・日本家屋であると、
柱を磨く、廊下を拭き清める、という作業がついてまわり、
屋根瓦のずれ、軒の樋、雨戸のすべり、襖のゆがみ、
実にさまざまのトラブルが起き、
チェックするべきところが多い。
コンクリートの箱のような家に比べると、
風情はあるかわりに何とも手をとられるものである。
将来、
私がもっと年老いて日本家屋に住むとしたら、
誰か、私より若い体力気力のある人の介助を、
必要とせざるを得ない。
老人が、
きちんと手入れされた快適な日本家屋に住むには、
昔の曽祖母のような地位、
それを支える家族制度のようなものがなければならない。
しかし今は、
老人と同居を望む若者は少ないし、
老人たちも自分たちだけで暮らそう、
と思う人が多い。
そうなると好むと好まざるにかかわらず、
洋風の住まいになってゆくのは、
やむを得ないことではなかろうか。
お手伝いさんとか、男衆、秘書、書生、庭師、
といった人々をいっぱい抱えていれば、
風情ある日本建築に住む楽しさを満喫できるが、
それも才能ものである。
人を使う才能、
人を働かせる才能、
というものが要るのだ。
昔の老人は家族制度のおかげで、
才徳なくても嫁や息子やら、
タダの人手をこき使うことが出来たが、
今は才能なくしては人手はあてに出来ない。
人望といってもいい。
経済力、才能、人望、
その人にそなわる、おのずからなる人徳、
そういうものがなくては、
人に動いてもらえない。
こうなると、
住むのに手間のかかる日本建築は、
老人が住むのに適した住文化でないように思える。
私は京都や、
あるいは地方の古い町で、
旧家の豪奢な邸宅を見る度、
美しいなあ、と思う一方でゾッとする。
百何十年、あるいはもっと古く、
伝わってびくともせぬその家の、
床も柱も顔が写るほど磨きぬかれている。
そんなに美しく維持されるには、
どれだけたくさんの女中衆(おなごし)さんたちや、
その家の嫁たちの汗と涙がそそぎこまれてきたことだろうか。
男たちも代々のれんを守る苦労は絶えなかったであろうが、
それにまさるとも劣らぬ女たちの辛苦を思いやると、
私は背筋が寒くなるのだ。
私は掃除そのものは決して嫌いではなく、
家の手入れも好きなのだが、
何といってもマンションは手軽でいい。
仕事を持ってる私は、
家事はなるべく手抜きできるのが望ましい。
人徳なき私は、
たくさんの人を使う自信もないとすると、
住は簡便なのに限る。
畳から考えついたのだけど、
そういえば日本料理というのも手のかかるものだ。
私は日本料理が好きで、
下手だけれどいろいろ試みてみるが、
メインにならないくせに手がかかる、
という料理が多いのにびっくりする。
たとえば西洋料理などであると、
大なべにシチューをたいておけば、
それだけでお客を招けるというところがある。
ほかにパンとサラダぐらいつけておけば・・・
そして食前か食後のために、
ちょいとしたチーズでもあればいい。
皿数も少なくてすむ。
日本風といっても、
どんぶり物などすれば別、
酒でも出そうとなると、
何か焼き魚、それに炊き合わせの野菜を一品、
そこへ季節の和え物でもしようとなると、
この和え物、というのがくせ者で、
摺ったり、漉したり、煮いたり、
そうやって手間をかけて小鉢にぽっちり盛る、
決してこれだけでメインにならないが、
しかしこういうものが不味かったら箸は進まないから、
大事な一皿なのである。
それだけに気も張り手間もかかるという、
こういう「ぜいたくな徒労」によって、
日本の食文化は成立している。
(次回へ)