碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 ⑦

2012年08月05日 16時33分36秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

  ebatopeko
  

      長谷川テル・長谷川暁子の道 ⑦

 

         (長谷川テル その5)

 

  (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、私より若いが、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「清」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。


 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  長谷川暁子の母、長谷川テルについて記す。

 長谷川暁子の著作『二つの祖国の狭間に生きる』、『長谷川テルー日中戦争下で反戦放送をした日本女性ー』、家永三郎編『日本平和論大系17』長谷川テル作品集、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダマーヨ ー反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テルー」を中心として記す。詳しくは、ぜひ長谷川暁子氏の著作をお読みいただきたい。

 

     (以下今回)

 しかし、中国では彼女は「平和の鳩」と呼び、エスペラントを通じて中国の人たちと真の友愛と連帯をかちえたまれな日本人として遇された。また当時中国で活動していた安偶生(注:1909年ハルビンにおいて伊藤博文を暗殺した安重根の甥)は、「平和の鳩 日本の女性エスペランチスト ヴェルダ・マーヨに捧ぐ」という詩を書いた。

 「平和の鳩」と題する安偶生の詩は、中村浩平氏によると次のようなものである。

  戦争で気が狂ってしまっている東洋で
平和なあなたは,狼や蛇を前にした羊のように,
もがきながら,しかし勇敢に,すべてを読み
取っている。

あなたの心の深くには正しく設計図があり,
そしてそのようにあなたは祖国を去り,
両親や,すべての人を捨ててきた,まるで空
の果てへと飛んで行くかのように,

いつも人類にふさわしい,平和な生活を
あなたはいつか彼らに与えるであろうと,か
たく信じて。

いまメガフォンの前であなたは
あなたの同胞に真実を告げている―あなたは
予言している。
あなたの声は,おだやかではあるが,すでに
雷鳴を呼び起こすには十分であることを。そ
して箴言をあなたは贈る

良心が健全のままである人びとに。
あなたの声がむだになることはありえない,
それはきっと,苦痛を生み出した,
血に酔った心をずたずたに引き裂くであろう
から。

さて,いったいなにを私たちはあなたに望め
るのだろうか,友よ。
あなたは,海を越えた国からの平和の鳩だ!
そうだ,あなたはただ籠から逃げて来ただけ
ではなく,青春の熱い渇望のために,
無気力な人間のように,留まってはいられな
かった

桜の国に疲れはて荒廃した人々とともに。
ああ,マーヨよ秋の取り入れのために元気い
っぱい緑一色になれ
いま恐ろしく灰色で,太陽のない野の上で。

 

 メガフォンの前で告げる彼女の言葉は、同胞の胸に「雷鳴」を呼び起こしていると。そして「灰色で、太陽のない野の上」に元気いっぱいの「緑一色」をと、彼女を讃えた。

 彼女の武漢での活動は三ヶ月であったが、テルはこの期間はいかに興奮し生き生きとしたことかと感じていた。

 その後、桂林から重慶に入ったのであった。そしてこの重慶において、1938年から1945年までを過ごすことになった。

 1941年にテルが周恩来(注:のち毛沢東時代の中国首相)に会ったとき、周恩来は「日本帝国主義者はあなたを”嬌声の売国奴”と言っていますが、あなたこそが日本人民の忠実な娘であり、愛国者です」と言い、それを聞いたテルは、感動し最大の激励と受けとめた。 

 こののち、テルは郭沫若(注:中国の政治家、文学者、詩人、歴史家。日本に10年近く住み、日本人佐藤とみとの間に五人の子供をもうけた。四人の息子はいずれも中国の要職にある。娘の娘は国士舘大学教授藤田梨那)の「対的文化工作委員会」に移った。

 1941年11月16日、郭沫若はその文学活動25周年記念会で、テルに自作の詩を書いた絹のハンカチを贈った。そして彼女の活動を「暗闇の中の一点の灯火」と称えた。

 それは次のようなものである。

 茫々四野濔暗闇  歴々群星飛九天
 映雪終嫌光太遠 照書還喜一灯妍

 長谷川暁子の訳によると、

 茫々たる四野に暗闇が広がり、歴々たる九天に群星が輝き、雪を映ずるには光が遠す  ぎ、書を照らすには一燈の妍が有り難い

となる。

 1941年の暮れ、劉仁と長谷川テルとの間に男の子が生まれた。長谷川暁子の兄劉星である。劉星とは、劉仁とテルにとって、希望の星となるよう願って命名したものであった。

 劉仁とテルの二人には苦難の時であったが、内戦の危機さえはらんでいた、重苦しい重慶時代を乗り越える力にこの子はなった。

 またこの年長谷川テルは、石川達三の『生きている兵隊』のエスペラント語訳を発行した。

 (注:石川のこの作品は、1937年の南京事件直後に、中央公論社の特派員として南京入りした石川が見聞した状況を記したものである。日本ではその四分の一が伏せ字、削除され、即刻発売禁止となった。しかも石川は禁固四ヶ月に処せられた)

 さらに長谷川テルの散文集『嵐の中のささやき』も発行された。この作品は、上海時代以後のテルの回想記である。テルが自分の肉声で、その活動と思想と遍歴を記したもので、これを聞いた夫劉仁は大変喜んだという。

 ところで、1938年漢口において日本軍への、戦争の無駄なことを放送した日本人は、長谷川テルだけではなかった。テル以外は、岡村信子、白濱アサエ、原野歌子の三人であった。実は彼女らの夫らは国民政府、国民党の要人であり、身元を保証されてアナウンサーになったのであった。

 しかも、テルを除く彼女ら三人は中国籍を得ており、中国名を持っていた。その点彼女ら三人は、夫が中国人であるから、職員として”職務的”やっていたという感じであったという。それに対して、長谷川テルは決して中国に帰化しようとはしなかった。

 それゆえ、長谷川テルの放送には、反戦放送に対する熱意と態度がまるで違っていた。この放送をすれば、もう祖国には帰れないという強い決意のもとに放送を敢行したのであった。 



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