第0044号
*****(制作終了)*****
最新(制作進行中)の紹介
ちび猫が描く『夢の話し』第0007号参照
あだち漫画『虹色とうがらし』第0009号参照
~~~『タッチ』予告~~~第0014号参照
ちび猫が描く『タッチ』の感想・第0016号参照
ちび猫が描く『タッチ』の感想(2)・第0024号参照
~~~ブログ第0038号からの続きです~~~
第0044号の続きは第0051号へ移りました。
平成25年度版①
【宣言】訂正版
『あだち充』先生の『タッチ』と、漫画・アニメ関係のコーナーでありましたが、この『タッチ』が社会問題と宗教問題における貴重な題材である『人生の回復を容認しない恥(ハジ)の文化』と『人生の回復を肯定する罪(ツミ)の文化』の衝突を『柏葉 英二郎監督代理』の世界観と『上杉 達也』たちの世界観の違いで提供してくれるモノであったので、今後は『人生の回復』をめぐる少し硬い話しをしていきます。
・ヤブ医者『柏葉』医院に通院していた『明青野球部』【2月14日・木】
大相撲界に於(オ)けるモンゴル人力士の活躍と比較しリンクさせて、『柏葉監督代行』の無茶な指導の下での『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの頑張りの特異性を説明してきましたが。今度は、『恥の文化』で育ってきた日本人の普通の反応を病院嫌いに陥(オチイ)る成人病予備軍と対比して、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの頑張りの有用性を紹介してみたいと思います。
テレビなどでもよく耳にするですが、成人病予備軍と言われる軽度の慢性病患者が病院嫌いに陥(オチイ)っていて、重症化させてしまうまでなかなか病院に行かないという話しをよく聞きますし、≪食べたい物を食べて、好きなお酒を呑んで、何時でもタバコを吸って《自由》にしていられるという、わずかな《権限》に《自分》の《価値観》を切実に見い出している≫という日本人は多くいと思いますので、その中の一人の『Aさん』を架空の代表になってもらって話しを進めて行こうと思います。
そんな成人病予備軍の自覚のある『Aさん』にとっても、奥さんに勧められたからといってへたに病院へ行き、生活を不摂生なモノと指摘されて生活の改善を医者に求められてしまっては、今まで築き上げてきた《自分》の《存在意義》を否定されて、今後は一生を囚人のような生活を送るように宣告されるようなモノでありますから、「そうやすやすとは病院へ行かされる訳にはいかない(!)」という言い分になるのだと思うのです。
そしてそうしているうちに『Aさん』は重度な危機的状況に陥ると、今度は少しでも長生きして仕事も続けられたら続けたいものだから、病院にお願いして手術や治療をしてもらい、これ以上の病気の悪化はなんとしても防ぎたいものだから退院後もせっせと通院し、生活の改善にも積極的に取り組み始めるのです。しかしそれでも『Aさん』は結局障害が残ってしまい仕事もやめて離婚までする最悪の事態に陥(オチイ)り多くの苦労を背負(ショ)い込んでしまってから、「なんでもっと早くから病院にちゃんと行かなかったのか(!)」と反省するのですが、そんな状態になってからそんな反省を『Aさん』がいくらやったところで、もう何の役にも立たないのです。
しかしだからと言って、今の成人病予備軍の現役世代の人たちに「イヤでも我慢して病院へ行け(!)」と言い聞かせたり、「病院側こそが成人病予備軍の人たちが受診・通院をイヤだと思う事が無いように何らかの改善をするべきだ(!)」と訴(ウッタ)えたりしても、たぶん何の成果も上がらないと思うのです。それは、的外れな事だとは言い切れないのかも知れませんが、そういった事では重病化させてしまった『Aさん』の反省の真意を、キチンと汲(ク)み取りきれてはいないからなのです。
前回も用いたパソコンを例にした手法で、成人病予備軍をパソコン操作に係わる病気に置き換えてもう少し分かり易く説明してみようと思います。『Aさん』が勤めている会社の仕事では『Aさん』が得意とするパソコンの操作が必需(ヒツジュ)で、パソコン操作の知識や操作のスピードでより高度な仕事を割り振られ、それに比例して地位も給料も高まる会社で出世競争に明け暮れていたエリートの『Aさん』が、奥さんに勧められて行った病院で目の病気や腱鞘炎など多くの病気の指摘と共にパソコンの使用を制限する事を医者に勧められたとしても、それを受け入れるという事は会社での出世競争で後れを取るばかりか、長年《自分》の会社と言い人生の全てを傾けて来た仕事を止めなくてはならない訳ですから、とてもそれを受け入れる訳にはいかず「二度と病院へ行かさる訳にはいかない(!)」と言い張るようになるのです。
そしてそうしているうちに病気を手遅れなレベルまで悪化させてしまい、日常生活に支障をきたすように為(ナ)り、仕事もやめて、離婚までする最悪の事態に陥(オチイ)ってから、お決まりの「なんでもっと早くから病院にちゃんと行かなかったのか」という反省に行き着くのです。
確かに早いレベルで病院にちゃんと通院していて、医者の言葉に耳を傾けてパソコンの操作を制限していれば、そんな最悪の事態だけは免(マヌガ)れる事が出来たハズだと言うことは出来るのですが。現実問題として、エリートとして頑張って仕事に励んでいた『Aさん』に{仕事は諦(アキラ)めて}我慢して通院をするように言い聞かせたり、『Aさん』が受診・通院を拒むのは病院の環境が悪いからだと言って病院側に改善を訴えたりしても、いったいどれ程の効果が期待出来ると言うのでしょうか。
問題は、『Aさん』が「なんでもっと早くから病院にちゃんと行かなかったのか」という反省の後で、「得意にしていたパソコンの操作を活かせる仕事を選んだつもりでいて、結局パソコンとの係わりを急速に消耗させる道を選択をしていて。その得意であったパソコンとの係わりを仕事のし過ぎで早くに消耗し尽(ツ)くしてしまった事によって、人生の早すぎる破局まで迎えるハメに陥ってしまったのではないか」という後悔をしているのではないかという事なのです。それは、『Aさん』が得意のパソコンの操作を活かせる仕事をしたくて会社選びをしたのまではよかったのですが、≪自宅でも得意のパソコンを活かしてCG(コンピューター グラフィック)やコンピーユーターゲームなどでプロレベル程の高度な技能の向上を目指しながら【自立している自分】を築いて行って、そういった《自分独自》のパソコンについてのノウハウを仕事にも活かして行く≫という『何かあった時の“回復”の必要性』を踏(フ)まえた発想を持てずに、≪仕事でだけ得意のパソコンを活かして行く≫という《自分》を捨てた《滅私奉公》を、それが≪依存≫している状況だとは認識せずに《粋(イキ)な決断》だと思って選択してしまった事がそもそもの間違いであったからなのです。得意なパソコンを活かして、仕事のパソコン操作を包括する程の高度なパソコン技能を【自立している自分】として独自に築いてさえいたならば、病院でパソコンの使用を制限するように勧められた時でも、仕事を優先してパソコンとの係わりが危うくなるような決断をしてしまう事はなかったと思うのです。
だだし、パソコンを例にした病院嫌いの場合は≪得意なパソコンで能力開発をする機会があったものを《滅私奉公》に使用して、【自立している自分】の確立に役立ててこなかった≫という『何かあった時の“回復”の手立て』を作って置く余地あった状況の話しなのですが。成人病予備軍の病院嫌いの場合は≪食べたい物を食べて、好きなお酒を呑んで、何時でもタバコを吸って《自由》にしていられるという、わずかな《権限》に《自分》の《価値観》を切実に見い出している≫人間が、病院で医者に生活の改善を勧められただけで《自分》の《存在意義》を否定されたと感じるので、それがイヤで病院へ行かないというだけのコトなので、【自立している自分】を確立する能力開発の機会も、『何かあった時の“回復”の手立て』を作る余地も初めから無い状況の話しなので。成人病予備軍の人間が病院嫌いに陥る時の心境を理解するのには役に立つかもしれないが、現実問題として病院嫌いに陥らない手立てを講(コウ)じる時の参考には向かないかもしれません。
そして上記のように言ってしまうと、成人病予備軍の人間の病院嫌いには、もう取り付く島もないように感じられるかもしれませんが。大相撲界でのモンゴル人力士の活躍や、『柏葉監督代行』がやって来てからの『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの頑張りの支えになった、【モンゴル人の誇り】や【『上杉 和也』の意志を継ぐ】といった【思い】も、本当を言えば≪【自立している自分】を確立する能力開発の機会や、『何かあった時の“回復”の手立て』を作る余地≫などの確立にはたいして役に立たない非アスリート的な資質のモノなのです。
ただそのおかげで、大相撲界の理屈抜きの厳しい稽古や、『柏葉監督代行』の無茶な指導という≪本当なら力士や選手たちの{長年おだてられる状況に≪依存≫して作られたエリートとしての}プライドを傷つけて、彼らを【自分や意志】と言うモノの無い耐えるだけの練習態度に陥らせたり、真剣勝負は小物のする品の無い行為と考えさせて【力比べ】をするつもりで勝負にのぞませたりして、士気が上がらないようにするハズのモノ≫と、これまでの人生に於(オ)いて特にアスリートとして頑張ってきた訳でもなかった事とが結び付いた時に、「モンゴル人である自分達に厳しい稽古をワザワザ付けてくれるし、力士としての品格は日本語と一緒に学んだら良いと自由に相撲を取らせてくれる」とか、「『上杉 和也』を失って2流に落ちぶれたチームに全力で指導してくれるし、試合では信用して自由にやらせてくれる」などのような、いい意味での勘違の連鎖へと奇跡的に導かれたのです。
病院嫌いに陥っている成人病予備軍の人たちの、若い頃に頑張っていた特技をすでに見失い、本当は得意なハズの事もいつの間にか忘れてしまって、≪食事や飲酒や喫煙で【正統に頑張る自分】を演出して、小さな《自己満足》や《自己達成》を切実に追い求めている≫という止むに止まれぬ事情もよく分かるので、生活改善の指導などの面倒な事は言わず、淡々と病状の説明だけをしたら直に薬を処方してくれる本物の【ヤブ医者】医院を見つけて早く行く事をお勧めします。名医がいたり親身になってくれたりする病院は重体化してしまった時に行ったらいいのですから、成人病予備軍と言われる軽度の慢性病であるのなら、病院嫌いにさせてくれない【ヤブ医者】が良いのです。本当に体の健康が心配になる時は、名医のいる病院で時々健康診断を受けたらいいのですよ。
・《『上杉 和也』の存在》による奇跡【2月12日・火】
漫画(アニメ)で人気になった『タッチ』の後半で、『恥の文化』で生きて来た日本人であるハズの『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』が昔の先輩が行った事の因果応報の実現として今の野球部へ行っている無茶な指導を受け続けながら、『恥(ハジ)の文化』の大相撲界に『罪(ツミ)の文化』からやってきたモンゴル人力士たちのように≪自立≫している《自分》を見失うコトなく前向きに練習に励み続けられ、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という共通する《思い》を全員が見失わずに甲子園出場を目指して自主的に行動していられる理由が分からない。というのが前回の疑問でした。
