むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

24、美女ありき  ②

2021年08月27日 08時19分48秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・「法華経は習ったのですが、まだ、そらんじてはいません」

「難しいものなの?そらでよむって」

「いや、そんなことはないでしょうが、
何しろ自分はなまけて遊んでばかりいるものだから・・・」

「じゃ、早くお山へ帰って一生懸命習ってちょうだい。
そらでおよみになれたらまたいらして。
その時はさっきいったように、あなたのお言葉に従うわ」

僧はやっと激情を鎮め、翌朝早くその邸を出た。

それからというもの、
日も夜も法華経を暗誦するのにかかっていた。

女の面影は目にちらつき忘れる間もなく、
修行の合間に僧はせっせと手紙を書いた。

女からも返事が来た。
しかも返事につけて女は布や干飯など贈ってくる。

(おれと暮らしたい、と言ったのは嘘ではないのだな)

と思うと僧は嬉しかった。


~~~


・二十日ばかりすると、すっかり経をそらんじることが出来、
勇んで法輪寺へお詣りし、帰途、女の邸へ寄った。

その夜更け、心おどらせて女のそばへ近づき、僧はささやいた。

「約束通り、法華経をおぼえましたよ」

「待って」と女は僧の手をとどめて、

「同じことなら、お経を読むだけではなく、
もっと学識を積んだ学僧になっていただきたいの。
それでこそ、あなたを心から尊敬して、愛を誓える、ってもの。
あなたがやんごとない宮さま方や、殿上人たちにも、
敬われるお坊さまとなれば、あたしもどんなに誇らしく思うことか。
学問に没頭して、立派な学僧となって下さい。
その間の仕送りはさせて頂くし、お便りも欠かさない。
そして学問をおさめて皆に敬われる方となられたら、
その時こそ、変わらぬ契りを結びましょう。
それを承知して下さらないなら、いま殺されたっていやよ」

僧は(この女のいうのも尤もだ)と考えた。

ここまで俺のことを考えてくれるのか。
貧しい俺が、この人の仕送りで身を立てるというのも、
よい機会かもしれぬ。

僧は女と約束した。

それから三年、僧はいっそう勉学に励んだ。

あの人に会いたい、
あの人を愛したいという思いは心肝を砕くようであった。

そのやみくもな情熱を学問に傾けたので、
二年も経つと、もとより聡明な性質でもあったので、
学識はゆたかに深くなった。

仏典の論議、講演の場に出るたび、頭角をあらわして、
その学才を賞賛され、三年経つころには、見事に、
一山の学僧として讃えられるようになった。


~~~


・僧は久しぶりに邸を訪れた。

「嬉しいわ、立派におなりになって」

女は続けていう。

「かねてお経でわからないところがありました。
お訊ねしてもいいかしら?」

女は仏典の中の疑問点を問いただし、
僧はそれについて一々答えを示したので、

「まあ、ほんとに尊い学僧になられたこと。
あなたはよくせき、聡明な方なのね」

と女はほめた。

その夜、僧が女のもとへ行くと、女は拒まず、
添い臥しながら、「しばらくこうやって話をしない?」

と、あれこれ物語るうちに不覚にも僧はうとうとしてしまった。

何しろ比叡から出てきて法輪寺へ詣った帰りなので、
疲れがたまっていたのである。


~~~


・はっとして目覚め、
(思わず寝入ったな)と起き上がってみると、
何ということ、荒野のただ中に、
薄を折り敷いて寝ているのだった。

自分の衣のみがあたりに脱ぎ散らしてある。
有明の月ばかり明るく、ここは嵯峨野の野原であるらしかった。

僧が震えたのは春先の寒さばかりではない。

怖ろしさに骨の髄まで凍りそうに思われ、
ここから法輪寺は近い、そこで夜を明かそうと、
桂川を徒歩で渡った。

川水は腰まであり流されそうだったが、
辛うじて渡って震えながら法輪寺に着き、御堂に入って、

(怖ろしい目に会いました。お助け下さい)

と念じているうち眠ってしまった。

夢の中で、頭の青い小さい僧が出てきた。

(汝が今宵謀られたのは狐狸のたぐいのためではない。
われが謀ったのである。
汝は学問に身を入れずして、才智を与えよとわれを責めた。
よってわれは汝の好む女の身と変じて、悟りを開かしめたのである)

虚空蔵(こくぞう)菩薩のお告げだった。

僧は恥ずかしく悲しきこと限りなく、
叡山へ戻っていよいよ学問にはげんだ、という。

その僧はしかし、幻の美女を忘れることが出来なんだ。

煩悩も悟りを開くみちとなるが、
手の届かぬ美女の慕わしさは年ごとに積もった。

できることならもう一度、なまけ者に返って、
かの美女にいましめられたいと・・・   
年老いても幼児が母を慕うように偲んだそうな。

「いやいや、わしのことではないぞよ、この僧は」

老僧はおだやかに笑った。







          





(了)

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