むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

5、パリ ⑨

2022年10月10日 08時56分26秒 | 田辺聖子・エッセー集










・パリで待望のカキを食べたのは、
「ラ・マン」という高級料理屋、
ここにご招待されたのであって、
この度の旅でいちばん贅沢なレストランであった。

赤提灯もよいが、
私も女でありますから、
いっぺんぐらいはキチンとした、
すてきなレストランで着物を着替えて、
食べてみたい気がする。

尤も「ラ・マレ」へ行ったのは、
お昼のご招待にあずかったのであって、
店内には中小企業の社長というか、
会社の部長というか、
そういう人々が商談かたがた、
会食していた。

客より給仕の数が多いような、
本物のレストランで、
さして大きいというのではないが、
こってりと贅沢な感じ、
うすっぺらなレストランではないのだ。

招待して下さった側はパリ生活の長い人で、
大きなメニューに目を通し、いちいち説明して、
「これはどうです」とすすめて下さるのであるが、
そういう人でもワインはソムリエのすすめに従う。

ポスターほどもあるメニューの裏はいちめんのワインリスト、
とてもワインの種類をあげつらえない、という。

ましてやソムリエがぽんとあけたのをひと口飲んで、
「どうですか」といわれたときに、

「あかん、もっと冷やせ」とか、

「別のを持ってこい」とは言えないそう。

「いけない、というなら、
いけない理由をとうとうとしゃべれなくちゃ、いけません。
とてものことにそんな知識があるはずもない」

ワインは店のおじさんに任せ、
ここでは食前酒にキールを飲み、
フランボワーズ(木いちご)のジュースに、
シャンペンを入れたのを飲む。

これも戦中派ニンゲンの私には、
縁日の色付きハッカ水という感じで受け取られる。

カキはブーロンという種類であるそうだが、
まるみのある生ガキで、
氷の上に乗ってくるのを見るのは、
心おどるもの。

私はパーティがあんまり好きではないが、
それは、生ガキなんか出ていると、
卓上のそれをみんな食べたくなり、
どこまで遠慮しないといけないのか、
どのくらい自分が食べていいのか、
見さかいがつかないからである。

そうして遠慮して食べないでいると、
他の人も忘れているのか、遠慮しているのか、
いつまでも、一皿何ダースかの生ガキが残されている。

私はもう気になって、
パーティ出席者に挨拶するのも忘れ、
スピーチの言葉も耳に入らずに、
生ガキばかり見つめているということになる。

そうして不機嫌になって帰って来る、
という仕組みで、とくに冬場のパーティがいけない。

生ガキのことばかり考えて、
パーティはうわのそらになってしまう。

そのくらい生ガキ好きである。

冬になると神戸のオリエンタルホテルの上の、
レストランへ食べにいったりする。

次に出たのはスズキの料理で、
これはこってりしたソースがかかって重厚な味わい、
よく太ったスズキである。

私は魚料理というのは、
西洋の小説に教えられるところが多かった。

西洋の小説を読むと、
マスの頬の肉がうまい、とか、
スズキの肉の美味しさなどが出てくる。

日本の小説は、
魚を食べる民族にしては、
魚の美味しそうな感じが出てこない。

アユでもハモでも、
季節のいろどりのように、
淡白さを賞でられている。

あるいはその姿のよろしさとか、
香気は書かれるが、
魚の頬の肉をほじくってむさぼり食べる、
という描写はないようである。

フランス料理の美味しさは、
ソースにあるのはむろんだけれど、
私は一度フランス人が、
皿に残ったソースをパンでさらえて食べ、
あと更にパンの固まりでナイフとフォークを拭いて、
食べているのを見た。

「ラ・マレ」での話ではない。

あと、ナイフとフォークをまた使えるぐらい、
きれいにしていて、驚いたことがあるが、
こういうのは全く「舌づつみを打つ」
という言葉が実感としてくる。






          


(次回へ)

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