この答え自体は意外と簡単に上記の疑問の中から発見できるのですが。ようは、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という共通する《思い》を全員が持っていたから、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導を受け続けながらも、全員が同じ《思い》で≪自立≫していられて、前向きに練習に励み続けられて、自主性を失わなかった。という事であります。
『罪の文化』では償(ツグナ)う事の出来る『罪』の性質上、何があっても人間は《自分》を『回復』させるコトが容認されている≪自立≫した存在なので、何らかの事情があって人がその《身分》を失ってしまったとしても、その人が《意志》を持っている限りはその《想い》が《自分自身》の証明となって、何回でも《自分》を『回復』させるコトが出来て、その都度チャレンジし直すコトが出来るのです。
これをパソコンで説明すると、個人で《復元用データ》を何時も作って持つようにしていて≪自立≫を意識しているので、何かあって『OSの書き換え』を突然に如何(ドウ)してもしないといけないハメになったとしても、その《復元用データ》を使って《元の状態》に『回復』させる事が容易に出来るので、何度失敗しても再チャレンジする事が出来るのです。というような話しになります。
『恥の文化』では取り返しのつかない『穢(ケガ)れ』や『恥』の性質上、何かあると人間は《自分》というモノを公の上でリセット(一般状態に初期化)されて消されてしまう存在であり、《自分自身》は序列の中での《身分》に対応して発生する《権限》によって証明されているだけの≪依存≫した状況のモノなので、もし何らかの事情があって人が《身分》を失ってその《権限》をなくしてしまったりすると、公の上ではその人は《自分》というモノをリセット(一般状態に初期化)されて失った事になってしまって、《無人格》な人間として扱われる事となるのですが、もう当人には《自分》を再構成する《権限》が無いものですから、“万事休す”に陥(オチイ)ってしまうのです。
これもパソコンで説明すると、個人で《復元用データ》を作る事が禁じされている上に、その《身分》に対応した性能のパソコンを借(カ)りて自分の仕事に使用している≪依存≫した状況なので、何かあってその《身分》を失ってしまうと、パソコンと一緒に《個人のデータ》もなくしてしまって、自分の仕事を続けるのに致命的な支障となってしまうのです。というような話しになります。
上記の『罪の文化』と『恥の文化』の話しをもう一度、大相撲界におけるモンゴル人力士の活躍に置き換えてみると。『罪の文化』の世界で生きて来たるモンゴル人力士たちは、一人一人が個別に共有の《モンゴル人の誇り》を持って日本にやって来て大相撲界に入ってくるので、理屈抜きの厳しい稽古の為に弱音を吐いたり、ズルをしたり、逃げ出したりする事も少なからず有ると思うのですが、そんな時でもモンゴル人力士は《モンゴル人の誇り》を拠(ヨ)り所に何度でも『回復』して、それまで以上に稽古に励(ハゲ)み、そしてモンゴル人力士の全盛期を作り上げ、今も《モンゴル人の誇り》をみんなで持って【真剣勝負】で頑張っているのではないかと思えるのです。
そして、それを迎え撃つ側の『恥の文化』で生きて来た日本人力士はと言うと、帰れる所を切り捨て、帰れる道までも切り捨ててしまって、大相撲に全てを掛けて入門してくるのですが、理屈抜きの厳しい稽古の為に弱音を吐いたり、ズルをしたり、逃げ出したりする度に気持ちがなえて行って、だんだん稽古に身が入らなくなって行く日本人力士は、親方からの信用も目に見えて失ってしまい、日本人力士はそんな自分に自分が不安となり、理不尽(リフジン)に思える稽古を強いる親方にも強く不満を抱くようになり、そして耐えるだけの稽古には《自分》や《意志》というモノがあると邪魔になるので捨ててしまい、ついには【真剣勝負】では分(ブン)を越えた敵対行為となって品位を失うので土俵では冷静に【力比べ】と考えて相手に向かった方が良いのではないかと考えすぎてしまって、多くの日本人力士が土俵に上がっても士気が高まらなくなっているのではないかと思えるのです。
次に、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの頑張りの不思議を、『罪の文化』と『恥の文化』で説明みると。彼らは普通の『恥の文化』で生きて来た日本人であり、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導を受け続けるのですから、普通に考えるならばもっと反抗したり、不満を抱いたりして《自分》を見失い、《自己》を確立出来なくなるような《プライド》への≪依存≫の度合いの高かった落伍者が続出して、練習に身が入らなくなり、チームワークも乱れてまともな試合など出来るハズがないのです。しかし、『柏葉監督代行』がやって来た明青学園高等部の野球部には、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが居て、『罪の文化』の人間が持つ≪自立≫している《自分》と同じような、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という共通する《思い》を全員が持っていたのです。野球における《プライド》で《自分》を形成するような≪依存≫した人間が『明青野球部』の部員の中には居なったという奇跡が、『柏葉監督代行』の無茶な指導を成長の糧(カテ)にし、試合での無策な指揮が選手の自主性を引き出したのではないかと思えるのです。
・『上杉 達也』は『横綱 白鳳関』のよう【2月10日・日】
天(神仏の道理)が創造したであろう厳しい世界で、{過ちを犯す}人間が生き残って行く方法が突き詰めて考えら、≪伝統的秩序と形式美こそが安定した世界の“正しい形態”であり、それを天(神仏の道理)に奉げるから人間が平穏無事に生きられるのであるから、個人の存在よりも人間の役割りが優先されるのは天(神仏の道理)の『絶対の定め』である≫と行き着いたモノが、『人生の回復を容認しない“恥”の文化』であり。
天(神仏の道理)が創造した世界の中で誕生した{過ちを犯す}人間ではあるが、『正を見極める理性』を『個人の人格』として個別に持ち得て生まれてきている状況を突き詰めて考えてみて、≪『罪』と『回復』の繰り返しによって『人間の理性は成長する』モノであり『人間社会では正義が追求されていく』モノだと天(神仏の道理)から支持されている≫と行き着いたモノが、『人生の回復を肯定している“罪”の文化』であります。
したがって、『恥の文化』では、『穢れ』や『恥』といった{回復の許されない}厳しい概念のモノが、{過ちを犯す}人間を縛りつける構図であったが。『罪の文化』では、『罪』という{回復が可能な}償(ツグナ)う事の出来る概念のモノが、{過ちを犯す}人間を成長させる構図となるのです。
なので、『人生の回復を肯定している“罪”の文化』の世界では、『権限という自由』という名で割り振られる制限に脅えて、『意志という自由』を自粛(ジシュク)する必要はありませんし。正々堂々と真剣勝負で挑む『外向きでの勝負』が天(神仏の道理)に反して『分を越えている』とか、『醜くい』とか、『卑しい』とか非難されてしまったらどうしようかと、ビクビクする必要もないのです。
しかし、『人生の回復を肯定している“罪”の文化』を持った異国人・異民族・異教徒が、『人生の回復を容認しない“恥”の文化』の世界へとやって来て無造作に活躍してしまうのは、『恥の文化』の人たちにとってはこの世界を安定させてきた“正しい形態”を蝕む悪魔の所業でしかなく、それを見過ごすコトはこの世界が守ってきた伝統的秩序と形式美の消失を許してしまう事にもなるので。『恥の文化』の世界では何時も、『罪の文化』の流入は到底容認出来ない事だという話しになり、文化摩擦による諍(イサカ)いの種が尽(ツ)きる事は無いのです。
そして、当然の事だが『タッチ』の舞台は日本でありますから、甲子園出場を目指して頑張る『上杉 達也』たちの前に、『柏葉監督代行』という【無慈悲な制裁の執行代理人】が現れたのは、特に不思議な話しではなくて。逆に日本の漫画(アニメ)ではそういう多様な形態での【無慈悲な制裁の執行代理人】の登場が無さ過ぎるぐらいで、日本人が漫画を読んでいて【無慈悲な制裁の執行代理人】が登場すると{読者である}自分の事を悪く言われている気分になってしまって、その漫画の人気が落ちるのではないかと、作者や出版社が過剰に懸念(ケネン)しているのではないかと思えるほどです。
それより問題なのは、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの、『柏葉監督代行』が登場してからの頑張りの方で。いくら甲子園まであと一歩のところで不慮の事故で亡くなった野球部エースで双子の弟の『上杉 和也』の意志を継いで頑張っているとは言っても、あの『柏葉監督代行』の指導体制のままで甲子園失出場を決めてしまったのは、チョット問題があるような気がするのです。あれではどんなに酷(ヒド)い指導者でも選手が頑張れば良いという論理になり、指導にイチイチ反抗するから強く成れないんだという理屈に為りかねず、スポーツにおける指導者の育成や選定が蔑(ナイガシ)ろにされ、「何かあったら選手の側の問題にして{体罰で押さえつけれて}しまえば良いんだ」という結論になってしまいかねないと思うのです。
しかし、日本人の大多数が【無慈悲な制裁の執行代理人】であった為に、そういった問題点が表に出てくる事も無く。また、【無慈悲な制裁の執行代理人】が『柏葉監督代行』という“悪役”である事よりも、【無慈悲な制裁の執行代理人】による無茶な指導の下で『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが甲子園出場を決めたエピソードの方が嬉しくて、『タッチ』という漫画とアニメが人気を博すに至ったのだと思われます。
だが本当に不思議なのは、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが、『柏葉監督代行』の無茶な指導にただ耐えたのではなくて、その無茶な指導そのモノを自分達の成長の糧(カテ)にしてしまい、甲子園出場という結果まで掴み取ってしまったというトコロなのです。『あだち 充』先生も、初めは単に甲子園出場までのストーリーの上で、何か面白いエピソードを作ろうとして『柏葉監督代行』を登場させたのかもしれませんが、日本人としてあの『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの前向きな頑張りようと日本人離れした活躍の仕方は、どうしても奇異に見えてしまって納得出来ないのです。そう、あれは日本人ではなくて、まさしく外国人なのです。
