ちび猫のつぶやき

宇宙人の独断と偏見なのですが、警鐘を鳴らす訳ではなく希望の光を照らす訳でもなく、ただ足下の事を皆で見ていたいだけなのです

07.ちび猫が描く『夢の話し』

2010-08-06 | 夢の話し
第0007号



*****(制作終了)*****



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(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0010号第0011号第0012号第0047号もお読み下さい。)







・『ブログ』を始めるにあたって⑦


皆様こんにちは、今日も楽しくお過ごしですか。
私【ちび猫】の方は最近の暑さと・寝不足で、頭がパンクしてしまいそうなのを我慢し、何とか頑張って(仕事中に居眠りしながら)ブログの事を考えていましたが、正直言ってこの第0007号は苦戦していて、第0006号を書き終えてから数日の間は何を書いたら良いのかがまったく分かりませんでした。





・本文(7)


しかしそれが、先日の夢の中で

【(性別不明の影しか見えない)誰かから、漫画家のあだち充先生の『タッチ』という漫画を(投げるように)渡されて、『私に欠けているからもっとちゃんと読んで生き方を考え直した方が良い』と忠告されてしまったのですが。
それに対して私は、そんな『小さいコト』を色々沢山してもらう事で(さりげなく気を遣われる事で・気配りをマメにされる事で)女性は(老いも若きも女の子達はみんな)喜びたがっているモノだと言われてもね~・・・私は『大きなコト』に取り組んでいるものでね~・・・昨今は『緘黙症(ジストニア)対策』や『唯一神教』や『ジプシー』の事に(その解明・解決に)夢中になっているからね~・・・逆にそれをもっと見てほしいし評価してほしいのですよね~・・・『タッチ』を見て見習えと言われてもね~・・・】

と面倒くさがってなかなか納得しないコトがあったのです(夢なのに・夢だからなのか)。

しかも私は、あだち充先生の漫画が苦手で漫画本もアニメもほとんど見た事が無かったのです。そこで、ちょっと考えてみたのですが、私ももう少しあだち充先生の漫画の事を勉強して・努力を積み重ねて見ますので(せっかくの夢の忠告なのですから、何とか実現しようと思うので)。
そのはるか先の延長線上で、イスラーム教国にもあだち充先生の漫画やアニメを広めてみたいと思うのです。

そして、【現実には、「クルアーン」のアラビア語文字である「フスハー」や・その対義概念である現代口語の「アーンミーヤ」や・その多数の方言に分かれた「ラハジャ」と呼ばれるモノなどがある上に、中東・北アフリカ以外のイスラーム諸国にはそれぞれの国や民族でペルシャ語などの個別の言語を多様に使用しているために。
日本の漫画やアニメのモノの多くが日本語を英語に翻訳しただけの形でイスラーム諸国の都会を中心にして流通しているだけみたいで(一部ではアラビア語にも翻訳されているが、イスラームに反する部分は大きく編集されている事が多い)。
その上、イスラーム諸国でも、トルコ・インドネシア・マレーシアなどと、イラン・シリア・サウジアラビアなどとでは、情況は大きく違うが)】

あだち充先生の漫画やアニメの『タッチ』などが、出来るだけその土地の言語に翻訳された形で、代表的なイスラーム教国で編集されてさえいれば、子供向けとしての位置づけであったとしても良くて。
海賊版ではなくてイスラーム圏内で公認された形でちゃんと見る事が出来たとしたならば、イスラーム諸国の今後にも(キリスト教圏やイスラエルなどを含む全世界的今後にとっても)面白い事ではないかと思えて来たのです。これ以降を【ちび猫が描く『夢の話し』】としようと思います。





・参照〈1〉


【漫画家『あだち充』は、『陽あたり良好!』・『みゆき』・『H2』・『クロスゲーム』などのラブコメディと野球などのスポーツを絡めた青春恋愛漫画を得意としていて、ソフトで可愛らしい絵柄と少女漫画のような技法を少年漫画に持ち込んで来たパイオニアである。】

【イスラーム教国はイスラム諸国会議機構 (OIC) に加わっている、ムスリム(イスラム教徒)が人口の比較的多数を占めていて、国家のヘゲモニー(指導的立場)を握る国家であって。
現代では法としてシャリーア(イスラム法)を用いている国(イラン・シリア・サウジアラビアなどのダール・アル=イスラーム:イスラムの家:イスラム世界)と、そうでない世俗主義を標榜する国(トルコ・インドネシア・マレーシアなど)をも含めたイスラーム圏内の国家(イスラム諸国)のコトである。】

