと信じ込まされてしまい、誰もそれに異論をはさめない状況にあって、{その当時の}唯一神教が主導する〔人間世界〕は破綻と争いの無くならない閉塞状態に陥ってしまったのです。
1000年後の今だからこそ、人間にとっての《本来の“居場所”》である≪【“大”全体】の概念の周知から、『幸せの想い(想い合い)』の解禁を実現して、『お金の共有意識』の認識へと至る、『多様性のベース拡大』と『多様性のステップアップ』が連鎖する状況≫は回復し。唯一神教への配慮によって生じた【“大”全体】の概念の隠蔽による《【部分解禁】による自然の破綻》や、強迫観念によって人心の掌握が目指された『古典的倫理』による《『試練の想い(想い合い)』による自己の破綻》や、『ロマ・ジプシー』や『アメリカインディアン』などを拒絶する『近代的道徳』による《『共有認識が排除されたお金』による〔人間世界〕の破綻》などの{閉塞状態に人間を追い込んでいた}諸現象への理解が解禁されているのですが。1000年前の人々は、{情報が極端に偏った}閉塞状態の中で、どれほど苦労し、苦悩した事でしょうか。
*『神』の名を用いて仕掛けられた思惑の顛末(概要)。【10月29日・土】
1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪『神』の名を用いた茶番劇の転末≫
この〔世界〕の平和と繁栄の為に{唯一神教の}『神』が存在していて、『神』に仕える者や『神』を信仰する者たちが、その平和と繁栄の実現を目指していたという訳ではなくて。『神』とはこの〔世界〕を浄化している存在であり、教会や信者とはその浄化の実行者でありまして、それ故に【“大”全体】の概念が隠蔽され、『パラダイム論』が歪められていて、その{暴走行為の}権威付けの為に『ノーベル賞』が在ったのですが。さらに言えば、『神』の名の下に非道が行われていると思え、その『神』の側と敵対すべきだと主張して、この〔世界〕に破滅をもたらしてしまうのは、その『神』が目指しているこの〔世界〕の浄化の為の策略に上手く乗せられていただけなのであります。
そして、その事に気付いた人々が今に至るまでに、『神』の呪縛を断ち切って【“大”全体】の概念を確立して、{『古典的倫理』や『近代的道徳』に基づいた『試練の想い・想い合い』による強迫観念からの解放である}『幸せの想い・想い合い』の自由や、『ジプシー・ロマ』の経済観念である{『お金』を共有化する共産主義とは別モノの}《『お金』を共有物と認識する事》を手に入れたのですが。しかし、1000年前の〔人間世界〕にはその気配すら無く、『神』の名を用いて仕掛けられた思惑の茶番劇に人々は熱狂していて、〔人間世界〕は{見た目の}破綻へ向かって突き進んでいたのです。
*キリスト教団体の巧妙な罠(概要)。【10月6日・木】
1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。
≪人間を縛っていた『ノーベル賞』という鎖≫
ノーベル賞による{真面目なだけであった}研究者や活動家たちへの{特殊性の意味を含んだ}表彰によって、〔人間世界〕の現在に至った進歩や、現状の繁栄や、今後の平和というモノに正当性が付与されて、誰の足元にでも在る【更新する無限に多様な“大”全体】に人々(一般市民)が背を向けてしまっていたのですが。
特定の研究や特定の人の活動によって〔人間世界〕が良くなるという『特殊理論的世界観』を人々(一般市民)に植えつけてしまい、『一般理論的世界観』を拒否させて、結果的に『完全理論的世界観』にどっぷり浸かった〔人間世界〕を存続させていたのが{キリスト教団体の}ノーベル財団であり。一部の【更新機能】を特出させて問題を解決させていき、自分たちが【“大”全体】で問題解決に取り組む事の必要性を失わせてしまって、何も変われない人間世界の存続がゴリ押しされていたのでありまして。