今の大相撲界の中で日本人力士は、失敗や批判を恐れて萎縮(イシュク)してしまっていて、自主性を喪失し真剣みまで欠落してしまったようにも見えていて、大関に昇進出来ても優勝は難しく、横綱へ昇進出来る日本人力士が現われるのは当分先の話しになりそうな状況であるのですが。それに対してモンゴル人力士は依然として全盛を保っていて、日本の相撲部屋での厳しい稽古を、モンゴル人力士はシッカリと自分の糧としていて、成績にもキチンと反映させているようなのです。しかしそれは、日本人が劣っていて、モンゴル人が優れているという問題ではなくて。日本の伝統文化を引き継ぐ相撲界の重責が親方たちや日本人力士に重くのしかかって来ていて、【無慈悲な制裁の執行代理人】と化した親方たちが待ち受ける相撲部屋へ故郷を一人で離れて入門してくると、体作りと称する理屈抜(ヌ)きの厳しい稽古に耐え忍ばされ続け、番付が上がれば上がるほど取り組みの内容でも品格を重んじるコトを{日本人として}必要以上に意識し過ぎてしまって、日本人力士が土俵でまともな相撲を取れる状態にないのに対して。モンゴルで自由な精神を育(ハグク)んできた健全な若者たちがモンゴル人の誇りを抱(イダ)いて日本にやって来て、体作りと称する理屈抜きの厳しい稽古ではモンゴル人仲間で励まし合って団結を強め、相撲取りとしての品格についても日本語と一緒に焦(アセ)らずコツコツと勉強していけば良いと開き直る事が出来て、ほとんどのモンゴル人力士がベストの状態で土俵に上がってくるものですから、大相撲界でのモンゴル人力士の優位が続いてしまっているだけの事なのです。
そしてここで話しを少し戻して、『タッチ』の中で『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが、【無慈悲な制裁の執行代理人】の権化(ゴンゲ)と化した『柏葉監督代行』の無茶な指導の下で成長し、『柏葉監督代行』と目立った対立も起こさずに甲子園出場という結果を掴み取ったという日本人離れした活躍と、大相撲界でモンゴル人力士が大躍進を果たした事とを重ね合わせて見てみると、妙に一致する部分が多い事に気付きます。モンゴル人力士たちが、≪モンゴル人という誇り≫を共通して持っているように、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちも、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という思いを共通して持っていましたし。モンゴル人力士たちが、体作りと称する理屈抜きの厳しい稽古に直面しても、モンゴル人仲間で励まし合って団結を強めているように、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちも、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導で苦しめられても、これでもっと強くなれるんだとみんなで励まし合っていましたし。モンゴル人力士たちが、品格への拘(コダワ)りをあまり抱(イダ)かないで、ノビノビと相撲を取っているように、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちも、変な型にはめられるコトも無く、ほとんどノーサインで自己判断のプレーをしていたのです。まさしく、『明青野球部』の部員たちの活躍は、大相撲界のモンゴル人力士たちの躍進のようであり、『明青野球部』における『上杉 達也』の存在は、モンゴル人力士たちの中での『横綱 白鳳関』の存在といったところでしょうか。
あと最後に最大の疑問が一つ残ってるのですが、モンゴル人力士たちがモンゴル人である事によって、日本人が逃れられなくて苦しんでいる『プレッシャー』や『焦燥感』や『嫌悪感』や『反抗心』などが小さくて済んでいて、そのお陰で稽古にも身が入り、土俵の上でも全力が出せると言うのは、何となく分かるのですが。日本人である『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導の下でも前向きに練習に励み続けられ、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という思いを見失わずに甲子園出場を目指せたのかの、根本の理由がハッキリしていないのです。
【無慈悲な制裁の執行代理人】が大挙して暗躍する大相撲界であったからこそ、モンゴル人力士たちが、『プレッシャー』で萎縮(イシュク)してしまう日本人力士を差し置いて、躍進するコトが出来たのだと言う事は分かるのですが。【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導が群を抜いて過激であったからと言って、日本人である『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちにとって何の有利な事が有ったのか、まったく説明がつかないのです。
普通の日本人であるなら、大相撲界で日本人力士が萎縮し『プレッシャー』に苦しみ、なかなか『回復』出来ずにいるように、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導の下では、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちも、精神的なダメージを相当に受けてしまって、そう簡単には『回復』するコトが出来ないハズなのですが、不思議なコトに『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちは、なんやかやと言いながらもすぐに立ち直って、何時もケロッとしているのです。
しかし、この疑問の答えは、私もまだ持ち合わせてはいないので、今後の課題として置くコトにします。(皆さんも閑なら考えてみて下さい)
・『柏葉監督代行』は『恥の文化』の執行代理人【2月9日・土】
『日本文化』が世界で通用しなくなった典型的な縮図となっていて外国人力士に席巻(セッケン)されている『大相撲界』や、近世までは世界の中心であったが{イスラム諸国勢力の衰退・トルコの建国・サウジアラビアの油田開発・イスラム原理主義の台頭以降の}近代以降では『キリスト教世界』に席巻されている『近代イスラム世界』などは、まず間違いなく≪天(神仏の道理)には必ず“穢(ケガ)れ”の無いモノが奉げられなくてはならない上に、何かあれば【全体の問題】となってしまう≫というような『人生の回復を容認しない“恥”の文化』の世界であります。
そこは、天(神仏の道理)から各代表が最強・最善・最高英知の称号を得て仲間の全員が加護に与(アズカ)る為に在る{神聖な力を比べたり、敬虔(ケイケン)さを比べたり、英知を比べたりする}儀式的勝負の場であり。そこでは、“穢れ”の無い者たちによる『仲間内での力比べ』の勝利とそれによる序列とは、天(神仏)に奉げられる特別な意味を持った神聖なモノとされ。天(神仏の道理)へ奉げられる『仲間内での力比べ』の勝利とそれによる序列によってもたらされる恩恵を、“穢れ”が付かないよう適正に分配させる為に、その神聖な序列に合わせて『権限という自由』というモノが厳格に割り振られているのです。
しかも、そこでの“穢れ”とは{暗黙の了解で成り立っている“穢れ”の特殊な性質上}回復させる事の出来ないモノであることから、各個人は“穢れ”が付いた時には『恥』だと自覚して、その序列の中から身を引かなくてはならず。さらには、それを怠ったり見過ごしたりすれば、≪仲間全員への天(神仏の道理)の加護が失われて、禍(ワザワイ)を招いてしまう≫という仲間にとっての【全体の問題】となるのだと、{最終的な}警告が人々の心に突きつけられてしまうのです。
そして、『人生の回復を容認しない“恥”の文化』の世界というのは、≪個人とは天(神仏の道理)への奉げ物である伝統的形式美を継承する道具であり、“穢れ”てしまったら“恥”だと自覚させて{処分されるのを}諦(アキラ)めさせればいいだけの『捨て駒』な存在でしかないのだ≫という各自の共通認識と、≪厳格な天(神仏の道理)の在り様を無慈悲なモノだと、みんなが一緒になって妄想を膨らませてしまったコト≫によるみんなの冷徹な世界観のなりのはてであったという結論にたどり着くのです。
そして、上記のような『人生の回復を容認しない“恥”の文化』とは日本人の人格の核にもなっているモノでありますから、日本の年間自殺者数が3万人はどになるのは≪厳格な天(神仏の道理)を無慈悲なモノだと妄想する事による冷徹な世界観≫による『人生の回復』の自虐的断念が大きく影響しているのではないかと考えられるのですが、そうしているとそこに、『タッチ』に出てくる『柏葉監督代行』の世界観(言動)が、不思議と“妙な影”となってちらついてきたのです。
ただ何も≪『上杉 達也』たちが甲子園出場を目指して頑張っている『明青野球部』で『柏葉監督代行』がやっていた事は、実は単なる自虐的なモノであった≫などという無茶な事を言おうとしているのではなくて、もっと自然に≪『柏葉監督代行』は『明青野球部』の過去の部員が犯した【恥知らずな行い】に対する道理に適(カナ)った{無慈悲な制裁である}因果応報を『明青野球部』全体に体現する{天に代わって“悪役”となる}執行代理人は“自分しか居ない”と思いつめてしまった結果、あのような言動に駆り立てられたのではないか≫と見えてくると言いたいのです。
日本で年間3万人ほどの人たちが自虐的断念に追い込まれて自殺している影には、『柏葉監督代行』のような{相手への直接の怨みは持っていない}無慈悲な制裁の執行代理人が数多くいるハズで、彼ら(彼女ら)を『柏葉監督代行』のような“悪役”へと駆り立てたモノこそが『人生の回復を容認しない“恥”の文化』でありますから、≪『人生の回復を容認しない“恥”の文化』に屈した弱い人間が、少しの失敗に一人で悩んでしまい、『人生の回復』の自虐的断念に陥(オチイ)り、スッキリしたくて自殺しているのでしょう、哀れではあるが周囲のコトを考えないハタ迷惑な人たちです≫などと他人事のように自殺した人の自己責任を追及してしまえる人間こそが、日本人を年間3万人ほどの自殺に追いやっている無慈悲な制裁の執行代理人であると言えるでしょう。
しかし、たぶん残念なことに今の日本人の大多数が無慈悲な制裁の執行代理人に当てはまってしまうのではないでしょうか。『上杉 達也』たちが甲子園出場を目指して頑張っている時に『柏葉監督代行』が現れたのも、そういった日本の不幸な現状を端的に表現するための演出であったのではないかと思えてくるのです。
・『けいおん』【1月30日・水】(テスト)
親友の『S氏』から「やはり『けいおん』は面白い!」という話しを聞いて、テレビ放送を見ただけで買ってからしまったままにしてあった1期と2期のTVシリーズとまだ見ていなかった映画のDVDをまとめて一気に鑑賞しました(原作の漫画はまだ買っていません)。テレビ放送の時は主人公の『平沢 唯(ヒラサワ ユイ)』と軽音部のメンバーたちの5人によるドタバタコメディだと思っていたのですが、じっくり見ると、『平沢 唯』は結構ギター(ギー太)が好きで演奏や歌作りにも真剣に取り組んでいて、アニメの話しなのに何故(ナゼ)か感心してしまいました。
しかし、個人的に気に入っているのは、やはり『秋山 澪(アキヤマ ミホ)』の作る歌詞で、あの『どこの国の人?』といった“ぽわぽわ”した感覚がたまらなく愛くるしくて、ああいう感性に憧れてしまいます。
また、私は芸術オンチで絵心も無く音楽的才能も当然無いので、『平沢 唯』が絶対音感の持ち主であんなにギター(ギー太)を溺愛(デキアイ)出来る事に、後輩の『中野 梓(ナカノ アズサ)』が驚き羨(ウラヤ)ましいがっている気持ちがよく分かります。
