
日本史は天皇ありきで始まる。
日本書記は参考文献としては重要書籍になるとしても、
歴史書としての価値は低い。
神話が混入されているからだ。
旧約聖書も神話に満ちている。
天皇の出自に関する資料は極端に少ない。
日本史が天皇を中心に回転していることを考えると、
看過できない現象である。
江戸時代はどうであったろう。
江戸末期、天皇が担ぎ出された。
歴史的重みが重視されたものである。
江戸時代天皇が保護されたという点は、研究としては一級ではないか。
天皇家の重みは平安にさかのぼる。
奈良時代。
天皇家の活躍の舞台が広がった時期だと認識している。
だがすでにこの時期、天皇家はオブラートに包まれ始めている。
色調は天皇家擁護である。
格式が確立していたのであろう。
周辺は臣下ということになる。
都を造営することができたのだ。
だが、その力の源が依然として怪しげである。
天皇家転覆。
この事態が一切ない。
すでに天皇家は神となってしまっていたのだろうか。
ヨーロッパにはキリストという神がいた。
王室が神となることはできなかったのだ。
ところが日本では皇室が神そのものになっていたのだ。
それを歴史は許容した。
卑弥呼は神ではなかった。
神の存在は、
倭政権発足と同時に出発した。
神格天皇が成立したのだ。
神だから素性は明らかにしない。
どんな経緯で天皇の位についたのか。
これは不明としておこう。
これが不明ということは、
出自は不明ということなのだ。
不明を不明とするのもひとつの歴史なのかもしれない。
天皇家は大事にされてきた。
天皇中心国家がいつのまにか成立したのだ。
これが揺らぐことはなかった。
周囲に日本民族がいたから。
天皇が権力をふるう時期があったし、内紛の次期もあった。
明治においては天皇の権能を拡大し過ぎた。
明らかな政治利用である。
今なおその余韻が冷めやらないのは驚くべきことである。
天皇家は新たな使命をおびているようにおもう。
世間の手垢に犯されない品格の姿である。
これらは日本の伝統である立ち振る舞いにさえ投影されるものである。
国民の総意も存続に傾いている。
国会議員の範囲で決定されるべきでない課題もある。
国民投票も必要なときがあるのではないか。
政治がぐらついている時期にさしかかっている。
日本という島国国家の不動性を、
国家の一体化という貴重な体験から探るのも、
政治以外に求める日本の歴史の価値なのではないか。