碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『拾有七年』を読む  (35)

2014年07月01日 11時19分23秒 | 『拾有七年』を読む

ebatopeko

 

        『拾有七年』を読む  (35)

 

     (故郷の眺望と旧知との出会い) その2

 

   (前回まで) 

 『拾有七年』は、米子の生んだジャーナリスト碧川企救男の紀行文である。庶民の立場をつらぬいた彼は、日露戦争時においても、民衆の立場からその問題性を鋭くつき、新聞紙上で反戦を主張した。

 碧川企救男は、鳥取中学(現鳥取西高等学校)を出て、東京専門学校(現早稲田大学)に進学したのであった。それから17年ぶりの明治四十五年(1912)、開通したばかりの山陰線を通って、郷里鳥取の土を踏んだ。その紀行文である。

 碧川企救男が米子に着いたのは朝の九時半であった。彼の家のあった天神町の西にあった内町に向かった。内町には西村家があり、兄(碧川熊雄)の嫁である「なをの」の里であった。

 西村氏とは、米子最初のキリスト教の信者になった碧川企救男の父真澄につづいて二番目の信者となった西村佐司衛の家である。佐司衛の長男で「なをの」の弟である西村卯はのち東京帝大独法を出て検事となり、やがて大審院(今の最高裁)の検事となった。昭和20年に退官し勲二等を受けている。

 次男の徳吉は、のち尾高町の医師中村家の養子となり、東京帝大を出て「聖路加病院」に勤めた。そしてのちアメリカ赤十字病院の外科部長となり、第一次世界大戦では、ベリア出兵に参加し傷病兵の治療にあたった。


 

  (以下今回)

 前回のブログで、碧川企救男が明治45年に17年ぶりに故郷米子に帰ったとき、昔の知り合いを訪ねたことを記した。

 そこで、内町の「西村家」の向かいの、「お広さん」の家を訪ねたが、彼女はかって碧川家にもいたことがあるという。この「お広さん」は当時「婦人伝道師」をしていたということが書かれている。

 そこで、この明治にいた「お広さん」が、何という名前か分からないだろうかと思った。そこで、6月29日の日曜日に、米子聖ニコラス教会に聞いてみた。牧師である瀬山会治(えいじ)司祭にお聞きした。

 明治の30~40年代の米子に「お広さん」という伝道師はおられなかったでしょうか?と聞くと、休日の突然の問い合わせにもかかわらず、丁寧に調べていただいて判明した。

 お名前は「西村ひろ」先生とのことで、伊木久次郎先生の姉でもあったとのことであった。

 瀬山会治司祭の心のこもったご対応には、感謝のほかありません。有り難うございました。

 なお、伊木久次郎先生は1866 年(慶応3)2月28日生まれで、伝道師として米子、岐阜、東京、釜山、下関、浜田の教会で働いておられた方で、退職は1919年とのことでした。ご親切にいろいろ教えていただき有り難うございました。

 

 それで、「西村ひろ」あるいは「西村広子」という名前をどこかに出ていなかったかと、私のブログを探してみると、ありました。

 私のブログ「碧川家と西村家」(2008,12,11)の中に、『日本聖公会松江基督教会百年史』(1986,5,3発行)から引用した文がある。それは次のものである。

 「信徒、碧川熊雄氏、船中にて伝導のため来松、米子へ、宍道へと、湖を東へ西へと行く。補助として米子在住の女教師ポーター、西村ひろ子姉(伊木久次郎師の姉)の三名を当てる。富田孫太郎師帰阪。」

 この「碧川熊雄」とは、碧川企救男の兄で当時東京に住んでいた。碧川真澄ら一家が米子で明治23年(1890)3月に受洗したのに対し、長男の熊雄は東京の明治学院神田講義所で5月に受洗している。

 その彼が、明治26年(1893)松江にやって来て、船中にて伝導のため米子、宍道湖を東西に伝導したと記している。

 その補助として女教師ポーター及び「西村ひろ子姉」が記され、彼女は「伊木久次郎師の姉」と記されてある。

 この「西村ひろ子」姉が、明治45年(1912)に米子の内町の西村家の裏にいて、碧川企救男の17年ぶりの訪問を受けびっくりした方であろう。

 ところで、碧川真澄が米子で最初のキリスト教徒であったことは記した通りであるが、そのキリスト教が「日本聖公会」であることは述べた通りである。しかし意外に「日本聖公会」については知られていない。簡単に記してみたい。

 「聖公会」は宗教改革のうちイングランドで始まったキリスト教で、世界での信徒は約7,000万人である。

 日本で宣教を開始したのは安政6年(1859)で、米子には明治18年(1885)、エビントン師によって伝導が始まった。(『米子聖ニコラス教会宣教125年記念誌』による)

 国内での信者数は58,000人で、立教大学、聖路加国際病院、松蔭大学など200余りの関連施設がある。

 

 米子での最初の洗礼式は、明治23年(1890)3月27日に、エビントン師、冨田孫太郎師のもと、碧川真澄、嶺子、次男企救男、豊子、操の5名が受洗した。二番目の受洗は同じく西村佐司衛であった。

 なお、先の125周年記念誌によると、伝道師「西村廣子師」は、昭和元年(1926)に退職していることがわかる。



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