そして、昔からドラムのリズムが好きでドラムをメインにしたジャズのCDも何枚か買って持っていたので、『田井中 律(タナカイ リツ)』がドラムとドラマーが好きなのになんかホッとしてしまいました。
5人目のメンバーと言っては申し訳ないのかもしれませんが、キーボードとお茶(お茶菓子)を担当している『琴吹 紬(コトブキ ツムギ)』について言いますと、楽器店の店長の苦悩も分からずに25万円もする『ギー太』を5万円に値切ってしまう世間離れしたお嬢様でありながら、献身的に軽音部の役に立とうと奮闘する健気(ケナゲ)さには心を打たれます。
最後になりますが、映画で『放課後ティータイム』の演奏をイギリスで予定も無いのに偶然に2度もやってしまったのは、出来すぎたストーリーではないかと思う人(日本人)も多いかと思いますが、ヨーロッパ人というのは総じて閑人(ヒマジン)である上に何でもエンターテイメントにしてしまう物好きな人たちなので、もし日本の女子高生がヨーロッパの路上でバンド演奏をしようものなら必ず大勢の人だかりが出来て大喝采間違いなしです。
・『コクリコ坂から』①【1月20日・日】(テスト)
『庭師の雨ふり作陶展』に私を誘ってくれた親友の『S氏』から、ジブリのアニメ『コクリコ坂から』が面白いと前々から言われていて、半年ほど前にネットで購入してあった『佐山哲郎』先生原作で『高橋千鶴』先生原画の漫画『コクリコ坂から』を今日やっと読み終えたので、先日テレビで放映されたのを録画してあったアニメ『コクリコ坂から』も一気に観てしまいました。漫画『コクリコ坂から』はアニメとは大違いで、とても現代的な時代設定でしたし、細かい違いを言ったらきりが無いくらいでしたが、アニメや内容の事と切り離して考えていると面白いコトが見えてきたので、一つ挙(ア)げてみます。
漫画『コクリコ坂から』は『なかよし』にて1980年の1月号~8月号にかけて連載されていたという事なのですが、『水木杏子』先生原作で『いがらしゆみこ』先生原画の『キャンディ・キャンディ』が『なかよし』の1975年4月号~1979年3月号にかけて連載されていた作品ですから、この二つは、ほぼ同じ年代の『なかよし』の漫画だと言えます。
そして、『あだち充』先生の『ナイン』は『少年サンデー増刊号』の1978年~1980年にかけて連載され、『陽あたり良好!』は『週刊少女コミック』の1980年~1981年にかけて連載され、そして『みゆき』は『少年ビッグコミック』の1980年~1984年にかけて連載され、さらに『タッチ』は『週刊少年サンデー』の1980年~1986年にかけて連載された作品でありますから、これらの作品とも同じ年代の漫画だと言えます。
また、『大和和紀』先生の『はいからさんが通る』は『週刊少女フレンド』の1975年~1977年にかけて連載され、そして『アラミス’78』は『月刊mimi』の1978年~1984年にかけて不定期掲載され、さらには『あさきゆめみし』は『月刊mimi』と『mimi Excellent』の1979年~1993年に不定期で連載された作品でありますから、これらの作品とも同じ年代の少女漫画だと言えます。
さらに参考までに言えば、『鳥山明』先生の『Dr.スランプ(アラレちゃん)』は『週刊少年ジャンプ』の1980年~1984年にかけて連載されていた作品であり。『大谷博子』先生の『星くず』シリーズは1975年から『星くず』・『星ははるかなり』・『星よきらめけ』と続き、1980年から2007年まで『由似へ』・『由似・きみの青春』・『由似、風の中で』と続いた作品でした。
ここまでほんの一例を挙げただけですが、1975年~1985年ごろの漫画(少女マンガ)は黄金期にあって、漫画『コクリコ坂から』は1980年の作品ですから、さらにその最盛期に制作された作品だということが分かります。
こんな事を考えていたら昔の漫画がまた読みたくなってきてしまいましたが、二千冊に及ぶ昔の漫画本とさらに千冊以上の専門書がダンボール箱に入れたままで押入れに入っていて、こんな整理がまったく出来ていない状態では読みたくても読めません。まずは掃除をしなくては何も始まりません・・・。
・『キャンディ・キャンディ』②【1月6日・日】(テスト)
アニメ『キャンディ・キャンディ』をやっと見終えましたが、『タッチ』や『YAWARA!』よりも古いのに、その内容の濃さに驚きました。だいぶ以前にテレビ放送で見たきりで、所詮は少女マンガのアニメと侮っていたのですが、後半に進むにつれて何度も泣いてしまうようなとんでもないシロモノで、その当時の制作スタッフの感性の豊かさに脱帽です。感想や、今に続くマンガやアニメの歴史や、『タッチ』との関係については、今後ゆっくり考えて記入して行こうと思っていますが。今ハッキリと言える事は、現代のアニメ製作の技術的な向上はすばらしいのに、精神性の表現については、『キャンディ・キャンディ』から後退してしまったのではないかという事です。近年の傑作である『十二国記』や『のだめカンタービレ』や『ARIA』や『けいおん!』や『夏目友人帳』などは、確かに面白かったのですが、『キャンディ・キャンディ』ほどには泣けませんでしたからね。
平成24年度版
・『キャンディ・キャンディ』①【12月19日・火】
最近、アニメの『キャンディ・キャンディ』を見ながら寝ています。『丘の上の王子様』と出会った時の年齢が6歳で、『ラガン家』に引き取られる時の年齢が12歳だと原作にあるのに、アニメだと【4話:笑顔の方がかわいいよ!】と【5話:今日からお嬢さま?】の間で『キャンディ』の容姿に変化が無い上に、6年という年月の経過をまったく感じませんでした。どうしてでしょうかね。
今日は(9月15日・土)
細かい文字のマンガを読む前の、老眼の私の習慣なのですが。自分の『左の人差し指』を『左目』の前方5cm~10cm先に【立て】、そこからさらに10cm~20cm先の【右目】の前方に『右の人差し指』を【立て】、その指の間から数m先~遠景の【何らかの物】が見えるように立つか座るかして、{指の位置を時々置き替えて}その3点を交互に{しっかり}焦点を合わせて見るコトを数分間しています。これをしないと新聞は読めても、単行本や文庫本のマンガが最近まったく読めないからです。老眼鏡を掛けてマンガを読むなんてイヤ(!)ですものね。
今日は(7月22日・日)
昨日の続きなのですが、アニメ『ARIA』のサードシーズン『ORIGINATION』の第1話「その やがて訪れる春の風に…」 の中で、『灯里』・『藍華(アイカ)』・『アリス』の三人がカーニバルでの出来事を回想しながら、それぞれの先輩であり“水の三大妖精”である『アリシア』・『晃(アキラ)』・『アテナ』の三人の“すごさ”を語る場面があって。ただ《ゴンドラの漕ぎが上手》だとか、《案内が的確》だとか、《カンツォーネの名手》だとかだけではなくて、「三人の各先輩たちが、ピンチともいえる状況でこそ、お客様を喜ばせていて。そういった事が、三人にとって“とっても良い勉強”になった(!)」と言っているのですが。まさにこの≪ピンチの時が腕の見せ所≫という自覚が『アトラ』や『杏』には無くて、先輩試験官の“作為的な挑発”によってペースを崩されてしまい、冷静になれないまま実力が発揮出来ずに《プリマ》への昇格試験で落とされてしまったのだと思うのです。
そうは言っても、人間は“作為的な挑発”をしてこられると、なかなか冷静でいられないモノでありますから、『アトラ』や『杏』に同情しないわけではないのです。どこへいっても、どの世代であっても、嫌な先輩というのは居るモノですし、誰も彼もが≪次世代の《プリマ ウンディーネ》の星≫を目指している『灯里』や『藍華』や『アリス』たちのように成れるわけではありませんからね。
私はアニメの『ARIA』は見ているのですが、漫画は『AQUA』も『ARIA』もまったく読んでいないので、本当はコメント出来る立場ではないのですが。漫画の方は、アニメのような“水の三大妖精”である『アリシア』・『晃(アキラ)』・『アテナ』と≪次世代の《プリマ ウンディーネ》の星≫を目指している『灯里』・『藍華』・『アリス』たちによる《超人の物語》ではなくて、もっと普通の登場人物が沢山出てくる《人間臭い物語》みたいなので。アニメの制作スタッフが、アニメは漫画とは違う≪ホッとするイメージ≫で作ろうとしたので、どうしても『アトラ』や『杏』が少し中途半端な描かれ方になってしまったのかもしれません。
今日は(7月21日・土)
先日たまたま、アニメ『ARIA』のサードシーズン『ORIGINATION』のDVDを見たら、第4話「その 明日を目指すものたちは…」だったのですが。この中で、『オレンジぷらねっと』の『アトラ』が、「厳しすぎる先輩の試験官の為にウンディーネの《プリマ》への昇格が阻(ハバ)まれている・・・」と少し愚痴っぽくこぼし、同じ『オレンジぷらねっと』の『杏(アンズ)』が、「《プリマ》の試験に落ちる度に、ウンディーネとしての自分がどんどん否定されていくみたいに思えてきて・・・でも、それじゃダメ、ガチガチに硬くなっちゃったら今の自分の形を変えられないし、何も吸収出来なくなってしまう、他人(ヒト)を変える事は出来なくても自分を変える事は出来るもん・・・そう、憧れの《プリマ》にだって絶対に成れるって思うんです」と折れそうな気持ちを告白していた のですが。折角(セッカク)≪人付き合いの天才≫である『水無灯里(ミズナシアカリ)』がその場に居るのに、『姫屋』の『あゆみ』達から「とんでもない凄腕で、漕ぎもバランスの取り方も上手だから、《プリマ》への昇格は間違いなしさ・・・」と『灯里』ばかりが褒められていて、「でも、もう遅いって言われ」と言いかけた『アトラ』に、『灯里』が「きっと大丈夫です・・・自分で自分をおしまいにしない限り、きっと本当に遅い事なんてないんです」とありきたりな言葉を掛けてしまって、『アトラ』を無責任にたきつけてしまったのです。あれでは、たぶん『アトラ』も『杏』もその厳しすぎる先輩の試験官に認めてはもらえず、《プリマ》を断念する羽目(ハメ)に陥るのは確実で、なんだかとってもスッキリしないのです。その場面で『灯里』が『アトラ』や『杏』に「《プリマ》になったら“どんなに”嫌なお客がいても≪最高のサービス≫を提供しなくてはならないし、“どれ程”嫌な事が有った時でもお客様には≪変わる事のない最高のサービス≫を提供しなくてはならないのが《プリマ ウンディーネ》なので、試験官はそういった所を必ずチェックしてくるだろうから、試験官がペースを崩そうと“作為的な挑発”をしてきた時ほど最高の笑顔とより上質のサービスが実演出来るようにならなくてはならないのが当たり前で。試験官に不満を持ったり、落ち込んだりしているようだから、表面的には良くても試験に合格させてもらえないのだ」という事に持ち前の≪人付き合いの才能≫で、何気(ナニゲ)に気付かせる展開にする事が出来なかったのかと、残念でなりません。
暗い『杏』
今日は(5月31日・木)
前号のブログ第0038号は、文字数オーバーで想定外の書き込み停止になった為に、ブログ第0030号以降では珍しく≪新テーマ変更≫と≪旧テーマ変更≫が記入されていません。御容赦下さい。
ブログ第0038号からの続きです
第0051号へ続く。
~~~第0044号先頭へ~~~