すなわち、問題への取り組みを誰かに任せてしまい、何もしなくていい傍観者の人々(一般市民)を増やしていって、何時までも何も変わらない〔人間社会〕の強化が図られていただけなのであります。
*1000年前の《唯一神教の内紛》の正体。【7月12日・火】
これは 1000年前としてのお話しです。
『唯一神教』の三本柱である『ユダヤ教』と『キリスト教』と『イスラム教』の全てが出揃(デソロ)ってから1400年もの年月が経過し、世界中の富と権力と信者の大半を獲得してからは1000年の年月が経過し、《唯一神教の内紛》が《人間世界の分裂》として人類の問題になってしまうようになってからでも数百年の年月が経過していたのですが。《唯一神教の内紛》の激しさは増すばかりで、まったく収まる気配がありませんでした。
世紀末思想や、悪魔や地獄への恐怖が布教に利用されたせいもあって、未来に対して{可笑しなSF作品が生み出されるような}悲観的となり。{気持ちばかりが焦って}強迫観念の『試練の想い・想い合い』に埋没し、{個別な}自由による『幸せの想い・想い合い』に至れず、それにより{被害妄想などから解放される}精神的安定から見放(ミハナ)され。『唯一神』への信仰による『完全理論的思考の世界観』か、無神論による『特殊理論的思考の世界観』のどちらかに捉われてしまい。神の有無を議論する事さえしない【更新する無限に多様な“大”全体】の真理と、その真理を導き出す『一般理論的思考の世界観』の真実を隠蔽し。『進化論』に『進化の図』という枷(カセ)を掛け、『E=mc²』には『パンドラの箱』や『波動エネルギー』という枷を掛けた揚げ句に、「古いパラダイムの排除」を言い訳にした責任転嫁でしかない《排除の論理》を進歩に不可欠だと主張して、テロ行為までも正当化していたからです。
{『唯一神教』が率先(ソッセン)して}宗教が【“大”全体】の概念を取り入れ、『パラダイム変換』を反面教師として活用して、物事や人間の個別な自由による【多様性】が守られていて、【“大”全体な更新】からの恩恵が人類にもたらされている1000年後の今では、想像も出来ない惨状でありますね。
*神が導く『理性の働き』による暗黒の現代。【2月11日・木】
知識人の側が、エリートの側がしてきた{恣意的な}学問の、破綻を招いた責任を追及するばかりで、ストレスに対しての『“個”の反発作用』が【無限に多様】な“個々”で集合するコトによる【“大”全体での更新】に基づいた『生きた水』のようには至れていなくて。エリートの側も、知識人の側を、{直接的な}破綻行為で責任追及していて、【更新する無限に多様な“大”全体】についてまでの思索には至れていないというのに。その双方の両立(尊重)をバランス(調和)の名目で目指す『理性の働き』により、『臭い物にフタ』がされて、破綻が放置されてしまい、現代社会の諸問題がドンドン深刻化しているのです。
そして、そういった{『臭い物にフタ』をするだけの}人間の『理性の働き』が、神の導きによる『絶対正義』と位置付けられているものだから、【ダーウィン】の『進化論』からは【“大”全体による更新】が抜け落ち、【アインシュタイン】の『E=mc²』からは『一般理論的思考(世界観)』が抜け落ち、【ニーチェ】の『神は死んだ』からは『世界の解放』が抜け落ち、【トーマス・クーン】の『パラダイム論』からは『反面教師』が抜け落ちているのに、{魔女裁判が恐ろしくて}誰も口に出せないでいて、暗黒の現代を迎えているのです。
平成27年度版
*『唯一神教』の汎用性故に経済繁栄とテロは必然、なんですってヨ。【11月23日・月】
昔からある宗教的行な行為には、物事を行う時の判断がランダムになるようになるモノが多く、それらはたいてい戦いの時に使われ、相手に此方(コチラ)のパターンを読ませない効果があり、相当な効果が望めたので、戦場で指揮をする権力者にとっては重要なモノであったハズです。しかしそういうモノは、戦いの場でどんなに有効であったとしても、平和に繁栄を続ける時には必要なくて、安定した時代には一様な模範や価値や規則が一律に守られる一貫性が求められるのです。