【『クルアーン』は『コーラン』の事で、“イスラーム(イスラム教)の信仰”では「唯一不二の神アッラーフ(アラー:神)から最後の預言者に任命されたムハンマド(マホメット)に対して下された啓示《アッラーフ{ヤハヴェ・エホバ、ゴッドと同じ神の意味}の啓典{“イスラム教において”唯一神(アッラーフ)から“諸預言者”に下された“ユダヤ教やキリスト教の聖書を含む”四つの啓示の書物のこと:『モーセ五書』・『詩篇』・『福音書』・『コーラン』}の中で唯一現代まで“書き換え無く”奇跡的に伝えられてきている》」と位置付けられているモノ(イスラム教の第一聖典)であるが。
実際の運用で、シャリーア(イスラム法)において適用され事が多いのは、イスラム教の第二聖典ハディース(預言者ムハンマドの言行録)である。】

【『フスハー』は文語としての標準アラビア語(正則アラビア語・古典アラビア語)を指すが、ラテン語・サンスクリット語・かつてのヘブライ語と同様に死語であり。
『アーンミーヤ』はアラビア語の現代口語としての通俗語であるが。
実際の『アーンミーヤ』は多数の方言に分かれていて、これを『ラハジャ』と呼ぶ。
又、イランを中心とする中東地域で話されるペルシャ語は、古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であるが、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。】





・追伸:原理主義の台頭


昨今の各唯一神教間の宗教世界(アブラハムの宗教の世界)では、各宗教・各宗派の千年・二千年を超えて続く対立が引き起こしてきた信仰の混迷の中で、信徒が置かれてきた厳しい状況下での、逃れようのないままでの(永遠とも言える永い時の中での)長年にわたる非人道的差別や虐殺を伴う抗争などの歴史から、それらの各宗教・各宗派が唯一神教として永く内包させてきた、その信仰の原点である

{[今とは違う・真に正しかった信仰をしていた昔の時代の信仰]や、
[唯一絶対神のために生きて・協力して・死ぬ・信仰ざんまいの信仰]や、
[信仰の論理が(強引に)自己完結されていて。いつも自分達は正しくて他が間違えていると《この世界の成り立ちについては、自分達の経典(啓典・聖典など)で語られている教義によって一点の矛盾も無く全てに説明が付いていて、それに異を唱える他の宗教・宗派の総ての教義は、正しい道を私達が踏み外すのを狙い・企んでいる「悪魔の誘惑」であると》信徒が迷わぬように論理の方式を閉鎖させている信仰]などの、
以前から幾度(イクド)も議論されて廃(スタ)れてしまっていたはずの時代の流れに逆行した信仰}

に「今こそもどろう」と主張する「宗教的原理主義」の信仰方式である

【日本的な「信じる者は救われる」方式の
[「~ばか」で一直線なおめでたい生き方の信仰や、「ガンコなまでに~な」で首尾一貫した硬直してしまっているだけの人生観の信仰を、「神に従うモノだと」・「神の意思に適うモノだと」おだてて信仰心をあおる事]や、
[唯一神の神聖性に『理の縛り』である畏敬の念を刷り込み、その加護と恩恵を欲する本能に根ざした気持ちを利用して。その(自分達の信仰する宗教・宗派の)唯一神の加護と恩恵の正当性や優位性を信じて、その経典の絶対性と強い信仰心だけを諸悪(世界や精神を蝕むサタン)と戦う盾に用いてると主張する事で、独善的に自分達の都合だけでコトを起こす偽善性の強い理念から成る自分達の教義やその信仰を、「神に従うモノだと」・「神の意思に適うモノだと」巧みに仕立て上げてしまう事]や、
[いつも自分達は正しくて他が間違えていると自己完結出来ていて、その論理性において信じている限り破綻する事が無く、ただ単純に多様性も柔軟性も無くて単に閉鎖している論理の方式であるというだけの旧来性にこだわった教義に、「満足してしまう」・「安心出来てしまえる」敬虔(ケイケン)な信徒の心を、「神に従う真の信仰だと」・「神の意思に適う純粋な信仰心だと」さらにおだて上げて、信仰に絶対服従の盲目的信徒に仕立て上げてしまう事]など】

が幅を利かせているのです。


そして、多くの信徒やその他の民衆は、元々から一個人の人間が「『理の縛り』の引っかかり」のためにそう簡単には持っているはずのない

『多様性と柔軟性を追い求めて「堕落も自由」・「変節も自由」・「未完成も自由」と宣言出来て(不安を恐れず・恐怖に立ち向かい)実践していける「自由な努力」や「変わっていく研究」に取り組もうとする「人間である自分や各個人は一生涯「人としては個別に未完全なままである」と考える『ズルイ!』思惟」』