*****(制作終了)*****
最新(制作進行中)の紹介
ちび猫が描く『夢の話し』第0007号参照
あだち漫画『虹色とうがらし』第0009号参照
~~~『タッチ』予告~~~第0014号参照
ちび猫が描く『タッチ』の感想・第0016号参照
ちび猫が描く『タッチ』の感想(2)・第0024号参照
~~~ブログ第0038号からの続きです~~~
第0044号の続きは第0051号へ移りました。
平成25年度版①
【宣言】訂正版
『あだち充』先生の『タッチ』と、漫画・アニメ関係のコーナーでありましたが、この『タッチ』が社会問題と宗教問題における貴重な題材である『人生の回復を容認しない恥(ハジ)の文化』と『人生の回復を肯定する罪(ツミ)の文化』の衝突を『柏葉 英二郎監督代理』の世界観と『上杉 達也』たちの世界観の違いで提供してくれるモノであったので、今後は『人生の回復』をめぐる少し硬い話しをしていきます。
・ヤブ医者『柏葉』医院に通院していた『明青野球部』【2月14日・木】
大相撲界に於(オ)けるモンゴル人力士の活躍と比較しリンクさせて、『柏葉監督代行』の無茶な指導の下での『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの頑張りの特異性を説明してきましたが。今度は、『恥の文化』で育ってきた日本人の普通の反応を病院嫌いに陥(オチイ)る成人病予備軍と対比して、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの頑張りの有用性を紹介してみたいと思います。
テレビなどでもよく耳にするですが、成人病予備軍と言われる軽度の慢性病患者が病院嫌いに陥(オチイ)っていて、重症化させてしまうまでなかなか病院に行かないという話しをよく聞きますし、≪食べたい物を食べて、好きなお酒を呑んで、何時でもタバコを吸って《自由》にしていられるという、わずかな《権限》に《自分》の《価値観》を切実に見い出している≫という日本人は多くいと思いますので、その中の一人の『Aさん』を架空の代表になってもらって話しを進めて行こうと思います。
そんな成人病予備軍の自覚のある『Aさん』にとっても、奥さんに勧められたからといってへたに病院へ行き、生活を不摂生なモノと指摘されて生活の改善を医者に求められてしまっては、今まで築き上げてきた《自分》の《存在意義》を否定されて、今後は一生を囚人のような生活を送るように宣告されるようなモノでありますから、「そうやすやすとは病院へ行かされる訳にはいかない(!)」という言い分になるのだと思うのです。
そしてそうしているうちに『Aさん』は重度な危機的状況に陥ると、今度は少しでも長生きして仕事も続けられたら続けたいものだから、病院にお願いして手術や治療をしてもらい、これ以上の病気の悪化はなんとしても防ぎたいものだから退院後もせっせと通院し、生活の改善にも積極的に取り組み始めるのです。しかしそれでも『Aさん』は結局障害が残ってしまい仕事もやめて離婚までする最悪の事態に陥(オチイ)り多くの苦労を背負(ショ)い込んでしまってから、「なんでもっと早くから病院にちゃんと行かなかったのか(!)」と反省するのですが、そんな状態になってからそんな反省を『Aさん』がいくらやったところで、もう何の役にも立たないのです。
しかしだからと言って、今の成人病予備軍の現役世代の人たちに「イヤでも我慢して病院へ行け(!)」と言い聞かせたり、「病院側こそが成人病予備軍の人たちが受診・通院をイヤだと思う事が無いように何らかの改善をするべきだ(!)」と訴(ウッタ)えたりしても、たぶん何の成果も上がらないと思うのです。それは、的外れな事だとは言い切れないのかも知れませんが、そういった事では重病化させてしまった『Aさん』の反省の真意を、キチンと汲(ク)み取りきれてはいないからなのです。
前回も用いたパソコンを例にした手法で、成人病予備軍をパソコン操作に係わる病気に置き換えてもう少し分かり易く説明してみようと思います。『Aさん』が勤めている会社の仕事では『Aさん』が得意とするパソコンの操作が必需(ヒツジュ)で、パソコン操作の知識や操作のスピードでより高度な仕事を割り振られ、それに比例して地位も給料も高まる会社で出世競争に明け暮れていたエリートの『Aさん』が、奥さんに勧められて行った病院で目の病気や腱鞘炎など多くの病気の指摘と共にパソコンの使用を制限する事を医者に勧められたとしても、それを受け入れるという事は会社での出世競争で後れを取るばかりか、長年《自分》の会社と言い人生の全てを傾けて来た仕事を止めなくてはならない訳ですから、とてもそれを受け入れる訳にはいかず「二度と病院へ行かさる訳にはいかない(!)」と言い張るようになるのです。
そしてそうしているうちに病気を手遅れなレベルまで悪化させてしまい、日常生活に支障をきたすように為(ナ)り、仕事もやめて、離婚までする最悪の事態に陥(オチイ)ってから、お決まりの「なんでもっと早くから病院にちゃんと行かなかったのか」という反省に行き着くのです。
確かに早いレベルで病院にちゃんと通院していて、医者の言葉に耳を傾けてパソコンの操作を制限していれば、そんな最悪の事態だけは免(マヌガ)れる事が出来たハズだと言うことは出来るのですが。現実問題として、エリートとして頑張って仕事に励んでいた『Aさん』に{仕事は諦(アキラ)めて}我慢して通院をするように言い聞かせたり、『Aさん』が受診・通院を拒むのは病院の環境が悪いからだと言って病院側に改善を訴えたりしても、いったいどれ程の効果が期待出来ると言うのでしょうか。
問題は、『Aさん』が「なんでもっと早くから病院にちゃんと行かなかったのか」という反省の後で、「得意にしていたパソコンの操作を活かせる仕事を選んだつもりでいて、結局パソコンとの係わりを急速に消耗させる道を選択をしていて。その得意であったパソコンとの係わりを仕事のし過ぎで早くに消耗し尽(ツ)くしてしまった事によって、人生の早すぎる破局まで迎えるハメに陥ってしまったのではないか」という後悔をしているのではないかという事なのです。それは、『Aさん』が得意のパソコンの操作を活かせる仕事をしたくて会社選びをしたのまではよかったのですが、≪自宅でも得意のパソコンを活かしてCG(コンピューター グラフィック)やコンピーユーターゲームなどでプロレベル程の高度な技能の向上を目指しながら【自立している自分】を築いて行って、そういった《自分独自》のパソコンについてのノウハウを仕事にも活かして行く≫という『何かあった時の“回復”の必要性』を踏(フ)まえた発想を持てずに、≪仕事でだけ得意のパソコンを活かして行く≫という《自分》を捨てた《滅私奉公》を、それが≪依存≫している状況だとは認識せずに《粋(イキ)な決断》だと思って選択してしまった事がそもそもの間違いであったからなのです。得意なパソコンを活かして、仕事のパソコン操作を包括する程の高度なパソコン技能を【自立している自分】として独自に築いてさえいたならば、病院でパソコンの使用を制限するように勧められた時でも、仕事を優先してパソコンとの係わりが危うくなるような決断をしてしまう事はなかったと思うのです。
だだし、パソコンを例にした病院嫌いの場合は≪得意なパソコンで能力開発をする機会があったものを《滅私奉公》に使用して、【自立している自分】の確立に役立ててこなかった≫という『何かあった時の“回復”の手立て』を作って置く余地あった状況の話しなのですが。成人病予備軍の病院嫌いの場合は≪食べたい物を食べて、好きなお酒を呑んで、何時でもタバコを吸って《自由》にしていられるという、わずかな《権限》に《自分》の《価値観》を切実に見い出している≫人間が、病院で医者に生活の改善を勧められただけで《自分》の《存在意義》を否定されたと感じるので、それがイヤで病院へ行かないというだけのコトなので、【自立している自分】を確立する能力開発の機会も、『何かあった時の“回復”の手立て』を作る余地も初めから無い状況の話しなので。成人病予備軍の人間が病院嫌いに陥る時の心境を理解するのには役に立つかもしれないが、現実問題として病院嫌いに陥らない手立てを講(コウ)じる時の参考には向かないかもしれません。
そして上記のように言ってしまうと、成人病予備軍の人間の病院嫌いには、もう取り付く島もないように感じられるかもしれませんが。大相撲界でのモンゴル人力士の活躍や、『柏葉監督代行』がやって来てからの『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの頑張りの支えになった、【モンゴル人の誇り】や【『上杉 和也』の意志を継ぐ】といった【思い】も、本当を言えば≪【自立している自分】を確立する能力開発の機会や、『何かあった時の“回復”の手立て』を作る余地≫などの確立にはたいして役に立たない非アスリート的な資質のモノなのです。
ただそのおかげで、大相撲界の理屈抜きの厳しい稽古や、『柏葉監督代行』の無茶な指導という≪本当なら力士や選手たちの{長年おだてられる状況に≪依存≫して作られたエリートとしての}プライドを傷つけて、彼らを【自分や意志】と言うモノの無い耐えるだけの練習態度に陥らせたり、真剣勝負は小物のする品の無い行為と考えさせて【力比べ】をするつもりで勝負にのぞませたりして、士気が上がらないようにするハズのモノ≫と、これまでの人生に於(オ)いて特にアスリートとして頑張ってきた訳でもなかった事とが結び付いた時に、「モンゴル人である自分達に厳しい稽古をワザワザ付けてくれるし、力士としての品格は日本語と一緒に学んだら良いと自由に相撲を取らせてくれる」とか、「『上杉 和也』を失って2流に落ちぶれたチームに全力で指導してくれるし、試合では信用して自由にやらせてくれる」などのような、いい意味での勘違の連鎖へと奇跡的に導かれたのです。
病院嫌いに陥っている成人病予備軍の人たちの、若い頃に頑張っていた特技をすでに見失い、本当は得意なハズの事もいつの間にか忘れてしまって、≪食事や飲酒や喫煙で【正統に頑張る自分】を演出して、小さな《自己満足》や《自己達成》を切実に追い求めている≫という止むに止まれぬ事情もよく分かるので、生活改善の指導などの面倒な事は言わず、淡々と病状の説明だけをしたら直に薬を処方してくれる本物の【ヤブ医者】医院を見つけて早く行く事をお勧めします。名医がいたり親身になってくれたりする病院は重体化してしまった時に行ったらいいのですから、成人病予備軍と言われる軽度の慢性病であるのなら、病院嫌いにさせてくれない【ヤブ医者】が良いのです。本当に体の健康が心配になる時は、名医のいる病院で時々健康診断を受けたらいいのですよ。
・《『上杉 和也』の存在》による奇跡【2月12日・火】
漫画(アニメ)で人気になった『タッチ』の後半で、『恥の文化』で生きて来た日本人であるハズの『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』が昔の先輩が行った事の因果応報の実現として今の野球部へ行っている無茶な指導を受け続けながら、『恥(ハジ)の文化』の大相撲界に『罪(ツミ)の文化』からやってきたモンゴル人力士たちのように≪自立≫している《自分》を見失うコトなく前向きに練習に励み続けられ、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という共通する《思い》を全員が見失わずに甲子園出場を目指して自主的に行動していられる理由が分からない。というのが前回の疑問でした。