そして人間の世とは、戦争と平和の繰り返しで在る為、今の人間世界の覇権を掴んで話さない『唯一神教』には、その両面が内在していて。それが状況に応じて適切に使い分けられれば、戦場での戦功の決め手となり、安定した時代の効果的な享受(キョウジュ)にもなって、状況ごとに人間にとっての大きな助けになるモノであります。
今のキリスト教世界では、経済発展を活かした繁栄を享受する術を、『唯一神教』から上手に読み解き、イスラム過激派の人たちは、戦場で有用となる部分を、『唯一神教』から厳格に読み解いていて。今の世界の{経済繁栄とテロの}混迷は、『唯一神教』の解釈の違いによる内部紛争であり、『唯一神教』の汎用性の高さ故(ユエ)の、避け難い事象(必然)だと言えるでしょう。
しかし、そういう言い分というのは、『唯一神教』を後生大事にする狭い了見の話しでしかなく、『完全理論的思考(世界観)』と『特殊理論的思考(世界観)』とでの勝手な覇権争いを正当化しているだけの事でしかなくて。そんなだから【更新する無限に多様な“大”全体】の道理に背を向け、『一般理論的思考(世界観)』が敵視され、利得になる【部分解禁】ばかりが行われて、『生きた水』と【薬品耐性水】の事が平気で隠蔽されていて。そんな禁断の理(コトワリ)に近づいた【小保方 晴子】さんの『STAP』細胞が、権力で握(ニギ)り潰され、マスコミから一斉に非難され、今でも裁判などでの糾弾(キュウダン)がニュースで報道され続けるような、中世ヨーロッパの『魔女裁判』を彷彿(ホウフツ)させる事が堂々と起っているのです。
そして、誰一人疑問を口にするコトが許されない『恐怖政治』のような状況が出来上がっているというのに、みんな“だんまり”を決め込んでいるのですから、まったく気持ち悪くてしょうがありません。
しかしまあ、『危機の時』だとか『革命の時』だとか言って騒いでは、混迷を食い物にしての《利得の追求》や《売名行為》と同じであります。【更新する無限に多様な“大”全体】の道理は気長ですし、『一般理論的思考(世界観)』が消滅して無くなってしまう事もありませんから。ここは皆さん、≪「危機感が無い」とか「不謹慎だ」とか、「団結が足りないからだ」とか「ヤル気が無いからだ」とか、「黙っているせいだ」とか「行動を起こさないせいだ」とか言う人たちの、特定の意図の下での人間の掌握を目指す『恐怖政治』の手法≫の結末の、見物と洒落込みませんか。
*共産主義者についての記憶が薄れるまでは・・・。【10月27日・火】
欧米社会やイスラム世界は『唯一神教』が支配していて、誰も疑わないまま『完結理論的思考(世界観)』で構成されているので、誰もが首座にあると思って加わって【“小”集合体】を形成していて。そして、【“小”集合体】同士での首座をめぐる争いは、想像以上に熾烈をきわめてしまうのですが。
「神は死んだ」と言われて100年が経つというのに、『唯一神教』に基づく『完結理論的思考(世界観)』に縛られて、『神』の預言が伝えられた人間の首座(正統な預言者・宗教と教義・教団)は一つでなくてはならないのだと妄信してしまって。『唯一神教』の内部抗争を延々と繰り返し続けている事の不毛さに、世界中の多くの人々がまったく気が付かないのです。
日本社会は、欧米社会に対して次の首座を窺う対抗勢力(知識人)になろうとしていて、その為の『特殊理論的思考(世界観)』で構成されているのですが。なかなかのし上がれない事への焦燥感が異常に強く、{中国の台頭や韓国の妨害にも危機感を抱いてしまって}多少の犠牲が伴っても「そうじゃないと対抗できないのだ」と言って、権力者が庶民にゴリ押しをしてしまうのですが。