を悪魔の誘惑による生涯の汚点を残す堕落てあり、ケガレによって生涯の重石を背負うコトとなる軽率な行為であり、敵意の有る議論の標的にされやすい弱い論理性であると考え(そう願って)、それらを自分の強い意思で跳ね除けていると(無神論者に至るまでそう思い込んで)安心してしまうのです。

しかし、それでも人は『人間種の野生本能』によって、《攻撃性や同時性を含んだ「被害妄想や疑心暗鬼」などに取り付かれてしまい、逃れようもなく絶え間なく自分や自分達を攻撃してくる何かが確かに有ると強く感じてしまって、哀れな生贄(イケニエ)を見つけては差別し・迫害をしてしまうのです》。

そして、ついに人は「自分自身に強く恐怖し」・「思うコトを萎縮させてしまい」・「そんな自分というモノを嫌悪し・とことん回避しようと決意し」、自分自身で自らを不自由な身に縛って置こうとして、「危険を承知で盲目的な信仰に身を投じたり」・「何の意義も無いのを承知で山や家に引きこもったり」してしまうのです。


こんな時に、あだち充先生の漫画(ファンタジー)を持ってきて・見てもらおうとしたところで、誰も相手にしてくれないだろうとは思います。
しかし、こんな時だからこそ、あだち充先生の漫画(ファンタジー)が世界中のキリスト教圏やイスラーム諸国などでも広く見てもらえたなら(悩める人達にも見てもらえたなら)、世界が(もっと)面白くなって行くと思うのです。





・追伸:『緘黙症(ジストニア)対策』


『緘黙症(ジストニア)』の者達が何時までも多くの不自由に直面したままでほったらかしなのに、その『緘黙症(ジストニア)対策』をめぐって何時も対立していて、協力出来ないで反目し合っている状況は、唯一神教(間)の宗教世界の対立状況に似ていると私は思うのです。

そうすると、あだち充先生の漫画(『タッチ』など)には、『緘黙症(ジストニア)対策』をめぐる不自由や対立の解決を可能にする手立てのヒントが隠されているという事なのでしょうか。

どちらにしろ、私自身がまだ、あだち充先生の漫画(『タッチ』など)をまだ良く解っていないのだから如何(ドウ)しようも有りません。あだち充先生の漫画(『タッチ』など)を勉強しながら、その状況を報告する形で今後のブログを制作して行こうと思います。


~~~第0016号『タッチ』の感想へ~~~

~~~第0014号『タッチ』予告へ~~~







《『射幸心』や『信仰の放棄』などでもお悩みの方は第0001号・第0002号・第0003号・第0004号の概要もお読み下さい。》

~~~概要0004~~~

足が悪いまま改善しないと診断された時こそ自分が試されている時であるが、頑張ってリハビリに取り組み歩いてみせるんだと一途に努力し励むなら、“誠実な気力”がいつまでも湧き起こり真っ直ぐな“正しい気持ち”は永遠に、決して穢(ケガ)れる事がない。『大人の場面緘黙症』のための『場面緘黙症対策』も同じで、なかなか症状が改善しない時こそ自分の気持ちが試されている時であるが、どんなにうまく行かない事でも投げずに頑張り続けるなら、“誠実な気力”がドンドン湧いてきて「何があっても変節など決してしない」“正しい気持ち”を永遠に見失わない。
しかしこれでは、ただ“歩けない”だけだし、いつまでも『大人の場面緘黙症』なだけなのである。そして、ギャンブル依存症の人や、宗教の原理主義やカルトにはまり込んだ人も、同じような【袋小路(フクロコウジ)のロジック】に迷い込んでいるようなのである。みんな一度、「価値観や神秘観を機能停止」させてから、《自らの理性によって物事を考えて合理的に対処する》という機能を自分の中に構築する必要があるだろう。


~~~概要0003~~~

足が悪いまま改善しないと診断された人が、普通に歩行しようとして訓練に明け暮れて、その一生を歩行訓練をする事のみに費やしてしまったとしたら、なんと不幸な事なのでしょうか。それと同じ過ち事を『大人の場面緘黙症』の人は『場面緘黙症対策』として犯しているのです。
車椅子に乗って遠くへ旅行したり、車椅子でするテニスやスキーを楽しんだり、車椅子で出来る仕事に励んだりする事を、誰が“悪知恵”だとか“変節”だとか“意気地無し”だとか言うでしょうか。『大人の場面緘黙症』の人も早く『場面緘黙症対策』を断念し、『代替え言葉』をどんどん使って、会話を楽しんだらいいと思うのです。


~~~概要0002~~~

「足が悪いまま改善しないと診断された場合でも、普通に歩行するためのリハビリを想定してその訓練に励む“努力”をする事は決して“無駄ではない”はずで、そういった“努力”が無ければ起こるかもしれない“奇跡”も決して起こらないし、たとえ歩行が出来なかったとしてもその“努力”は別の形で必ず“ご褒美”をもたらしてくれるモノだからだ」というような認識を持つことは、うまく行かない事の多い人生において“成功”を修める上で欠かすことが出来ないモノである、という考え方は『大人の場面緘黙症』には効果が無く、『場面緘黙症対策』としても通用しないのだが、それはその考え方が「自らの理性によって物事を考えて合理的に対処する」という事を拒否するモノだからである。