この答え自体は意外と簡単に上記の疑問の中から発見できるのですが。ようは、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という共通する《思い》を全員が持っていたから、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導を受け続けながらも、全員が同じ《思い》で≪自立≫していられて、前向きに練習に励み続けられて、自主性を失わなかった。という事であります。
『罪の文化』では償(ツグナ)う事の出来る『罪』の性質上、何があっても人間は《自分》を『回復』させるコトが容認されている≪自立≫した存在なので、何らかの事情があって人がその《身分》を失ってしまったとしても、その人が《意志》を持っている限りはその《想い》が《自分自身》の証明となって、何回でも《自分》を『回復』させるコトが出来て、その都度チャレンジし直すコトが出来るのです。
これをパソコンで説明すると、個人で《復元用データ》を何時も作って持つようにしていて≪自立≫を意識しているので、何かあって『OSの書き換え』を突然に如何(ドウ)してもしないといけないハメになったとしても、その《復元用データ》を使って《元の状態》に『回復』させる事が容易に出来るので、何度失敗しても再チャレンジする事が出来るのです。というような話しになります。
『恥の文化』では取り返しのつかない『穢(ケガ)れ』や『恥』の性質上、何かあると人間は《自分》というモノを公の上でリセット(一般状態に初期化)されて消されてしまう存在であり、《自分自身》は序列の中での《身分》に対応して発生する《権限》によって証明されているだけの≪依存≫した状況のモノなので、もし何らかの事情があって人が《身分》を失ってその《権限》をなくしてしまったりすると、公の上ではその人は《自分》というモノをリセット(一般状態に初期化)されて失った事になってしまって、《無人格》な人間として扱われる事となるのですが、もう当人には《自分》を再構成する《権限》が無いものですから、“万事休す”に陥(オチイ)ってしまうのです。
これもパソコンで説明すると、個人で《復元用データ》を作る事が禁じされている上に、その《身分》に対応した性能のパソコンを借(カ)りて自分の仕事に使用している≪依存≫した状況なので、何かあってその《身分》を失ってしまうと、パソコンと一緒に《個人のデータ》もなくしてしまって、自分の仕事を続けるのに致命的な支障となってしまうのです。というような話しになります。
上記の『罪の文化』と『恥の文化』の話しをもう一度、大相撲界におけるモンゴル人力士の活躍に置き換えてみると。『罪の文化』の世界で生きて来たるモンゴル人力士たちは、一人一人が個別に共有の《モンゴル人の誇り》を持って日本にやって来て大相撲界に入ってくるので、理屈抜きの厳しい稽古の為に弱音を吐いたり、ズルをしたり、逃げ出したりする事も少なからず有ると思うのですが、そんな時でもモンゴル人力士は《モンゴル人の誇り》を拠(ヨ)り所に何度でも『回復』して、それまで以上に稽古に励(ハゲ)み、そしてモンゴル人力士の全盛期を作り上げ、今も《モンゴル人の誇り》をみんなで持って【真剣勝負】で頑張っているのではないかと思えるのです。
そして、それを迎え撃つ側の『恥の文化』で生きて来た日本人力士はと言うと、帰れる所を切り捨て、帰れる道までも切り捨ててしまって、大相撲に全てを掛けて入門してくるのですが、理屈抜きの厳しい稽古の為に弱音を吐いたり、ズルをしたり、逃げ出したりする度に気持ちがなえて行って、だんだん稽古に身が入らなくなって行く日本人力士は、親方からの信用も目に見えて失ってしまい、日本人力士はそんな自分に自分が不安となり、理不尽(リフジン)に思える稽古を強いる親方にも強く不満を抱くようになり、そして耐えるだけの稽古には《自分》や《意志》というモノがあると邪魔になるので捨ててしまい、ついには【真剣勝負】では分(ブン)を越えた敵対行為となって品位を失うので土俵では冷静に【力比べ】と考えて相手に向かった方が良いのではないかと考えすぎてしまって、多くの日本人力士が土俵に上がっても士気が高まらなくなっているのではないかと思えるのです。
次に、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの頑張りの不思議を、『罪の文化』と『恥の文化』で説明みると。彼らは普通の『恥の文化』で生きて来た日本人であり、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導を受け続けるのですから、普通に考えるならばもっと反抗したり、不満を抱いたりして《自分》を見失い、《自己》を確立出来なくなるような《プライド》への≪依存≫の度合いの高かった落伍者が続出して、練習に身が入らなくなり、チームワークも乱れてまともな試合など出来るハズがないのです。しかし、『柏葉監督代行』がやって来た明青学園高等部の野球部には、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが居て、『罪の文化』の人間が持つ≪自立≫している《自分》と同じような、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という共通する《思い》を全員が持っていたのです。野球における《プライド》で《自分》を形成するような≪依存≫した人間が『明青野球部』の部員の中には居なったという奇跡が、『柏葉監督代行』の無茶な指導を成長の糧(カテ)にし、試合での無策な指揮が選手の自主性を引き出したのではないかと思えるのです。
・『上杉 達也』は『横綱 白鳳関』のよう【2月10日・日】
天(神仏の道理)が創造したであろう厳しい世界で、{過ちを犯す}人間が生き残って行く方法が突き詰めて考えら、≪伝統的秩序と形式美こそが安定した世界の“正しい形態”であり、それを天(神仏の道理)に奉げるから人間が平穏無事に生きられるのであるから、個人の存在よりも人間の役割りが優先されるのは天(神仏の道理)の『絶対の定め』である≫と行き着いたモノが、『人生の回復を容認しない“恥”の文化』であり。
天(神仏の道理)が創造した世界の中で誕生した{過ちを犯す}人間ではあるが、『正を見極める理性』を『個人の人格』として個別に持ち得て生まれてきている状況を突き詰めて考えてみて、≪『罪』と『回復』の繰り返しによって『人間の理性は成長する』モノであり『人間社会では正義が追求されていく』モノだと天(神仏の道理)から支持されている≫と行き着いたモノが、『人生の回復を肯定している“罪”の文化』であります。
したがって、『恥の文化』では、『穢れ』や『恥』といった{回復の許されない}厳しい概念のモノが、{過ちを犯す}人間を縛りつける構図であったが。『罪の文化』では、『罪』という{回復が可能な}償(ツグナ)う事の出来る概念のモノが、{過ちを犯す}人間を成長させる構図となるのです。
なので、『人生の回復を肯定している“罪”の文化』の世界では、『権限という自由』という名で割り振られる制限に脅えて、『意志という自由』を自粛(ジシュク)する必要はありませんし。正々堂々と真剣勝負で挑む『外向きでの勝負』が天(神仏の道理)に反して『分を越えている』とか、『醜くい』とか、『卑しい』とか非難されてしまったらどうしようかと、ビクビクする必要もないのです。
しかし、『人生の回復を肯定している“罪”の文化』を持った異国人・異民族・異教徒が、『人生の回復を容認しない“恥”の文化』の世界へとやって来て無造作に活躍してしまうのは、『恥の文化』の人たちにとってはこの世界を安定させてきた“正しい形態”を蝕む悪魔の所業でしかなく、それを見過ごすコトはこの世界が守ってきた伝統的秩序と形式美の消失を許してしまう事にもなるので。『恥の文化』の世界では何時も、『罪の文化』の流入は到底容認出来ない事だという話しになり、文化摩擦による諍(イサカ)いの種が尽(ツ)きる事は無いのです。
そして、当然の事だが『タッチ』の舞台は日本でありますから、甲子園出場を目指して頑張る『上杉 達也』たちの前に、『柏葉監督代行』という【無慈悲な制裁の執行代理人】が現れたのは、特に不思議な話しではなくて。逆に日本の漫画(アニメ)ではそういう多様な形態での【無慈悲な制裁の執行代理人】の登場が無さ過ぎるぐらいで、日本人が漫画を読んでいて【無慈悲な制裁の執行代理人】が登場すると{読者である}自分の事を悪く言われている気分になってしまって、その漫画の人気が落ちるのではないかと、作者や出版社が過剰に懸念(ケネン)しているのではないかと思えるほどです。
それより問題なのは、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの、『柏葉監督代行』が登場してからの頑張りの方で。いくら甲子園まであと一歩のところで不慮の事故で亡くなった野球部エースで双子の弟の『上杉 和也』の意志を継いで頑張っているとは言っても、あの『柏葉監督代行』の指導体制のままで甲子園失出場を決めてしまったのは、チョット問題があるような気がするのです。あれではどんなに酷(ヒド)い指導者でも選手が頑張れば良いという論理になり、指導にイチイチ反抗するから強く成れないんだという理屈に為りかねず、スポーツにおける指導者の育成や選定が蔑(ナイガシ)ろにされ、「何かあったら選手の側の問題にして{体罰で押さえつけれて}しまえば良いんだ」という結論になってしまいかねないと思うのです。
しかし、日本人の大多数が【無慈悲な制裁の執行代理人】であった為に、そういった問題点が表に出てくる事も無く。また、【無慈悲な制裁の執行代理人】が『柏葉監督代行』という“悪役”である事よりも、【無慈悲な制裁の執行代理人】による無茶な指導の下で『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが甲子園出場を決めたエピソードの方が嬉しくて、『タッチ』という漫画とアニメが人気を博すに至ったのだと思われます。
だが本当に不思議なのは、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが、『柏葉監督代行』の無茶な指導にただ耐えたのではなくて、その無茶な指導そのモノを自分達の成長の糧(カテ)にしてしまい、甲子園出場という結果まで掴み取ってしまったというトコロなのです。『あだち 充』先生も、初めは単に甲子園出場までのストーリーの上で、何か面白いエピソードを作ろうとして『柏葉監督代行』を登場させたのかもしれませんが、日本人としてあの『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちの前向きな頑張りようと日本人離れした活躍の仕方は、どうしても奇異に見えてしまって納得出来ないのです。そう、あれは日本人ではなくて、まさしく外国人なのです。
