むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、手習 ②

2024年07月30日 08時47分02秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・浮舟を発見したのは、
比叡山横川(よかわ)に住む、
尊い僧都とその弟子たち一行である

僧都の八十あまりになる母、
五十ばかりの妹、
この二人ともに尼であったが、
昔かけた願を果たしに、
大和の長谷寺へ参ることになり、
僧都はこの二人に、
気心の知れたしっかりした、
弟子の阿闍梨を付き添わせた

お寺でさまざまの供養を済ませ、
帰途、奈良坂を越えるあたりで、
母の尼君の具合が悪くなった

このままではお帰りになれまい、
人々は大さわぎをして、
宇治のあたりの知るべの家に、
休ませ様子を見たが、
やはり苦しそうなので、
横川へ使いをやって、
僧都に知らせた

僧都は山籠りの修行中で、
今年は下山すまいと、
決心していたが、
高齢の母が旅の空で、
亡くなるようなことがあれば、
と心配して宇治へやってきた

僧都や弟子たちが、
加持しているのを、
その家の主人は、
迷惑に思うらしかった

もしここで、
病人に寝つかれ、
死なれたりすると・・・

僧都はその苦情も、
もっともなことと気の毒がって、
近くの宇治院に母を移すことにした

ここは故朱雀院の御領で、
公的な邸であるが、
そこの管理人が僧都の知り合いで、
あったので頼んでみたのである

尼たちの住居の小野は、
あいにく方ふたがりで、
戻るわけにはいかないのであった

管理人はいなかったが、
留守を預かる老人が、
一行を泊めてくれた

たいそう荒れ果てて、
物恐ろし気な邸だったので、
僧都は弟子たちに、
魔物を払う経を読ませ見まわった

松明をともし、
人も寄らぬ建物の後ろに廻ると、
森のような巨木がうっそうと茂って、
薄気味悪い

とその巨木の根元に、
白いものが見えた

「何だ、あれは」

と火を明るくして、
掲げると、
何かがうずくまっている

「狐が化けたのか、
正体をあばいてやろう」

元気のいい僧が近づくと、

「止した方がいい」

ともう一人が、
魔性を退散させる印を作りつつ、
視線は釘づけになる

元気のいい僧が近寄ると、
髪は長く顔を伏せ、
木の根元に坐って、
声を絞って泣いていた

「女か・・・」

男でもぞっとする心地であった

僧都は近寄って、
じっと眺めた

「これは人間だ
魔性の者ではない
死人ではない
あるいは死んだと思って、
捨てたのが息を吹き返した?」

「しかし、
死人をこんなお邸に、
捨てますまい
魔性の者が人をたぶらかし、
正気を失わせ、
ここへさらって来たのかも、
しれませぬ
困りましたな、
これは
ここで死なれでもしたら、
それこそ我々も死穢に、
触れてしまいます
お前は鬼か、神か、狐か、
正体をあらわせ」

僧は、
怪しの者がかずいている衣を、
取り払おうとすると、
顔をかくしていよいよ泣く

そのうち雨が烈しく降り出した

僧たちは早く、
追い払いたかった

「このままでは死ぬでしょうな
今のうちに垣の外へ、
抛りだしましょう」

「待ちなさい
見ればこの者は、
普通の人のようだ
まだ息のある者を、
みすみす捨てることは出来ない
この人もたとえ一日二日の命、
としても命は大切に、
しなければならぬ
仏もお救いになろう」

僧都は、
慈悲あるやさしみをかけて、

「薬湯など飲ませ、
助かるかどうか試みてみよう
それで死ぬなら仕方ないが」

と弟子たちに、
担ぎ入れさせた

人々は内心、

「とんでもないことをされる
母君が重病でいらっしゃるのに、
そのそばに、
わけのわからぬ怪しい者を、
取り入れられるとは、
死の穢れに触れることに、
なるんじゃないか」

などとこぼしあった

母の尼君と妹尼が、
車で到着し、
人々は苦しがる母君を、
大さわぎして休ませた

少し落ち着いてから、
僧都は弟子の僧に問うた

「さっきの人はどうしている?」

「意識不明で、
息をしていないありさまです」

この問答を妹尼は聞いていて、

「誰のことです?」

というので、
僧都は事情を話した

聞くなり妹尼の顔色が変わった

「何ですって・・・
誰とも知れぬ若い女の人が、
倒れていたんですって?
私は長谷寺へお参りした時、
夢をみました
亡き娘の身代わりを授けてやろう、
と観音さまがおっしゃったのです
その人はどこにいます?」

その女は、
東の遣戸の内に、
捨てられたように臥していた

若く可愛い女で、
白綾の衣を着て、
紅の袴を着けていた

上品な風情

「娘だわ、
死んだ娘が帰ってきたのだわ」

妹尼は泣く泣く、
女房たちにいいつけ、
部屋の中へ入れさせた

生きているようでもなかったが、
それでもほのかに目をあけた

「何かおっしゃって下さい、
あなたはどこのかた、
どんなわけがおありになったの?」

妹尼は問いかけるが、
理解出来ぬようであった

「恋しい恋しいと思っていた、
亡き娘の身代わりに、
観音さまがお授けくださった
有難いこと
嬉しいこと
私がきっと元気にして、
さしあげましょう」






          


(次回へ)

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