「弱者を助けるレスキュー隊がレスキュー隊であるためには、その内に弱者は不用なので、排除するのは当然の理である」というのと同じ類(タグイ)の道理が神格化されて、国際的な地位の向上が急務であった日本の明治維新や戦後の復興に於いて、国民生活よりも国体を良くするコトが優先されて来たのですが。それが、今に至っても{「戦後はまだ終っていない」と政治家が発言し、『維新』が党名に入る政党が話題になっていて}まだ継続中でありまして。国の政治家・役人や企業の経営者・管理職者が、「【日本国(日本人・日本企業)】は欧米などとはまったく違う“特殊”なモノとして存在しているのだ」とする『特殊理論的思考(世界観)』を持ち出して来て、「国体や体裁を良くするコトが、【日本国(日本人・日本企業)】が世界の中で生き残って行く為にはまだまだ必要な事なのだ」と強調するものだから。経済発展をして平和な時代を迎えていながら、《日本の国体》や《企業の体裁》を良くするコトが{国民や社員の事より}優先されている事の不自然さに、日本人の殆(ホト)んどがまったく気が付かないのです。
しかもそれらが、{世界中で・日本で}無自覚な危機感に押されて起こっているものだから始末が悪く、とてつもなく恐ろしい結果が招かれてしまうのですが。それは昔も、今も同じであり、これからも同じになりつつあるのです。
しかしそうは言っても、【更新する無限に多様な“大”全体】という真理は、気長に人間の参加(人類としての復帰)を待ってくれているモノですし。あせって力尽(チカラズ)くになってしまっては、【一般理論的思考(世界観)】が共産主義を彷彿(ホウフツ)させて、{共産主義が台頭するような}危機感を煽ってしまい、かえって人々を余計頑(カタク)なにしてしまうだけなので。{共産主義者や共産主義国の非道さが人々の記憶から薄れるまで}ゆっくりと待ちながら、ブログへの書き込みでもして、【ちび猫】は潜んでいようと思います。
(注1)ここでいう『完結理論的思考(世界観)』というのは、従来の『完全世界的思考(世界観)』の言い替えに過ぎません。今後はこの表現を使用していきます。
(注2)ここでの『特殊理論的思考(世界観)』の使われ方が、どうしても強引なコジツケにしか見えないのですが、『完結理論的思考(世界観)』の欧米に対しての“抵抗勢力”としての日本の存在が“必然”なのだと日本の主導者が日本国民に信じ込ませようとして用いられている、《【日本国(日本人)】の“特殊性”》というのが強調された政府やマスコミからの情報発信が、典型的な『特殊理論的思考(世界観)』の発想によるモノであったからでありまして、表現が曖昧(アイマイ)で申し訳ありませんでした。あと、【一般理論的思考(世界観)】によれば、日本の“特殊性”は〔世界〕の中での必要な“特殊性”であって、《“抵抗勢力”としての{“特殊”な}日本の存在の“必然性”》というのは{『特殊理論的思考(世界観)』による}詐欺(サギ)の常套句(ジョウトウク)みたいなモノだという事を言い忘れていたので、ここで追記しておきます。
*宗教が引き金となっている《イヤな三角関係》。【10月8日・木】
人間の思考(世界観)に於ける《イヤな三角関係》というのは。『唯一神教』に由来し、近代科学の『リセットの大原則』を形成していて、『パラダイム論』に於いての『通常進歩』に相当し、隠し扉が開く《【“小”更新】の発動》が基になって構成されている【完全世界的思考(世界観)】と。対立の為の対立の中で求められ、【完全世界的思考(世界観)】に対しての対立軸を{次々と}形成していて、『パラダイム論』に於いての『革進的進歩』に{枷(カセ)の交換という悪い意味で}相当し、開いた扉を閉め《意志の発動》が基になって構成されている【特殊理論的思考(世界観)】と。その対立の中で悪魔的として拒絶されているが、本当の意味での『“大”進化論』や『“大”E=mc²』を{隠されてはいるが}形成していて、反面教師としての『パラダイム論』に相当し、【更新する無限に多様な“大”全体】が【“大”更新】する《【“大”更新】の発動》が基になって構成されている【一般理論的思考(世界観)】からなり。