今の大相撲界の中で日本人力士は、失敗や批判を恐れて萎縮(イシュク)してしまっていて、自主性を喪失し真剣みまで欠落してしまったようにも見えていて、大関に昇進出来ても優勝は難しく、横綱へ昇進出来る日本人力士が現われるのは当分先の話しになりそうな状況であるのですが。それに対してモンゴル人力士は依然として全盛を保っていて、日本の相撲部屋での厳しい稽古を、モンゴル人力士はシッカリと自分の糧としていて、成績にもキチンと反映させているようなのです。しかしそれは、日本人が劣っていて、モンゴル人が優れているという問題ではなくて。日本の伝統文化を引き継ぐ相撲界の重責が親方たちや日本人力士に重くのしかかって来ていて、【無慈悲な制裁の執行代理人】と化した親方たちが待ち受ける相撲部屋へ故郷を一人で離れて入門してくると、体作りと称する理屈抜(ヌ)きの厳しい稽古に耐え忍ばされ続け、番付が上がれば上がるほど取り組みの内容でも品格を重んじるコトを{日本人として}必要以上に意識し過ぎてしまって、日本人力士が土俵でまともな相撲を取れる状態にないのに対して。モンゴルで自由な精神を育(ハグク)んできた健全な若者たちがモンゴル人の誇りを抱(イダ)いて日本にやって来て、体作りと称する理屈抜きの厳しい稽古ではモンゴル人仲間で励まし合って団結を強め、相撲取りとしての品格についても日本語と一緒に焦(アセ)らずコツコツと勉強していけば良いと開き直る事が出来て、ほとんどのモンゴル人力士がベストの状態で土俵に上がってくるものですから、大相撲界でのモンゴル人力士の優位が続いてしまっているだけの事なのです。
そしてここで話しを少し戻して、『タッチ』の中で『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが、【無慈悲な制裁の執行代理人】の権化(ゴンゲ)と化した『柏葉監督代行』の無茶な指導の下で成長し、『柏葉監督代行』と目立った対立も起こさずに甲子園出場という結果を掴み取ったという日本人離れした活躍と、大相撲界でモンゴル人力士が大躍進を果たした事とを重ね合わせて見てみると、妙に一致する部分が多い事に気付きます。モンゴル人力士たちが、≪モンゴル人という誇り≫を共通して持っているように、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちも、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という思いを共通して持っていましたし。モンゴル人力士たちが、体作りと称する理屈抜きの厳しい稽古に直面しても、モンゴル人仲間で励まし合って団結を強めているように、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちも、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導で苦しめられても、これでもっと強くなれるんだとみんなで励まし合っていましたし。モンゴル人力士たちが、品格への拘(コダワ)りをあまり抱(イダ)かないで、ノビノビと相撲を取っているように、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちも、変な型にはめられるコトも無く、ほとんどノーサインで自己判断のプレーをしていたのです。まさしく、『明青野球部』の部員たちの活躍は、大相撲界のモンゴル人力士たちの躍進のようであり、『明青野球部』における『上杉 達也』の存在は、モンゴル人力士たちの中での『横綱 白鳳関』の存在といったところでしょうか。
あと最後に最大の疑問が一つ残ってるのですが、モンゴル人力士たちがモンゴル人である事によって、日本人が逃れられなくて苦しんでいる『プレッシャー』や『焦燥感』や『嫌悪感』や『反抗心』などが小さくて済んでいて、そのお陰で稽古にも身が入り、土俵の上でも全力が出せると言うのは、何となく分かるのですが。日本人である『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちが、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導の下でも前向きに練習に励み続けられ、≪『上杉 和也』の意志を継ぐ≫という思いを見失わずに甲子園出場を目指せたのかの、根本の理由がハッキリしていないのです。
【無慈悲な制裁の執行代理人】が大挙して暗躍する大相撲界であったからこそ、モンゴル人力士たちが、『プレッシャー』で萎縮(イシュク)してしまう日本人力士を差し置いて、躍進するコトが出来たのだと言う事は分かるのですが。【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導が群を抜いて過激であったからと言って、日本人である『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちにとって何の有利な事が有ったのか、まったく説明がつかないのです。
普通の日本人であるなら、大相撲界で日本人力士が萎縮し『プレッシャー』に苦しみ、なかなか『回復』出来ずにいるように、【無慈悲な制裁の執行代理人】である『柏葉監督代行』の無茶な指導の下では、『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちも、精神的なダメージを相当に受けてしまって、そう簡単には『回復』するコトが出来ないハズなのですが、不思議なコトに『上杉 達也』と『明青野球部』の部員たちは、なんやかやと言いながらもすぐに立ち直って、何時もケロッとしているのです。
しかし、この疑問の答えは、私もまだ持ち合わせてはいないので、今後の課題として置くコトにします。(皆さんも閑なら考えてみて下さい)
・『柏葉監督代行』は『恥の文化』の執行代理人【2月9日・土】
『日本文化』が世界で通用しなくなった典型的な縮図となっていて外国人力士に席巻(セッケン)されている『大相撲界』や、近世までは世界の中心であったが{イスラム諸国勢力の衰退・トルコの建国・サウジアラビアの油田開発・イスラム原理主義の台頭以降の}近代以降では『キリスト教世界』に席巻されている『近代イスラム世界』などは、まず間違いなく≪天(神仏の道理)には必ず“穢(ケガ)れ”の無いモノが奉げられなくてはならない上に、何かあれば【全体の問題】となってしまう≫というような『人生の回復を容認しない“恥”の文化』の世界であります。
そこは、天(神仏の道理)から各代表が最強・最善・最高英知の称号を得て仲間の全員が加護に与(アズカ)る為に在る{神聖な力を比べたり、敬虔(ケイケン)さを比べたり、英知を比べたりする}儀式的勝負の場であり。そこでは、“穢れ”の無い者たちによる『仲間内での力比べ』の勝利とそれによる序列とは、天(神仏)に奉げられる特別な意味を持った神聖なモノとされ。天(神仏の道理)へ奉げられる『仲間内での力比べ』の勝利とそれによる序列によってもたらされる恩恵を、“穢れ”が付かないよう適正に分配させる為に、その神聖な序列に合わせて『権限という自由』というモノが厳格に割り振られているのです。
しかも、そこでの“穢れ”とは{暗黙の了解で成り立っている“穢れ”の特殊な性質上}回復させる事の出来ないモノであることから、各個人は“穢れ”が付いた時には『恥』だと自覚して、その序列の中から身を引かなくてはならず。さらには、それを怠ったり見過ごしたりすれば、≪仲間全員への天(神仏の道理)の加護が失われて、禍(ワザワイ)を招いてしまう≫という仲間にとっての【全体の問題】となるのだと、{最終的な}警告が人々の心に突きつけられてしまうのです。
そして、『人生の回復を容認しない“恥”の文化』の世界というのは、≪個人とは天(神仏の道理)への奉げ物である伝統的形式美を継承する道具であり、“穢れ”てしまったら“恥”だと自覚させて{処分されるのを}諦(アキラ)めさせればいいだけの『捨て駒』な存在でしかないのだ≫という各自の共通認識と、≪厳格な天(神仏の道理)の在り様を無慈悲なモノだと、みんなが一緒になって妄想を膨らませてしまったコト≫によるみんなの冷徹な世界観のなりのはてであったという結論にたどり着くのです。
そして、上記のような『人生の回復を容認しない“恥”の文化』とは日本人の人格の核にもなっているモノでありますから、日本の年間自殺者数が3万人はどになるのは≪厳格な天(神仏の道理)を無慈悲なモノだと妄想する事による冷徹な世界観≫による『人生の回復』の自虐的断念が大きく影響しているのではないかと考えられるのですが、そうしているとそこに、『タッチ』に出てくる『柏葉監督代行』の世界観(言動)が、不思議と“妙な影”となってちらついてきたのです。
ただ何も≪『上杉 達也』たちが甲子園出場を目指して頑張っている『明青野球部』で『柏葉監督代行』がやっていた事は、実は単なる自虐的なモノであった≫などという無茶な事を言おうとしているのではなくて、もっと自然に≪『柏葉監督代行』は『明青野球部』の過去の部員が犯した【恥知らずな行い】に対する道理に適(カナ)った{無慈悲な制裁である}因果応報を『明青野球部』全体に体現する{天に代わって“悪役”となる}執行代理人は“自分しか居ない”と思いつめてしまった結果、あのような言動に駆り立てられたのではないか≫と見えてくると言いたいのです。
日本で年間3万人ほどの人たちが自虐的断念に追い込まれて自殺している影には、『柏葉監督代行』のような{相手への直接の怨みは持っていない}無慈悲な制裁の執行代理人が数多くいるハズで、彼ら(彼女ら)を『柏葉監督代行』のような“悪役”へと駆り立てたモノこそが『人生の回復を容認しない“恥”の文化』でありますから、≪『人生の回復を容認しない“恥”の文化』に屈した弱い人間が、少しの失敗に一人で悩んでしまい、『人生の回復』の自虐的断念に陥(オチイ)り、スッキリしたくて自殺しているのでしょう、哀れではあるが周囲のコトを考えないハタ迷惑な人たちです≫などと他人事のように自殺した人の自己責任を追及してしまえる人間こそが、日本人を年間3万人ほどの自殺に追いやっている無慈悲な制裁の執行代理人であると言えるでしょう。
しかし、たぶん残念なことに今の日本人の大多数が無慈悲な制裁の執行代理人に当てはまってしまうのではないでしょうか。『上杉 達也』たちが甲子園出場を目指して頑張っている時に『柏葉監督代行』が現れたのも、そういった日本の不幸な現状を端的に表現するための演出であったのではないかと思えてくるのです。
・『けいおん』【1月30日・水】(テスト)
親友の『S氏』から「やはり『けいおん』は面白い!」という話しを聞いて、テレビ放送を見ただけで買ってからしまったままにしてあった1期と2期のTVシリーズとまだ見ていなかった映画のDVDをまとめて一気に鑑賞しました(原作の漫画はまだ買っていません)。テレビ放送の時は主人公の『平沢 唯(ヒラサワ ユイ)』と軽音部のメンバーたちの5人によるドタバタコメディだと思っていたのですが、じっくり見ると、『平沢 唯』は結構ギター(ギー太)が好きで演奏や歌作りにも真剣に取り組んでいて、アニメの話しなのに何故(ナゼ)か感心してしまいました。
しかし、個人的に気に入っているのは、やはり『秋山 澪(アキヤマ ミホ)』の作る歌詞で、あの『どこの国の人?』といった“ぽわぽわ”した感覚がたまらなく愛くるしくて、ああいう感性に憧れてしまいます。
また、私は芸術オンチで絵心も無く音楽的才能も当然無いので、『平沢 唯』が絶対音感の持ち主であんなにギター(ギー太)を溺愛(デキアイ)出来る事に、後輩の『中野 梓(ナカノ アズサ)』が驚き羨(ウラヤ)ましいがっている気持ちがよく分かります。
