ebatopeko② 長谷川テル・長谷川暁子の道 (76) 出会いと別れ ① 長戸 恭
(前回まで)
総勢といっても八、九人の集まりで、作家同盟の小林(市井清一)が「プロレタリア文学について」という題で、唯物弁証法的創作作法について話した。ファジェーエフの『壊滅』、セラフィモーヴィッチの『鉄の流れ』などの例があげられた。
長戸、長谷川も林房雄書生だったという小林の話に熱心に聞き入っている。そしてロシア文学の話に花が咲いた。女高師内の文学サークルのことを聞くと、サークルの中心は長戸、長谷川だが、あと三、四いるという。
プロレタリア文学は一般の現代文学よりレベルが低いのではないかというのが大体の意見であるらしい。学校ではこの種の活動は厳しく見張られていて、校外活動活動となるため種々の不便があるということであった。
彼女らからは奈良県の労働・農民運動について質問が出た。労働運動はまだひよわいが、農民組合は多くの小作争議もやっていて高田町に事務所がある、いずれその活動家たちにも紹介したい、ということになった。そのあとプロレタリア短歌とか詩に話が移った。
この会合から数日たって私は高田の農民組合へ行った。正式には全国農民組合全国会議奈良県評議会という物々しい名前である。普通は県連といっていて書記長藤本忠良、常任書記原田鉄男(兵次郎)、山下義男(遠藤陽之助)、自宅から竹村奈良一らが常駐していた。
彼らに女高師の二女性のことを話して、今後の対策について話し合った。いろいとと話が出たが、とにかく藤本が二人に一度会うことにして私が連絡にあたり、さきの封筒の字をまねて高田から手紙を出した。
その返事はほどなく届いて、高畑(たかばたけ)(奈良市)の志賀直哉の家のあたりを落ち合う場所と指定してきた。それで当日私と藤本は高畑に向かった。よく晴れた日で、志賀直哉の家は洋館ふうで白い壁が緑の濃い蔦の葉で覆われている。
待っていると下手の方からパラソルと袴の女高師生が登ってきた。当時はこの制服姿でなければ外出できないことになっていた。私は手で合図をして先にきていることを知らせたが、長谷川が一人できたのである。
春日野と呼ばれるこの一帯は菅芝に似たやわらかな草が一面に生い茂っていて鶯の滝の音が聞こえてくる。適当な草むらに座を占めた。
小さい声で、 「封筒の筆跡がちがっていたので驚きましてよ」 と、チクリと釘をさされしまった。
「恭さんと検討したが、農民運動との連絡を深めることにしたので、私がその方の連絡をとり、彼女は文学方面を担当することに決めたのです」
ということだった。藤本は殊に力を入れて、プロ作家、農民小説、それに天理教の話をしたように思う。夏休みが近かったので、休みのあと本格的にやろうということになったのか、とにかくいまとなっては内容は忘れてしまっている。
(以下今回)
ところが農民運動と文化運動の連携というこの若者たちの夢は、期待の新学期になる前に潰されてしまった。八月三十一日に弾圧が下ったのである。奈良・高田・郡山・桜井などで活動家が相前後して検束され拘留された。
私は当日、西田中(現・郡山市)の市山という同志の家にいたが、高田の農民組合本部がやられたというので、その真偽を確かめる任務を帯びて高田へ行ったが、全農事務所前で捕らえられた。
その25行の際、西田中の同志がくれた白靴をはいてでかけていったのであるが、足の小さい私にはその靴が大きすぎるためやむなく紙を詰めてはいていたのだが、いざ特高から逃げようとしたとき、靴がゴソツイて走れなかったのである。
その日のうちに奈良署へ護送された。そのころの例として掴まったら例外なく拷問の日々であった。
拷問が十日ぐらいつづいたあとだった。私はいままで呼び出されたことのない二階の会議室へ呼び出された。署長直々の取り調べが始まった。二枚の写真を並べられて「この二人をしっているか」という。見れば長谷川照子、長戸恭の写真であった。
事態は大変なところまできていると驚いた。同時に何としてでも彼女らを守ろうと決心した。
「写真の女は君の知っている女高師の生徒に似ていないか」とくる。 「女高師の生徒のようだがまったく知らぬ」。
署長と私が押し問答をくり返していると、後ろから警官の鉄拳がとんでくる。私も十日間なぐられ放しの恨みを返してしまえと彼らと格闘したが、衆寡敵せずその場へ押さえ付けられてしまった。
「二人をかばう気持はわかるが、他の者は皆白状して、君から紹介を受けたといっているんだが・・」
署長の言葉で某が口を割ったと思えたが、私一人でもいい、裏切るまいと頑張った。しかしすでに二人は逮捕されていることを、この取り調べのとき知ったのである。
その後、留置場から演武場に移された。この措置は八・三一事件(編者前書き参照)の取り調べが一段落したことを物語っていた。やがて長戸、長谷川も演武場へ移されてきた。二人とも面やつれが見受けられたが、消沈した様子は少しもなかった。
二人は幾ばくもなく釈放された。長谷川の方が長戸より一足早かったようだ。いまでも忘れ得ないのは、恭さんが釈放された日、迎えにきた名古屋銀行重役の父が、我々の面前で「国賊!」と叫んで我が子の横面をなぐったことである。
我々への面当てでもあっただろう。だが思うに当時、東京都奈良しかなかった女高師にまで娘を進学させるような良家に、こんな造反者が出るとは、家父長の理解を越える事柄であったのはまちがいない。
恭さんは翌年一月、奈良検事局の待合い室でもう一度元気な姿に接している。そのとき、照子さんは東京にいるといっていた。ともあれ奈良署の殺風景なところで見た姿が、私にとっては最後であった。そして恭さんの消息もそれから絶えて聞くことはなかった。