その《イヤな三角関係》の在り様というのは。『ノアの箱舟』に乗れる選ばれたモノの選別を{この〔世界〕は完成した完全なモノなので、大義名文や道理や理屈こそが、事の善悪や、成否を左右すると思っていて}建設的なモノだと認識してしまう【完全世界的思考(世界観)】と、その選別で足切りされたモノの反抗を{この〔世界〕は特定の法則が個別に成り立って組み合わされる特殊理論によって構成されているモノなので、核という『パンドラの箱』はすぐに閉めるベキだと言う反核運動や、改憲という『パンドラの箱』に手を出してはいけないと言う護憲運動などの様に、何かを止めたり何もしなかったりするダケで事が済むと思っていて}後ろ向きに実施してしまう【特殊理論的思考(世界観)】とが、不毛な勢力争いを繰り広げている為に、【“小”部分】で【“小”更新】をしていたモノとは【“大”部分】で【“大”更新】にも関われるのだと考えられて{この〔世界〕は一つの法則が隅々まで行き渡る一般理論で成り立っているモノなので、料理も当然、個別に在るレピシを上手に利用するだけの受動的なモノではなく、自分の味覚を頼りに味の組み立てをイチから総合的に構築していく主体的なモノだと思っていて}物事に対しては主体的にイチから関わろうとする【一般理論的思考(世界観)】が、悪魔的妄想というレッテルを貼られて拒絶されるモノなのです。
しかし、よくよく考えてみれば。【特殊理論的思考(世界観)】の人間は、{『パンドラの箱』を持ち出しては}何時も世界の破綻の責任を背負って悲嘆に暮れていて、さらにはその責任追及を【完全世界的思考(世界観)】の{『近代科学』に従順な}人間に向けるものだから、【完全世界的思考(世界観)】の{『唯一神教』の教えに従順な}人間との醜くい非難のし合いに陥っているものなのですが。それでも結局【更新する無限に多様な“大”全体】は、人間という【“小”部分】で【“小”更新】を行うモノの参加を快(ココロヨ)く待ち続けてくれていて、【一般理論的思考(世界観)】を持ってさえいれば、人間は誰でも【“大”部分】となれて、何時でも【“大”更新】に関る事が出来るのです。
【更新する無限に多様な“大”全体】とはそういうモノであり、人間とはそういう生き物であり、宗教とはそのように在り、《イヤな三角関係》とはその程度のモノであったのです。
*予告【9月24日・木】
〔この世界〕の基本構造である【更新する無限に多様な“大”全体】を扱う【一般理論】を聴き取って、〔物理学世界〕のつぶやきを紹介したいと思います
*****テーマの変更*****
*『神は死んだ』の哲学的真実。【8月28日・金】
哲学者【ニーチェ】がその当時に於いて、“発狂”したと思われていたのは、【更新する無限大に多様な全体】の{権力者や宗教家が畏怖されようとして人々に教示していた『限定的な全体』や、『利得者』の座の安定の為に小出しにしていた【全体】の【部分解禁】に対しての}絶対的な優位性を知り、近代科学と唯一神教の{背任行為な}癒着を見抜いていて、科学も宗教も敵にした孤独な実践をしていた為であり。
現代に於いても『神は死んだ』の言葉が、信仰の薄れた時代と心を病んだ自分とをリンクさせてしまった事によって発せられた“妄言”のようなモノではないかと言われているのは、無神論な共産主義を振りかざして資本主義と宗教の追い落としに{一時代でも}成功した『知識人』の台頭をもう二度と許さない為であり。そして、現在の権力者と宗教家が『利得者』として安定して居られるように、終焉した経済の永続を一般庶民が承諾するしか仕方がないように仕向けている為であります。
*『神は死んだ』という人の為の開放宣言。【6月29日・月】
150年前に、【ダーウィン】が『進化論』で、《神の存在が否定される可能性》を示唆(シサ)していて。100年前には、【ニーチェ】の『神は死んだ』と、【アインシュタイン】の『E=mc²』によって、《神が創造した世界からの“開放宣言”》がなされていて。50年前にも、【トーマス・クーン】の『パラダイム論』により、《神の存在による人間への縛り》が{反面教師という形で}注意喚起されていたにも関わらず。
