むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、手習 ①

2024年07月29日 08時19分19秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・白い霧が流れている
これは宇治の川霧なのか

浮舟はその中をさまようていた

あの世ともつかず、
この世ともおぼえず、
ただ茫々とした霧の中を、
あてどもなくさまよう

ここはどこなのだろう

自分はこれを最期にと、
川に身を投げたはずなのに、
いったいどこへ来てしまったのか

浮舟はむなしく手をのべて、
何かにすがろうとする

わずかに思い出したことは、
あの夜、臥床からのがれた記憶

死のう
思い切って宇治川に身を投げよう

そう思って、
人がみな寝静まったあと、
そっと縁へ出たのだった

風が烈しく、
川波の音も荒かった

浮舟は恐ろしかった

これから先のことも、
過去も考えられなかった

縁に坐って、
さてどっちへ行っていいか、
わからない、
といって部屋へ戻る気もしない

じっと坐っていた

と、清らかな男が、
霧の中から現れて、

「おいで
私と一緒に行こう」

と浮舟を抱き上げるではないか

(宮さまなのね?
あなたは匂宮さまでしょう)

浮舟が叫んだのは、
いつぞや、
匂宮に抱かれて舟に乗り、
対岸の山荘で夢幻の二日を、
過ごした記憶があるせいだろうか

男は浮舟を、
見知らぬ場所に据えると、
ふっとかき消すように見えなくなった

(宮さま・・・)

と叫んでも、
身のまわりを取り巻くのは、
白い霧ばかり

そうだ、
自分は死ぬつもりで出て来たのに、
本意も遂げられないで、
こうして生きていると思うと、
浮舟は悲しくて涙が止まらない

誰やら身のまわりで、
かしましく騒いでいた気もするが、
ただただ、
せきあげて泣くばかり

そう思っているうちに、
またもや茫々たる白い霧にまかれて、
浮舟は記憶を失ってしまった

ふっと目をさまし、
意識を取り戻した浮舟は、
あたりを見廻した

「おお、
お気がつかれたか、
お名は何といわれる
親御はどこにお住まいか」

周囲の人々は口々にいう

自分を取り囲む顔、顔、顔は、
みな老い衰えた尼たちばかり・・・

歯を失って口元のすぼんだ者、

皺のあいだに押し開かれた、
老いた目、

かがんだ背、

ぶるぶる震える手、

そんな老尼たちばかりが、
周りを取り巻き、

「これ、お気を確かに」

「正気が戻りましたか」

「観音さまのおかげじゃ」

「まことに僧都さまはじめ、
阿闍梨さまたちのご加持の、
霊験あらたかなこと」

浮舟の見知った顔は、
一人もいない

まるで知らない国へ来たようで、
悲しかった

住んでいたところや、
名を問われても、
浮舟は思い出せない

「どうして、
わたくしはここにいるのでしょう
ここはどこなのでしょう」

「ここは小野の里ですよ」

「小野?」

「あなたは宇治で見つけられて、
ここまで私どもが、
お運びしたのですよ」

「宇治・・・」

浮舟は目の色を動かした

記憶の中から、
何かがたってくる気がする

「あなたは、
あるかなきかの様子で、
倒れられていられたそうな
大方、
魔物がさらってきたのでしょう
私どもが介抱しているうちにも、
うわごとのように、
『このまま宇治川へ、
落として下さい』
と言い続けておられた
そのまま意識がなく、
重態でいらしたのですよ」

浮舟は覚えがなかった

「四月、五月と過ぎ、
あまりの心もとなさに、
僧都さまに加持をお願いして、
ようやっと、
ついていた物の怪が去りました
お命を取り留められて、
嬉しゅうてまりませぬ」

浮舟のあたまも、
しだいに分明になってくる

それでは自分が意識を、
失っていた長い年月、
この人々が看護してくれた、
というのか

それはありがたいことだけれど、
老いた尼とはいえ、
見知らぬ人々に、
正体のないわが身を、
世話されていたとは・・・

せつなく恥ずかしい気持ちがして、
浮舟は身もすくむ思いである

(とうとう、
生き返ってしまった・・・
死ぬことも出来ない、
わが身のつたなさ)

そう思うと、
浮舟はほろほろと涙をこぼす

「これ、
もう悲しみなさいますな
物の怪も退散し、
気分も晴れ晴れとなさったはず
さあ、お薬湯など召しあがりませ」

親切な尼は、
薬湯をすすめ、
額の汗をぬぐってくれる

まるで肉親に向かうような、
いたわりとやさしさ

浮舟はそのやさしさに、
あとからあとから、
涙があふれてやまないのであった






          


(次回へ)

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