むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

1、革命とアリガタバチ ③

2022年06月16日 08時01分13秒 | 田辺聖子・エッセー集










・日本家屋であると、
柱を磨く、廊下を拭き清める、という作業がついてまわり、
屋根瓦のずれ、軒の樋、雨戸のすべり、襖のゆがみ、
実にさまざまのトラブルが起き、
チェックするべきところが多い。

コンクリートの箱のような家に比べると、
風情はあるかわりに何とも手をとられるものである。

将来、
私がもっと年老いて日本家屋に住むとしたら、
誰か、私より若い体力気力のある人の介助を、
必要とせざるを得ない。

老人が、
きちんと手入れされた快適な日本家屋に住むには、
昔の曽祖母のような地位、
それを支える家族制度のようなものがなければならない。

しかし今は、
老人と同居を望む若者は少ないし、
老人たちも自分たちだけで暮らそう、
と思う人が多い。

そうなると好むと好まざるにかかわらず、
洋風の住まいになってゆくのは、
やむを得ないことではなかろうか。

お手伝いさんとか、男衆、秘書、書生、庭師、
といった人々をいっぱい抱えていれば、
風情ある日本建築に住む楽しさを満喫できるが、
それも才能ものである。

人を使う才能、
人を働かせる才能、
というものが要るのだ。

昔の老人は家族制度のおかげで、
才徳なくても嫁や息子やら、
タダの人手をこき使うことが出来たが、
今は才能なくしては人手はあてに出来ない。

人望といってもいい。
経済力、才能、人望、
その人にそなわる、おのずからなる人徳、
そういうものがなくては、
人に動いてもらえない。

こうなると、
住むのに手間のかかる日本建築は、
老人が住むのに適した住文化でないように思える。

私は京都や、
あるいは地方の古い町で、
旧家の豪奢な邸宅を見る度、
美しいなあ、と思う一方でゾッとする。

百何十年、あるいはもっと古く、
伝わってびくともせぬその家の、
床も柱も顔が写るほど磨きぬかれている。

そんなに美しく維持されるには、
どれだけたくさんの女中衆(おなごし)さんたちや、
その家の嫁たちの汗と涙がそそぎこまれてきたことだろうか。

男たちも代々のれんを守る苦労は絶えなかったであろうが、
それにまさるとも劣らぬ女たちの辛苦を思いやると、
私は背筋が寒くなるのだ。

私は掃除そのものは決して嫌いではなく、
家の手入れも好きなのだが、
何といってもマンションは手軽でいい。

仕事を持ってる私は、
家事はなるべく手抜きできるのが望ましい。

人徳なき私は、
たくさんの人を使う自信もないとすると、
住は簡便なのに限る。

畳から考えついたのだけど、
そういえば日本料理というのも手のかかるものだ。

私は日本料理が好きで、
下手だけれどいろいろ試みてみるが、
メインにならないくせに手がかかる、
という料理が多いのにびっくりする。

たとえば西洋料理などであると、
大なべにシチューをたいておけば、
それだけでお客を招けるというところがある。

ほかにパンとサラダぐらいつけておけば・・・
そして食前か食後のために、
ちょいとしたチーズでもあればいい。

皿数も少なくてすむ。

日本風といっても、
どんぶり物などすれば別、
酒でも出そうとなると、
何か焼き魚、それに炊き合わせの野菜を一品、
そこへ季節の和え物でもしようとなると、
この和え物、というのがくせ者で、
摺ったり、漉したり、煮いたり、
そうやって手間をかけて小鉢にぽっちり盛る、
決してこれだけでメインにならないが、
しかしこういうものが不味かったら箸は進まないから、
大事な一皿なのである。

それだけに気も張り手間もかかるという、
こういう「ぜいたくな徒労」によって、
日本の食文化は成立している。






          


(次回へ)

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