人間は現代に至ってもなお、≪『生きた水』から作られる【薬品耐性水】≫や、≪《自分の求めに答えてもらう為に、異性に対して“適切”に提供するモノ》という『性的行動』≫や、≪《ゲームに於ける[駒]や[カード]など》ように様々な場面で何度でも平等に再分配されるものとしての『お金』の在り様と活用≫について、その大多数が理解できずにいて。
人とは、求めているモノだけを理解しようとするモノであり、それ以外の事の認識が受け付けられない生き物なので。《求めるコト》と《その求めに対する答え》を用意する宗教にハマリ込んでしまうと、人はその“自己完結”した世界観の中で閉じこもってしまい。【更新】を忘れ、【更新する全体の部分】としての役割を忘れてしまって。その為に、人は、様々な破綻を招き寄せる役割を担う『人間』になってしまうのでありまして。
【更新する無限大に多様な全体】の【部分】としての存在であろうとする『人類としての志』を、安易に切り崩してしまう【部分解禁】である『理念』や『標語』を用いた、『ユダヤ教』や『キリスト教』や『イスラム教』などの『唯一神教』によって、数百年の時間が費(ツイ)やされて近代社会が構築されて来た事もあって。現代人は、その宗教的な{自己完結した世界観の}縛りから脱け出せないモノですから、その破滅的な事態の詳細を理解する事など{権力者側も知識人側も}とうてい出来ないのであります。
参照
*【ニーチェ】の後継者の裾野。【6月12日・金】
その昔、哲学者【フリードリヒ・ニーチェ(1844年~1900年)】が、『神は死んだ』と言ったという。そして世界中の{人間の}誰もが、キリスト教文化(信仰)の[退廃]と[消滅]の危機を言い表したニヒリズムな言葉だと信じて疑わない。
しかし、はたしてソウなのであろうか。人間が人類である事を取り戻すコトの始まりを知らせる【号砲】であり、【ニーチェ】がその死後の後継者に託(タク)した、人類の復興の為の『キーワード』なのかも知れないというのに。
『神は死んだ』のであるから、≪人間の住む〔世界〕というのは、神が創造したモノであり、何時までも同じである事によって、そこに住む人間が繁栄していられるのである。人間がその〔世界〕を忠実に形成し、それが守られるコトにより安定が維持され、そして混沌とした〔外世界〕からの悪しき干渉から、その身が守られるのである≫などといった“縛り”から、人間は解放されるハズであったのですが。
『神は死んだ』という言葉に{拒否反応を示して}反発する大多数の人間たちによって、『神は死んだ』という事の真意が隠蔽(インペイ)され、今現在も『神は死んだ』という言葉はニヒリズムなモノだとする事が{常識として}周知されていて。【ニーチェ】の後継者の裾野が、今に至るまでまったく広がっていないのです。
【ちび猫】の言っている【更新する無限大に多様な全体】が、たとえ【ニーチェ】の後継者の裾野の野末(ノズエ)であったとしても、それが数年や数十年で認知される事はマズあり得ないでしょう。
『有限で一律な全体』が全体についての既存の概念である事によって、[善悪]や[処罰]などの基準が明確に周知され、個人々々が警察官気取りでその取締りに{勇んで}励み、周到に無自覚な監視網が形成され、人の営みが破滅的危機に向かっている今に於いても、自分(自分たち)の事を《信仰心が厚い》とか《良識的である》とか言って自己満足していられるのが、現代人の客観的な実態なのでありますから。
ただ、【ニーチェ】の後継者の裾野がどれほど狭くとも、そこに真実がある限りは、それが消えてしまうコトは決して無いのですから。その野末でのバトンリレーは、まだまだ当分は続く事に、なるのです。
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