碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (96)

2019年08月29日 21時54分01秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (96)

          (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。

    覚え書き「長谷川テルと劉仁の恋愛と結婚」①  木田日登美(ぼくだひとみ)

 中国演劇の翻訳・製作者である木田日登美(演出・制作では坂出日登美)氏が表題のテーマで記されている。木田氏は氏は、劇団「息吹」において俳優・演出家として活動後、1991年、北京語言学院本科(現北京語言文化大学)入学し、1995年卒業した。1997年~2001年の間、北京の中央戯劇学院劇文学科高級進修生であった。

 現在、劇団「息吹」に所属し、日本演出家協会会員であり、「日本、中国、韓国の文化芸術交流の架け橋」事務局員でもある。

 (一)  2006年4月15日、遼寧省本渓

 昨夜来、やけに冷えると思っていたら、朝起きて窓のカーテンを開けて驚いた。四月も中旬だというのに、雪が降っている。細かい雪だ。本当に中国の東北(旧満州)に来ているのだということを実感する。

 朝から降りつづいた雪は昼近くなって止んだ。本渓の街も、なだらかに街を取り囲む山や丘もすっかり白くなっている。

 ホテルの窓からは、北の瀋陽から南の丹東に伸びている汽車の線路がきらきらと光って見え、すぐ足元に本渓駅のホームが見える。

 劉仁の生まれた橋頭街は本渓からさらに約20㌔南にある。地図を見ると本渓の真西約60㌔には中国一の鉄鉱石産出地鞍山、南60㌔に良質な石炭の産出地撫順があり、この三地点を結ぶ要の位置に遼寧省の省都瀋陽がある。 

  瀋陽(昔の奉天)は古来中国北東地方の交通の要衝である。日本の関東軍が中国東北三省を支配するための関東軍司令部を九・一八事変後直ちにこの地に置いたのも、ここを拠点に南満州を押さえることの重要性を知っていたからのほかならない。

 本渓駅の両側におおきな工場がある。工場には駅から何本もの引き込み線があり、 貨物列車がゆっくり出入りしている。

 工場の煙突から時々真っ白いけむりが大量に吐き出されている。製鉄工場だ。  遼寧省の省都瀋陽から丹東に延びる高速道路を本渓で一般道に下りてすぐ脇の工場の壁に「本渓鉄鋼」と言う大きな文字があったのを思い出した。

 この街には日本の占領時代、日本人の経営する大きな製鉄所があったが、現在も中国東北地方有数の鉄鋼の街なのだ。    2004年10月、私は初めて本渓市を訪れ、劉仁の故郷橋頭概を訪ねることができたが、その時はただ村を一回りしただけであった。

 そこで改めて現在も本渓市に在住の劉仁の遺族にお会いして、生前の劉仁のことを親族から直接聞ければと思い、2004年続き、再度2006年の本渓訪問となったのであった。

 日本にいる長谷川テルの遺児長谷川暁子さんの了解を得た上で、劉仁の姪劉艶月さんに自分独りでお会いしたのであった。これに引き続き2007年3月22日、橋頭街の劉仁の生家跡を尋ねることが出来た。

 だがこれから書くことは劉艶月さんから聞いたことだけではない。

 後に詳しく紹介するが、『緑川英子与劉仁』(本渓市政文史委、佳木斯市政協文史委、佳木斯市旅遊局編)、『緑川英子』(張雅文、周賀玉著山東文芸出版社)、『南海文史資料、第九編 馮乃超特集』(中国広東省政協海県委員会文史組編1986年9月刊)、

 『回想記、抗日戦争の中で』(鹿地亘著、新日本出版社)、『上海戦役の中』(鹿地亘著、東邦出版社)、『反戦エスペランティスト 長谷川テル作品集』(宮本正男編、亜紀書房)、『宮本正男作品集第一巻』(宮本正男著、日本エスペラント図書刊行会)、

 『我が父郭沫若』(郭庶英著、遼寧人民出版社)、『続幻の学園、建国大学、抗日曲折行』(双(耳冠)長林著)、『シュトウム ウント ドランクー疾風怒濤』上・下(斉藤孝治著 シュウム ウント ドランク編集出版委員会)、

 『日中外交史研究』(臼井勝美著・吉川弘文館)、『日中外交史』(臼井勝美著・塙新書)、『日露戦争後の日中関係』(馬場明著・原書房)、『近代日本と偽満州国』(日本社会文学会編・不二出版社)、

 『我が父魯迅』(周海嬰著)、『魯迅、郭沫若、著作便覧』『張学良与東北大学』(東北大学出版社)、『魯迅評伝』(中国出版集団 東方出版社)などを参考に、前出の劉艶月さん、郭沫若の末娘の郭平英女史、馮乃超の長女馮真女史などにインタビューをし、それらを参考にしている。


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