そして、昔からドラムのリズムが好きでドラムをメインにしたジャズのCDも何枚か買って持っていたので、『田井中 律(タナカイ リツ)』がドラムとドラマーが好きなのになんかホッとしてしまいました。
5人目のメンバーと言っては申し訳ないのかもしれませんが、キーボードとお茶(お茶菓子)を担当している『琴吹 紬(コトブキ ツムギ)』について言いますと、楽器店の店長の苦悩も分からずに25万円もする『ギー太』を5万円に値切ってしまう世間離れしたお嬢様でありながら、献身的に軽音部の役に立とうと奮闘する健気(ケナゲ)さには心を打たれます。
最後になりますが、映画で『放課後ティータイム』の演奏をイギリスで予定も無いのに偶然に2度もやってしまったのは、出来すぎたストーリーではないかと思う人(日本人)も多いかと思いますが、ヨーロッパ人というのは総じて閑人(ヒマジン)である上に何でもエンターテイメントにしてしまう物好きな人たちなので、もし日本の女子高生がヨーロッパの路上でバンド演奏をしようものなら必ず大勢の人だかりが出来て大喝采間違いなしです。
・『コクリコ坂から』①【1月20日・日】(テスト)
『庭師の雨ふり作陶展』に私を誘ってくれた親友の『S氏』から、ジブリのアニメ『コクリコ坂から』が面白いと前々から言われていて、半年ほど前にネットで購入してあった『佐山哲郎』先生原作で『高橋千鶴』先生原画の漫画『コクリコ坂から』を今日やっと読み終えたので、先日テレビで放映されたのを録画してあったアニメ『コクリコ坂から』も一気に観てしまいました。漫画『コクリコ坂から』はアニメとは大違いで、とても現代的な時代設定でしたし、細かい違いを言ったらきりが無いくらいでしたが、アニメや内容の事と切り離して考えていると面白いコトが見えてきたので、一つ挙(ア)げてみます。
漫画『コクリコ坂から』は『なかよし』にて1980年の1月号~8月号にかけて連載されていたという事なのですが、『水木杏子』先生原作で『いがらしゆみこ』先生原画の『キャンディ・キャンディ』が『なかよし』の1975年4月号~1979年3月号にかけて連載されていた作品ですから、この二つは、ほぼ同じ年代の『なかよし』の漫画だと言えます。
そして、『あだち充』先生の『ナイン』は『少年サンデー増刊号』の1978年~1980年にかけて連載され、『陽あたり良好!』は『週刊少女コミック』の1980年~1981年にかけて連載され、そして『みゆき』は『少年ビッグコミック』の1980年~1984年にかけて連載され、さらに『タッチ』は『週刊少年サンデー』の1980年~1986年にかけて連載された作品でありますから、これらの作品とも同じ年代の漫画だと言えます。
また、『大和和紀』先生の『はいからさんが通る』は『週刊少女フレンド』の1975年~1977年にかけて連載され、そして『アラミス’78』は『月刊mimi』の1978年~1984年にかけて不定期掲載され、さらには『あさきゆめみし』は『月刊mimi』と『mimi Excellent』の1979年~1993年に不定期で連載された作品でありますから、これらの作品とも同じ年代の少女漫画だと言えます。
さらに参考までに言えば、『鳥山明』先生の『Dr.スランプ(アラレちゃん)』は『週刊少年ジャンプ』の1980年~1984年にかけて連載されていた作品であり。『大谷博子』先生の『星くず』シリーズは1975年から『星くず』・『星ははるかなり』・『星よきらめけ』と続き、1980年から2007年まで『由似へ』・『由似・きみの青春』・『由似、風の中で』と続いた作品でした。
ここまでほんの一例を挙げただけですが、1975年~1985年ごろの漫画(少女マンガ)は黄金期にあって、漫画『コクリコ坂から』は1980年の作品ですから、さらにその最盛期に制作された作品だということが分かります。
こんな事を考えていたら昔の漫画がまた読みたくなってきてしまいましたが、二千冊に及ぶ昔の漫画本とさらに千冊以上の専門書がダンボール箱に入れたままで押入れに入っていて、こんな整理がまったく出来ていない状態では読みたくても読めません。まずは掃除をしなくては何も始まりません・・・。
・『キャンディ・キャンディ』②【1月6日・日】(テスト)
アニメ『キャンディ・キャンディ』をやっと見終えましたが、『タッチ』や『YAWARA!』よりも古いのに、その内容の濃さに驚きました。だいぶ以前にテレビ放送で見たきりで、所詮は少女マンガのアニメと侮っていたのですが、後半に進むにつれて何度も泣いてしまうようなとんでもないシロモノで、その当時の制作スタッフの感性の豊かさに脱帽です。感想や、今に続くマンガやアニメの歴史や、『タッチ』との関係については、今後ゆっくり考えて記入して行こうと思っていますが。今ハッキリと言える事は、現代のアニメ製作の技術的な向上はすばらしいのに、精神性の表現については、『キャンディ・キャンディ』から後退してしまったのではないかという事です。近年の傑作である『十二国記』や『のだめカンタービレ』や『ARIA』や『けいおん!』や『夏目友人帳』などは、確かに面白かったのですが、『キャンディ・キャンディ』ほどには泣けませんでしたからね。
平成24年度版
・『キャンディ・キャンディ』①【12月19日・火】
最近、アニメの『キャンディ・キャンディ』を見ながら寝ています。『丘の上の王子様』と出会った時の年齢が6歳で、『ラガン家』に引き取られる時の年齢が12歳だと原作にあるのに、アニメだと【4話:笑顔の方がかわいいよ!】と【5話:今日からお嬢さま?】の間で『キャンディ』の容姿に変化が無い上に、6年という年月の経過をまったく感じませんでした。どうしてでしょうかね。
今日は(9月15日・土)
細かい文字のマンガを読む前の、老眼の私の習慣なのですが。自分の『左の人差し指』を『左目』の前方5cm~10cm先に【立て】、そこからさらに10cm~20cm先の【右目】の前方に『右の人差し指』を【立て】、その指の間から数m先~遠景の【何らかの物】が見えるように立つか座るかして、{指の位置を時々置き替えて}その3点を交互に{しっかり}焦点を合わせて見るコトを数分間しています。これをしないと新聞は読めても、単行本や文庫本のマンガが最近まったく読めないからです。老眼鏡を掛けてマンガを読むなんてイヤ(!)ですものね。
今日は(7月22日・日)
昨日の続きなのですが、アニメ『ARIA』のサードシーズン『ORIGINATION』の第1話「その やがて訪れる春の風に…」 の中で、『灯里』・『藍華(アイカ)』・『アリス』の三人がカーニバルでの出来事を回想しながら、それぞれの先輩であり“水の三大妖精”である『アリシア』・『晃(アキラ)』・『アテナ』の三人の“すごさ”を語る場面があって。ただ《ゴンドラの漕ぎが上手》だとか、《案内が的確》だとか、《カンツォーネの名手》だとかだけではなくて、「三人の各先輩たちが、ピンチともいえる状況でこそ、お客様を喜ばせていて。そういった事が、三人にとって“とっても良い勉強”になった(!)」と言っているのですが。まさにこの≪ピンチの時が腕の見せ所≫という自覚が『アトラ』や『杏』には無くて、先輩試験官の“作為的な挑発”によってペースを崩されてしまい、冷静になれないまま実力が発揮出来ずに《プリマ》への昇格試験で落とされてしまったのだと思うのです。
そうは言っても、人間は“作為的な挑発”をしてこられると、なかなか冷静でいられないモノでありますから、『アトラ』や『杏』に同情しないわけではないのです。どこへいっても、どの世代であっても、嫌な先輩というのは居るモノですし、誰も彼もが≪次世代の《プリマ ウンディーネ》の星≫を目指している『灯里』や『藍華』や『アリス』たちのように成れるわけではありませんからね。
私はアニメの『ARIA』は見ているのですが、漫画は『AQUA』も『ARIA』もまったく読んでいないので、本当はコメント出来る立場ではないのですが。漫画の方は、アニメのような“水の三大妖精”である『アリシア』・『晃(アキラ)』・『アテナ』と≪次世代の《プリマ ウンディーネ》の星≫を目指している『灯里』・『藍華』・『アリス』たちによる《超人の物語》ではなくて、もっと普通の登場人物が沢山出てくる《人間臭い物語》みたいなので。アニメの制作スタッフが、アニメは漫画とは違う≪ホッとするイメージ≫で作ろうとしたので、どうしても『アトラ』や『杏』が少し中途半端な描かれ方になってしまったのかもしれません。
今日は(7月21日・土)
先日たまたま、アニメ『ARIA』のサードシーズン『ORIGINATION』のDVDを見たら、第4話「その 明日を目指すものたちは…」だったのですが。この中で、『オレンジぷらねっと』の『アトラ』が、「厳しすぎる先輩の試験官の為にウンディーネの《プリマ》への昇格が阻(ハバ)まれている・・・」と少し愚痴っぽくこぼし、同じ『オレンジぷらねっと』の『杏(アンズ)』が、「《プリマ》の試験に落ちる度に、ウンディーネとしての自分がどんどん否定されていくみたいに思えてきて・・・でも、それじゃダメ、ガチガチに硬くなっちゃったら今の自分の形を変えられないし、何も吸収出来なくなってしまう、他人(ヒト)を変える事は出来なくても自分を変える事は出来るもん・・・そう、憧れの《プリマ》にだって絶対に成れるって思うんです」と折れそうな気持ちを告白していた のですが。折角(セッカク)≪人付き合いの天才≫である『水無灯里(ミズナシアカリ)』がその場に居るのに、『姫屋』の『あゆみ』達から「とんでもない凄腕で、漕ぎもバランスの取り方も上手だから、《プリマ》への昇格は間違いなしさ・・・」と『灯里』ばかりが褒められていて、「でも、もう遅いって言われ」と言いかけた『アトラ』に、『灯里』が「きっと大丈夫です・・・自分で自分をおしまいにしない限り、きっと本当に遅い事なんてないんです」とありきたりな言葉を掛けてしまって、『アトラ』を無責任にたきつけてしまったのです。あれでは、たぶん『アトラ』も『杏』もその厳しすぎる先輩の試験官に認めてはもらえず、《プリマ》を断念する羽目(ハメ)に陥るのは確実で、なんだかとってもスッキリしないのです。その場面で『灯里』が『アトラ』や『杏』に「《プリマ》になったら“どんなに”嫌なお客がいても≪最高のサービス≫を提供しなくてはならないし、“どれ程”嫌な事が有った時でもお客様には≪変わる事のない最高のサービス≫を提供しなくてはならないのが《プリマ ウンディーネ》なので、試験官はそういった所を必ずチェックしてくるだろうから、試験官がペースを崩そうと“作為的な挑発”をしてきた時ほど最高の笑顔とより上質のサービスが実演出来るようにならなくてはならないのが当たり前で。試験官に不満を持ったり、落ち込んだりしているようだから、表面的には良くても試験に合格させてもらえないのだ」という事に持ち前の≪人付き合いの才能≫で、何気(ナニゲ)に気付かせる展開にする事が出来なかったのかと、残念でなりません。
暗い『杏』
今日は(5月31日・木)
前号のブログ第0038号は、文字数オーバーで想定外の書き込み停止になった為に、ブログ第0030号以降では珍しく≪新テーマ変更≫と≪旧テーマ変更≫が記入されていません。御容赦下さい。
ブログ第0038号からの続きです
第0051号へ続く。
~~~第0044号先頭へ~~~
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