~~~概要0001~~~

ギャンブル依存症や、宗教の原理主義やカルトと同じような、自分の行いを「とにもかくにも」“正しい”と判定できる事への『ワクワク!の心理構造』が『緘黙症対策』にも働いて、“かりそめの正しさ”に目を奪われてしまい。自らの理性で『緘黙症対策』を考える事を「“悪知恵”の穢(ケガ)れであり“リスクの積み上げ”としかならない」祓(ハラ)うべき“悪魔的衝動”と認識して拒絶してしまい、実質的な効果の薄い『緘黙症対策』ではあっても“変節”せずに続けていればたとえ少しも効果が上がっていないように見えても“時は満ちつつある”のだと認識して止められない。
これこそが『緘黙症』の本当の怖さなのである。





・参照〈2〉


【『場面緘黙症』とは、“ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象”であり、子供の時期ほど顕著に現れやすい症状ではあるのだけれども。
単なる人見知りや恥ずかしがり屋とは大きな違いがあって、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があり、“子供の時期の適切な手当て”が遅れてしまうと、成人になってからではなかなか改善しにくい傾向にあるみたいで。
そういった、少数ではあるが大人になってもしつこく残ってしまう症状の事を、特に『大人の場面緘黙症』と呼ぶみたいです。】

【『イップス』 とは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる“運動障害や随意運動の低下”のことであり、それに類似した症状などにも広く使われる呼び名でありますし。
『ジストニア』とは、中枢神経系の障害による“不随意(ふずいい:意のままにならないコト)”で持続的な筋収縮(きんしゅうしゅく:筋肉の一定的な収縮運動)にともなって引き起こされる姿勢(シセイ)異常に対しての呼び名であると共に、全身あるいは身体の一部が“不随意”に捻(ネジ)れたり・硬直(コウチョク)したり・痙攣(ケイレン)したりするなどの症状と、それにともなう“運動障害や随意運動の低下”の総称として用いられる場合もあるのですが。
『ジストニア』以外の“不随意”な症状で、自分の意思とは無関係に生じる不合理な動作・運動としては、手足や全身の『振戦(ふるえ)』や、上下肢(シ:手足)全体の振回し運動の『バリスムス』や、手足や頭などがくねるような緩慢な旋回運動の『アテトーシス』や、痙攣的運動の『ミオクローヌス』や、口周辺部や舌の異常運動の『口ジスキネジー』などがあり、発症部位や運動の規則性や・強さや・睡眠時の運動有無などによって分類されるモノです。
身体機能的にそれらを説明すると、身体バランスの調整・運動の円滑化に重要な機能を持つ大脳基底核(だいのうきていかく:大脳皮質(だいのうひしつ)と視床(ししょう)・脳幹(のうかん)を結びつけている神経核の集まりであり、哺乳類の大脳基底核は運動調節、認知機能、感情、動機づけや学習など様々な機能を担っている)を中心とした錐体外路(すいたいがいろ:運動神経線維(ウンドウシンケイセンイ:ニューロン)の遠心性経路(エンシンセイケイロ)で錐体路(スイタイロ)以外の経路(ケイロ))が阻害された場合に、異常な筋収縮が発生して、“不随意運動”が引き起こされる現象だという事になります。】

【『射幸心』とは、本来《射倖心》と書いて(しゃこうしん)と読み、ある程度の確率を伴う事柄において、良い結果が得られた時の高揚感を表す言葉であり、その“倖”の意味は「努力を必要としないで、予期せずに」訪れた幸せという意味である。
そのためか、幸運を得たいという心理による「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい、何時かは勝者になりたい」と思い期待してしまう心理状態を表す言葉として“広義”に使われる場合も少なくはないが、たいていは根拠の無い自信で自分だけが幸運を得られると思い込んでしまって、投機や投資や賭博や期待値の低い事業に夢中になって浪費してしまう傾向の心理状態を表す言葉として“狭義”に使われるモノである。】





~~~第0007号先頭へ~~~







ちび猫のコメント参照
次回につづく。


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